火傷 -03-
風呂から上がり、自室へと戻ったサクラは先程の話とサソリから聞いた話を頭の中で繰り返す。
尾獣を生まれたばかりの体に封じられ、里の者から疎まれ続けた幼少期。そして他者を拒絶し、人の命を奪うことに何の躊躇もしない現在。
他人を拒絶する中でも唯一受け入れているのはサソリだけのように見えたが、実際はサクラも僅かながら興味を示されているという。
(でもそれがどうしたっていうのよ。そんなこと言われても知らないわ。私に出来ることなんて何もない。何もないんだから。だから、期待なんてしないでよ。私があの人と関わりが持てると本当に思っているの? そんなの嫌よ。目の前で仲間を殺されて、どうしてあの人のことを前向きに捉えることが出来るっていうのよ。私はそんなに強くない。強くないのよ……)
――だから、期待なんてしないで欲しい。
我愛羅が他人と関わるための礎にされるのはまっぴらごめんだ。
「お母さん……。サスケくん。ナルト。カカシ先生。綱手様。いの。ヒナタ。テンテン。リーさん。ネジさん。シカマル。チョウジ。キバ。シノ……。誰か……誰か、助けてよぉ……」
砂隠に連れ去られてから既に半年が経っている。加えて先の戦で皆の姿を目にした時、サクラの中で諦めつつあった気持ちが頭を擡げていた。
――里に帰りたい。
自分の名前を呼び、安否を確かめてくれた皆の声がサクラの心を強く締め付けた。
父を亡くし、更にはサクラまで失った自宅では今頃母が一人で暮らしているはずだ。いつも強い母ではあったが、それでも心配だった。己と同じで頑張りすぎる節があるからだ。
戦争で忙しないとはいえ、一人の時は余計に孤独を感じるものだ。ただでさえ夫を亡くしているというのに、子まで失った母のことを思えば胸が痛い。だからこそ母の元へ、皆の元へ帰りたいと強く願うようになっていた。
だがその気持ちも、砂隠の額当てをつけた時に無理やり蓋をした――はずだった。だがその蓋が、今再び開かれようとしている。
サクラはベッドの上で膝を抱えて丸くなる。己を強く抱きしめるように両腕を回し、ただ耐える。
だが襲い来る罪悪感と寂寥感は漂う冷気のようにじわじわと体を蝕み、軋み声を上げる心が血を流す。それでも自分は何も出来ない。
自分自身に何度も言い聞かせながら、皆の視線から逃げるように目を閉じて歯を食いしばる。それしか出来ない。それしか出来ないのだ。今のサクラには。
誰かを変えることは勿論、国や里を変えることは出来ない。無力な自分を抱きしめ、少しでも目の前の現実から逃げることしか出来ない。
それが嫌と言うほど分かっているからこそ、目を背けるようにして小さくなる。
「お母さん……」
呟く声は誰に聞かれることもなく、ただ霞のように音もなく霧散するだけだった。
◇ ◇ ◇
ふと沈んでいた意識が浮上し、いつの間にか眠っていたサクラは喉の渇きを覚えて目を覚ます。
胎児のように丸めていた体を起こし、軽く眼を擦る。そこでようやく締め切っていなかったカーテンの隙間から明かりが漏れていることに気付く。僅かな隙間から見える景色にぼんやりと視線を向けていると、視界の端で何かが煌めいた。
(星……? あ、そっか。今夜は新月か)
月がない夜は闇にまぎれて動きやすい。
だが今夜はサクラにもテマリたちにも夜半の任務は宛がわれていない。我愛羅はどうか知らないが、きっと今頃部屋で横になっていることだろう。
サクラはそう考えると「ううん」と一度伸びをしてから部屋を出る。隣の部屋からは物音が聞こえず、やはり寝ているのだろう。と止めていた足を再び進める。だが中ほどまで降りたところで水の音が聞こえ、咄嗟に足を止めて壁に背を当てた。
誰かいるのだろうか。もし侵入者であればどう対処すべきか。
対処法を模索しつつ息を潜めて覗いてみれば、蝋燭の僅かな灯の中、見慣れた緋色を見つけて目を丸くする。
「何、してるの?」
恐る恐る問いかけてみれば、サクラの気配に気付いていたのか。それとも関心がないだけなのか。我愛羅は特に驚いた様子もなく「何も」と答える。
何もって、とサクラは侵入者ではなかった我愛羅に一定の距離を保ちつつ近づいてみれば、手桶に溜めた水の中に手の平を浸け、そこをじっと見つめているようだった。
(本当に何をしているのかしら、この人)
理解出来ない行動に困惑していると、翡翠の瞳が動きサクラを写す。
「お前こそ、こんな夜中に何をしている」
威圧的な物言いではあったが、サクラの行動を疑っているようには感じられない。張り手を食らわしたにも関わらず、我愛羅は相変わらずの態度でサクラに接していた。
「私は、喉が渇いたからお水を貰おうと思って……」
答えたサクラに我愛羅は「そうか」と頷く。途端に途切れた会話に気まずさを覚えつつも、サクラは水を取りにその場を離れる。
(ていうか何でこんな夜中に手を洗っているのかしら。それにこれは……血の、匂い――?)
汲んだ水を飲み干し、コップの内側に伝う水滴を眺めながら気付いたサクラはふと顔を上げて我愛羅を振り返る。
「ねぇ、もしかして、任務に行ってたの?」
サクラの問いに我愛羅は手桶を眺めていた視線を上げ、起伏のない声音で「だからどうした」と答える。
ああやはり。我愛羅は今日も誰かを殺めてきたのだ。
「ううん、血の匂いがしたから……。もしかしたら怪我でもしてるんじゃないかと思って」
見た限りこれといっておかしな様子はない。
火縄銃に撃たれた時のように足に怪我を負っていれば分からないが、我愛羅は「怪我はない」と端的に答える。それが嘘か本当かは分からなかったが、サクラはただ「そう」とだけ返した。
(でも、何もないならどうしてずっと水に手を浸けているのかしら。洗うにしてももっと他にやりようがあるはずなのに)
考えたところで答えなど出るはずもない。このままここを去るか、それとも我愛羅に問い詰めるか。悩んでいると、ずっと黙っていた我愛羅が先に口を開く。
「女。今“血の臭いがする”と言ったな」
「え? ええ」
問いかけはしたが、サクラの方は見ていない。ひたすら手元を見つめる我愛羅に首肯すれば、我愛羅は落胆するような、何かを諦めるような影の濃い表情を浮かべ、瞼を閉じる。
「そうか……」
パシャン、と水滴が跳ねる音がする。
我愛羅の濡れた手が蝋燭の灯に炙られ、ぬらり、と揺れた。
「……やはり取れんか……」
独り言のような呟きではあったが、二人しかいない空間ではやけに響く。
サクラは暫し悩んだ後、我愛羅に向かってタオルを差し出した。
「服、濡れちゃうよ」
「……ああ」
サクラの行動に僅かに驚いたような表情を見せた我愛羅ではあったが、ゆっくりと指先を伸ばしてくる。だがそこでサクラは我愛羅の手に見覚えのない痕を見つけ「ちょっと!」と声を上げつつその手を取った。
「これ火傷じゃない!」
声を上げるサクラに我愛羅は首を傾ける。
まさか火傷したことがないとでも言うのだろうか。訝るようにその顔を見つめれば、我愛羅はどこか心ここに非ずな様子で「火傷」と小さく繰り返す。
「さっき怪我はないって言ったじゃない! 嘘つかないでよ!」
「怪我? 火傷は怪我に入るのか? 血が出ていなければ怪我とは呼ばないのではないのか?」
「はあ?!」
訳の分からない理論にサクラの声が裏返る。だが我愛羅は本当に理解していないようで、何度も「火傷……」と呟いては己の手の平をじっと見つめている。
「とにかく、すぐ薬持ってくるから! あんまり酷くはなさそうだけど、電気をつけてそこの椅子に座って待ってて」
「必要な」
「あります!」
案の定否定しようとした我愛羅に釘を刺す。その瞬間不愉快そうな顔を見せたが、サクラは敢えて無視して再度「座って待っていて」と指示を飛ばす。
「私は“砂隠”の医者です。あなたたちの怪我を治すのが私の仕事。だから指示に従ってください」
「言いたい放題言いおって……」
不服気ではあったが、サクラの気迫に押されたのか、単に抵抗するのが面倒くさいのか。我愛羅は渋々椅子を引いてそこに腰かける。それを見届けたサクラは再度「少し待ってて」と告げてから自室へと続く階段を駆け上がる。
(意味分かんない! 血が出てなかったら怪我じゃないって、どこのバカよそんなことを教えたのは! もしかしたら打撲や骨折も怪我じゃないとか言い出すんじゃないでしょうね、あの人!)
我愛羅のとんでも理論に頭を痛めるサクラではあったが、それでもサソリから譲り受けた年季の入った薬箱を開け、塗り薬等の必要な薬品を揃えてから階段を駆け下りる。
「思ったより酷いわね。どうして火傷なんてしたの?」
電気を点け、我愛羅の冷たい手を取り患部を眺めれば既に幾つか水疱が潰れていた。恐らく任務時に火傷を負い、冷やす間もなく戦闘に入ったのだろう。
用意した塗り薬を丁寧に塗りこんでいれば、黙ってそれを眺めていた我愛羅がようやく口を開く。
「潜んでいた屋敷に火が放たれた。依頼人を助け出す際敵が火柱を倒してきてな。依頼人は砂で守ることはできたが、俺の方は手で受け止める方が早かった。それだけの話だ」
「手で受け止めたって……」
思わず「あんたバカ?」と零れそうになった言葉を無理やり喉の奥に押し込み、代わりに「まったくもう」と呟けば我愛羅は何が悪いのかと眉間に皺を寄せる。
「だからってこの状態じゃ冷やしただけじゃダメよ。水疱が幾つか潰れているから、ちゃんと病院に行って治療を受けないと」
何も知らない男に火傷について説明しようとしたところで、再び我愛羅がキョトンとしていることに気付き思わず言葉を飲み込む。
そのあまりにも珍しい表情を見たせいか、説明の続きではなく「どうかしたの?」と無意識に心配するような声音が口をついて出てくる。だがここに来てまたもや我愛羅はサクラの度肝を抜いてきた。
「火傷は、冷やすものなのか?」
「――は?」
もう“バカ”どころの話ではない。これは無知だ。無知の領域だ。
サクラはあまりの事態に絶句する。だがこの歳になって火傷の処置を知らないなど、そんなバカな話があるものか。もしやからかっているのではないかと己の上司の悪人面を一瞬脳裏に思い浮かべたが、我愛羅がそんな軽い発言をしたことなど今の所一度もない。
つまり、本気で言っているのだ。この男は。
「もしかして……火傷、したことないの?」
まさか「知らないの?」と聞けるはずもなく、当たり障りない言葉でやんわりと問いかければ我愛羅は頷く。人生で一度たりとも火傷を経験したことのない人間がいるとは。密かに驚くサクラの前で、我愛羅は近くに立てかけてある瓢箪へと視線を向ける。
「普段は砂が俺を守る。だからそういう“怪我”を負ったことがない」
確かに我愛羅の強さの一つはあの絶対防御だ。しかしそれがいつ何時でも発揮されるとは大したガードの強さである。
だが知識として知っていてもおかしくはないだろうとも思うが、我愛羅にとって『怪我』とは基本的に無縁のものなのだろう。例えテマリやカンクロウなどの親族が火傷を負ったとしても興味を持つとは思えない。実際我愛羅は必要がなければあの二人に近づくことさえしなかった。
姉弟としての絆が薄いというか、薄情と言うか。いや。例えではなく本当に大きな溝が二人との間にはあるのだろう。それを改めて実感した。
「ガーゼと包帯を巻くから、じっとしててね」
薬を塗り終え、ガーゼを当ててから包帯を巻く。「必要ない」と言ったがどうせやせ我慢だろう。他人を信用できず拒絶する癖があることはもう知っている。だがサクラを“砂隠の医者”にしたのは他の誰でもない、我愛羅だ。確かに選んだのはサクラだ。だがその選択肢を与えたのは我愛羅なのだから無関係とは言わせない。
サクラは巻き終えた包帯を留めると、薬箱から数種類の小瓶を取り出し配合していく。
「痛み止め。ちゃんと飲んでね」
「必要、」
「あります」
言わせるものかと笑顔で制してやれば、我愛羅は心底不服気な表情を浮かべる。それでもサクラが引くことなく薬を突きだせば、暫し逡巡した後渋々それを受け取った。やはり慣れない痛みを我慢しているようだ。
(全くもう、意地っ張りなんだから)
呆れ半分に薬箱を閉じる。我愛羅は己の手に巻かれた包帯と薬を交互に眺めては何度も手の平を開閉させていた。
もしやきつかっただろうかと不安になったが、そんな初歩的なミスを犯すほど経験不足ではない。きっと慣れない包帯に戸惑っているだけだろうと勝手に解釈し、「そうだ」と手を合わす。
「ガーゼと包帯、替える時は言ってね」
「何故」
「何故って、そんなの患部の状態を診るからに決まってるじゃない。だから塗り薬は渡しません」
今しがた我愛羅の手の平に塗った薬をひょいと後ろ手に隠せば、我愛羅は心底面倒くさそうにため息を吐く。だが意外にも素直に「分かった」と頷いた。どうやらテマリの言うようにサクラに対してはあまり拒絶の色が濃くないようだ。
喜べばいいのか嘆けばいいのか。正直微妙なところではあるが、足の怪我の時とは違い、サクラに診せることを約束してくれたのは素直に嬉しかった。
致し方なく砂隠の医忍になったとはいえ、負った責務は全うしなければ己の矜持が許さない。だからこそ余計に板挟みにもなるのだが、性分なのだから割り切るしかなかった。
「暫くは安静ね。あまりこっちの手を使わないよう気を付けて」
「一応、心がける」
咄嗟の判断とはいえ、やはり利き手に火傷を負うのは支障が出る。本人も心がけると言ってはいるが、任務に出れば利き手を庇いながらの戦闘はまず無理だろう。
だがこうしてサクラの“医者”としての諫言を聞き入れてくれるようになっただけでも大きな進歩だ。サクラは満足げに、そして安堵したように頷く。
「それじゃあ私は戻るわね」
「ああ」
「おやすみ、我愛羅くん」
薬箱を手に持ち、立ち上がったサクラを我愛羅が軽く見上げる。だが特に何を言う訳でもなく、我愛羅は階段を上っていくサクラの背をただ眺めた。
「――春野、サクラ」
包帯が巻かれた手の平をゆっくりと握りしめ、再度開く。
響く痛みを噛みしめながら、我愛羅は呼び慣れないサクラの名前を口にした。
舌の上を転がる不可思議な音に、気付かぬうちに戸惑うように眉間に皺を寄せながら――それでももう一度、我愛羅は確かめるようにサクラの名を紡いでいた。