長編U
- ナノ -

思惑 -01-



 ラピスラズリの宝石が輝く。
 朝日を浴びて光るその宝石を、サクラはベッドの中でぼんやりと眺めていた。


「おはようございます」

 まだどこか呆っとする頭を押さえながら階段を下りる。しかしいつもなら返ってくる声が一つもない。しんと静まり返った部屋に人の気配はなく、ふと首を傾けてから思い出す。
 テマリから『朝から仕事がある』と聞かされていたことを。
 捕虜として連れてこられ、砂隠の忍として認められた今も風影には「監視が外れることはない」と説明されている。にも拘わらず今はサクラ一人しかいない。果たしてこれは信頼からくるものなのか、それとも単なる不用心なのか。判断に困りながらも一先ずは洗面所に立ち、身なりを整える。

 今日から暫くの間サクラは夜勤だ。それもあって久方ぶりにのんびりと朝寝坊をしたわけだが、考えてみれば自分自身も十分気が抜けているではないかと愕然とする。

(それだけこの生活に慣れてきた、ってことかしら。それがいいことなのか悪いことなのか……)

 木の葉を思えば決して喜ばしいことではない。だが少しでも敵の目を欺くために慣れ親しんだよう振舞うのも忍としての仕事だ。
 だが本当にこの「慣れ」は演技なのかと聞かれたら、正直難しい。

 人は順応する生き物だ。どんな立場であろうと、どんな境遇であろうとも。
 時が経てば経つごとに元の自分がすり減っていく。存在が消えていく。
 本能的に粟立つ肌を両手で擦って落ち着かせ、これ以上深く考えないよう意識を切り替える。

(そういえば、あの人もテマリさんたちと一緒に出てるのかな? だとしたら本当に不用心だけど……。でも、あの人たちがそんなミスするかしら?)

 砂隠は良くも悪くも堅い性格をした人間が多い。それに幾ら「砂隠の忍になる」と口では言っても心は未だ木の葉にある。
 胸の呪印が命を脅かしているため逃げ出すことは出来ないが、今でも故郷へ帰りたいと毎日のように考えているのだ。

(悔しいけど、今は焦るべきじゃないわ。我慢して耐える時よ)

 サクラは逸る心を落ち着けるためにも深呼吸し、少し早くなっていた脈を整える。

(この家にずっといるから変なことを考えるんだわ。今日は図書館にでも行ってあの人に貰った宝石の事でも調べよう)

 一先ず夜勤に行くまでの予定を立てる。時計を見れば朝食と呼ぶには聊か遅いが、昼食も兼ねて何かを作ろう。そう考えなおし、改めて台所へと向かう。
 しかしそこに立っていた思わぬ人物に足を止めた。

「……いたのか」
「う、うん。おはよう」

 シンクの前に立ち、皿を洗っていたのは我愛羅だった。その見覚えのある食器に視線を移し、食べてくれたのかと正直驚く。
 何せ我愛羅は自分で作ったものしか口にしない。ダメもとで出したとはいえ、それでもサクラが作った料理を口にするとは思わなかった。
 感慨深い、というのだろうか。この複雑な気持ちは。しかし目に見えて喜ぶのも妙なので、一旦この感情については隅に置く。

「その、料理、食べてくれたの?」

 何か会話の糸口を探したが、生憎何もない。結局はストレートな物言いとなってしまった。それでも物理的な距離だけは詰めすぎず、かといって離れすぎない位置で止まる。
 我愛羅はそんなサクラから視線を外し、濡れた手で蛇口を閉めた。

「……どうせ戻す」

 胃には入れたものの、いずれは吐いてしまうということだろうか。それでもサクラは「よかった」と胸をなでおろした。

「口に合わなかったらどうしよう、って思ってたから」
「……お前が作ったのか?」

 僅かに目を丸くした我愛羅の――珍しく“驚いた”と分かる表情を見返しながら「ええ」と頷く。
 昨夜食卓に並べたスープはサクラの手製である。

「味付けは木の葉よりだったからどうかな、って思ったんだけど……」

 料理自体得意ではないが、それでも母親が不在の時は自炊をすることもあった。失敗ばかりで大した物は作れなかったが、それでも食べられないものでもない。
 ただ砂隠とは味付けが異なる。初めはテマリもカンクロウも食べ慣れない味に妙な顔をしていたが、結局は『国が違うから味覚も違うんだろう』と結論付けた。
 それを掻い摘んで話せば、我愛羅は暫し瞬いた後に「そうか」とだけ呟いた。相変わらず会話が続かない男である。

「それより、朝ごはんはどうしたの? テマリさんとカンクロウさんはもう出たみたいだけど」

 我愛羅がいると分かっていたから二人はサクラを家に残したのだろう。サクラを脅すことも殺すことも躊躇しない男なのだから当然の判断だ。
 それに幾らこの家で過ごしたところで我愛羅を理解出来たわけでもない。実際戸惑いを覚えることの方が圧倒的に多い。
 実のところ今も内心では緊張しっぱなしだった。

「これから作る」

 我愛羅はサクラの問いに端的に返す。その何を考えているのか分からない翡翠の瞳は基本的に相手をキチンと見ることはないが、今回は珍しくサクラを映した。
 サスケの黒水晶とも違う。ナルトの蒼天のような瞳とも違う。静かな水面のような、存外穏やかな色合いをした瞳だった。

「……お前は?」

 ――まさか我愛羅の方から会話を続けてくるとは。
 夢にも思っていなかったサクラは少々面食らったが、それでも驚いた様子は見せないよう「これから作るわよ」と答える。
 実際サクラの胃の中は空っぽだ。そろそろ腹の虫が鳴りだすかもしれない。幾ら惚れた男でないとはいえ聞かれたら普通に恥ずかしい。だから何としてでも腹の音が響く前に食事をする必要があった。

「ならば先に使え」

 サクラの空腹事情など知らない我愛羅ではあるが、共に作る必要もない。そう判断したのだろう。離れようとする我愛羅をサクラは咄嗟に呼び止める。
 正直その必要はなかったのだが、それでも我愛羅の足はサクラの呼びかけに答えた。

「捕虜じゃなくなったとはいえ、それでも私を一人でココに置いて行くつもり? 随分と不用心じゃない?」

 我愛羅を挑発するのは幾らか勇気が必要ではあったが、それでもサクラは試してみたかった。

 この男が自らサクラに向けて何かを発信している。

 そうでなければ唯我独尊を地で行く目の前の男がわざわざ宝石を渡してくるとは思えなかった。それに先程の、自ら会話を続けたことからもそれが窺える。
 例えそれがサクラの思い違いでもあったとしても、確かめない理由にはならない。

「……殊勝なことだな」

 我愛羅はサクラの言葉に暫し逡巡した後、そう呟いてから階段の方へと向けていた体を戻す。

「では見張ってやるから好きにしろ」

 そう告げて椅子に腰かけようとした我愛羅に、サクラはもう一言、と内心で緊張しながら乾いた唇を開く。

「あのさ、よかったら朝ごはん、一緒に作らない? あなたもどうせこれから作るんでしょ? だったら一緒に使った方がいいと思うの。具材も共有できるし」

 これは単に賭けだった。
 どこまで踏み込むことが出来るか。そしてどこまでこの男がサクラに近づいてくるか。
 それが知りたかった。

 問われた我愛羅はまるで『この世の生物とは思えない』と言わんばかりの目でサクラを見やってから、探るように目を細めて凝視してくる。
 だがサクラはいつもと変わらぬ調子で言葉を重ねた。

「だって包丁だって凶器よ? 例えあなたに一太刀浴びせることが出来なくても、自分でこの喉を掻き切ることぐらいは出来るわ」

 そう言って己の白い首を晒せば、我愛羅はそういうことかと言わんばかりに肩を落とし、椅子に掛けていた手を離す。

「貴様は妙な女だな……」

 悪態をつきながらも存外素直に隣に立った我愛羅を見遣り、サクラはほうと息をつく。
 疑いはされたが怒られることはなかった。
 正直いつかのように首を絞められる可能性もあったのだ。己の中に踏み込んでくるな。と、そう言って怒りの矛先を向けられる可能性は十分あった。
 だが我愛羅は疑っただけだ。それ以上も以下もない。ただ何かを諦めたような眼差しを一瞬見せたことが、やけに引っかかった。

「じゃあ早速作りましょう。あなたは何を作るの?」

 テマリたちがいない今、砂隠では貴重な鶏卵を使うことは憚られる。だが我愛羅はそれを一つ手に取り、ついでに野菜室から葉物の野菜を数種取り出す。

「炒り卵とサラダ」
「……だけ?」
「後は適当に野菜を炒める」

 話しながらも取り出した野菜をまな板の上に並べ、葉物を水に晒していく。
 その姿を横目で確認しつつ、サクラも野菜室から適当に選び、我愛羅の隣で同じように野菜を洗う。

(何か妙な気分ね)

 自分から言い出したこととはいえ、会話もなく我愛羅と隣に並び、尚且つ料理をするなど珍妙な事態に陥るとは思ってもみなかった。だがこれも自分から言い出したことだ。黙々と野菜を洗っていると、先に水切りを終えた我愛羅がそれを千切っていく。
 深めの皿に重なっていく葉野菜は瑞々しく、思わず「サラダもいいなぁ」と考えてしまう。
 サクラ自身は味噌汁でも作ろうかと思っていた。どうせテマリもカンクロウもいないならば、木の葉での食事を再現しても罰は当たるまい。

「って、ちょっと!」

 献立と手順を頭の中でおさらいしながら野菜を洗い終え、手に取ったじゃがいもの皮でも剥こうかと思ったところで目を見開く。
 どうしたと言わんばかりにサクラを横目に見る我愛羅の手には、水滴をつけたトマトが一つと包丁が握られている。だがその状態が悪かった。

「手、猫の手にしないと指切るわよ?」
「……は?」

 指先を伸ばしてトマトを押さえる我愛羅にそう教えてやれば、我愛羅は珍しく素っ頓狂な声を上げてサクラを見やる。

「だから、猫の手よ、猫の手。知らないの?」

 首を傾けつつもサクラが指を曲げて手本を見せれば、我愛羅は全く意味が理解出来ていないらしい。僅かに開いた口をそのままにサクラを見つめている。
 存外間抜けなその表情に頬が緩みそうになるが、ここで笑えば流石に怒られるだろう。

「何だ、それは」

 案の定知らなかったらしい我愛羅に、サクラは「だからね」と説明するために開いていた距離を一歩だけ詰める。

「具材を切る時指を伸ばしてたら危ないでしょ? だからこうやって指を曲げて、具材を押さえて切るのよ。そうすれば無駄に怪我することも無いでしょ?」

 目の前で説明してやりながらトマトのヘタを切り落とせば、我愛羅はそれこそ猫のような瞳を数度瞬かせてから僅かに反らせていた上体を元に戻す。
 何故そんな体制になっていたのかは分からないが、とにかくサクラは「覚えた?」と問いかけながら包丁を返す。

「初めは慣れないかもしれないけど、猫の手は料理の基本よ!」

 人差し指を立て、教師よろしく教授してやれば以外にも素直な様子で「そうか」と返事が返ってくる。だがその視線はすぐさま逸らされた。

「だが切ろうにも切れない。俺の体はそう出来ている」
「どういうこと?」

 首を傾けるサクラの前で、我愛羅は包丁をクナイのように握りなおすと、それを己の腕めがけて振り落とす。

「ちょっ――!」

 思わず声を荒げたサクラではあったが、目の前で起きた光景に先が続かなかった。

「……俺の体は常に砂で守られている。この程度の道具では傷つけることなど出来ない」

 我愛羅が振り下ろした包丁の先端は、溢れる砂に受け止められそれ以上の侵攻を阻まれていた。
 あまりにも信じがたく、常人離れした光景に暫し言葉が紡げない。それでもサクラは覚悟を決めたように口を引き結び、その手を取る。

「でも、何かあればあなただって怪我をするわ。この間の火傷のように」

 常に我愛羅を守っている砂ではあるが、それでも時には守りきれぬ時がある。撃たれた足も、負った火傷も、全て砂の防御が我愛羅への侵攻を許した結果だ。それを忘れたとは言わせない。言わせたくない。
 だからこそサクラはまっすぐと、驚き固まる男の目を見つめながら言葉を重ねる。

「だから教えるのよ。もうあなたが怪我をしないように」

 例えそれが医忍としての義務であったとしても――。いや、義務であるからこそ伝えなければならなかった。
 木の葉の忍としてではなく、今は砂隠の忍として。ここに上手く紛れ込むために化けの皮を一枚被っておかなければならなかった。

 ――我愛羅の目を、少しでも欺くために。

「……そう、か……」

 サクラの言葉に何を思ったのか。
 我愛羅は翡翠の瞳を揺らした後、静かに瞼を伏せる。そうしてサクラが教えた通り――不慣れな様子ではあったが――指先を丸め、トマトを切り出した。

「やれば出来るじゃない」

 からかうようにそう言って笑ってやれば、我愛羅は少しだけ目を細め、小さな声で「そうか」とだけ呟いた。