長編U
- ナノ -

覚悟 -05-



 大蛇丸と自来也と別れた後、我愛羅はテマリ達とあらかじめ決めていた待ち合わせ場所で落ち合った。カブトを追ったテマリとカンクロウは結局撒かれ、遅く戻ってきた我愛羅を酷く心配していた。

「我愛羅! 無事だったんだね」
「随分遅かったが、何か掴めたのか?」
「……いや、」

 どこまで二人に話していいか分からず言葉に詰まるが、結局は口を噤み、自身も上手く撒かれたと嘘を吐いた。
 我愛羅にとっては実の姉兄より、戦争を止めようと暗躍する大蛇丸と自来也の方が遥かに信用出来た。それがいかに寂しいことか分かっていながらも、ここは黙って目を閉じる。
 今更どうやって二人を信じればいいのか、まともに関係を築いて来なかったため分からなかったのだ。
 本当は『ただ信じるだけでいいのだ』と、教えてくれる人もいないのだから無理もないが。

「思ったより手練れだったね」
「けど何の収穫もなしには戻れないじゃん。明日も張るか?」
「そうだね。やるだけやってみよう」

 二人の会話に口を挟むことはなく、我愛羅は近くの木陰に座り込む。視界の端には相変わらず動物の死骸や無気力な子供たちが蹲っている。
 異常な力を持って周りから隔離されていた自分と、ああして食べる物や着る物、住む場所に困って路上で暮らす子供たちと何が違うのか。我愛羅は自身の手の平を見つめて考える。

『それはお前が“化物”だからだよ、我愛羅』
(……またお前か)

 腹の奥底から聞こえてくる、楽しげな声に我愛羅は溜息を零しそうになってぐっと堪える。この声は我愛羅にしか聞こえない。ここで落胆する姿を見せれば姉兄の視線がこちらに向く。それは嫌だった。

『おい、我愛羅。どーせあの餓鬼共は助からないぜ。ぷちっと殺っちまえよ。楽にしてやるのも一つの救済ってやつだぜぇ?』
(人民に手をかけろという命令は受けていない。命令にないことはしない。無意味だ)

 歩き出す姉兄に続く我愛羅の足元に砂が舞う。渇いた大地はアチコチひび割れていた。

『かーっ、頭の固い奴だぜ。そう言うところは親父にそっくりだなぁ、我愛羅』
(褒め言葉として受け取っておく)

 取った宿はみすぼらしく、外装も内装もロクな物じゃない。だがこれでもマシな方なのだと理解している我愛羅たちは口を慎み、次はどのようにして攻めるか作戦を立て始めた。

「相手は上忍レベルだと考えていいだろう」
「ああ。正直俺らのレベルだとまだ早いじゃん」
「だが頭を使えば一人ぐらい捕まえられるかもしれないぞ」
「深追いするなとは言われたが、どのレベルで引き下がっていいのかも考えものじゃん」

 あれこれと作戦を立てていく姉兄の言葉を聞きながら、我愛羅は先程まで共にいた大蛇丸と自来也のことを思い出す。
 戦争を止める。出来る限り最小の被害で、これ以上の犠牲者を出さないように。
 だがその言葉を我愛羅が実行することは出来ないだろう。現状砂隠で最も力を持った武器は、他の誰でもない我愛羅自身なのだから。

(……血の匂い。取れんな……)

 まだ腹の底では守鶴が何がしか喋ってはいたが、我愛羅はそれに対し相槌を打つことも返事をすることもなかった。ただ染み付いた血の匂いに肩を落とし――ふとサクラのことを思い出す。
 共に星を眺めた夜も、昨夜も、結局我愛羅は何も出来ぬまま涙を流す彼女の傍にいることしか出来なかった。
 誰も助けることは出来ない。殺すことしか出来ない。奪うことしか出来ない両手には見えない血がこびりつき、星を掴めないその手は誰の手を取ることも出来ない。

(春野、サクラ――)

 砂隠に来てから泣いてばかりいる彼女を再び傷つけるかもしれないと思いながらも、それでもサクラの傍にいたかった。何もできないくせに、彼女を助けることができないくせに、彼女の言葉に甘えている。そんな自分が酷く薄汚く、卑しい人間だと思った。

 結局自分は傷つけることしか出来ない。初めて歩み寄ってくれた医者の娘にも、サクラにも、自分がしてやれることなど何もない。
 与えられるのは救いではなく苦痛。悲しみ。絶望――。我愛羅はそんな自分が嫌いだった。

 結局自分の手はいつまでたっても人殺しの道具でしかない。それを改めて噛みしめた我愛羅は、うーんと唸り声を上げる姉兄に対しても口を噤むことしか出来なかった。
 誰も傷つけたくないが故に言葉さえ封印しようとしている。不器用な男はどこまでも不器用だった。


 ◇ ◇ ◇


 チヨに諭され自我が揺らいだサクラは、その日はとてもじゃないがまともに仕事が出来なかった。幾らへこむのは後だと言い聞かせた所で受けたショックが和らぐわけではない。思った以上に打撃を受けたサクラはよろよろと、ふらつく足取りでトイレに入り、胃の中のものを全て吐きだす。

「ごほっ、ごほっごほっ……」

 戦慄く胃が腹の奥底で暴れまわり、胃液で焼かれた喉が熱い。サクラは紙で口元を拭うと立ち上がり、汚れた便器を綺麗にしてから個室を出る。そうして洗面所の前に立った時、鏡に映る自分を見て自嘲した。

「フッ……酷い顔」

 死んだ魚のような目に、生気の失せた顔。血の気が通っていないような唇はかさつき、ひび割れている。
 これでは確かに患者の命を任せることなど出来ない。チヨの言い分はもっともだ。

(これだけ顔に出るなんて、忍失格だわ。本当に……呆れた)

 項垂れたところでそう易々と気持ちが入れ替わるわけでもない。
 サクラはふらつく足でトイレから出ると、午後の業務をどうにかこなして病院を出る。
 無意識で見上げた空に、星はなかった。


「そういやぁ、坊ちゃんたち明日戻るって報告があったらしいな」

 夕食時。本当なら食事など摂りたくはなかったが、厄介になっている身である。跳ね除けるわけにもいかず、サクラは無理やり胃の中に食べ物を詰め込んでいた。

「結局相手方の方が実力は上で任務は失敗らしい。ま、しょーがねえわな。アイツらそこそこ実力はあるが、まだ中忍だしよ」
「なっさけないのー。これで砂隠の評価が落ちたらどうする気じゃ」
「こんなことで落ちるかよ。もし落ちたとしても俺たち傀儡部隊が挽回すりゃいいだけの話だ」
「格好いいこと言うの〜、流石ワシの孫じゃ!」
「へいへい」

 相変わらずよく喋るチヨとサソリの会話にエビゾウとサクラが口を挟むことはない。
 いつ食糧難になってもおかしくないため並ぶ料理は少ないが、それでも何も口に出来ないわけではない。
 生産性のある木の葉であればもう少しマシな食事を囲めていたかもしれないが、今のサクラにとってはそれすらもどうでもいいことであった。

(料理、味分かんないな。緊張のせいでおかしくなったのかも)

 黙って口を動かすサクラにもうチヨの視線は刺さらない。サソリも、エビゾウからも、視線は向けられなかった。
 何処にいても、サクラは独りだった。

「……ご馳走様でした」

 何とか食事を食べ終え、手を合わせるサクラにサソリだけが「おう」と返す。今日の食事当番はサソリだった。

「小娘、それ片付けたら先風呂入って寝ろ。俺は今日夜営だからよ」
「はい」

 皿を片づけてから一旦客室へと戻り、着替えを手に風呂場へと足を運ぶ。
 我愛羅の自宅に比べれば狭い湯船の中で、サクラは胎児のように膝を抱えて背中を丸める。

(吐いちゃダメ、吐いちゃダメ、吐いちゃダメ、吐いちゃダメ。生きなきゃ……)

 生きる意志がないと叱られたばかりなのだ。ここで食べた物を戻せば何を言われるか。いや。そもそもにおいてこの時世で食べ物にありつけるだけありがたいのだ。それを戻すなど、酷く失礼な行為だ。
 それでも病院で言われたことがグルグルと頭の中で繰り返される。

 ――可哀想な自分に酔っている。
 そう指摘された時、息が出来なかった。酔っているつもりはなかった。だが他人の目からはそう映ったのだろう。だがサクラには我愛羅のように毅然とした態度を取ることが出来なかった。言い返すことは勿論、まっすぐと立つ事すら出来なかったのだ。

 思えば母親が不在で家に一人きりになることは度々あった。だがそれでも、本当の意味で『独り』になったことなどなかった。だからこそどうしていいのか分からない。
 初めて味わう本当の孤独に、心の底から負けそうになっていた。

(ッ、会いたいよ、我愛羅くん)

 いつしか母を呼ぶばかりだった自分の口から、我愛羅の名前が出るようになった。
 ――甘えている。自分でもそれは理解している。だがそれでも、サクラにとって我愛羅の名は安定剤のようなものになっていた。
 母とは違う、不器用な優しさを持った男が酷く恋しい。

「我愛羅くん……我愛羅くん…………。会いたい、会いたいよ。だからお願い、早く帰ってきて……」

 我愛羅に貸してもらった襟巻だけが今のサクラを慰めてくれる全てだった。我愛羅の匂いとは違う匂いがする襟巻ではあったが、それは優しくサクラを包み込み、あたためてくれた。

「――会いたいよ……」

 ぬるい湯船の中で膝を抱えるサクラは、捕虜として砂隠に連れてこられた時以上に孤独で、不安定だった。


 ◇ ◇ ◇


「ったく、結局足取りさえ掴めなかったね」
「全くじゃん。あーあ、親父になんて報告すんだよ」

 ボヤく姉兄と共に里へと帰省する。
 結局あの後何度か大蛇丸とカブトを捕えようとトラップを仕掛けてみたが、やはり向こうの方が上手で何一つ上手くいかなかった。
 忍具も無駄には出来ない。これ以上の追跡は無意味だと判断し、先に風影宛に任務失敗の文を飛ばした。そして現在、我愛羅たちは里に向かって広大な砂漠を横断している最中である。

 そんな中我愛羅は珍しく曇った空を見上げていた。
 砂隠も風の国も年間の雨量は少ない。最悪半年に一度しか雨が降らなかった年もある。だが今日の雲は重く厚い。久しぶりに降るかもしれなかった。

「つか今日珍しく雲多くね? 一雨来そうじゃん」
「かもしれないね。ったく、町を出たばかりだっていうのに。今降られたら面倒だぞ」
「もうすぐ行ったら岩崖の所に出るから、そこまではもってほしいじゃん」

 愚痴る二人の言葉を聞き流しつつ、我愛羅も前方に見え始めた高い岩肌に視線を定める。この調子で行けば問題なく岩崖に到着しそうだった。

「だがあそこを抜けたら暫く岩崖どころか草一本と生えていないぞ」
「あー……そうなりゃ濡れるしかねえよなぁ……」

 ぼやくカンクロウと危惧するテマリの願いが届いたのか、それとも神様の悪戯か。走り抜ける三人の足元にポツリポツリと雫が落ちてくる。

「おっしゃあ! キターっ!!」
「喜んでる場合じゃないよ、カンクロウ! 早く雨を凌げる場所を探すよ!」
「分かってるじゃん!」

 到着した岩崖で、雨宿りできる場所がないか詮索する間にも降りだした雫が三人を濡らす。
 ごつごつとした岩崖に三人が同時に身を寄せ合えるような空洞はなく、各自姿が見える場所での雨宿りとなった。

「おー、結構降ってきたじゃん」
「久々だねぇ、こんなに雨が降るのも」

 天の恵みに感嘆の声を漏らす二人を軽く見やった後、我愛羅も視線を上げて重たい空を仰ぐ。
 いつも目にする青空も、大地を焦がす太陽もそこにはない。
 灰色の雲が天上を覆い隠し、そこからひたすら雫を落とす姿はまるで涙のようだった。

(何だか、サクラのようだな)

 視界を煙らせるほどではないが、それでも大地を濡らし、静かな泣き声を上げる空が、雨が、不思議とサクラにそっくりだと思った。
 星を見上げ静かに泣いた夜も、木の葉に“敵”として赴き、かつての仲間に背を向けたことが耐えられずに泣いた夜も。どちらもサクラは静かに泣いた。
 喚くことも、叫ぶこともなかった。ただはらはらと雫を落とした。花びらのような、夜空を流れていく流星のような、儚く美しい涙だった。

「我愛羅?」

 テマリが戸惑うような声を上げるが、我愛羅は気にせず岩崖の窪みから立ち上がり、一歩足を踏み出す。頬や肩に当たる雫は生温く、やはり涙のようだと思った。

「おい我愛羅! 何やってんだよ、風邪引いても知らねえぞ!」
「我愛羅! 早く戻りな!」

 カンクロウとテマリの声は聞こえていたが、我愛羅は気にせず空を見上げ、それから遥か先まで続く大地を見つめる。

「………」

 灰色の雲。落ちる雫。広がる大地。広大な砂漠。生える岩崖。

 生物が住んでいるとは思えない、大いなる自然の中に今、我愛羅は立っている。

 空と大地が触れ合うことはない。繋がることも、混ざり合うこともない。だが遥か先に見える水平線の向こうでは、何者にも邪魔される事無く触れ合っているようにも見える。
 そして今、我愛羅の立つ場所も、雨の力で空と大地が繋がっている。
 交じりあうことのない存在が、降り注ぐ涙によって繋がることが出来ている。例え受け取るしか出来ずとも、大地は確かに空からの想いを聞いていた。
 ――それが酷く、不思議だった。

「サクラ……泣いているのか……?」

 我愛羅にとってサクラは星だった。
 淡く輝く、手の届かない星。陽の光に負けて日中は姿を消してしまう、危うい光。けれど確かに存在する。
 我愛羅にとってサクラは、今にも消えてしまいそうな小さな星だった。

「我愛羅!」
「おい、我愛羅!」

 二人の声は我愛羅には届かない。
 我愛羅の手が星に届かないように、二人の声は今の我愛羅に届くことはない。
 だからただ星を見上げるようにして雨雲を見上げた。降り注ぐ雫が瞼を叩いても、眼球に入っても気にせず空を仰ぎ続けた。

 体に染みついた見えない血を洗い流すかのような雨は、サクラの涙のように静かに泣き続けた。
 その雫を、我愛羅は黙って甘受する。

 星屑の涙を拭えなかった手の平は、今も体の横でだらりと垂れたままだ。
 扉一枚越えられなかった無力な夜と何も変わらない。血に塗れたその腕は、雨に流される事無く無様に垂れ下がっている。

 何も変わらぬ自分に我愛羅はただ瞬いた。

 ――星はやはり、見えなかった。