長編U
- ナノ -

思惑 -03-



 サクラが我愛羅に宝石を貰う前――。つまり我愛羅が長期任務に出る前の事だった。
 その日サクラは病院勤務であったが、急遽サソリから『製薬の手伝いに来い』と要請が来た。人手が足りなくなったらしい。それを受けたサクラは一度戻り、改めて用意を整え施設に向かうところだった。

 その時だ。居間で新聞を読みふけっている我愛羅に気が付いたのは。

 テマリたちが時折アカデミーに臨時講師として出ている間、我愛羅は単独で任務に出ていたり休日だったりと様々だ。その日は偶々休日だったのか、数人掛けのソファーに腰かけ新聞を広げていた。

(ビックリしたぁ。あの人が自室から出てるところなんて初めて見たかも)

 基本的に我愛羅は部屋から出てくることがない。あるいは一日中外出しているかのどちらかだ。それもあって余計に驚いたのだが、今は出かける旨を伝えなければならない。そう考え我愛羅に声を掛けようとし――固まった。

(え?! 嘘……。この人、寝てる?)

 僅かに上下する体と、閉じられた瞼。机の上に広げられた新聞はそのままに腕を組み、僅かに首を傾け寝入っている姿を凝視する。

(確かサソリは一尾を封印された人柱力は不眠症になるって言ってたけど……。あれは誤りだったのかしら?)

 医忍の免許を取り、砂隠の額当てをつけて出勤したサクラにサソリは「これでお前も砂隠の一員だな」と言って不敵に笑った。
 どうやらサクラが正式に製薬出来ることが有難かったらしい。実質医忍以外で薬を調合できるのは毒を扱う傀儡部隊だけだ。だがそれでも他の傀儡師とは違う、飛び抜けた知識と技能を持つのはサソリだけである。
 カンクロウもそれに続く傀儡師になるよう日々修行してはいるが、サソリから言わせればまだまだひよこのひの字にも至っていないとのことだった。
 そんな最高潮に機嫌のいいサソリから正式に砂隠で作られている薬の一覧表を受け取り、あれこれと知識を伝授されている時に聞いたのだ。

 いつか聞けなかった、尾獣の話の続きを。

『尾獣にもそれぞれ特性があってな。確か一尾は精神を乗っ取ると聞いたことがある。だから一尾の人柱力は寝ている間に体を乗っ取られないよう、常に起きている必要がある。だから皆不眠症になるんだと』

 そう説いたサソリの言葉を反芻しながらも、我愛羅の穏やかな寝顔を見つめた。日頃能面のように表情筋が仕事をしない男だが、その寝顔は年相応に幼い。
 だがまじまじと眺めていられたのもほんの数秒だった。突然瞼が開いたのだ。
 サクラは咄嗟に悲鳴をあげそうになったが、寸での所で堪えて抗議する。

「おっ、起きてたならそう言ってよ! 狸寝入りなんて質が悪いわっ!」

 跳ねる心臓を押さえつけ、僅かに体を引いた体勢で吠えるように文句を言えば、目を開けた我愛羅は視線だけをサクラに寄越すと珍しく笑った。

「ほぉ、よくオレ様が狸寝入りの術を使っていると気付いたな。なかなかやるじゃねえか、嬢ちゃん」
「……は?」

 普段とは違う、ファンキーで砕けた口調にサクラの目が点になる。
 思わず「あんた誰」と不躾に呟くサクラの前で、我愛羅の濃い隈に縁取られた瞼が楽しげに細められる。

「オレか? オレは“我愛羅”だよ」
「嘘。だってあの人、そんな風に笑わないもの」

 それにそんな妙な話し方もしない。
 心中で付け足すサクラに我愛羅の姿を借りた何者かはくつくつと喉の奥で笑い、肩を揺らす。

「まぁそれもそうだな。嬢ちゃんは案外コイツのこと見てんだな」

 笑う我愛羅の不気味さもさることながら、やけにサクラのことを知っている風な何者かに嫌な汗が浮かぶ。
 もし敵だとしたら。もし襲い掛かられたとしたら。無事でいられる可能性は少ない。

 確かに木の葉を裏切ったまま生きるのも嫌ではあったが、そう簡単に死を受け入れられるほど心は死んでいない。
 あまりにも危険な状況をどう回避するか頭をフル回転させていると、我愛羅の格好をした何者かはようやく笑いを抑え、再びサクラへと視線を合わせた。

「簡単に言やぁオレはもう一人のコイツさ」
「もう一人の?」

 多重人格ということだろうか。だがそんな話、誰にも聞いたことがない。しかし本人がそう言うのであればそうなのだろうか。
 訝るように目を細めれば、もう一人の我愛羅を名乗る男は「おう」と頷き、口の端を再び上げる。

「オレ様の名前は“守鶴”」
「守鶴……?」

 サクラはその名に聞き覚えがあった。サソリがサクラに教えた一尾の名前が“守鶴”であった。

(もしかして、これが一尾の?! じゃあ今彼は一尾に意識を乗っ取られてる状態ってこと?)

 逸る心臓が落ち着かぬまま最悪の事態を想像するサクラに、守鶴は「そう硬くなるなって」と笑い、視線を天井へと向ける。

「言っておくが、オレ様はこれ以上動けねえ。我愛羅が起きちまうんでな」
「どういうこと?」

『起きる』ということは、意識を乗っ取ったとしても我愛羅に奪い返されるということだろうか。考えるサクラに守鶴は「そうだなぁ」とどこか呑気にも聞こえる声で呟く。

「嬢ちゃんはオレ様のこと知らねえからなァ」
「……少しだけなら、知ってるわ」

 サクラの返事にほう、と興味を示したような声が返される。
 我愛羅の姿をした守鶴に対し違和感を抱きながらも、サソリから聞いた情報を掻い摘んで口にすれば、守鶴は上等だと笑った。

「オレ様を一尾だと知っているなら話は早え。基本的に我愛羅が狸寝入りの術を使わねえと意識の入れ替えは出来ねえが、それでもコイツは人間だ。眠らずに生きていけるわけがねえ」
「でも、眠れないんでしょ? 彼」

 実際我愛羅には尋常ではない程の濃い隈が出来ている。幾ら並外れたチャクラを持っていたとしても睡眠や休息というものは必要だ。
 しかし我愛羅の体躯から見ても決して満足な休息がとれているとは思えなかった。

「まぁな。確かにコイツはよく起きてる方だ。だがな、人間っつーのはどうしても瞬間的に“落ちる”時がある」
「その僅かな時間を狙って意識を入れ替えるの?」
「飲み込みが早くて助かるぜ」

 笑う守鶴の言い分は最もだ。どんな人間でも必ず意識が落ちる瞬間がある。そうでなければ脳が休まらず情報の処理が上手くいかないからだ。加えて身体の発育にも影響が出る。

(だから彼の体って年の割には著しい成長の兆しが見られないんだわ。身長も私と殆ど変らないし、肉付きも悪い。足も同年代に比べて大きくないわ)

 これも全て尾獣のせいなのかと思うと妙に遣る瀬無い気持ちを抱くが、それでも自分には関係ないことだと頭を振る。
 サクラにとって我愛羅は憎むべき相手なのだ。例え今は厄介になっている身だとしても、いつかは此処から逃げ出さねばならない。

(私は砂隠の忍なんかじゃない。木の葉の忍なのよ。例え木の葉で死んだ者として扱われていたとしても、私は里を、捨てたくない)

 葛藤するサクラに気付いていないのか、守鶴は「そろそろ我愛羅が起きちまうな」と呟くとサクラに声をかけてくる。

「おい嬢ちゃん。オレ様と取引しねえか」
「取引?」

 俯けていた顔を上げたサクラに、守鶴は応と頷く。

「嬢ちゃんには我愛羅と仲良くしてほしいんだよ」
「何で私が!」

 声を荒げるサクラに守鶴は「まぁ聞けよ」と口の端を上げる。

「本気で仲良しになる必要はねえ。我愛羅の“心の隙間”に入り込んでほしいんだよ」
「心の、隙間?」

 つまり弱みを握れということなのだろうか。
 そう解釈するサクラに、守鶴は「そうとも言うな」と頷く。

「今の所我愛羅は嬢ちゃんに対して他の奴等ほど警戒はしてねえ。風影や姉兄に対する疑心は強くとも、嬢ちゃんのことはそこまで疑ってはねえよ」
「どうして? どうしてそんなことが言えるの? だって私はこの間まで他里の、それも敵側である木の葉の人間だったのよ? 確かに捕虜の身なのは変わらないし、逆らうことなんて出来ないけど……。でも、彼が私を信じる理由にはならないわ」

 守鶴の言葉を否定するサクラに、守鶴は落ち着いた声で「表面上はな」と答える。

「だが嬢ちゃん、我愛羅の怪我のこと心配しただろ」
「火縄銃で撃たれた足のこと?」
「ああ。人に優しくされたことなんてない奴だからな。ちっと絆されてんだよ、コイツ」

 まぁほんの少しだけどな、と補足する守鶴に口を噤む。
 他人に優しくされたことがない。だから人を信じることが出来ない。
 我愛羅の幼い頃から確立されたシステムに、いかに我愛羅がこの尾獣のせいで酷い迫害を受けてきたかが窺える。だが同情はしない。そんなことをすればあの夏の日に散った幾つもの命に申し訳が立たない。

「だからコイツは嬢ちゃんの言葉なら多少は受け入れることが出来る。多少だがな」
「だけど“塵も積もれば山となる”。そう言いたいのね?」

 例え今は僅かでも、それが重なれば我愛羅から信用を得ることは可能だろう。そう言いたいのだろうと守鶴に確認を取れば、再度「話が早くて助かるぜ」と守鶴は上機嫌に笑った。

「でもあなたが私に何を返してくれるっていうの? 木の葉に戻してくれるわけでもないんでしょ?」

 大体守鶴にどんな能力が備わっているのかサクラは知らない。だからこそあまりリスキーな賭けはしたくなかった。
 何せ胸に刻まれた死の呪印がある。裏切れば即座に命を蝕むこの呪印は、サクラにとって今最も重い枷であった。

「呪印が気になるか?」
「ええ。それに、木の葉の皆を殺される可能性もあるわ」

 サクラが裏切れば自身ではなく周りの者が殺される。自害しようとしても決して許してはくれないだろう。
 そしていつまでもサクラを砂隠に拘束するつもりなのだ。この里の忍達は。

「呪印なら解いてやるよ」
「え。出来るの?!」

 驚くサクラに守鶴は「まぁな」と答えるが、すぐさま「今は無理だけどな」と付けたし落胆させる。

「解呪しようにも、これ以上チャクラを流せばコイツが目覚めちまう」
「じゃあ、」

 意味ないじゃない。そう続けようとしたが、守鶴は「だからだよ」と笑う。全く以って意味が分からない。

「だから嬢ちゃんは我愛羅に近付いてくれればいい。そうすれば根が甘ちゃんなコイツは自分から嬢ちゃんの呪を解くぜ」
「でも、そんな保証どこにもないわ。それに彼が私を受け入れるだなんて、それこそ信じられないもの」

 己の首を絞めた男だ。そして目の前で仲間を殺した男だ。ましてや他人を信じられない我愛羅が反抗した女を信用するとも思えない。余りにも分が悪い賭けだ。簡単に乗ることは出来ない。

「おいおい。嬢ちゃんは忍だろ? それぐれえどうにでも出来るだろ。他人を欺くことなんてよぉ。それとも何か? 嬢ちゃんがいた木の葉では他人を騙す術は教えてくれなかったのか?」
「それは……」

 忍は何も戦う事だけが仕事ではない。諜報活動も情報操作も立派な仕事の一つだ。それには必ず他人を騙す技術がいる。
 周囲の人々を上手く騙し、信用を得ているからこそ嘘の情報を流しても信憑性が出るのだ。それが出来なければ一流の忍とは呼べない。

「嬢ちゃんも忍の端くれだろ? お医者さんごっこが楽しくて忘れちまったか?」
「バカにしないで。私だって立派な忍よ。彼の信用を得るぐらい出来るわ」

 売り言葉に買い言葉。
 それぐらい分かっていた。それでもサクラは木の葉の誇りをこれ以上失いたくなかった。

「嬢ちゃんが我愛羅の懐柔に成功したら、コイツは自ずと嬢ちゃんの呪印を解く」
「でも、それだと取引にならないじゃない」

 訝しむサクラに守鶴はにんまりと口の端をあげる。その笑みは化狸というより化猫に近い、酷く愉しげな笑みだった。

「嬢ちゃんはコイツが嫌いだろう? 憎くて憎くてしょうがないだろう? 何せ目の前で仲間を殺されたんだからなぁ」

 嫌な記憶を呼び起こすような、それでいてサクラの胸の内を読んだかのような言葉に睨むように視線を送る。途端に守鶴はくつくつと肩を揺らして笑い、サクラは益々眉間に皺を刻む。

「嬢ちゃんにしか出来ねえんだ。殺すことが出来なくてもいい。油断した我愛羅に一太刀浴びせてくれればそれで十分だ」
「無理よ。私にそんな力はないわ。それに彼の絶対防御だって――」
「そんなもんオレ様の力でどうとでもなる。殺す必要はねえ。我愛羅に向かって刃を向けるだけだ。それだけでも十分効果がある」
「どういう意味よ」

 刃を向けたところで怯むような男には見えない。そう思ったことが分かったのか、守鶴は笑みを浮かべたままサクラを見つめる。

「大事なのは“仲良くなった”と思った嬢ちゃんに“裏切られる”ことだ。それさえあればコイツは自我を失って暴走する」
「暴走したら、どうなるのよ」

 ――守鶴が暴走すれば里は滅びるだろう――。
 サソリから教えられた言葉が脳裏をよぎる。そうなればサクラも死んでしまう。

「安心しろ。嬢ちゃんだけは取引相手だから助けてやるよ」

 “殺されるかもしれない”と顔に出ていたのだろうか。守鶴はサクラにそう告げてから改めて「どうする」と問いかける。

「此処の連中が全員死ねば嬢ちゃんは無傷で逃げられるうえ追っ手も来ない。その上他里の情報を持ち帰ることが出来る。加えて今の木の葉からして見りゃ他里を壊滅させた英雄だ。これ以上いい条件はないだろう?」
「…………」

 守鶴の言うことには一理ある。
 もしこの取引が成立し、我愛羅の心の隙間に上手く付け入ることが出来れば――胸の呪印も解かれ、体の自由が確証されたならば――その後は守鶴に任せて逃亡すればいい。
 この地に住まう、木の葉の敵である忍たち全員の命と引き換えに。

「……分かったわ。その取引、受けましょう」

 サクラの答えに満足したのか、我愛羅の体をした一尾の化物はにたりと嗤う。
 心の奥底から愉しげな、純粋な悪意に満ちた子供のような笑みだった。