長編U
- ナノ -

覚悟 -01-



 ――星の海を泳いでいた。
 彼と一緒に眺めた、窓枠に収まりきらなかった星の海を。散らばる星が水面のように輝いて、真っ黒だったはずの夜空に宝石を散りばめたかのような美しい海だった。
 そんな月の光すら届かない、星だけの光が満ちた世界にいたのは――。


 ◇ ◇ ◇


「ん……あさ……?」

 肩が冷たい。腕も足も、背中さえも。何もかもが冷えて固くなっている。
 すんと鼻を啜れば案の定詰まった感じがし、瞼も重たいのが分かる。沢山泣いたからだろう。
 体中の水分が全て出ていくほどに泣いた夜は、既に明けていた。

(星の海は、夢だったのかな……。少し、惜しかったな)

 目覚めなければまだ見られたかもしれない。あの広大で美しい、光り輝く星の海を。
 だが自分はあの海を一人で泳いでいただろうか? 誰かと一緒にいたような気もするが、もう思い出せなかった。

 夢はいつまでも夢だ。サクラの願いと同じようにあっけなく姿を消す。無力な現実だけを残して。

(そういえば彼、まだいるのかな)

 昨夜結局耐え切れずに泣き出した部屋の向こう。休んでいたはずの男が扉越しに来たのが分かった。
 だが夢か現実か分からず、不安でふらつく足で近づき問いかけた。「そこにいるのか」と。言葉は返って来なかった。だが扉の向こうで確かに動いた。
 トン、と扉を叩く音だけが、男の存在全てだった。

(でも、それだけで何故か安心したの……。利用するって決めたのに……。仇なのに。敵なのに。分かっていて、私は彼に甘えたのよ)

 扉の向こうでサクラが起きたことに気付いたのだろう。男の気配が僅かに動く。

『……起きたのか』

 そこでようやく声がかかり、サクラの頭も動きだす。
 サクラが泣きだしたのは紛れもなく夜だった。そして今、閉め忘れていたカーテンの隙間から痛いほどの朝日が差し込んでいる。
 我愛羅は一晩中、年が明けたばかりのこの寒い時期に廊下にいたというのだろうか。

「う、うん、」

 扉越しに返事をすれば、我愛羅は「そうか」と答える。僅かな衣擦れの音と、パキパキと関節を鳴らす音も聞こえてきた。どうやら立ち上がったらしい。

『――朝飯は食え』

 扉越しにいつかと同じように告げると、その場を離れたのだろう。僅かに聞こえてくる階段を下りていく音で我に返る。

(ずっと……一晩中ずっと、そこにいてくれたの?)

 恐る恐る開いた扉の先、誰も居なくなった廊下は酷く寒い。
 熱帯とはいえ夜は冷える。雪が降らずとも大気は冷えるのだ。そんな中、我愛羅はずっとここに居た。たった一人で。
 自分と違い部屋にいれなかったサクラを責めることなく、ただ一人でずっと、この扉の向こうにいたのだ。

(どうして? どうしてそんなに優しくしてくれるの? 私は、あなたを――)

 サクラは先程まで自分が座っていた場所に膝をつき、境界線のように見える桟の向こうへと指を伸ばす。そこは先程まで我愛羅が座っていたのだろう。指先で触れた場所にはまだぬくもりが残っていた。いつかの床のように、我愛羅の体温がそこには残っていた。

「どうして……。どうして私なんかに優しくしてくれるの? 我愛羅くん……」

 テマリに切り揃えてもらった髪が、俯いた途端に流れてくる。あの時うなじが見えるほどに切った髪も、今ではそこを隠すほどに長くなっていた。

 背中から差し込んでくる光は眩しく、あたたかい。だが指先から伝わってくるぬくもりはそれよりもあたたかく、今のサクラにとっては心地好かった。

 ――それが、恐ろしい。

「……起きなきゃ……」

 絆されてはいけない。流されてはいけない。利用すると決めた。この里から逃げると決めた。
 我愛羅を利用し、一尾の力を借り、この里全員の命と引き換えに木の葉に帰るのだと、そう決めた。

(なのに――――揺らぐ)

 気持ちが、傾いていく。
 自分よりもずっとずっと過酷な人生を生きている男に向かって、傾いていく。
 それが何よりも恐ろしく、怖かった。

 木の葉を裏切るようで怖かった。だがもう既に木の葉を裏切った。裏切っていた。二度と戻れないのだと実感した。
 それを今更後悔し、泣いたのは自分だ。情けなくて、弱くて、そんな自分が嫌で泣いた。

 扉の向こうから言葉はなかった。ぬくもりも、伝わっては来なかった。
 だがあの時確かに安心したのだ。“自分は一人じゃない”と、傍にいてくれる人間がいるのだと、安堵したのだ。
 気付けばサクラは誰よりも我愛羅に寄りかかり、甘えていた。

(やだな……。私、これからどうすればいいんだろう……)

 行く宛なんてない。
 復讐するはずだった敵里に身を置く以外にまともな行き場などない。
 自里であるにも関わらず一人で生きているかのような男に頼る以外に道がないほどに――サクラは孤独だった。

 もう前にも後にも逃げ道はない。探す方法すらない。そもそも道などどこにあったのか。それすらも分からない。

 迷うサクラにはもう何も分からなかった。ただ立ち尽くすだけだった。
 あの夏の日と何も変わらない。再び無力な自分に戻ったことが、何よりもサクラにとって痛い事だった。

「……一人ぼっちは寂しいわ。本当に……」

 砂隠の額当てを手に取り、鏡で顔を確認して吐息を零す。やはり瞼は腫れていた。

(こういう時は医忍でよかったかな、って思うわよね)

 瞼の腫れを治し、寝巻を脱ぎ捨て忍装束に着替える。髪を整え武器を忍ばせ、最後に額を巻いてから階段を下りる。
 隣の部屋から気配はしなかった。

「おはようございます」

 階段を下りた先、居間で新聞を広げていた羅砂に挨拶をする。羅砂がこうして食卓につく姿を見るのは久しぶりだった。

「ああ。おはよう」

 普段は近寄りがたい空気と共に重たい威圧感を醸し出す羅砂ではあるが、自宅にいる時はその気配が若干和らぐ。
 テーブルの上には食べかけのパンと、僅かに湯気が出るスープが残っている。誰かを待っていたのだろうか。いつもであればさっさと食べ終えて風影邸へ行くというのに。

「春野サクラ」
「はい」

 サクラがぼうっとしている間にも新聞を読み終わったのだろう。手にしていた新聞を畳み始めた羅砂に声をかけられ返事をすれば、綺麗に四つ折りにしたそれをテーブルに置きながら用件を告げる。

「アカデミーから要請があった。今日は病院ではなく医療忍者養成のため講習に出て欲しいそうだ」
「講習……。分かりました」

 正式に砂隠の忍になってからは製薬と病院勤めを繰り返していたせいか、本来知識を広めるために呼ばれた講習会が懐かしく感じる。
 そういえばあの時教えていた生徒たちは元気だろうか。意識を飛ばしたかけたところで、奥から我愛羅が出てきた。

「あ……。お、おはよう」
「ああ……」

 妙な気まずさを感じつつ挨拶をすれば、我愛羅も視線を少し彷徨わせた後僅かに頷く。羅砂は我関せずと言った体を崩さぬまま食事を続け、キッチンからはテマリが顔を出してきた。

「サクラ、早く用意してきな。ご飯にするよ」
「あ、はい!」

 風影がいる時は我愛羅も共に食事をするという決まりがあるらしい。面と向かって教えられたわけではないが、普段テマリやカンクロウと食事を摂らない我愛羅が父親である羅砂がいる時だけは同じ卓につく。
 所謂『暗黙の了解』というやつなのだろう。部外者であるサクラが首を突っ込むことではないため、黙ってそれに従っていた。

「テマリ、カンクロウ、我愛羅。今日はお前たちに任務がある。暫し里を離れることになるだろう」
「長期任務ってことか?」
「その間サクラはどうするじゃん?」

 出勤が早い羅砂が先に食べ始めるのも暗黙の了解の一つである。サクラと我愛羅が卓についたのを確認してから羅砂は話し出した。

「春野サクラは暫くの間サソリの下で預かってもらう」
「サソリさんの、ですか」

 サソリは確か一人暮らしだったはずだ。そんな所に預けられるのは幾らサクラと言えど不安がある。これでも年頃の娘なのだ。不安に思うなと言う方が無理な話だろう。
 それは同じ女であり年齢も然程変わらないテマリが代わりに尋ねてくれる。だが羅砂は「問題ない」と不安を打ち消すかのようにしっかりとした口調で答えた。

「春野サクラを預けるのはチヨ様たちがいらっしゃる御実家の方で、だ。暫くの間サソリもそちらで過ごすようこちらからも指示を出している」
「じゃあサソリと二人で暮らす、ってことはなさそうだな。よかったな、サクラ」
「はい」

 聞き慣れない名前が出てきたが、笑うテマリや黙々と食事を続ける我愛羅や羅砂に聞ける雰囲気でもない。カンクロウに至っては苦手なほうれん草を凝視していた。
 サクラはどちらにせよ身が重い。と零しそうになる吐息をぐっと堪え、スープと共に腹の底へと不安を流し込んだ。