長編U
- ナノ -

火傷 -04-



 翌朝サクラが居間へ降りると、既にテマリが朝食の準備を始めていた。

「おはよう、サクラ。今日からだったか? 病院勤めは」
「おはようございます。はい、今日から暫くは病院での勤務になりますね」

 医師免許を取るまでは製薬が主な仕事だったが、試験に合格した今は診察も執刀も可能になった。とはいえ今回の件に関してはサソリにも感謝せねばならない。
 何せ試験を受けるまでの間、砂隠の医療制度や現在使われている器具について何も知らないサクラに徹底的に教え込んだのはサソリだったからだ。
 とはいえ期間がなかったため殆ど詰め込むような形で指導を受けることとなったが。
 毎日のようにテストを受け、一つでも間違えれば途端に「お前の判断ミスで今一人患者が死んだぞ」と冷静に脅され――いや。叱られた。その甲斐あってか無事合格することが出来たのだ。(実際は何度か泣きそうにはなったが)
 これでようやくサクラも正式に“医者”として認められた。そのため今日から病院での勤務となっていた。

「でも最初は看護婦での勤務になるみたいで、後々病院側から正式に医者として採用するかどうか通達が来るみたいです」
「へぇ。そうなのか。まぁ頑張れよ」

 ぽんとテマリに背を叩かれ、サクラは頷く。
 確かにここは敵地でもあるが、今は“自里”と考えて働かねばならない。病院で務めるのだから戦での負傷者を診ることも増えるだろう。だがその時に自分は彼らを心の底から憎まずにいられるのかどうか……。正直まだ分からない。

(医者としての責務は全うするわ。でももしこの里の誰かが仲間に手をかけているのかと思うと……)

 無意識にぐっと唇を噛みしめるが、テマリに話しかけられれば笑顔で対応する。
 今は余計なことを考えている場合ではない。食事を作るために手を洗い、渡された具材に包丁を入れる。すると今度は寝ぼけたような声で「おはよう」と声が掛けられた。

「おはよう、カンクロウ。ていうかお前寝癖酷いぞ。早く直してきな」
「おぉ……そうするじゃん……」

 ウトウトと寝ぼけ眼を擦りながらカンクロウは洗面所へと消えて行く。我愛羅とは違う、少し広い背中は年相応と言っていいだろう。
 しかしテマリとカンクロウは揃ったが、二人の父親である羅砂と我愛羅の姿はまだない。まさかまだ寝ているのだろうかと考えていると、ちょうど我愛羅が下りてくる。

「おはよう、我愛羅」
「ああ」

 柔らかい笑みを向けるテマリを横目で眺め、頷くだけの我愛羅にサクラは意地っ張り、と内心で悪態をつく。だが我愛羅は昨夜のことなどまるでなかったかのようにサクラを無視し、テマリにだけ視線を向けた。

「テマリ」
「何だ?」
「今から出てくる」
「分かった。いってらっしゃい」

 どうやら早朝から任務があるらしい。昨夜も遅くに帰ってきたはずだろうに、また朝から任務に出ると言うのだ。幾らなんでも時間配分がおかしくないかと思いはしたが、何も言わずに瓢箪を背負う背中からは何の感情も読み取れない。
 いつも通りの、何を考えているのかさっぱり分からない無感情な背だった。

「……あの、我愛羅くん」

 だが呼べば振り返る。その手にはまだ包帯が巻かれたままだ。痛み止めを飲んだかどうかは分からないが、それでも火傷を負った手で無茶をしなければいいとは思う。
 確かに憎んではいる。だが今は“医者として”“患者”である我愛羅のことを気にかけておく義務があった。

「えっと……き、気を付けてね」
「……ああ」

 呼び止めたものの特に掛ける言葉が見当たらず、とにかく「火傷を負った手であまり無茶はしないように」と遠回しに伝えれば、我愛羅は頷いた。
 砂を操るだけならば特に問題はないだろうが、無茶や意地を通す男にはあらかじめ釘を刺しておく必要がある。果たしてそれが本当に守られるかどうかは定かではないが、とにかく忠告しておくこと自体が大事なのだ。そう自身に言い聞かせ、無言で出て行く背中を黙って見送った。

「……我愛羅の包帯、サクラが巻いたのか?」
「あ、はい。昨夜遅くに……」

 問いかけてくるテマリに頷き、事の詳細を伝えれば「成程な」とテマリは納得する。
 面と向かって我愛羅には尋ねなかったが、やはり心配なのだろう。切った具材を炒める横顔は硬い。だが姉弟の問題に首を突っ込むのは憚られ、サクラが無言を貫いているとようやくカンクロウが洗面所から戻ってくる。

「あ? 我愛羅は? もう任務に行ったのか?」
「ああ。親父も風影邸に着いた頃だろう」
「相変わらず忙しいじゃん。親父も我愛羅も」

 居間の窓から我愛羅の背を眺めるカンクロウにテマリが「いいから早く手伝え!」と一喝する。途端に騒がしくなった空間にサクラは実家での母とのやりとりを思い出し、苦い気持ちを噛みしめた。


 ◇ ◇ ◇


 一方我愛羅は風影室で書類を渡されていた。

「任務内容はその書類に全て記されている。速やかに確認し、即時行動に移れ」
「承知しました」

 先の戦の尻拭いが終わったかと思えば、今度は国のお偉い方の内事情に首を突っ込まなければならない。
 我愛羅は嘆息しそうになるのを堪え、渡された書類に目を通す。そこには案の定、今回もとある人物の暗殺の命が記されていた。

(また俺は人を殺すのか)

 風影室を後にし、渡された書類を眺めながら今度こそため息を零す。

 昔は人を殺めることに対し何の感慨も抱かなかった。むしろ己の存在を確認するための行為だとすら思っていた。だが戦争が始まり、己の中にいた“母”と称していたものが身の内に巣くう“化物”だと気づいた瞬間、全てがどうでもよくなったのだ。
 己だけを愛することに執着していたはずなのに、自分の命さえどうでもよく思えた。

 母に愛されていると思っていた。だがその実態は皆が恐れる砂の化物で、我愛羅とママゴトのような遊びを楽しんでいただけなのだ。それが分かった瞬間、今まで築いてきたすべての価値が無に還るようだった。
 ――結局自分はいつまでも、どこまでも独りなのだ。
 それを理解した瞬間、全身を支配したのは怒りでも絶望でもない。果てのない、暗闇のような孤独と虚無。そして世界に対する拒絶だった。

(最近では血の臭いも取れなくなってきた……。つまりは俺の体に化物以外の他者の存在が残っているということだ。気持ちが悪い。血の臭いなど嫌いだ。どれだけ洗っても取れはしない)

 昨夜任務から戻り、返り血が飛んだ服を脱ぎ捨てた瞬間全身を襲ったのは昂りでも充足感でもない。言い様のない虚脱感と虚無感だけだった。

 己の身に染みついた血の臭いが鼻につく。

 どれだけ洗ってもその臭いは影の如くいつまでも纏わりつき、消えることがない。
 ただ火に炙られ、痛む手の平だけが現実だった。そのくせ付着した血液を眺めていた自分はどこか遠い存在のようでもあった。
 それでもこびりついた血を落とさずにはいられず、水を張った桶に手を浸けたところで唐突に何もする気が起きなくなったのだ。

 自分は何故生きているのか。
 何故命令されたからと言って人を殺し、大した理由もない戦に巻き込まれなければならないのか。

 どうせ誰にも愛されず道具として扱われるなら、それが決まっていたのなら、何故“家族”と称される者たちと共に暮らすことを強要してくるのか。
 何故“道具”である自分に、他者と、誰かと共に生活させ、感情を共有させようとするのか。
 人を殺す道具でいさせたいのならば独りにすべきだ。他者と共にいたところで傷だらけの胸が痛むだけだ。むしろ時が経つごとに一層その傷は深まり、止まることのない血が延々と流れ続けることになる。

 化物の監視がしたいのであれば牢屋にでもいれておけばいい。過去の人柱力がそうであったように。己も必要な時以外拘束すればいいのだ。
 そうすれば我愛羅は誰にも期待せずにすんだのに。誰かを拒絶し、拒絶されることに辟易せずにすんだのに。
 まさか“父親だから”という理由だけで情けをかけているのか。それとも我愛羅が暴走した際抑え込むことが出来るのが自分だけだからと思っているからなのか。

 我愛羅には分からない。

 父親である風影のことが。風影である父親のことが。
 何故“道具”として産んだ癖に共に暮らしているのか。ただの道具として、砂の化物の器として選んだだけだというのならば、何故野放しのように自宅に放つのか。
 戸籍上自分の“姉兄”と称されるあの二人が普段どんな目で自分を見ているか、父は知っているのだろうか。それとも知らないから『共に暮らせ』と言うのか。
 我愛羅には何もかもが分からなかった。父である羅砂のことが。風影である里長のことが。何一つとして分からなかった。

 それでも汚い仕事は回ってくる。

 誰かを殺め、脅し、時には情報を奪い、闇に葬る。顔も知らない相手に「命の代わりに情報を差し出せ」と脅すことにはもう飽いている。
 それでも命の危険があるものから面倒なものまで、人が嫌がるような仕事は全て我愛羅に回されていた。

 他人の血を浴びることが反吐が出るほど嫌だというのに、いっそ憎んですらいるというのに、それでも「命令だ」と言われれば逆らわぬよう教え込まれている。
 そうしなければ生きていけなかった。そうしなければ「誰にも愛されない」と恐怖していた。幼い頃の記憶が枷のように、あるいは呪詛のように我愛羅を縛り付ける。

 本当はもう「誰からも愛されていない」ことなど知っていると言うのに。

 それでもまだしがみ付いているのだ。無様に、憐れなほどに。ほんの僅かな可能性を信じて。我愛羅は人を、誰かを、理解し、理解されたいと思っている。
 それがどんなに滑稽な姿であろうと、伸ばした手を下げるには未練が強すぎた。

(まるで呪縛だな。だが仕方がないことなのかもしれない。人を殺すことも、他者の血を浴び続けることも、全て俺の仕事だ。あの女が他者を助ける存在であるならば、俺は殺めるために生まれてきた存在だ。そのためだけに生かされている。それに幾ら嫌だと言ったところで化物がいなくなるわけでもない。道具として生まれたことから逃れられるわけでもない。どうせ俺は独りだ。死んだところで悲しむ者もいない。戦がなくなればまた疎まれるだけだ。今はまだこうして仕事が与えられているだけでもマシだと、そう思えばいい)

 握り締めた手の平は鋭い痛みを持って我愛羅に現実を伝えてくる。サクラが無茶をせぬようにと伝えた、火傷の痛みだけが我愛羅にとっての現実だ。
 この世で自分と“他人”を繋げる唯一のものだ。だからこそ自分で解くことは出来ない。かといって素直に頼ることも出来ない。不器用で孤独な男は、どこまでも臆病で卑屈だった。

(俺は独りだ。他人など気にする必要はない。砂隠の化物として存在していればいい。それが父様の、そして母様の望みだ)

 だがどんなに言い聞かせようと、幼い頃に感じた胸の痛みが蘇る。
 喉の奥が詰まり鼻の奥がつんとするが、我愛羅は唇を噛みしめ火傷を負った手を強く握りしめることで耐え忍んだ。
 纏った衣服から僅かに匂う、血の臭いが我愛羅の存在意義を示しているかのようだった。




第三章【火傷】了