長編U
- ナノ -

孤独 -04-



 風呂から上がったサクラは未だ風影の姿が見えないことに瞠目し、けれど特に何も思わぬまま階段へと足を掛ける。時計は既に日を跨いでいた。

(あら?)

 サクラに与えられた部屋は二階の一番奥にある。元々物置として使われていた部屋だ。そしてその隣、階段から上がって手前に見えるのが我愛羅の部屋だ。だがいつもは閉じられている扉が僅かに開いている。それが不思議だった。

(閉め忘れたのかしら? でも、あの人が?)

 用心深く、他人を信用していない男が自室の扉を閉め忘れるだろうか? 首を傾けはしたが、それでも胸の前で軽く手を握りしめ、恐る恐る僅かな隙間へと目を向ける。

(……寝てる?)

 僅かに開いた隙間から見えたのは、穏やかな夜だからか窓を開け、ベッドに寝そべる我愛羅の後ろ姿だった。
 だが顔は見えず、寝ているのか起きているのか判断出来ない。声をかけるか否か迷ったが、我愛羅がサクラに気付いている様子はない。あるいは無視しているのか。どちらにせよかなり無防備な状態であることは確かだ。

「……ねぇ」

 胸の前で手を握りしめたまま、蚊の鳴くような声で問いかければ「何だ」と返ってくる。やはり起きていたらしい。

「入っても、いい?」

 何故そんなことを口にしたのか。サクラは自分でも分からなかった。ただ「ここ開いてるよ」と言って扉を閉めてやればよかったのだ。
 だがサクラの口は自身の思いとは裏腹な言葉を紡いだ。

「……好きにしろ」

 我愛羅は拒絶しなかった。サクラの様子がおかしかったのが気になっていたのか、それとも本当にどうでもよかったのか。分からなかったが、サクラは冷たいドアノブに手をかけ、扉を押し開いた。

「何、してたの?」

 睡眠時間が極端に短い我愛羅がベッドに寝転がっている。
 修復作業に疲れたのだろうか。疑問に思って問いかければ、我愛羅は背けていた顔をようやくサクラに向け、視線を空へと投げた。

「星」
「星?」

 あまりにも端的な答えに首を傾ける。幾らコミュニケーションを取るのが不得手とは言え、これではあまりにも意図が読めない。
 訝るサクラに、我愛羅は視線を空に固定したまま口を開く。

「星を、見ていた」

 その抑揚のない声を追うように、サクラも窓から覗く夜空を見上げる。

「わぁ……綺麗……」

 思わず呟いた声の先、そこにはラピスラズリの宝石ですら及ばないような、満天の星空が全ての大地を包むかのように広がっていた。

 ――まさしく天上の世界。
 ちっぽけな人間など蟻のように感じるほど、優美で壮大な輝きがすべてを包んでいる。

 サクラは瞬きも忘れ、夜空に散りばめられた宝石を見上げた。

「……立ったままだと見づらいだろう。座れ」
「え? あ、うん」

 ずっと入口付近に立ったまま呆けていたサクラに気付いたのか、我愛羅が珍しく自分から声を掛けてくる。
 とはいえどこに座していいのか分からない。何せ他人の部屋だ。勝手知ったるようには座れない。
 サクラは視線を彷徨わせ、手近な椅子を引いて腰かける。だがそこからだと位置的に星が見えづらく、床に座ればよかったかな。と少しばかり後悔した。
 そんなサクラの様子を黙ってみていた我愛羅が音もなく立ちあがって近づいてくる。

「そこからだと見えないだろう。こっちだ」
「え? ちょ、うわっ!」

 自分の部屋のことだ。どの位置で見るのが一番いいか把握しているのだろう。呆れたような声音でそう口にしたかと思うと、突然サクラの手を引いてそのままベッドへと投げた。

「いっ、」

 軽く腰を打ち付けた衝撃に顔を顰める。だが寝転がったサクラとは反対に、ベッドに腰かけた我愛羅から「ここが一番良く見える」と告げられ、閉じていた瞼を開く。

「ぁ。本当――」

 促されて見上げた先にあったのは、先程とは違う、窓枠から解放された景色がどこまでも広がる世界だ。
 宝石箱をひっくり返したような、それでいて一つ一つは小さな輝きが目を惹く。それは夜空のコントラストさえ変えてしまう、音色にも似た美しい世界だった。

「――綺麗――」

 先程も呟いた言葉を再度口にすれば、我愛羅は何も言わず首だけを動かし、空を仰ぐ。
 サクラにしてみれば初めての事だった。自分以外の、それも同性ではなく異性のベッドに寝転がったのは。そしてそんな異性と二人きりで星を見上げることも、言葉少なに空間を共有することも。何もかもが初めてだった。
 だが不思議な程サクラの心は落ち着いていた。波風一つたたず、ただ輝く夜空の下に四肢を投げ出していた。

(何でだろう……。幾ら好きじゃないといっても、もっとドキドキしてもいいはずなのに。緊張すらしないなんて、本当不思議……)

 もしかしたら、心のどこかではもう諦めているのかもしれない。
 自分は木の葉に戻れないから、この男に殺されてもいいのだと。
 生きる理由を失ったサクラにとってその考えは至極当然のことのように思えた。

(でも、何でかな。“死んでもいいや”って思うのに、どうして星を“綺麗”って思えるんだろう。心が死んだなら、そんなことすら思えなくなるはずなのに)

 実際サクラが捕虜になったばかりの頃、講習帰りに暗くなった夜空を見上げたことがある。その時はまだ一番星が輝いたぐらいの時間ではあったが、それに対し何を思うことも無く視線を戻した。
 道端に咲いている小さな花にでさえ心動かされることはなかったのに、今ではこうして星が綺麗だと思えている。
 生きる理由を失ったのに、まだ心は生きている。
 ――それが、妙に不思議だった。

「おい」
「?」

 呼びかけられ視線をずらせば、僅かに戸惑ったような表情をした我愛羅が目に入る。

「何故、泣いている」
「……泣いてる……? 私が?」

 問いかけられた言葉が理解出来ず、瞬きながら目尻に触れてようやく気付く。確かにそこは濡れ、反射的に瞬けば新たな雫が肌を滑る。

「泣いてるの? 私」
「だから聞いているんだろう」

 困ったように眉間に皺を寄せ、躊躇うように視線を泳がせる我愛羅にサクラはそう、と呟く。

「まだ、泣けるんだ」

 木の葉丸たちを裏切ったのだと暗に示した時。モエギに助けを求められたのに応えられなかった時。この瞳から、涙は出なかった。
 それなのに何故今頃になって――何故今になって、こうして星を見上げながら留まることなく涙が溢れてくるのか。不思議で仕方なかった。

「女。何故、泣く」

 ベッドの端。座ったまま問いかけてくる我愛羅にサクラは答えない。ただ星を見上げ続けていた。
 そのまま暫く沈黙を貫いていたが、再度問いかけられ、ようやくかさついた唇を開いた。

「綺麗だから。綺麗だから、泣くの」
「?」

 意味が分からない。そうありありと表情で訴えてくる我愛羅に視線を向けぬまま、サクラはただ輝く星を見上げ続ける。

「星が、綺麗だから。だから、泣くの」

 私とは違うから。私と違って、綺麗だから。

「綺麗だったら、泣くのか?」

 戸惑うように問いかけてくる我愛羅に僅かに顎を引き、もう一度「うん」と頷く。

「……そうか」

 自分と違って星は誰かを裏切ったりしない。誰かを傷つけたりしない。いつまでも美しく輝き、人々を照らし、守り、見つめる。
 自分には出来ない。自分とは違う。仲間を裏切った、汚れきった自分とは違う星が羨ましくて、サクラは泣いていた。

「お前の言うことは、時々……分からない」

 困ったような我愛羅の声音に少しばかり笑いそうになったが、結局笑うことなくそのまま星を見上げ続けた。はらはらと零れ落ちてくる雫はサクラにも、当然だが我愛羅にも拭われることなく落ちていく。
 だが我愛羅はサクラを拒絶しなかった。いつまでもそこに横たわり、涙するサクラを疎むことはしなかった。
 それが哀しい位に有難く、苦しいくらいに切なかった。

 ――どうして拒絶しないの? 私が嫌じゃないの?

 問い掛けたくても問いかけられない言葉は喉の奥に詰まったまま出てこず、ただ静かに呼吸を繰り返す。沈黙だけが広がる部屋の中に、気まずさは感じなかった。

「ねぇ」
「何だ?」

 時計が時を刻む音さえ忘れ、ただじっと夜空を見上げる。指一本動かすことすら億劫で、時が流れることさえ不思議だった。そんな中動いた唇は、我愛羅に“ここにいてもいいか”と問いかけていた。それはサクラが思っていた言葉とは、やはり違った言葉だった。

「……好きにしろ」

 だが我愛羅は、またしても拒絶しなかった。ただありのままのサクラを受け入れ、首肯した。
 星が美しいからと言って泣く、理解出来ない女を。

 その優しさが、不器用さが、サクラの涙をまた増やした。

 夜は静かに時を刻み、星々はいつまでもそんな二人を見下ろしていた。朝日が昇り、自分たちの姿を隠すその時まで。ずっとずっと、ただ不器用な二人を見下ろしていた。