覚悟 -04-
サソリの下で厄介になり始めてから早二日。未だ我愛羅たちが里に戻ってくる様子はなく、サクラは慣れない食卓で朝食を口にする。
「…………」
四人の間に会話はなく、まるで我愛羅と初めて卓を囲んだ時のようだ。だがその時でさえこんなにも胃が掴まれるような居心地の悪さを感じることはなかった。
何だかんだ言ってサクラは我愛羅と共に過ごすことに慣れていたのだ。それを改めて実感する。
(すっごい見られてる……)
百歩譲って重苦しい空気は良しとする。だがサクラが箸を運び咀嚼する間、チヨから向けられる視線が更に居心地を悪くさせていた。肩身が狭いというのだろうか。
ともかく、チヨはサクラの一挙手一投足を監視するかのように鋭い眼差しを向けてくる。
(でも話しかけても無視されるし……。どうしろっていうのよ)
サクラはこの二日間でエビゾウとはある程度言葉を交わした。エビゾウは良くも悪くもサクラに対し興味がなく、元木の葉だろうが関係ないというのが彼の考えだ。
『お前が元木の葉の忍だろうが何だろうが俺には関係ねえよ。もう現役で戦に出てるわけじゃねえしな〜』
と、何ともまあ薄情な台詞と共にサクラの肩の力を良くも悪くも抜いてくれた。だがそんなエビゾウとは対照的に、チヨはサクラに厳しい。耐え切れずに理由を聞いてみたこともあるが、キツく睨まれただけで返事はなく、ほとほと困り果てていた。
「おい小娘。辛気臭ぇ顔してんじゃねえよ。飯が不味くなる」
「ご、ごめんなさい」
苛々とした様子のサソリに咎められ、サクラは益々背を丸め俯いてしまう。これでは地下牢で過ごしていた時の方が遥かにマシだった。
「それとババア。てめえも小娘ばっか見てんじゃねえよ。鬱陶しい」
「何じゃ、嫉妬か? かーわいいのぉ〜」
「調子乗ってっとマジで傀儡の中に閉じ込めんぞ、ババア」
「ギャハギャハギャハ!」
サソリとチヨの口論は日々絶えないが、エビゾウ曰く彼らなりのコミュニケーションの取り方だという。そのため多少煩いと思うことはあっても口出しはせず、今もこうして黙々と食事を続けている。
だが何と言うか、気が休まることがない。むしろ仕事をしている時の方が変に力が入らなくていい。
実際この二日間、サクラはずっと襲い掛かってくる緊張感のため心身共に休めている気がしなかった。
「ごちそーさん。おい小娘。今日は病院勤めだろ。飯食ったらとっとと用意しろよ」
「ぁ、はい」
我愛羅たちがいつ戻ってくるかは分からない。長期任務になるようならまだ戻っては来ないだろう。
確かに我愛羅に甘えている自分が嫌だと思ってはいるが、そんなことを言っていられないほどに今は精神的な疲労を感じていた。
(本当私って嫌な女。こんな時だけ彼に寄りかかろうとしてる。私、結局どうしたいんだろう)
食べ終えた茶碗を重ね、シンクに運ぶサクラの背中に刺さる視線は痛い。言葉はなくともチヨの眼差しだけで批判されている気分だった。
――木の葉の裏切り者。砂隠の異端者。信用できない蝙蝠のような女。自分の孫をたぶらかす雌犬――
そんな罵詈雑言が聞こえてくるかのような視線はひたすらに鋭く、サクラの胃がキリリと痛む。
(……お腹痛い……。でも、頑張らなきゃ……)
死んでもいいとすら思った。この二日間で死にたいと何度思ったことか。死んでしまえば楽になれると、誰でもいいから楽にしてくれと願った。この生活からも、暗い思考からも抜け出したかった。
だが自害することは出来なかった。結局自分は死ぬことも出来ない、出来損ないの弱虫だ。
「何だ、小娘。生理か?」
「違います」
首を傾けるデリカシー皆無の独身男に眉間に皺を寄せながら、洗った皿を籠に移す。我愛羅の自宅で使うものとは違う、少し重みのある厚い皿だった。
その後サクラが部屋で出勤の準備を整えていると、突如玄関を激しく叩く音が部屋に響き渡る。
「サソリさん! 春野さん! いらっしゃいますか?!」
「どうした、何があった」
聞こえてきた声にサクラも慌てて部屋から顔を出せば、製薬の方に普段は身を置いている薬剤師が荒い呼吸を繰り返しながら二人に視線を定める。
「朝早くからすみません!」
「謝罪はいいから早く用件を言え、用件を」
促すサソリに薬剤師は顔を上げると、子供が、と途切れ途切れに話し出す。
「Cランク任務に出ていた下忍の子供たちが砂漠の昆虫たちに襲われ、その内の一人が毒蜘蛛に噛まれてしまったんです!」
「毒蜘蛛だと?!」
普段のサソリを考えれば「それぐらい自力でどうにかしろよ」とでも言いそうなものだが、実際は鬼のような形相でサクラを振り返ると「小娘!」と叫ぶ。その眼はいつになく真剣で、無意識にサクラの肩が跳ねる。
「てめえにはまだ教えていなかったがな、うちの砂漠にはとんでもねえ猛毒を持った気性の荒い毒蜘蛛がいる! 早くしねえと餓鬼が死ぬぞ!」
「え……。く、薬はないんですか?!」
ようやく頭が回り始め、部屋を飛び出すサクラに息を整えた薬剤師が首を横に振る。
「それが、種類が幾つかあって……」
「それに面倒なことに進化の早いクソ虫共でな。微妙に成分が違ってくるから毎回速攻で診察して即効で薬作らなきゃならねえんだよ。用意はいいからさっさと出ろ!」
「はい!」
サクラは薬剤師と共に病院に向かって駆け出し、サソリも「資料を用意してから後を追う」と続けて一旦部屋に戻る。
砂漠には毒を持った生物が多いとは聞いてはいたが、それでも未だにそれらにやられた患者に出逢うことはなかった。
勿論木の葉にも毒を持った生物はいる。だがどれも患部が腫れたり激痛に悩まされる程度のもので、人が死ぬような毒性を持つものは少なかった。だが先程サソリは“早くしなければ子供は死ぬ”と言ったのだ。
木の葉よりも貧しく、木の葉より生産性のないこの土地は、やはり木の葉以上に生死に対しシビアで容赦がなかった。
「春野さん! こちらが患者のカルテです!」
「ありがとうございます!」
辿り着いた病院で、当直の医師が診察したカルテを受け取る。だがそこに記載されていたのはサクラでも見たことのない成分で、一瞬頭が真っ白になった。
「薬はある程度用意出来ています! すぐに製薬をお願いします!」
「は、はいッ」
サソリから砂隠で使用される毒草、及び薬種一覧は受け取っていたし、随時説明も受けていた。だが生物が持つ独自の成分表はまだ一部しか受け取っておらず、サクラにとって今回の毒は未知なるものであった。
(どうしよう……。コレとコレはまだ知ってるけど、こっちの成分には何が効くのか分からないわ)
土地が変われば物も変わる。内心で狼狽えるサクラに、サソリの声が届いた。
「おい小娘! 俺にもそのカルテ見せろ!」
「は、はいっ」
横から奪うようにしてカルテを奪ったサソリは、驚くスピードでそれを読破し、薬を一挙に取り出していく。サクラより遥かに手慣れたその動きは、普段の碌でもない上司とは違っていた。
「お前はコレとコレを配合しろ! 比率は二:三、こっちが二でこっちが三だ! 間違えんなよ、グラムはこの表見ろ!」
「はいっ」
手早く他の薬を台に並べ、それでも正確な手さばきで薬の配合比率を割り出していくサソリにサクラは唇を噛みしめる。
やはりサクラは薬師としてまだサソリの足元にも及ばない。
勿論言い訳は幾らでも出来る。ここは木の葉ではないからだとか、毒虫の進化が早いからだとか、枚挙にいとまがない。だがそれでも、サクラは医者なのだ。助けられたかもしれない命を、今のサクラでは助けることが出来ない。それが、ただ悔しい。
「小娘、今度はこっちだ!」
「はい!」
一分一秒を争う世界。今までこの里の人はどれだけの命をこうした形で落としてきたのだろうか。
救えなかった命はサクラが想像する以上に多いはずだ。生物の毒だけでなく、一尾が暴れた時も甚大な被害が出たに違いない。
それでもこの里の住民は逞しく生きている。サクラよりずっと多くの知識と知恵を持ち、この過酷な砂漠の地で生きている。それがどれほど凄いことか、サクラは深く噛みしめ理解する。
「ふぅー……。これで一先ずは安心だな。前に見つかった奴と成分が似てて助かったぜ」
緊張を緩めるサソリの前では、患者である子供が眠っている。薬を打つまでは毒に苦しみ魘されていたが、投薬を受け暫くすると徐々に落ち着いていった。
「流石サソリさんですね。頼りになります」
「おう。もっと褒めろ。敬え、奉れ」
「何ですかそれ」
サソリの周りで安堵の表情を見せながら言葉を交わす看護婦と薬剤師を眺めながら、サクラは何も出来なかった無力な自分の手の平へと視線を落とす。
結局自分はサソリが来なければ子供の命を助けることが出来なかった。経験も知識もサソリには及ばない。未熟な自分に嫌気がさす。
(木の葉にも帰れない。この里にもいたくない。でもこの里の子供の命が助かったことに安堵している……。私、本当にどうしたいんだろう)
自分の気持ちが分からず呆けるサクラに、突如冷たい言葉が投げかけられた。
「ふん、所詮は木の葉の忍じゃな」
「! チヨバア、さま……」
視線の先には胡乱気な瞳でサクラを見やるチヨが立っていた。
「サソリがいなければ薬一つ配合出来ん。お前なんぞに里の者たちの命を預けることなど出来るものか」
「す、すみません」
何も言い返すことが出来ず頭を下げるサクラに、チヨはゆっくりと近づいて来る。
サソリは投薬を終えたとはいえ、いつ容態が急変するか分からない子供の様子を注意深く伺っている。薬剤師と看護婦は薬品の整理やベッドを確保するためにこの場を離れていた。
サクラを見ている者など、誰一人としていなかった。
「知識がない、人を助ける技量もない。それでいて医療忍者とは笑わせる。だから木の葉の忍は信用ならんのだ」
「…………」
何も言い返すことが出来ない。無力な自分を実感したばかりのサクラの胃が再び痛み出す。
噛みしめた唇から、鉄の味がした。
「小娘、ワシが何故お前を信用ならんか分かるか」
「……すみません。分かりません……」
チヨの顔を見ていられず、俯くサクラにチヨの手が伸びる。皺が寄った手ではあったが、サクラの二の腕を掴む力は見た目以上に強かった。
「お前の目から意志が感じられんのじゃ! 生きる意志、学ぶ意欲、誰かを助けたいと願う心! そのすべてがお前から感じられんから信用出来んのじゃ!」
「ッ!」
チヨの言葉が落雷のようにサクラの体を打つ。
振り向いたサソリは一瞬目を丸くしたが、チヨを止めるような素振りは見せなかった。
「お前が木の葉の忍だからといって、そんなみみっちい理由でワシがいつまでもお前を疑うと思ったか?! お前のような小娘の考えなど聞かずとも分かるわ!」
チヨの怒声に、奥から看護婦数名とサクラたちを呼びに来た薬剤師が顔を出す。そうして固まるサクラと憤るチヨに視線が集まる。
「故郷にも帰れない、右も左も分からぬ土地で生きるのも難しい。可哀想な自分に酔うのはさぞ楽しかろうな。だがそれで一体何になる! 医療忍者ならもっと毅然とした態度で、学ぶ意欲を持ち、生きる大切さを周りに教えねばならんだろう!」
「そ、れは――」
チヨの言葉がサクラの頭の中で木霊する。震える膝から力が抜けそうになるが、ここで倒れれば益々チヨを失望させるだけだ。だから精一杯膝に力を入れ、足の裏で床を踏みしめる。が、正直言って自信はなかった。
「おいババア。此処は病院だぞ。あんまりでけえ声出すんじゃねえよ」
「ふんっ」
俯くサクラの腕から手を離し、チヨは一歩下がりサソリへと視線を移す。
サソリはサクラに何も言わなかった。
「ワシの力が必要かと思ったんじゃがの〜、必要なかったようじゃの」
「たりめーだ。俺を誰だと思ってんだ、ババア」
目の前で交わされる軽口はいつもと変わらない。だがサクラはそれを聞き流すことも、苦笑いすることも出来なかった。俯いたままの視界には病院の古臭いタイルが広がるばかりで、涙で滲むこともなかった。
「ではワシは帰るからの」
「おお、帰れ帰れ」
「可愛くないのー!」
文句を垂れつつも去って行くチヨの背を見送ったサソリは、未だ項垂れたままのサクラへと視線を戻す。
「へこむのは後にしろ。今は仕事中だ」
「……はい」
顔を上げることが出来ず、返事をするのがやっとだった。だがサソリはそれ以上何も言わなかった。叱責も揶揄いもない。普段のサソリとは違い、静かにその場を離れていく。
その分様子を窺っていた看護婦たちに「お前たちも仕事に戻れ」と手を振ると、薬剤師を連れて病院を出て行った。
フラフラとおぼつかない足取りで歩き出したサクラの頭の中には、チヨの言葉がいつまでも響いていた。