人 -03-
寝酒を嗜んでいた男もぐっすりと寝入った頃、我愛羅はどうするか悩みつつ娘の部屋へと足を運ぶ。幾ら病に伏しているとはいえ、年頃の娘の部屋に夜半訪れるのは褒められた行為ではない。だが生憎と我愛羅がそんなことに気付くはずもなかった。
案の定我愛羅は翌日出直すということはせず、起きているかも分からぬ娘の部屋の前で立ち止まる。そこでようやく「もし寝ていれば翌朝尋ねよう」と考え直し、小さな声で娘を呼んだ。
「お嬢様。起きていらっしゃいますか?」
日中なら聞き洩らしてしまうであろう抑えられた声量ではあったが、静まり返った空間でそれを拾うことなど造作ない。僅かな衣擦れの音がした後、微かな足音と共にドアが開かれる。
「よかった。来てくれないかと思いました」
「申し訳ありません。しかしまだお休みになられていなかったのですか?」
こんな時間に伺っておきながらこの言いよう。相手がこの寛大な娘でなければ嫌味の一つでも言われていただろう。
幾ら地に片膝をつけ頭を下げていようともこの発言は無礼だ。しかし娘はそんな慇懃無礼な我愛羅に対し怒ることなく入室を促すだけだった。
「だって忍さんの火傷のことが気になって眠れなかったんだもの」
朗らかに笑う娘は答えながらもランプに火を灯し、設えられていた椅子を引いて我愛羅に座るよう促してくる。
「包帯、片手じゃ巻きづらかったでしょう?」
「……ええ、まぁ」
慣れています。とは流石に言えない出来だったので素直に頷けば、娘は患部を消毒し、薬を塗り始める。
サクラが使用した物とは僅かに匂いが違う塗り薬が、細い指先に乗って伸ばされる。どこか遠い世界の出来事のように感じながらも眺めていると、娘はゆっくりと話し出した。
「昼間はごめんなさい。弟が酷いことを言ってあなたを傷つけました」
「いえ、慣れていますから」
事実ではあったが、果たしてこれはバカ正直に答えていいものなのか。正直迷うところではあったが、娘が気負う必要もない。故にそう返した我愛羅ではあったが、娘はその意に反し悲しげに瞳を揺らした。
「忍さんは、何だかとても無理をなさっているようにお見受けします」
「……そう、でしょうか」
薬を塗り終え、ガーゼを敷いた後に細い指が包帯を器用に巻いていく。サクラと違わぬ慣れた動きに、不器用な男は「手品を見ているようだ」と踊るように動く指先を感慨深そうに見つめる。
だが続いて聞こえてきた声に冷水を浴びせかけられたような気分になる。
「だって、あなたからはとても“悲しい匂い”がするもの」
そう言って巻き終えた包帯を留める娘に、我愛羅は改めて視線を定めた。
「お嬢様が口にするその“悲しい匂い”とは――……“血の臭い”、ですか?」
問いかける我愛羅に、娘は「いいえ」と首を横に振る。
「血の匂いではありません。ですが、とても色濃く寂しい……悲しい匂いがするのです」
「……そう、ですか」
何故か自分の方が傷ついているかのように曇った表情を見せる娘に、我愛羅はどんな言葉をかけていいか分からず口籠る。だが結局相応しい言葉は見つからず、何とも中途半端な返答になってしまった。
瞬間的に己の語彙力の無さに頭が痛くなるが、娘は気にした様子もなく我愛羅の手当てを終えたばかりの手を優しく包み込む。
「忍さん。私、あなたに見せたいものがあるんです」
「見せたいもの、ですか?」
我愛羅から手を離して娘は立ち上がると、机の引き出しから長方形の箱を取り出す。
「これ、見たことありますか?」
「……いえ。これは?」
娘が取り出したのは、丸く、星の瞬く夜空を閉じ込めたような鉱石がついたペンダントだった。
「“ラピスラズリ”と呼ばれる宝石です。群青の中に広がる金色の粒が星みたいで綺麗でしょう?」
「ええ」
娘の言う通り、ラピスラズリの宝石は濃く美しい群青色の中に星屑のような黄鉄鉱が千々に散らばっている。
その夜空を丸ごと一つの塊に押し込めたような宝石に、我愛羅は初めて宝石が美しいものなのだと知った。
「確かに大変美しいですが……何故これを俺に?」
薄汚い連中だと実父に言い聞かせられている娘の行動が読めずに問いかける。
まさか自慢するために見せたわけではあるまい。娘はそんな卑しい性格をしていないはずだ。
だが我愛羅は人と親密に接したことがない。更には簡単に信用することも出来ない質だ。思わず探るような視線を向けてしまったたが、娘は気にすることなくそのペンダントを我愛羅の手に渡す。
「この宝石は“幸運のお守り石”とも呼ばれているんです。私が持つよりあなたが持った方がいいと思ったんです」
「ありがたいですが、俺にはもったいないものです。受け取ることはできません」
渡されたペンダントを返そうと娘の手を取るが、娘は「いいから」と言ってその手を握りしめる。
「あなたは今とてもとても悲しい世界にいる。私にはそれが分かるの」
「……何故」
娘の言葉に戸惑う我愛羅に、娘はただ穏やかに微笑む。
「内緒です」
朗らかな声音で答えた娘の顔には、母のような慈愛に満ちた笑みが浮かんでいる。
そして我愛羅の火傷を負った手の甲を、柔らかな羽根で撫でるかのように指先で優しく触れた。
「忍さんの火傷が早く治りますように。おまじないです」
包帯の上から感じる娘の手は力を入れれば容易く折れてしまいそうな程にか細い。それなのにどこか力強く、暖かかった。
「……ありがとう、ございます……」
我愛羅の掌よりも一回り程小さい――娘の細い手を取ることも、気の利いた言葉も言えない。かといって無碍に払うことも出来ない。
不器用な男はただ握られた手をじっと見つめ、襲い来る胸の痛みに耐えた。それしか、今の我愛羅に出来ることはなかった。
◇ ◇ ◇
その後も我愛羅と娘の交流は続いた。
とはいえ本来の任務を忘れたわけではない。時を見て行動に移さねばならないことは理解していた。しかし男の元を訪れる急患は後を絶たず、加えて娘の容体が悪くなると家中が騒がしくなるため中々機が掴めずにいる。
どんな手練れの忍であっても戦でない限り日中にターゲットを殺すことなどしない。そうなると自然と夜の帳が降りた夜半に実行することになる。だがそんな機会にも恵まれることなくズルズルと日が経ち、気付けば潜伏してから一週間が経ってしまった。
常ならばこんな風に長引くことはない。だが我愛羅にしては珍しく一歩が踏み出せずにいた。当然自身もこれには困惑を隠せず、沈みゆく夕日を屋根の上から眺めながら「弱ったな……」と溜息にも似た吐息を零していた。
(早く帰らねば次の戦が起こるかもしれない。今の所男の元に行商人は来ていないが、そちらは暗部が追っているのだろう。だからこそこれ以上時間を掛けるわけにはいかない。早めに動かねば……)
娘が度々塗ってくれた薬のおかげか、はたまた自身の回復力の賜物か。火傷はすっかり完治しており、痕も残らなかったそこには既に包帯の影もない。
初めは自分が怪我人だから娘は興味を持ったのだと考えていたが、娘は我愛羅の火傷が治ってからも相変わらず話しかけてくる。
やれ今日は月が綺麗だ。体調がいいだ。どこそこに行ってみたいからついてきてはくれないか、等々。不治の病などもろともせずよく動き、よく喋った。
(だがいつまでも馴れ合っている場合ではない。俺は此処に“仕事”をしに来たんだ。それを忘れるな)
例え己に対し優しい眼差しを向けてくれる相手であっても、我愛羅はその命を容易く奪うことが出来る。それぐらいの場数は踏んでいる。だが必要以上の接触は避けなければならない。
そもそも普段の我愛羅ならば任務先の人間に心を動かされることなどありえない。だが娘の姿がどうしても母に、そしてサクラの姿と重なってしまう。違うと分かっているのに、どうしてか指が動かず躊躇する。
(どちらの娘も医者を志しているだけにすぎない。それだけだ。それ以上でも以下でもない。ましてや母様など……俺は何も覚えていないではないか)
写真の中でしか知らない。
柔らかな笑みを浮かべる母の姿と、娘の穏やかな笑みが重なる。その度に頭を振って雑念を振り払うが、一度意識してしまうと中々消えてはくれない。
赤の他人であるはずなのに、何も知らないはずの娘に二人の影が重なる。心など許した覚えはないのに、何故か体が拒むのだ。我愛羅はそんな己を不甲斐ないと詰り、瞼を閉じて頭を抱える。
『おい我愛羅ァ。まさか“殺したくない”とか言わねえよなァ?』
突然腹の底から掛けられた声に「黙れ」と念じる。幼い頃は自分と唯一“対話”してくれる存在として有難く思ったものだが、今では憎いだけだった。
“コイツさえいなければ俺は皆に愛されていたかもしれないのに”。
そう思えば思うほど、この声が憎くて憎くて仕方がない。
『つれねえこと言うなよ、我愛羅ァ。昔みたいにぶっ殺しライフを楽しもうぜぇ』
(黙れ)
聞こえてくる声が煩わしくて耳を塞ぐ。
そんなことをしても意味がないと分かっているのに、それでも抵抗の証として無意識に手が動く。
『どうせあの女も、捕虜の女も、お前のことを理解っちゃくれねえよ。本当はお前を嫌っている。恐れている。誰もお前のことなんか愛していない』
(黙れ! 俺に話しかけてくるな、この化物!)
――化物。
そう口にしながらも、本当は自身の中に巣くう存在が化物なのではなく、それを取り込んでいる自分が“本物の化物”なのではないかと思う時がある。
だがそれでも、我愛羅は頭を振って獣の声から耳を塞ぎ、否定するしかなかった。
『お前は独りだ。お前は誰にも愛されていない。望まれないまま産まれてきた子供なんだ。てめえの母親だって、本当はてめえのことを――』
「煩い! 黙れ!」
ついに声に出して叫んだ瞬間、獣の声は止み、辺りに静寂が戻ってくる。
我愛羅はいつの間にか荒くなっていた呼吸を肩で繰り返し、眉間を伝った汗がゆっくりと鼻先から落ちていく。
先程まで僅かに見えていた夕日も既に水平線の彼方へと沈み込み、宵が降りた空にちらほらと宝石のような星屑が輝き始める。
「俺は……俺は……――」
見下ろした手の平に火傷の痕はない。
二人の娘に酷い火傷だと言われたはずなのに、そこは初めから火傷などなかったかのように今まで通りの渇いた皮膚が広がるだけだった。
「ッ、」
握り締めても前ほど痛みを感じない。伸びた爪が肉を刺す感触しか感じられないそこに、我愛羅は無性にクナイを突き立てたくなった。
一度も成功したことのない自傷行為に意味などないと知りながら。
それでもこの想いをぶつけなければ、今すぐにでも狂ってしまいそうな程に胸が苦しくて仕方なかった。