長編U
- ナノ -

人 -04-



 ――遂に機はやってきた。

 今日は娘の容体も安定しており、当主の元にも急患が来ることはなかった。そんな虫の声さえ聞こえない夜、我愛羅はクナイを片手に男の枕元に降り立つ。
 先に与えられた情報だけでなく、我愛羅は潜伏中独自に男を調べ上げた。結果、男は内通者として様々な情報を売り、尚且つ違法とされる薬や事業にも手を出していた。娘の薬を手に入れるためとはいえ、男は国を裏切り人の魂を売ったのだ。
 確かに金に溺れた欲塗れの豚とは違う。娘を思う父親の心が間違った道を歩ませただけだ。だがそれでも、この男を許すほどこの国は甘くない。

「だがせめて、楽に死なせてやる」

 男の下で散々こき使われた我愛羅ではあったが、普通の人間よりも優れているためさほど苦ではなかった。流石に一人息子である嫡男の相手をしろと言われた時は困り果てたものだが、結局はその程度のものだった。

「怨むなら娘の病を怨むがいい」

 男の心臓と喉元目がけて正確にクナイを投げる。それは狙いから寸分外れることなく急所を撃ち抜いた。男は悲鳴を上げることも出来ぬまま首を飛ばし、血に塗れた頭部はゴロゴロと床を転がり、壁にぶつかって止まる。首のなくなった体からは血潮が噴水の如く溢れだし、小さな部屋を天井まで赤く染め上げた。
 嗅ぎ慣れたその臭いは噎せ返るように充満し、我愛羅の二つの肺まで満たしていく。だがやはり、幾ら嗅ぎ慣れているとはいえ好きにはなれない。
 昔のように血の臭いで興奮することもなくなった我愛羅は男の体からクナイを回収すると、濡れた刃を拭ってから次の部屋へと移る。
 転がった死体はそのままだった。

『おいおい我愛羅。何だよ、あっさり殺しちまいやがって。つまんねぇなぁ。もっと遊ぼうぜ』
(そんな暇はない。黙っていろ、この化狸)

 退屈そうに話しかけてくる獣の声に苛立ちながら、それでも辿り着いた部屋に音もなく体を滑り込ませる。そこには痩せた腹を見せながら眠る嫡男の姿があった。

「……すまない」

 タオルケットを蹴飛ばし、枕も明後日の方向に飛んでいる幼い子供の喉元にクナイを押し当てる。そうして額を押さえて首が動かぬよう固定すると、目覚める前にクナイをか細い喉に食い込ませ、薙ぎ払った。

「ぁっ、がっ……」

 痙攣する体からは父親同様に血潮が勢いよく噴き出す。
 腕や顔に飛び散った残骸を適当に拭い去り、転がった息子の頭を拾い上げ僅かに開いた瞼を閉ざしてやる。その頬は痩せこけており、髪も肌もかさついている。もし戦争など起きていなければもっと健康的な姿に育っていただろうに。
 小さな子供の躯は壊れたマリオネットのように力なく四肢を投げ出していた。

「あとは――」

 この家に母親はいない。娘と同じ病にかかり既に他界している。つまり、この家に残っているのはあと一人――。

 不治の病に侵された、あの娘だけだった。

 我愛羅は拾い上げた嫡男の首を丁寧に体の横に並べると、最後の部屋へと足を向ける。

『……殺らねえのかよ』

 辿り着いた部屋の前で、我愛羅は立ち止まったまま動かない。
 ここはこの家に残された最後の一人――不治の病に侵された娘がいる部屋だ。分かっている。任務は必ず遂行せねばならない。
 それでも、たった一週間。されど一週間。我愛羅は何度もここに通った。この部屋で、娘と何度も言葉を交わした。少ないながらも共に過ごした。
 陳腐な言葉ではあるが――我愛羅にとって、初めて“人と過ごした思い出”が詰まった部屋だった。

(任務は遂行する。それが俺の存在意義だ)

 懐に忍ばせていた、娘に無理矢理渡された宝石を指先で撫でる。滑らかな丸い形をした宝玉は娘を守る“お守り”にはならなかった。いや。その宝石を奪い、殺めるのが自分の役目なのだ。
 そう。我愛羅は今から彼女を殺す。
 己に対し恐れることなく接してくれた娘をこの手で――――殺さねば、ならなかった。

(俺は正真正銘、本物の――……“化物”、だな)

 握り締めた手の平はもう痛まない。
 騒ぐ砂を無理やり自身のチャクラで抑え込み、ゆっくりと薄暗い室内へと侵入する。灯りの伴わない部屋の中央では、設えられたベッドに痩せ細った娘が横たわっていた。

「…………」

 穏やかな寝顔は、しかしよく見るとやつれている。そして腕だけでなく首元にまで斑点は広がり、皮膚の大半が変色していた。それでも娘はよく笑い、よく喋った。
 そんな娘を見下ろしながら、我愛羅は当主と嫡男を手に掛けたクナイを強く握り締める。

『我愛羅。殺さねえのか?』

 腹の中から獣が問いかけてくる。どこか退屈そうに、どこか愉しむように。
 その声に苛立ちながらも奥歯を噛み締めていると、まるでその音を聞きつけたかのように娘の瞼が動く。

「ん……、しのび、さん……?」
「っ、」

 寝ぼけたような、少し掠れた声が娘の乾いた唇から零れ落ちる。咄嗟に一歩足を引いた我愛羅に、娘は目を開けぬまま口の端を穏やかに緩めて微笑む。

「やっぱり……。忍さんなのね」

 娘の言葉に答えられぬまま息を顰めてみるも、娘は気にした様子もなく話し出す。

「黙っていても分かるのよ。忍さんからは“悲しい匂い”がするから」

 ――それはきっと、今度こそ血の臭いだろう。

 だが娘はいつもと変わらぬ穏やかな声音で喋り続ける。

「忍さんはもう帰ってしまうの? 寂しいわ。私ね、まだ忍さんに話したいことがたくさんあったのよ。一緒に行きたかった場所も、食べたかったものもあるの。宝石もね、渡したものよりも、もっとずっと、ずっーと綺麗なものがいっぱいあるお店を、私、知ってたのよ」

 普段と変わらない口調に声音。そして表情に我愛羅は痛いほど手を握りしめる。それでも引いた足を、任務を遂行するためだけに前に踏み出す。
 もう片方の手でしっかりとクナイを握り締めながら。

「お嬢様……」

 喉の奥から振り絞るような声は酷く掠れ、情けなく震えている。
 それでも娘は気にした素振りは見せず、「やっぱり忍さんなのね」と言って笑う。

「どうか、どうかそれ以上はお止め下さい。俺はお嬢様を裏切ったのです。俺は、あなたの父君を、弟君を、手に掛けました」

 当主が言った通りだ。自分は金さえ払われれば誰でも殺す。そんな男だ。薄汚い、野良犬のような男なのだ。
 そう告白した我愛羅に、娘は穏やかに微笑む。一つも呼吸を乱すことなく、また一片の驚きも見せず。ただ横たわって我愛羅の言葉に耳を傾けていた。

「忍さん。私ね、知っていたの」
「なにを、ですか?」

 娘は指先にまで斑点が広がった手を僅かに持ち上げると、立ち尽くす我愛羅に向かって初めて本音を――ずっと隠していた心中を、言葉にする。

「私、この病が治らぬまま死ぬことを――私、本当はずっと、ちゃんと知っていたのよ」
「お嬢様……」

 か細い腕は既に変色し、斑点が腕中を覆っている。
 骸のように細いそれはすぐさま力なくベッドの上に投げ出され、艶を失った髪がくしゃりと枕の上で音を立てる。

「お母様がそうだった。どんなに有名なお医者様に見せても、どんなに珍しいお薬を飲ませても、治らなかったの」
「それは……」
「ええ。仕方のないことだったのかもしれない。でも、母は懸命に生きたわ。どんなに痛くても、苦しくても、体中に管を繋がれても。それでも、懸命に生きたわ」

 亡くなった母親の情報もある程度は揃っている。彼女の母親はこの不治の病を後世に知らせるために、治療法を見出すために敢えて投薬の実験体になったのだ。
 あらゆる知識を総動員し、あらゆる薬を使った。その度に苦しみ、時には血を吐き、それでも生きる希望を捨てずに闘った。だが――。

「母は、母の最期は、とても苦しそうだった。苦しみながら亡くなったのよ。血を吐きながら、泣きながら、痛い、って、声にならない声で叫んでた。だからね、忍さん。私、忍さんに命を預けることが出来るなら、それはとても幸せなことだと思うの」
「何をバカなっ!」

 自分は殺すのだ。命を預かるだなんて、そんな殊勝なことではない。あくまで自分は薄汚い忍であり、ただの殺戮者だと娘に教え込む。彼女の母親とは違うのだと、真逆の存在なのだと主張する。
 だが娘は「いいえ」と首を横に振ると、ようやく閉じていた瞼を開き、我愛羅を澄んだ瞳で見つめた。

「あなたは“化物”なんかじゃないわ。例え私たちとは違う“忍”という職業に就いていたのだとしても、れっきとした“人間”よ。だから、病に侵されて死ぬよりずっとずっとマシ」

 弱り切った体で話し続けたのが祟ったのか、咳き込む娘に咄嗟に伸ばしかけた腕をぐっと拳を握ることで我慢する。
 そのまま暫くの間娘が噎せる音を聞きながら、我愛羅はクナイを握った手を下すことも振りかざすことも出来なかった。宝石を貰った時と同じように、いつまでも中途半端なまま立ち尽くすだけだった。

「……お嬢様。あまり俺を買いかぶらないでください。俺は獣です。化物です。他者に疎まれ、兵器として働かねば生きていけない、ただの化物なのです」

 血を吐くような思いで娘の言葉を否定し、硬い寝台に乗り上げか細い喉にクナイを押し当てる。
 娘よりも年下だった嫡男と違わぬその細い首に、見慣れぬ斑点が広がる皺の寄った首に、我愛羅は奥歯を噛み締めながら凶器を押し付ける。

 それは命を奪う道具だった。それは彼女を殺す道具だった。
 にも拘らず、娘は取り乱すことなく突然笑い出す。

「うふふっ、忍さんはおかしなことを言うのね」
「?」

 喉が震える度に冷えた切っ先が肌を刺しているだろうに、どうして穏やかに笑えるのか。困惑する我愛羅の空気が伝わったのか、娘は「だって」と僅かに開けていた瞼をそっと閉じる。

「人を殺すのはいつだって“人”だけだもの。だからあなたは人でしかないのよ、忍さん」

 化物は人を殺すのではなく“喰らう”のだと言って笑う娘に、我愛羅は眉間に皺を寄せたまま言葉に迷う。

「お嬢様……。俺は、やはり化物です。俺には……――俺には、人の心が、分かりません」

 消え行く命を助けたいと叫んだサクラの気持ちも、己を遠巻きに見つめる姉兄の言葉無き視線の意味も、必要最低限のことしかコンタクトを取らない実父のことも、そして自分自身のことも。我愛羅には分からない。ましてや腹の奥底に巣くう化物の心など――そもそも心など存在しているのかどうかも分からない。
 何も分からない我愛羅は迷子になった子供のように、あるいは懺悔する罪人のように、首に押し当てたクナイを固定するように両手を重ねる。そうしてそこに額を押し当てながら、言葉を、思いを、ただ重ねていく。

 その姿は救いを求める罪人と呼ぶにはあまりにも不格好で、丸められた背は小さく頼りない。
 事実そこには木の葉の忍が、砂隠の皆が恐れる“人間兵器”と呼ばれる男の影はなかった。
 ただ己の人生にもがき苦しむ、十数年しか生きていない少年の姿しかなかった。

「お嬢様、俺は人には戻れません。もう何人も殺めてきました。血の臭いも取れないところまで来てしまった。そんな俺に、人の心など分かるはずがないのです」

 一体どれほどの血をこの身に浴びただろうか。
 己は既に人の域を超え、血を求める化物に成り下がったのではないかと思う時がある。血の臭いを嫌っているのは建前で、本当は心の底から血を求めているのではないかと、そんな化物になってしまったのではないかと思うことがある。
 現にか細い首に当てたクナイが震えることはない。例え声が震えたとしても、自分の腕は一寸の狂いもなく娘の首を刎ねることが出来る。その自信だけは確かにあった。それが――余計に胸を締め付ける。

「忍さん。私、あなたに言ったわ。あなたはとても“悲しい匂い”がすると。それは、あなた自身の匂いだったのね」
「ッ、」

 娘の細い指が伸ばされ、そっと我愛羅の頬を撫でる。
 力の入っていない指先はたどたどしく、けれど確かなぬくもりを持って我愛羅の肌に優しく触れた。

「ごめんなさい、忍さん。私はあなたを助けてあげることが出来ないみたい。でも、どうか泣かないで。あなたは決して化物じゃない。人との距離の測り方が分からないだけ。ただそれだけなのよ」
「それでも、俺は……ッ」

 震えないクナイは尚も娘の首に宛がわれたままだ。このまま真横に薙ぎ払えばいつだって首を飛ばせる位置にある。
 血を吐く心が子供のように泣きじゃくる。それでも“道具”として育てられた体は、一瞬たりとも揺るがなかった。

「忍さん。私ね、この一週間とっても楽しかったわ。沢山お話を聞いてくれてありがとう。本当に楽しくて、嬉しかったのよ」
「…………」

 娘の言葉に返す言葉が見つからず、唇を噛みしめる我愛羅に娘はただ笑う。

「お願い。忍さん。私が病に心を喰われる前に、あなたの手で眠らせて」
「お嬢、様ッ」

 か細い体は恐怖に震えることも、取り乱すことも無く、ただ穏やかに横たわっている。
 閉じた瞼に生え揃った睫毛も、緩やかに上下する胸も、恐怖や緊張で震えることはなかった。
 ただ穏やかだった。夜の海のように、あるいはゆらゆらと草花を揺らす春風のように。風前の灯火のはずの命は眩しい程に鮮やかで、清らかで――美しかった。

 我愛羅は艶の落ちた黒髪が無造作にシーツに広がる中そっと腕をつき、クナイを握る手に力を込める。

「――どうか、安らかにお眠りください」
「ありがとう。さようなら。私の大切な忍さん」

 娘が苦しまぬよう、それでも寝台に押し付けた肩はか細く脆く、首を刎ねると同時に音を立てて関節が外れる。
 飛び散る血潮は飛沫をあげて壁を濡らし、天井からは星屑の如く千々に舞ったそれが滴り落ちてくる。

「……ぐッ……ぅ……」

 ぬめったクナイを寝台に突き立て、締め付けるように痛む胸を服の上からきむしるようにして掴んでただ耐える。
 ザァザァと雨のように降り注ぐ赤い血潮は、我愛羅の髪も肌も、何もかもをも濡らしていく。

 ――服の上から掴んだ心臓が痛い。

 食いしばった歯がギシリ、と不快な音を立てる。
 それでも自分がしたことは変わらない。

 初めて自分と向き合ってくれた娘を手に掛けたのだ。
 この手で、己が殺したのだ。

 任務であってもそれは変わらない。心が震えても指先は震えなかった。一息で殺した娘の顔を、我愛羅は見ることが出来ずに背中を丸めてただ蹲る。

「終わったか」
「そのようだな。早速始末に取り掛かるぞ」

 いつから見張っていたのか。
 我愛羅が最後の一人を殺めたのを確認した後、仮面を着けた忍たちが屋敷の中へと入ってくる。それは屋敷内にある薬品や薬典等を全て持ち帰るために用意されていた者達だった。

「俺は、おれ、は――……」

 転がっていた娘の頭を抱き上げ、穏やかなその死に顔に我愛羅はただ項垂れる。

「ッ、お嬢、さま……」

 我愛羅の、新調したばかりの衣服に娘の血が染み込んでいく。臙脂の服に沁み込むその色は、その匂いは、我愛羅の心を千々に掻き乱し、新たな傷を深く深く――その身に刻みつけた。

 腹の底では興味を失った獣が退屈そうに欠伸を零すだけだった。