長編U
- ナノ -

人 -05-



 任務から戻ってきた我愛羅を迎え入れたのは、その日たまたま勤務入れ替えで休みになったサクラだけであった。
 だが久方ぶりに姿を見せた我愛羅の足取りは――常ならば他人を容赦なく置いて行くほどに早いのだが、今は大層な重石を背負っているかのように遅かった。もしや怪我をしているのではないかと危惧したが、聞けるような雰囲気でもない。

「あの、」

 だがサクラは医者だ。確かにこのまま話しかけずそっとしておいた方がいいような気もしたが、火傷の事が気になっていた。これを逃せばまたいつ顔を合わせられるか分からない。だからこそ意を決して声を掛ければ、亀のように遅かった歩みがゆっくりと止まる。

「……何だ……」

 振り返らぬまま答える我愛羅の背からは色濃い拒絶の色が漂う。
 それでもサクラはぐっと拳を握りしめ、その威圧に耐えると潔く謝罪した。

「ごめんなさい! あなたが長期任務だったなんて知らなくて……薬を渡さないまま任務に送り出してしまったわ」
「……別に……もういい。治った」
「え?」

 振り返らぬ我愛羅の背を見つめるサクラに、我愛羅は僅かに腕を掲げる。そこにはまるで、初めから火傷なんてなかったかのように傷一つない手の平があった。

「そ、そう……。えっと……よ、よかったね?」

 とりあえず安心したと胸を下すサクラではあったが、我愛羅は何も言わず自室へと続く階段を上って行く。相変わらず無愛想な男だと張っていた肩を下したサクラではあったが、すぐさま誰もいない階段を見上げ胸の前で手を握りしめる。

「――血の、匂い」

 普段から血の匂いを漂わせ、重い足取りで歩く我愛羅は死神のようだと常々思っていた。だが今日の我愛羅は、むしろその死神に魂を刈られた亡者のようであった。

「何かあったのかな……」

 今にも喉元を掻き切って死んでしまいそうなほど憔悴していた。だがこれ以上深追いする必要も義理もないのだと自身に言い聞かせ、階段から目を逸らす。

(例え怪我を負っていたとしても風影がサソリさんを派遣するだろうし、私に出来ることなんて何にもないわ。あの人無口で何考えてるか分かんないし……。あーあ、一週間悩んで損しちゃった!)

 火傷の件で反省していたサクラではあったが、あれだけ綺麗に治ったのなら問題ないだろう。サクラは心配事が一つ無くなり、グッと腕を伸ばしたところでふと気付く。

(でもあれだけ酷い火傷だったのに……。たった一週間でかさぶた一つ残らず完治するなんて可笑しいわ。もしかして、あれも尾獣の力なのかしら)

 振り返った先には誰もいない。ただ無言の空間が広がっているだけだった。
 サクラは暫しそこを見つめた後、意を決し階段へと足を掛ける。だがすぐに背後から「ただいまー」と声がかかり、慌ててそこから離れた。

「お、おかえりなさい、テマリさん!」
「ただいま、サクラ。どうだ? 我愛羅は戻って来たか?」

 背負っていた鉄扇を下し、ぐるぐると肩を回すテマリにサクラはええと、と言葉を濁す。

「その、帰ってはきたんですけど、いつも以上に“話しかけるなオーラ”がすごくって……」
「ああ……。任務帰りのあの子はいつもあんな感じさ。サクラが気にすることはないよ」
「そ、うですか」

 それにしても普段とは違う――それこそ天と地ほど差があるように感じたのだが、長期任務明けはいつもああなのかもしれない。ならば自分もそれほど気にする必要はないのかと思い直し、改めてテマリに向かって「夕飯何にしましょうか」と話しかける。
 そうして二人して夕餉の準備を始めると、もう一人の住人が帰ってくる。

「ただいまじゃーん」
「ああ、おかえり。カンクロウ」
「おかえりなさい、カンクロウさん」

 いつものように傀儡を背負い、「あ〜、疲れた〜」と喚くカンクロウにテマリが「はいはい」と呆れた声を返す。それに対しカンクロウが文句を言い、テマリが適当に受け流す。そんないつも通りの空間で夕飯の準備をし、出来上がったところでサクラは階段を見上げた。

「私、一応声かけて来ますね」

 我愛羅は自分の食事は自分で用意する。そのためテマリたちが台所を使い終えたらそれを伝えるのが暗黙の了解だった。だがいつもならテマリかカンクロウが率先して我愛羅に声を掛けに行くのだが、「今日は必要ないだろう」とテマリは首を横に振る。
 どうやら長期任務明けは必ずと言っていいほど食事に手をつけないらしい。
 それでも年頃の男が飯を食わないのはよくないことだ。サクラは「念のためですから」と告げ、階段を駆け上がる。

「あの、我愛羅くん?」

 締め切られた扉の向こう。いるはずの男に声を掛けるが返事はない。それでもサクラは気にすることなく台所が開いたことを伝えると、一度深呼吸をした。

「だから、それだけ。じゃ!」

 家の中でじゃあ、と言うのもおかしな話だが、他に言いようがなく、咄嗟にそう口にして階段を駆け下りる。我愛羅をよく知る二人からは「返事すらなかっただろう」と揶揄されたが、サクラは苦笑いするだけに留めた。

 だがその後、二人が言った通り幾ら待てども我愛羅が部屋から出てくることはなかった。
 思わず階段を見つめるサクラに二人は「ほらな」と諦めたように口にしてからその肩を叩く。

「だから言ったじゃん。我愛羅は長期任務の後は機嫌が悪いから降りてこないって」
「そうそう。まぁ今不景気だしな。長期任務って内容が濃い割に金額が見合わなかったり、予め与えられていた情報より過酷なものも多いから、きっと休んでるんだろうよ」
「そう、なんでしょうか……。怪我とかしてないといいですけど……」

 火縄銃と火傷の件がある。医者として心配するサクラにカンクロウは「大丈夫じゃね?」と階段の方へと視線を投げる。

「我愛羅は基本戦じゃねえと怪我しねえし」
「まぁ、もし本当に怪我を負っていたとしても親父がサソリを使って診察させるさ。私たちはサポートに徹すればいい」
「……そう、ですか……」

 今まではそれが当たり前だったのかもしれない。我愛羅が怪我をしても自分たちは何も出来ず、サポートに回るのみだと。怪我の有無や内容についても風影の命を受けてから動くサソリ経由でしか聞けないのが普通なら、自然とそういう考えになっても可笑しくはない。
 だがサクラからしてみれば、それはとても悲しく寂しいことのように思えた。

 だって血の繋がった家族なのだ。例えその仲が上手くいっていなかったとしても、もっと関心を持っていいような気がする。特にサクラは普通の、忍の中でも一般的な家庭で育ったからだろう。だからこそこの家族の有りようは異質に感じた。それに――

「でも……なんだか……」

 ――今日の彼は、とても寂しそうだった。

 サクラはそう感じはしたが口にすることは出来ず、テマリに促されるまま後片付けのため席を立つのだった。


 ◇ ◇ ◇


「……やっぱり。ご飯食べてない」

 片付けを終え、テマリと共に風呂に入ってから一度部屋に戻ったサクラではあったが、中々寝つけず結局台所に下りて我愛羅の姿を探した。
 だが以前のようにそこで手を洗う姿はなく、またサクラたちが使い終わった食器以外見当たらない。風影は現在国の方へと会議に出ており不在だ。だからこそ食事を摂ったかどうかはすぐに分かる。
 サクラはどうしたものかと思い悩むが、結局気になって眠れなかったのだから、と僅かに残っていたスープを温めなおす。

「あの、我愛羅くん? 起きてる?」

 コンコンと扉を二度ノックするが、返事はない。
 それでもサクラがもう一度声を掛ければ、僅かに身じろぐ気配がする。サクラはどこか緊張しつつも、久方ぶりに脳内で「しゃーんなろー!」と叫び、気合を入れた。

「起きてるなら入るわよ」

 もしかしたら砂で拘束されるかもしれなかった。だがそれでも構わないとドアノブに手をかけ、そっと回して中を伺う。

「何だ、やっぱりいるじゃない」

 案外すんなり開いたドアの先には、窓際のベッドに体を横たえた我愛羅がいた。だがサクラには背を向けており、その表情を伺うことはできない。
 いつも背負っている瓢箪は壁に掛けられている。栓もされており、砂が飛び出してくる様子はない。そのことにサクラは無意識に安堵した。
 どうやらあの夏の日の再現にはならずに済んだらしい。

「晩御飯食べてないみたいだったから……と言ってももう夜食の時間だけど。何も食べないよりはマシだと思うわ」

 サクラが用意したのは自身が作った野菜のスープと、我愛羅の分にと取っていたパンだった。
 もしや足りないかもしれないとも思いはしたが、少し眠ればどうせ朝になるのだ。足りない分は朝食で補ってもらえばいい。

「温めておいたから、冷めないうちに食べてね」

 返事をしない我愛羅に怒ることはせず、サクラは机の上にトレーを乗せてからドアに向かって歩きだす。そして入ってきた時同様ドアノブに手をかけ、廊下に足を踏み出そうとした――その瞬間。我愛羅に「女」と呼ばれ、振り返る。

「何?」

 呼び止めたくせに口を開かない我愛羅に首を傾けつつ、それでも根気強くサクラは待った。
 本音を言えば「用が無いなら戻るわよ。おやすみ」と言って扉を閉めて自室に戻りたかったが、どうしてだか今の我愛羅を放っておいてはいけない気がしたのだ。例え憎いと思っていたとしても、その思いを向けるのは何故だか憚られた。

「…………宝石は、好きか?」
「……は? 宝石?」

 我愛羅の口からもたらされた意外な言葉に驚くが、本物を見たことがないサクラはうーんと悩む。確かに実物をこの目で見たことはなかったが、それでも大層美しいものだと聞き及んでいる。だから「見たことはないけど綺麗なものは好きよ」と言葉を濁して答えれば、我愛羅はサクラに背を向けたまま何かを放り投げてきた。
 反射的に受け止めたそれは、丸い形をした群青色の鉱石だった。

「やる。俺には不要な物だ」
「え? いいの? 何だかとても高そうだけど……」

 僅かに零れてくる月の灯りを頼りに、手の平に収まる小さな宝玉を改めて掲げ見る。それは滑らかな丸みを帯び、月の光を柔らかく反射させ、星屑のような金色をキラリと瞬かせる。

「構わん。俺が持つよりお前が持った方が遥かに意味がある」
「意味?」

 宝石が持つ固有の意味だろうかと首を傾ける。しかし我愛羅は「それ以上話す気は無い」とでも言わんばかりに身じろぐだけだった。

「……ありがとう。大切にするね」

 暫し言葉に悩んだサクラではあったが、結局深く問い質すことはしなかった。代わりに当たり障りない礼を述べてから「おやすみ」と囁く。
 分かってはいたが返事はなく、サクラはどこか残念な気持ちになりながらもそっと扉を閉める。

「宝石って初めて見るけど、本当に綺麗なのね。まるで星空みたい」

 与えられた隣の部屋へと戻り、我愛羅から渡された宝石を改めて空に掲げて眺めてみる。
 何かの装飾品だったのか、玉の一部に何かから取り去ったような跡がある。
 一瞬「窃盗品かしら」という考えが脳裏をよぎったが、実直な我愛羅がそんな卑怯な真似をするとは思えない。だからこそ謎でもあるのだが、聞けるような雰囲気でもなかった。

「でも私が持っていた方がいいって、どういう意味なんだろう」

 明日図書館に行って宝石の意味でも調べてこようかな、と名前も知らない宝石を夜空に溶かすように掲げる。

「――……綺麗……」

 我愛羅の土産にしてはあまりにも高価で不釣り合いな気もしたが、何故か目を離すことが出来ない。キラキラと瞬く黄金色は、サクラの翡翠の瞳を魅了して止まなかった。
 結局サクラは夜空を封じ込めたような深く濃い群青と、その中で煌めく星屑を寝落ちる寸前まで飽きもせずにただじっと、長い間見つめていた。

 その姿は奇しくも先程までの我愛羅と同じであった。
 我愛羅もただその宝石を眺めていた。還らぬ人を想いながら、火傷のことをずっと気にしていた誰かを重ねながら、その優しい光を眺めていた。

 何も知らないサクラはギュッと宝石を握り、穏やかな眠りに落ちていた。




第四章【人】了