長編U
- ナノ -

仲間 -05-



 今回の戦は風の国に軍配が上がった。我愛羅たちとは別部隊で動いていたテマリが火の国の本部から敗戦の狼煙が上がったのを見たという。
 それにより各部隊は第一前線から退き、第二前線へと引き下がってくる。
 医療班達がいるのは第三前線――及び風の国本部ではあったが、忍達は緊急時以外本部に近寄ることが禁止されている。そのため第一前線から戻ってきたサクラたちも今は第二前線に張られたテントで体を休めていた。

 因みにサソリやカンクロウたち傀儡部隊は未だ情報収集に出かけているらしく、姿はない。もし敵の残党に会おうがそう簡単に殺られるとも思えないので、サクラは特に心配することも無く静かに佇む我愛羅の隣で言葉なく座り込んでいた。

(初めての第一前線……。沢山人が死んだわ。仲間も、敵も、皆関係なく……死んでしまった)

 ナルト達が敗走し、毒ガスが蔓延した戦場では暫くの間草木もまともに生えないだろう。それほどまでに強力な毒だった。少しでも吸いこめば途端に神経麻痺の作用が働き、満足に体が動かせなくなる。
 サスケやナルト達が毒ガスを吸っていないといいが。
 そんな甘ったれたことを考えながら抱えた膝の間に顔を埋めていると、慌ただしく数人の忍がテント内に走り込んでくる。

「サソリさんは?! サソリさんはまだ戻っていないのか?!」
「薬師は――救護班は一人もいないのか!」

 駆けつけてきた二人の防具には泥や煤だけでなく、血がべったりと付着している。その姿に目を逸らしかけたが、聞こえてきた“救護班”という単語に反応して顔を上げる。

「何かあったのかな?」

 直接他の忍に聞くことは捕虜の身としては憚られる。だからこそ隣に立つ我愛羅を見上げて尋ねてみるが、我愛羅はさして興味がないようで「俺に聞くな」と冷たく返されるだけだった。
 それに今しがた辿り着いたばかりの忍たちの状況を我愛羅が知るはずもない。サクラは「そうだよね」と力なく呟いてから立ち上がり、土を払うと歩き出す。

「くそっ、まだサソリさんたちは戻ってきてないのか……!」
「どうすればいいんだ、俺たちじゃ無理だぞ!」
「あの、どこか怪我でもしたんですか?」

 焦る二人に意を決したサクラが声をかける。それに対し我愛羅は何も言わなかったが、サクラの背をただじっと、何を考えているのか分からない瞳で見つめるだけだった。

「あんたは?」
「……医療忍者です」

 一瞬言葉に詰まったサクラではあったが、医忍であることに間違いはない。
 より正確に言えば砂隠では製薬、及び診察、執刀は許されていないが、戦場という特殊状況下であれば特例が利くだろう。数ヶ月前、我愛羅が責任を負ってくれた時のように。
 そんなサクラの甘い考えに気付かぬ二人は目を輝かせ、血と泥に塗れた手でサクラの肩を掴む。

「頼む! 仲間を助けてくれ!」
「酷い怪我なんだ! 爆撃に巻き込まれて……! 俺たちじゃ助けられない!」
「爆撃に?!」

 男たちの言葉に目を開き、慌ててテントの外に飛び出れば担架に乗せられた一人の男が呻き声を上げ苦しそうにもがいている。
 爆撃に巻き込まれた肌は熱風に焼かれ、右腕の皮膚が完全に剥がれ落ち、溶けている。そればかりか――爆撃の衝撃で切ったのか、それとも火縄銃に当たったのか。定かではないが、太ももには大きな裂傷があり、ズボンを赤黒く染めていた。

 ――一刻も早く診なければ!

 サクラが男に向かって駆けだそうとした瞬間、後方から「待て」と冷ややかな声が浴びせかけられる。

「何をするつもりだ」
「何って……」

 テントの光を背に受けながら、冷たい声音で我愛羅が問いかけてくる。まるでサクラの行動が気に入らないかのような、そんな僅かな不機嫌さが滲んだ声だった。
 だがそれに臆している暇はない。
 サクラがこの患者を診るつもりだと答えれば、我愛羅は何をバカなと返す。

「勝手な行動は慎めと命令されていたはずだ。忘れたのか」
「それは、そうだけど……」

 数ヶ月前、風影に諌められたことを思い出して顔を顰めれば、我愛羅は苦しむ男に視線を向けてから徐々に近づいてくる。

「どうせこの男は助からん。助かったところで足手纏いだ。今ここで殺す」
「なっ――! なんてこと言うのよ! この人はまだ生きてるわ! 酷い火傷に裂傷もあるけど、今すぐ治療すれば助けることが出来る!」

 担架に乗せられた男を庇うようにサクラが立ちはだかれば、我愛羅は一ミリたりとも表情を変えぬままサクラを一瞥する。

「あまり調子に乗るなよ、女。貴様は自分の立場を忘れるほど阿呆だったか? 身の程をわきまえろ」
「ぐぅっ?!」
「我愛羅様!」

 我愛羅の伸ばされた片腕が容赦なくサクラの首を掴み、絞め上げる。それに対し男を運んできた他の忍達が声を上げるが、我愛羅の殺意に満ちた瞳で睨まれれば恐れをなして口を噤んでしまう。
 騒ぎに気付いたテマリが慌てて別のテントから駆けつけて来るが、既に我愛羅は周囲を圧倒するほどの殺意を全身から放っていた。
 まるで狂気に染まっていた幼い頃を彷彿とさせる姿に、流石のテマリも声が出せず言葉に詰まる。むしろ幼い頃に体験した恐怖が蘇り、呼吸すらまともに行えていなかった。

「うっ……ぐぅっ……!」

 ギリギリと首を絞められる中、それでもサクラは気丈にも殺気を放つ我愛羅を睨むようにして見下ろす。
 暫しその視線を受けた我愛羅は僅かに目を細めると、突如腕の力を緩めサクラを地に落とした。

「げほっ、げほっげほっ!」

 膝が大地についた途端、今まで狭まっていた器官に大量の酸素が入り込み噎せ返る。

「今は戦争中だ。足手纏いを庇いながら戦って何の得がある。無駄に命を散らすだけだ。ならば初めから足手纏いなど切り捨てればいい」
「げほっ、例え、足手纏いだったとしても……これ以上、誰かの命を見捨てるようなことは、したくない」

 必死に呼吸を繰り返しながら、それでも我愛羅を睨みあげるサクラに周囲の忍が後退っていく。
 我愛羅に刃向って助かった者など誰一人としていない。だからこそこの場にいる全員が「この娘も殺される」と思い、後退った。
 だがサクラは唇を噛みしめ立ち上がると、真っ向から我愛羅を睨みつけ、対峙する。

「私は医者よ! これ以上あなたに誰かの命を奪われるなんて嫌なのよ!」

 響き渡った怒声に、テマリだけでなくその場にいた全員の顔が青くなる。

 ――殺される。

 テマリでさえ、そう確信した。砂漠では決して咲かぬ花が血に染まる。その瞬間を瞬時に描いてしまった。
 だが我愛羅は数度瞬くと、吐き捨てるような声音で「貴様はバカか」と嘆息してから腕を組む。

「額当てを奪われた時に己の誇りさえ捨てたか? それとも端から持ち合わせていなかったのか?」
「ど、どういう意味よ」

 睨みつつも問いかけるサクラに、我愛羅は嘲笑うかのように唇の端を上げ、担架に乗った男を顎で示す。

「そいつは砂隠の忍だ。忘れたのか? そいつは怪我人だろうと貴様の敵であることに変わりはない」
「そ、れは……」
「分かっていて助けるのか? 貴様はいつから頑なにしがみついていた木の葉の誇りを捨てたんだ?」
「っ!」

 我愛羅の言葉に唇を噛みしめる。
 脳裏には、あの夏の夜の悲劇が如実に蘇っていた。

「忘れたか。貴様は俺たちの敵だ。そして貴様は捕虜だ。俺たちの言葉に従い、医術を広めるためだけに生かされている。ただの道具にすぎん。医者だから助ける? 助かる命を見捨てたくはない? 笑わせるなよ、女」
「うっ、」

 引き上げた口元も戻り、冷笑すら浮かべないその無機質な瞳にサクラも思わず後退る。
 捕食者でもない、狩人でもない。己が優位に立っていると信じ、サクラを嘲るような下衆な瞳もしていない。それなのに我愛羅の言葉はサクラの心を深く傷つけ、揺るがしていく。

「それとも何か? お前なら出来る、お前ならその男を助けることが出来る。だから今すぐ治療をしてやれ、とでも言うと思ったのか? 貴様の実力は本物だ、だからお前の力が必要だと、貴様に向かって手を差し伸べるとでも思ったのか?」
「そんなこと――」
「思っていないと言えるのか? 人の顔色を窺い、誰かに助けてもらおうと庇護を求め、憐れみを向けられたくて大人しく従順な振りをし、悲劇面をする貴様に、俺が何も思っていないとでも?」

 ずっと溜め込んでいた鬱憤を晴らすかのように、普段の倍以上喋る我愛羅にサクラは体だけでなく心も圧倒されていく。
 それでも負けないと首を横に振れば、そんなサクラの強がりすら嘲笑うかのように、我愛羅は嫌悪の気持ちを乗せた声でサクラを傷つけていく。

「俺は貴様の子守をしているわけではない。そう何度も助けてもらえると思うなよ」
「分かってるわよ! そんなこと!」

 数歩後退ったサクラではあったが、何とか気を持ち直して立ち止まる。そして拳を強く握り締めることで襲い掛かってくるような威圧感に耐えた。
 まるで氷山から放たれる冷気のようだ。それ程までに冷たく恐ろしい眼差しを真正面から受け止めながら、それでもサクラは立ちはだかった。

「それでも私は――この人を助けるわ」

 言い切るサクラに我愛羅は興が削がれたような表情をする。他人から一切の興味を失ったような、そんな侮蔑とも取れるような表情であった。

「下らん。忍など所詮捨て駒だ。愚かにも爆撃に巻き込まれた男など、どうせ助けたところで次の戦で死ぬ」
「ッ!」

 我愛羅の仲間を省みぬ物言いに、ついにサクラは目の前が真っ赤に染まる。そして同時に、仲間を殺された時よりも遥かに強く、熱い激情が迸った。
 そしてその思いは掌に乗り、気付いた時にはパン! と高い音を立てて我愛羅の頬を叩いていた。

「それ以上――それ以上怪我人を侮辱するのは許さない! 私の、医者の誇りに掛けて絶対に許さない!!」

 荒れ狂う激情に身を任せ、叫ぶサクラに我愛羅は口を噤み、叩かれた頬に触れることも無く横に流れた顔を元の位置に戻す。目尻に涙を浮かべ、肩で息をするサクラに対し、我愛羅は静かに組んでいた腕を解いた。

 誰もがサクラの死を予想した。

 我愛羅に手を挙げたこともそうだが、反抗すればどうなるか。今度こそ殺されてしまうと信じて疑わなかった。
 だがその最悪の予想を、我愛羅自身が裏切ることになるとは誰も予想出来なかった。

「――では、選べ」
「え?」

 てっきり腕の一本でも持って行かれると覚悟していたサクラであったが、投げられた言葉に目を開く。
 何を選べというのだ、この男は。
 そうサクラが問いかけるよりも早く、我愛羅は続けた。

「その男を助けるために“砂隠の忍”になるか、“木の葉の誇り”を守り、その男を見殺しにするか。二つに一つだ」
「そ、んな――」

 提示された二つの選択肢。だが言葉の意味を噛み砕けば、答えなどあってないようなものだった。

「……分かったわ」

 ぐっと拳を握りしめ、俯くサクラに我愛羅は「決まりだな」と言って目を細める。
 テマリは我愛羅と俯くサクラを交互に見やるが、すぐさまサクラは担架に乗せられた男に近寄り、手早く診察を始める。

「は、春野……?」

 我愛羅の殺気がなりを潜め、ようやく言葉が喉を突いて出たテマリがサクラの名を呼ぶ。だがサクラは目の前の男を診ることに必死なのか、返事をすることがない。
 そしてテマリの言葉に触発されたかのように周囲で黙していた忍達が次々とサクラに近寄り、声をかけていく。

「あの、君……」

 最初にテントに駆け込んできた男がサクラに声をかける。だがサクラは顔をあげぬまま「大丈夫!」と叫ぶようにして声を上げる。

「私は、医忍です。“砂隠”の、医者ですから……。必ず、助けてみせます」

 顔をあげぬまま告げられた言葉に男は目を見張るが、すぐさま唇を噛みしめ、「よろしく頼む」と頭を下げた。
 それを軽く見やった後、我愛羅はもう興味がないと言わんばかりにサクラたちに背を向けテントに向かって歩き出す。

「が、我愛羅……」

 テマリがそれに気付き声を掛けるが、我愛羅はその声を無視してテントへと戻る。

(――また、何も出来なかった)

 自分の弟に対し恐れを抱き、前に出ることが出来なかった。どんなに鍛錬し、技を磨き、戦場では一個小隊を任せられるほど強くなっても、心だけは未だに変わらない。自分よりずっと背丈が小さいままの弟に恐れをなして動けずにいる。そんな自身の不甲斐なさに歯噛みする。

 だがそんな自分とは対照的に、恐れながらも我愛羅の前に立ちはだかり、想いの丈をぶつけたサクラに尊敬の念を抱いた。

 しかしその背からは今、言い様のない悲しみが伝わってくる。

 ――自里の誇りを捨て、他里の忍として生きる――。
 それが如何に辛い選択か、分からない程バカでもない。
 それでもサクラにつけられた呪印も監視の目も、きっと一生解かれることはないだろう。サクラは死ぬまで砂隠の捕虜として生きねばならないことを、今しがた自分自身で決めたのだ。

 ――たった一人の、砂隠の忍を助けるために。

「……すまない……春野……」

 騒ぎを聞きつけ駆けてきた医忍と共に緊急治療を始めたサクラを見ていられず、俯くテマリの肩にそっとカンクロウが手を置く。

「泣くな、テマリ」
「泣くか、バカ」

 必死に唇を噛みしめ、サクラに対する罪悪感と、我愛羅に対し感じた恐れに自己嫌悪する姉の背をカンクロウは何度もあやす様に撫でてやる。
 目の前ではサクラの指示に従いながら駆けつけた医療班が必死に男を治療している。遅れて到着したサソリも麻酔や薬を手早く配合し、男の命を助けるために助力していた。
 その姿をぼんやりと眺めながら、カンクロウもグッと眉間に皺を寄せる。

 我愛羅の兄として、テマリ同様何も出来ない己の不甲斐なさを噛み締めながら。


 血に塗れた夜が明けていく。
 だが勝ち戦に喜ぶ者はそこにはおらず、ただ一人の少女が犠牲になった事に胸を痛めるだけだった。

 こうしてサクラは本当の意味で『死んだ』のだ。己の誇りと矜持を全て投げ捨てたこの瞬間に。『砂隠の忍として生きる』と口にしたこの瞬間に。
 “木の葉隠れの春野サクラ”は、名実共に死を迎えたのだった――。




第二章【仲間】了