孤独 -09-
後続が来ないようにと張ったトラップが効いたのか、何とか逃げおおせることが出来たサクラたちに終ぞ追っ手は来なかった。
「ったく、流石に今回は肝が冷えたぜ」
ボヤくサソリの視線の先には治療を受けた我愛羅がいる。その腕に巻かれた包帯はサクラの手によってしかと結ばれ、走る刺激に我愛羅は僅かに顔を顰めた。
「まぁいい。過程はどうであれ、結果としては任務成功だ。スマートじゃあなかったがな」
「今回に限っては仕方ないことだ。少人数で攻めたんだからな。成功しただけでも良しとしようではないか」
「おめえはガキ共が相手だと本当甘ぇよなぁ。マジで爺じゃねえか」
「何だと?」
上忍たちの交わす軽口を聞き流し、サクラは我愛羅に向かって視線を向ける。
「痛み止め、すぐ作るからね」
「ああ……」
以前のように「必要ない」と拒否しなくなった我愛羅に僅かに目を細め、立ち上がったところにサソリから「おい」と声をかけられる。
「俺とバキは先に風影に報告に行ってくる。お前らも各自報告書は書いておけよ」
「分かってるよ」
「了解じゃん」
治療を終えた我愛羅を連れ、三人の姉弟とサクラは自宅に向かって歩き出す。
「それにしたって、今回はやけにサソリ尖ってたな」
「まっ、しょーがねえじゃん。まさか我愛羅が怪我するとは思ってなかったんだろ。今回の責任を負うのはサソリだしな」
傷の具合を確かめるかのように腕の曲げ伸ばしを繰り返す我愛羅の隣をサクラは歩く。
「痛む?」
「いや」
「そう」
頷きつつも内心では「嘘ね」と呟く。筋肉が動く度我愛羅の眉間に皺が寄るからだ。
昔はこの仏頂面のせいで嘘か真か分からなかった言葉も、見慣れてしまえば些細な違いで読み取れるようになってきた。意外と顔に出やすい男なのかもしれない。表情筋が動かないだけで。
「つーか、久々のSランク任務は疲れたじゃん」
「そうだな。早く風呂に入って仮眠を取りたい。夜には夜営が入ってるしな」
「ハードスケジュールだよなぁ……」
ぼやくテマリとカンクロウの会話に我愛羅は基本的に参加しない。ただ黙々と前を向いて歩く姿に、サクラは視線を落とした。
(私、カカシ先生から“敵”って認識されちゃったなぁ……。分かっていたけど、やっぱり辛い……)
場数を踏んでいる分、こういった事も過去に何度かあったのだろう。切り替えが早いからこそ上忍として今の今まで生き残って来られたのだ。
強いだけではこの世界で生き残ることは出来ない。臨機応変に、その場その場で選択肢を変えていかなければ生きていけない世界なのだ。
沈むサクラに気付いているのかいないのか、我愛羅はいつも通りの声音で「女」と呼んでくる。
我愛羅は未だに公の場以外でサクラの名を呼んだことはなかった。
「何?」
呼びつけておきながら何も話さない我愛羅に首を傾ければ、我愛羅は戸惑うように視線を彷徨わせた後、チラリと横目で見てくる。
「……いや。何でもない」
結局何か言うこともなく前を向いてしまった我愛羅を不審に思いはしたが、問い詰めはしなかった。というより、思った以上に心が疲弊しており、我愛羅を気遣うことが出来そうになかったのだ。
(“敵”。敵、かぁ……)
想像していたよりもずっと――痛い。
握り締めた拳に、もうクナイは握られていなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、仮眠をとり食事を終えたテマリたちは二人を残して夜営に出かけた。
風影である羅砂に報告書を提出した際、怪我について言及され「詰めが甘い」と叱咤された我愛羅は一人で星を見上げていた。
(そういえば、昔から父様に褒められたことがなかったな。別段、今更褒めて欲しいとは思わないが……。気付きたくない事実だった)
昨日砂嵐が去ったばかりだという砂漠の夜が、今日も静かに更けていく。いつかのように星が瞬く夜空は、我愛羅にとって唯一の癒しであった。
(星はいい。昔から星は俺を拒絶しない。変わらずそこにあり、照らし続けてくれる)
母のぬくもりを知らない。父の優しさを知らない。
そんな我愛羅にとって星はいつだって悲しみを和らげてくれる存在だった。
幼い頃には泣いても傍にいてくれる存在がいたが、それを失ってからは誰にも縋れなくなった。そんな中、唯一己の想いを素直に零せたのは皮肉にも、聴覚も発声器官も持たない、天に散らばる星たちだけだった。
「“綺麗だから泣く”、か」
我愛羅にとって星は癒しだった。綺麗だからといって泣いたことは一度たりともない。
だがサクラは泣いた。綺麗だから泣くのだと言って、我愛羅の目の前で静かに、流星のような涙を幾つも零した。
「……不思議な女だ……」
無意識に包帯に触れれば、そこは痛みを持って我愛羅に存在を伝えてくる。
昔はこの痛みが自分が生きている証拠だった。だが今は、その痛みよりも巻かれている包帯に意味があるような気がしてならない。
「こんな気持ちは初めてだ……」
医者の娘も、サクラも。何故女という生き物はこうも包帯を巻くのが上手いのだろうか。
そして何故、彼女たちの優しさがココに込められているのではないかと思うのか。
我愛羅には己の思考がよく理解できなかった。
「サクラ……。――春野、サクラ」
木の葉の忍が何度も彼女の名を呼んだ。己がまともに呼べた試しがない名前を、いとも容易く呼んでいた。
生まれ育った里の忍と、捕虜として連れてこられた里の忍とで思い入れが違うことは分かっている。分かってはいるが、少しばかり――羨ましかった。
(何故こんな気持ちになるのだろう。分からない。俺はあの女に会ってから分からない感情とばかり顔を突き合わせている)
理解できない。把握しきれない。
自分の感情が掴めずに不安になる。
だが打開策も見当たらず、結局我愛羅はそのままベッドの上に横になる。数日前、サクラが寝転がっていたように。
(星を綺麗だとは思うが、泣けはしない。何故綺麗だから泣くのだ、あの女は)
分からないことばかりのサクラに軽く吐息を零したが、すぐさま帰りつくまでの彼女の数日間を思いだし、天上の星々へと視線を向ける。
「……泣かなかったな」
てっきり、泣くのだと思っていた。生まれ故郷で、信を置いていた仲間たちから“敵”だと称され、傷つき、泣くのだと思った。
だがサクラは泣かなかった。
通常通りテマリやサソリたちと言葉を交わし、我愛羅の怪我を診ながら、それでも共に砂隠へと帰ってきた。そして何の抵抗も見せぬまま報告書を書き上げ、それを提出した。
「分からない。何故、お前は――」
泣きそうなところで泣かなくて、泣かないようなところで泣くのか。
我愛羅には分からない。
幼い自分を思い起こせば、自分は胸が痛くなれば泣いた。夜叉丸に教えられ、その痛みが“辛い”や“寂しい”という感情だから泣くのだと教わった。だが夜叉丸を自らの手で葬り、生きる意味を探し出してから泣く事はなかった。
一時は他者の血を浴びることにより己の存在意義を見つけたが、それもすぐに崩壊した。
結局自分は里の道具であり、化物の玩具なのかと思うと、人として生きている理由が見当たらなくなったのだ。
だが次に思ったのは、“化物でもいいから人に必要とされたい”ということだった。
そんな中始まった戦争は我愛羅にとって都合のいいものだった。だが他人の血を浴びれば浴びるほど、それは間違いなのだと悟った。
誰かを殺す度、戦争で功績を上げる度、我愛羅はまた一人になった。
唯でさえ寄り付かなかった人々が益々遠くへと去って行く。我愛羅は未だに独りぼっちだ。
(人としても認められず、道具としても恐れられる。ならば俺は、一体どこへ行けばいい?)
父親は昔から変わらない。我愛羅を兵器として必要とし、兵器として利用する。そこに感情があるようには思えなかった。いつだって己は道具なのだと、視線で、纏う空気で、教えられているかのようだった。
幼い頃は仲良くなりたかった姉兄とも、一緒に過ごすようになり憎しみの目を向けられたことで淡い期待は崩れ去った。自分は母を奪った憎い存在として姉兄の目に映っていたのだ。
結局我愛羅は父親とも、血を分けた姉兄とも分かりあえない。愛し、愛されることがない。
ならば独りで生きていくしかない。
星だけを見つめ、太陽の光を浴び、それでも尚暗闇の中で生き続けるしかないのだと、そう思っていた。
(だが、あの女は……)
我愛羅の手を取ろうとした。怪我が心配だからと自ら近寄り、脅えつつも思いの丈をぶつけてきた。
それでも結局お前も俺を否定するのだと抑えられない感情が爆発し、反抗的な眼差しを向けてくるサクラの首を絞めた。
だがサクラは、それでも視線を逸らさなかった。探り探りの、不安と期待が入り混じった妙な視線ではあったが、我愛羅を見続けた。
昔は好奇の視線が嫌だった。己が他者と違うことが怖かった。己も皆と一緒だと信じたかった。
それでも自分と他人は違うと自覚した途端、更にその視線が怖くなった。
(俺は人だ。化物なんかじゃない。そう、何度も思った)
だが人の血を浴びる度に、その血を吸って化物が大きくなる度に、我愛羅は自分が分からなくなった。
どれほど否定してもそれは“自分から見た自分”が化物ではなく人の形をしているだけであって、“他人から見た自分”は既に化物になっているのではないかと何度も思った。
だから、鏡に映ることが怖かった。
(火傷……痛かったな)
火傷を負った時、サクラは血相を変えて我愛羅を心配した。薬などいらないと拒絶した我愛羅を、サクラは見捨てたりしなかった。
――不思議だった。
他人から拒絶されることはあっても、自分から拒絶することなどないと思っていた。だがあの時は自分から拒絶したのだ。自らの意思で近づいてきた、彼女を。
だがサクラはめげなかった。
どれだけ拒絶しても、素知らぬ顔をしても、サクラは我愛羅を見ていた。密かに視線を向けてきた。
好奇と呼ぶには幾らか意味合いが違う、どう形容していいか分からない瞳で。
脅えているような、探るような。
甘えているような、期待するような。
そんな、類を見ない不思議な瞳だった。
そうして遂には、歩み寄ろうとしてきた。化物だと称され遠巻きにされていた我愛羅に、彼女の方から。
怖かった。不安だった。また“裏切られる”と思った。
彼女にだけは、『裏切られたくない』と思った。
医者だからか、それとも彼女が女だからかは分からない。だがもし彼女に裏切られたら、自分はきっと、今度こそ心が折れてしまうのではないかと思い、それが恐ろしかった。
だから跳ね除けた。無理だと思った。己の心を守るために、折角歩み寄ってくれた彼女を拒否した。
だが彼女は『少しずつでもいい』と言った。少しずつでもいいから慣れて欲しいと、そう言って微笑みかけてきたのだ。
正直言えば、今でも恐ろしい。
彼女という存在が、不思議な程に怖ろしい。
いつか消えてしまいそうな癖に、力などない癖に。己のことが知りたいと、自分を知って欲しいと近づいてきた彼女が恐ろしい。
いつかあの夜空に浮かぶ星のように、届かない場所に行ってしまうのではないかと思うと恐ろしくて仕方がない。
もし彼女が星になどなってしまったら。それこそ己の手はもう二度と届かなくなってしまう。唯でさえ彼女に向かって伸ばせたことのない、この手が本当の意味で届かなくなってしまう。
そっちの方が、今ではもっと恐ろしかった。
「……サクラ……」
ベッドの上で膝を折り、両腕でそれを抱えて目を閉じる。殻に閉じこもって眠るようにしていれば、少しだけ心が安らいだ。
「……?」
ガタン、と隣の部屋から何かが倒れる音がする。時計を見上げれば既に日を跨ぎ、夜営に出ている者や己以外は眠りについている頃だ。
――まさか彼女の元に侵入者でも現れたのだろうか。
気配を探るが、特にこれといって慣れないチャクラの気配は感じられない。
もしや何かあったのかと部屋を後にし、足音を消したまま彼女の部屋の前に立つ。
閉められた扉はそこまで厚くはないのに、まるで何万キロも距離が開いているかのように遠くに感じた。
『……ぐすっ、』
か細い声で――耳を傍立てていなければ聞こえないかのような小さな音が――彼女の鼻を啜る音が聞こえた。
(やはり、泣いているのか)
帰りたいはずだった。帰りたいと願っているはずだった。
郷里に背を向け、ここに帰ってきた彼女が泣かないはずなどない。ただ我愛羅たちの前では強がって泣かなかっただけだ。ただ、それだけなのだ。
分かっていながら慰める言葉など持ち合わせていない。こんな時どんな顔をすればいいのか、どんな言葉をかけてやればいいのか、どんな風に接すればいいのか。それが分からない。
まともに人と接したことのない自分にとって、彼女以外の人間に心動かされたことも、近寄り、近づかれたこともなかったから、余計に分からないのだ。
起きているのかも、どんな顔をしているのかも、分からないから想像すら出来ない。
――大丈夫か。何かあったのか。泣いているのか。
どの言葉を投げかけていいか分からないから、結局は何も言えずその場に座り込む。何万キロも距離が開いているかのように感じた扉は、いとも簡単に背中に当たった。当たってしまった。それは冷たくて硬い、ただの扉だった。
――ゴン。
扉に背を預け、思わずいつもの癖で天を仰いでしまったせいで後頭部が扉に当たる。夜中ゆえに存外大きく響いたその音に我愛羅は内心冷や汗を掻いたが、当たってしまったものはしょうがない。そのまま謝ることも誤魔化すこともせず、ただそこに座り続ける。
「…………」
だが先程の音で聞こえていた彼女のすすり泣く声が止む。流石に不審に思ったのだろう。
ひたりひたりと慎重に歩んでくる気配がしたが、結局は我愛羅と同じように扉の前で立ち止まった。
『……そこにいるの?』
彼女の声は涙に濡れてふやけていた。
それでもやはり我愛羅は掛ける言葉を持ち合わせていない。それでも無視は出来なかった。というよりも、したくなかったのだ。
だから指先だけで軽く扉を叩いた。頷く代わりに一度だけ。指の腹で強くも弱くもない力で、トン、と音を立てるようにして叩いた。
『ッ、』
扉越しに衣擦れの音がする。ずるずると衣服が擦れる音だった。
そして先程の我愛羅と同じように、ゴン、と後頭部を扉に当てたような音がした。
『うっ、ふっ、ぅ……ぐすっ……』
サクラは泣き止まなかった。だが我愛羅は「それでいい」と思った。
我愛羅は既に一度泣いている彼女を見ている。だから、気兼ねなく泣けばいいと思った。
どうせ掛ける言葉など何一つとして持っていない。今の我愛羅はこの背にある扉と何も変わらない。
何の言葉も持たない、ただの役立たずだ。
(サクラ……)
一度たりとも面と向かって呼べたことのない彼女の名前を呼ぶ。
星のように我愛羅の心を照らす、花の名を呼ぶ。
『――おかぁさん、』
この手は、星には届かない。
どれだけ伸ばしても、どれほど掴みたいと思っても。届かない。届かないのだ。だから彼女にだって届くはずがない。
我愛羅の手はいつだって、大切なものを壊すばかりで掴めはしないのだから。
(――サクラ……)
星を掴めない手はただ床の上に落ちる。
彼女のすすり泣く声を聞きながら、無力な男は扉に背を預けたままそこにいることしか出来ない。
か細い声が泣き止むまでずっと、朝日が昇り辺りの空気があたたかくなるまでずっと、何も出来ない男は扉の前に座り続けた。
星を掴めない手は、いつまでも床に落ちたままだった。
第六章【孤独(ひとり)】了