長編U
- ナノ -

捕虜 -05-



 手術は明け方まで続いた。
 どうせ深い眠りにつくことのできない我愛羅はこの場であった事を書き記し、父親である風影へと報告する算段を立てていた。患者の容体や使用した薬種までは分からない。その点は後で女に書かせようと決めたところで、ようやく外に朝日が昇り始めた。
 ――明け方か。我愛羅がそう心中で呟くと同時に、手術室の扉が開く。

「成功したんだろうな」

 寝台車に乗った患者の顔色は未だに酷いものではあったが、息はある。それに加え、軽く一瞥しただけでも随所に包帯が巻かれており、死んだようには見えない。
 そんな我愛羅の横を、振動を与えぬよう細心の注意を払いながら薬剤師と看護婦が寝台車を押していく。そうして最後に現れたサクラに問いかけた。

「ええ。大分酷かったけど、何とかね。でも持ちこたえることが出来たのはあの患者自身の力だわ。後は容体を見ながら薬を処方すれば大丈夫よ」

 その答えに我愛羅は「そうか」と答えると、ぐっと足に力を入れ立ち上がる。その動作に疑問を持ったサクラが声をかけるよりも早く、我愛羅は「帰る準備をしろ」と命令する。

「貴様には報告書を書いてもらわねば困る。今回の件についての責任は俺が持つが、執刀したのは貴様だ。一応あの薬剤師たちにも確認は取るがな」

 我愛羅の言葉にサクラは頷くが、歩き出そうとした我愛羅の服を慌てて掴む。

「ねぇ、さっきから歩き方が変よ? どこか怪我でもしてるんじゃない?」

 その問いかけに我愛羅は暫し瞬くが「大したものじゃない」と答えサクラの手を振り払う。だがその手に負けじと「いいから診せて」と診察室まで強引に引っ張った。

「貴様、」

 我愛羅の剣呑な瞳は未だ恐ろしく身の毛がよだつが、それでも医者として怪我をしている人間を見過ごすわけにはいかない。
 確かに仲間を殺し、己を此処まで連れてきたのはこの男だ。だがこの件について責任を負ってくれると言うのだから、その分の恩は返すべきだと思ったのだ。というより、この男に貸しを作るのが嫌だっただけとも言える。

「あなたの怪我を治すことも抵抗だと言うのならやめるけど、怪我を放っておくのはよくないことだわ」
「自分でどうにかする。貴様の助けなど必要ない」

 辛辣な言葉を返す我愛羅にサクラは唇を噛みしめるが、それでも無理やり引きはがす様子のない我愛羅を椅子に座らせ、薄汚れたズボンの裾を捲り上げる。

「なっ――!」

 だが裾を捲った先にあったのは――我愛羅の肉付きの悪い足の側面に、包帯代わりだろう。無造作に巻かれた布切れが溢れる血潮を飲み込みどす黒く変色している。出血は既に収まっていたようだが、大量の血を吸った布は滑り、重く指に圧し掛かってくる。
 我愛羅から投げられる痛い視線をものともせず、患部を刺激せぬよう慎重にそれを解くと、露わになった患部に息をのんだ。

 ――そこはまるで肉を抉り取られたかのように歪に穿たれていた。

「っ、どうして黙ってたのよ!」

 骨は見えていないが、場合によっては足が使い物にならなくなるかもしれない程の傷だった。何故黙っていたのかと医者として堪えられぬ叫びを漏らせば、他の薬剤師たちがどうかしたのかと駆けつけてくる。だが我愛羅は薬剤師たちに何でもないと手を振り、サクラが「ダメよ!」と叫ぶ。

「今から治療するわ。この人をあそこの、一番奥のベッドに運んでください」

 駆けつけた薬剤師たちも我愛羅の傷が目に入ったのだろう。「勿論です!」と頷くと担架を取りに踵を返す。だが我愛羅はそれに対し不愉快そうに舌を打った。

「担架など必要ない。自分で歩ける」
「ダメ! それ以上患部を刺激しないで!」

 無理やり立ち上がろうとした我愛羅に気付き、すかさず「大人しくして!」と肩を押さえつける。強がってはいるものの、やはり患部が痛むのだろう。我愛羅は面白くなさそうに再度舌打ちをするが、今度はその手を払い除けはしなかった。そして担架を手に戻ってきた薬剤師たちによって大人しくベッドまで運ばれる。

「屈辱だ」
「文句なら後で幾らでも聞くわ。でも今は治療をさせて」

 抉られた傷口は生々しく、凝固した血液と肉の断面を露わにしている。こんな傷を負って今まで平気な顔をしていたのかと思うと、サクラは敵であれそれに気づけなかった自身の不甲斐なさに歯噛みした。
 医療忍者として――例え今は砂隠では教える立場に立っているとしても、だ。まだまだ未熟であったと改めて突きつけられたような気がした。だが今は治療に専念するべきだ。落ち込むのは後だと自身に言い聞かせ、早速診察に取り掛かる。


 結局のところ、我愛羅も大層な怪我を負っていた。

 何とか話を聞き出せば、先の戦場で火の国が改良した火縄銃に撃ちぬかれたということだった。それに案の定麻酔をかけ患部を開けば、奥深くから重い鉛が摘出される。
 もしサクラが気付かず鉛をそのままにしていたら間違いなく足が腐っていただろう。忍にとって足は命だ。片腕はくれてやってもいいが、足がなければ任務にもつけない。それを分かっていて黙っていたのか。
 内心では憤慨しつつも冷静に問えば、あろうことか「自分でどうにかするつもりだった」などと不貞腐れたように顔を背ける。これにはサクラも「意地っ張りも大概にしろ」と怒りたい気持ちだった。
 しかし言ったところで聞くような男でもない。それに入院する必要もあったが、確実に拒否するだろう。それが安易に想定できたからこそ仕方なく「痛み止めだけでも服用して」と伝え、薬を処方するだけに留めた。
 我愛羅は暫し逡巡するように口を噤んだが、最終的には――かなり渋々と、といった様子だったが――それを受け取った。

「本当にただの痛み止めだから。もし心配なようなら薬剤師に確認して頂戴」
「ふん、確認したところでたかが知れている」

 疑り深い我愛羅のことだ。自分の処方した薬では安心できないだろう、と思い口にした言葉であったが、何故か我愛羅はそれに対し皮肉げに唇を歪めるだけだった。
 それに対し「どういう意味?」と首を傾けるが、答えてくれるほど優しい男ではない。現に我愛羅は薬を懐に仕舞うとすぐさま「帰るぞ」と告げて歩き出してしまう。

 治療したばかりの足を引きずるように歩く姿は不格好で、もしこれが戦場ならば格好の的だ。幾ら絶対防御があるとはいえ、よくぞ生きて帰って来られたものだと感心する。
 生きようとする力が強いのか、それとも砂隠の兵器として死ぬことが許されていないのか。どちらにせよ化物だとこっそり顔を顰める。

 しかし我愛羅が負傷しているということもあり、帰宅時間はいつもの二倍ほどかかった。事実面倒くさがって走ろうとした我愛羅をサクラがどうにかして止めたのだから無理もない。
 そんな、精神的にも肉体的にも疲労した二人を待ち受けていたのは、食卓につく我愛羅の姉兄と父親である風影――羅砂だった。

「おかえり、我愛羅。と、春野? なんで我愛羅と一緒なんだ?」

 首を傾けるテマリに我愛羅は「色々あってな」と返し、視線だけを寄越す父親に眼を向ける。

「勝手な行動は慎むよう伝えていなかったか?」

 諌める父親に我愛羅はすかさず頭を下げたが、理由を問われ昨夜の出来事から先程までのことを簡潔に説明し始める。それに対し風影も黙って耳を傾け、二人に「報告書を提出するように」と告げると口を閉ざしてしまった。
 風影の立場上仕方ないとはいえ、幾らなんでも息子に冷たすぎるのではないだろうか。
 疑問視するサクラではあったが、ちらりと盗み見た我愛羅が気にしている様子はない。それどころか何の感情も浮かべぬまま自室へと続いているのであろう、階段へと足を掛けている。

「あ、我愛羅!」

 テマリの呼びかけに我愛羅は振り返らぬまま「風呂に入るだけだ」と返す。それに対しカンクロウは「じゃあ風呂に湯でも溜めてやるよ」と返し、よいせと腰を上げた。

「カンクロウ。その前に彼女を牢へと連れ戻せ」

 風影の命令にカンクロウは「了解」と答え、サクラの背に手を当てる。

「……我愛羅、怪我とかしてなかったか?」

 地下へと続く階段を降り始めた頃、カンクロウがぼそりと耳打ちしてくる。それに対しサクラも首を巡らせ、「足に銃創が」と答えれば「そうか」と頷き渋い表情を浮かべる。

「でもあの人、酷い傷だったのに顔色一つ変えなくて……。私が気付かなかったら足が腐っていたかもしれないのに」

 改良型の火縄銃は我愛羅の絶対防御の壁を越えたのか。それとも単に防御が間に合わなかっただけなのか。戦場に出ていないため定かではない。我愛羅自身が語ることもしないだろう。
 しかし我愛羅の“絶対防御”は忍の世界ではそう簡単に破ることの出来ない代物として有名だった。事実我愛羅が負傷したことはほぼないと聞く。そんな男の脚にあれだけの傷があったのだ。幾ら自分の力に自信があるからと言って隠さなくてもいいではないか。
 不満交じりにサクラが愚痴れば、すかさずカンクロウが「それは違うじゃん」と否定する。

「アイツは黙ってたんじゃない。“言えなかった”んだ」
「“言えなかった”?」

 意味が分からず問うサクラに、カンクロウは周囲を伺うように視線を彷徨わせてから「我愛羅には黙っとけよ」と口元に人差し指を当ててから話し出す。

「アイツ、ガキの頃に色々あってよ。人に頼るっつーことができねーんだよ」

 意地っ張りということだろうか。
 悩むサクラにカンクロウは懐から牢の鍵を取り出すと、カギ穴に差し込み扉を開ける。

「だから他人から貰ったものはどんなものであっても口にしない。料理も、あいつは自分で食う分は自分で作るんだ」

 カンクロウの言葉に目を見開き、サクラは困惑気味に口を開く。

「私、あの人に痛み止めを渡したんです。その時『毒薬かどうか心配なら他の薬剤師に確認を取ればいい』って言ったんです。でも『聞いたところでたかが知れている』って言われて……」

 それは暗に『薬剤師たちが信用できない』ということの表れだったのか。そう問いかければ、カンクロウは苦虫を噛み潰したような顔で「まぁな」と首肯する。

「だから多分、お前が渡した薬もアイツ飲まねえかもしれねえじゃん」
「そんな! あんな傷、痛み止めもなしに耐えられるものじゃありません! しかも入院もしないで任務にも出るっていうなら尚更……!」

 だがカンクロウは静かに首を横に振ると、扉を閉めて鍵を掛けた。

「まぁでも、そうやってアイツのこと心配してくるのは嬉しいじゃん。ありがとよ」
「え、」

 カンクロウは苦笑いすると、「じゃあ後で飯運んでやっから」と言って階段を駆け上がっていく。
 サクラは戻ってきた牢の中、ベッドに腰掛けると先程の話を反芻する。

「人間不信、ってことなのかしら……?」

 人に頼ることが出来ない。他人から与えられるものに信用がおけず、口にすることもできない。
 一体どうしてそうなってしまったのか。
 原因があるとすればそれは幼い時にあるという。あの恐ろしい男にそこまで他人を信じられなくするような出来事があったという。それは一体何だったのか。サクラには見当もつかない。

「……あの人は、一体何者なんだろう」

 砂漠の我愛羅は敵である。
 今では己の、そして仲間の命を握る厄介な男であり、やはり敵であることに変わりはない。そんな男のことなど放っておけばいいと囁く自分も確かにいる。だがカンクロウに礼を言われたことが妙に引っかかった。

 本当にあの男は人の心が分からない化け物なのだろうか、と――。

(“アイツのこと心配してくれるのは嬉しい”って……彼は里にとって重要な人物じゃないの? 彼がいないと戦争で勝つことは出来ないとまで言われているのに、どうしてあんなに忌避されているのかしら? まるで疫病神みたい)

 病院でも里の中でも、そして戦場であっても。我愛羅に向けられる視線は決して“好意的”ではなかった。
 それこそ、薬剤師だけでなく看護師たちも我愛羅を見る瞳の中には“恐れ”があった。

(彼が必要とされているのは彼自身ではなく、あの力だけ、ってこと? でもその力は彼自身の物でしょ? 彼を避ければ得られるものではないのに、どうしてあんな……)

 遠巻きに我愛羅を見る視線は、ある種サクラ以上に冷たく、遠かった。

「…………意味が分からない」

 何故彼があそこまで冷遇されているのか。それとも力があるからこそ恐れられているのか。
 悩んだところで答えなど出るはずもなく、サクラは仕方なくため息と同時にベッドに背を預けた。


 ◇ ◇ ◇


 その後、サクラに食事を運んできたのはテマリだった。本来なら戦から戻ってきた我愛羅が運んでくるのだが、風呂に入っているのだろう。しかし縫い合わせた患部のことが気になる。痛み止めも飲まないと言うのなら一緒に処方した薬も塗らない可能性があった。
 それに、自分で巻いたのだろう。包帯代わりに巻かれた布切れの無造作な巻き方を思い出せば余計に気になる。
 だがそれを口にするのは何となく憚られ、ただ黙々と運ばれた食事を腹の中に押し込んでいく。

「春野。今日は講義の前に我愛羅と一緒に風影邸に行くんだ」
「あ。手術のこと、ですよね」

 問いかければテマリは頷き、食事を終えたサクラに筆記具を渡す。

「我愛羅が来る前に報告書仕上げちまいな」

 一瞬ここで見聞きした里の状態をこっそり記しておこうかとも思ったが、ばれた時のことを考えると躊躇してしまう。だが筆記具を与えられることなんてこの先ないだろう。やはりここは少しでも情報を残しておくべきか。
 悩みつつもテマリの言葉には従順に頷き、先に報告書を仕上げることにする。何にせよここを乗り切らなければ後には続かない。
 しかし勤勉なサクラはいつしかそれに没頭しており、テマリが食器を片づけるために一旦上に戻った事にさえ気付かなかった。そのうえ入れ替わるように降りてきた我愛羅にも暫くの間気付くことが出来ず、黙々と報告書に筆を走らせるばかりだった。

「よし、出来た!」

 書き終えた報告書にざっと目を通し、これでいいかと筆記具をテマリに返そうと顔を上げた所で、いつもと変わらぬ仏頂面が己をじっと見つめていることに気付き悲鳴を上げてしまう。

「失礼な女だな」

 咄嗟に退いたサクラの背に硬い砂の壁が当たる。狭い牢屋に逃げ場などない。だが無意識とは恐ろしい。忍の習性として相手の間合いから離れようと体が動いたのだ。そんなサクラに対し我愛羅は不服そうに顔を歪め、チクリと言葉で刺してくる。
 だがサクラとて報告書を書く姿など見られているとは思わなかったのだ。
 しかし相手に気付かなかったなど忍失格だ。内心ではかなり動揺し、また猛省していたが、この場は笑って誤魔化そうとする。我愛羅に効くのかは謎だが。

 それにしても、とサクラは改めて反省する。
 幾ら地下牢に閉じ込められているとはいえ、敵が来ないとは限らないのだ。一体何を気を抜いているのかと間抜けな自分にため息を零していると、我愛羅が牢の隙間から手を差し出してくる。
 何事かとその手を見下ろせば、「早く渡せ」と告げられ、慌てて報告書と一緒に筆記具を返した。だが我愛羅の手がそれを受け取ったことでようやく報告書しか書いていないことに気付く。が、完全に後の祭りだった。

「貴様は俺と共に風影邸へと行くことになっている。準備はいいか」
「私はいつでもいいけど……」

 十分な睡眠は取れていなかったが、サクラとて忍だ。睡眠時間が短くとも活動に支障はない。これが何日も続けば話は別だが、今のところそこまで酷使する気はないようだった。
 サクラの答えに我愛羅は頷くと懐から鍵を取り出す。そして牢を開けるために近づいてくるが、そのたかだか数歩しかない距離でさえ片足を引きずるようにして歩いているのが目についた。それを無視することは流石に出来ない。

「あの……薬、飲んでくれた?」

 その問いに我愛羅の指がぴくりと跳ねる。どうやら飲んでないらしい。やはりそうかと視線を僅かに落とすが、我愛羅は意に介した様子はない。ただいつも通り扉を開けると「早く出ろ」と促してくるだけだ。
 言動はいつも通りだが、やはり足を負傷している分足取りは遅い。普段が早い分余計気になる。忍だろうが敵だろうが、医者として痛みを我慢し、無理にでも歩いている姿は痛ましい。

(敵に塩を送るわけじゃないけど、この人本当に大丈夫かしら?)

 顔色が悪いのは常の事だが、今日はそれに拍車がかかっている。
 当然だ。痛み止めも飲まずにあの銃創を庇いつつ歩いているのだから、並の精神力と意地の張り方じゃない。正直少しばかり呆れてもいる。サスケもナルトもだいぶ意地っ張りの負けず嫌いではあったが、ここまでの無茶は流石にしないだろう。

 だが我愛羅は敵だ。これ以上気に掛ける必要はないと首を振って目を逸らす。己の目の前で仲間の命を奪った憎き仇なのだ。「情けを掛ける必要はない」と何度も言い聞かせながら、辿り着いた風影室の扉を我愛羅の背に続いて潜る。

「我愛羅。それから春野サクラ。昨夜のことを両名の口から改めて報告してもらいたい」

 飛び交う砂塵を背景に、執務机の上で手を組んだ風影が二人を出迎える。
 風影は息子である我愛羅に負けず劣らずの仏頂面ではあるが、やはり風影の方が幾分か表情が厳しい。貫録、とでも言うのだろうか。全身から発せられる威圧感は凄まじく、顔つきも厳めしい。
 無意識にその気迫に飲み込まれそうになっていると、隣に立っていた我愛羅が一歩前に出る。

「先程春野に報告書を書かせました」

 我愛羅はそう説明しながらサクラが書いた報告書と、それから自らが書いたのだろう。別の書類を懐から取り出し、風影に渡す。それを受け取った風影は素早く目を通すと、改めて「詳しい説明を」と二人に視線を投げてきた。
 そこでサクラはようやく風影から発せられる気迫に解放されたように口を開き、事の顛末を改めて――あらぬ疑いをかけられぬよう――詳しく説明し始めた。


 ◇ ◇ ◇


「成程な」

 二人の説明に風影は頷くと、受け取った報告書を机上に置く。その隣には現場にいた薬剤師と看護師たちから提出された報告書が並んでいた。それらを見比べ、サクラが不正をしていないという確証が得られたらしい。「今回は特例として先の行動を認めよう」と了承の判を押す。

「だが今後このような行動は慎め」
「分かりました」
「はい。申し訳ございませんでした」

 頭を下げる二人に風影は再度頷き書類を片付ける。常ならばここで立ち去っていいはずなのだが、解散の声がかかる様子もない。まだ何かあるのだろうかと視線をうろつかせていると、風影が我愛羅を呼んだ。

「サソリから“あの話”は聞いたか」
「いえ、直接は聞いていません。カンクロウから聞き及びました」

 二人のやりとりは自分に関係があることなのだろうかと疑問に思っていると、我愛羅に名を呼ばれ意識を戻す。視線を上げた先には謀らずしも似通った仏頂面が並んでおり、思わず頬が引き攣る。

「こちらへ来なさい」

 風影に促され、居心地の悪さを感じつつも恐る恐る我愛羅の隣に並ぶ。だが我愛羅はサクラを一瞥することもなくじっと窓の外を見つめるだけだった。

「急な話だが、君の上司である赤砂のサソリから要請があった」
「要請、ですか」

 あの男がわざわざ風影を通す内容とは何なのか。疑問と同時に警戒心を抱いたが、すぐさま放たれた衝撃的な一言に思考が止まる。

「君を“砂隠の忍として迎え入れたい”――とな」
「なっ――?!」

 目を見開き驚くサクラに、風影は一枚の書類を取り出し、それを机上に広げる。

「サソリが君に作らせた毒薬の一覧表だ。実にすばらしい出来だと褒めていた」
「た、たしかに……それは私が作ったものですが……」

 まさかこのために十種類の毒薬を作らせたというのか。呆れと怒りがない交じりになった頭で、ここにはいない不遜な男の姿を脳裏に浮かべて悪態をつく。
 だがあの男、人の頭の中だと言うのにまるで嘲笑うかのようにニヒルな笑みを浮かべる。むしろ完全に小バカにしていたため、咄嗟にサクラは拳を握って脳内でサソリを殴り飛ばした。
 そんなサクラの脳内など知る由もない風影は困ったように吐息を吐きだし、腕を組む。

「確かに君の実力は本物だろう。君の講義を受けた医忍の一人が先日、戦場で受けた毒を自力で解毒した。君から教わっていた方法でな」
「それは……」

 返答に窮するサクラに構うことなく、風影は話を続ける。

「他にも薬剤師たちから君の実力を認める声が届いている。薬学に乏しい砂隠からしてみれば君の知識は実に有難い」

 組んだ腕を解き、試すように見つめてくる風影の目を見返すことが出来ない。
 確かにサクラは嘘偽りのない、真実の講義をした。人の命を救う、医忍の誇りを伝える講義だ。だがそれは捕虜として、己が逆らったら仲間の命が危ういからだと命令されているからだ。本当に砂隠の人たちを思ってした事ではない。

 ――火の意志を継ぐ者として、それだけは出来なかった。

 それが何故か、今は重く圧し掛かってくる。

「だが私としてはこのまま君を捕虜として拘束しておきたい。しかしサソリが君を自分の助手にしたいと無茶を言ってきてな。君からも説得するといい。『そんな無駄なことはやめろ』とな」

 風影の突き放すような物言いに思うことはあったが、反抗する気は起きずただ視線を逸らす。
 仲間を裏切り、敵の一味になるなんてまっぴらごめんだ。
 そう思う心はある。だが如何に敵とはいえ、苦しむ人たちから目を背けるのは良心が痛む。医者として、患者から目を背ける行為は決して褒められるものではない。その気持ちが強く根付いているからこそ、サクラはどちらにも振り切れずに迷ってしまう。
 視線を、思考を、泳がせることしか出来ないでいる。
 そんな自分が不甲斐ないと、自分が一番感じている。それでもすぐさま答えが出せず、無言を貫くしかなかった。

 そんなこと、すぐに決められるはずがないのだから。

 押し黙るサクラを尻目に、我愛羅は無言を貫き、風影は一度嘆息してから「下がりなさい」と二人に命令する。

 ようやく解放されたことに安堵し、二人は共に一礼してから執務室を出る。
 大して重さはないはずなのに、やけに重く感じる扉を音を立てないよう注意しながら閉める。そして廊下を歩きだしたところでようやく肺に溜まっていた空気を吐き出し、無意識に緊張して張っていた肩を下した。
 本日サクラに講義はない。それにサソリが警備に出て不在の為薬を作ることも出来ない。久々に一日を牢で過ごすことになるのかと別の意味で重い吐息を吐きだしそうになったところで、我愛羅から「おい」と声を掛けられた。

「女、貴様の予定を教えろ」

 無機質に投げられる声は平素と変わらない。足の痛みなど感じていないかのような、あまりにもいつも通りな、単調な声だった。

「今日は何もないわ。講義も、サソリさんの手伝いも」

 その答えに我愛羅は「そうか」と頷くと、「では帰るぞ」と告げて歩き出す。この際片足を引きずるような歩き方には目を瞑るが、我愛羅の焦点が上手くあっていないことが気になった。
 執務室に着いてから気づいたのだが、焦点が合っていないだけではなく呼吸も浅かった。これは確実に熱が出ている。
 それもそうか。あれほどの傷を負ったのだ。銃弾を取り除き、そこを縫合する際に使用した薬に体が反応しているのだ。本来ならば安静にするべきなのに、この男は忠告を受け入れずこうして外に出ている。自業自得だ。

 幾ら人間不信だからと言って、医者でもある自分の言葉すら疑うのだから多少は突き放したくなるというもの。だが医者だからこそ迂闊にサクラを信じることが出来ないという可能性もあった。
 診断内容も、渡される薬も、それらが全て真実で毒物でないという確証が我愛羅自身では取れないからだ。
 加えて重度の人間不信ときた。これでは例え砂隠の薬剤師から薬を処方されてもまともに口にすることはないだろう。全くもって難儀な男だ。

 サクラとて忌まわしい記憶は多々あるが、それを乗り越えて初めて成長できることも知っている。かつて自分も、そう歳の変わらぬ少女たちにいじめられていた過去がある。珍しい薄紅の髪を引っ張られ、広いおでこをからかわれ、それを隠したくて伸ばした髪が「お化けみたいで気持ち悪い」と何度も罵られ、後ろ指を指されてきた。
 今思い出しても胸の奥がズキリと痛む。幼い頃に負った傷は大人になっても未だに痛い。だがそれを乗り越えたからこそ、今のサクラがあるのだ。

 ただそう思えるようになったのはサクラの親友であり、ライバルである『山中いの』がいたからなのだが、我愛羅にはそのような存在がいなかったのだろう。
 何せ家族が作った料理でさえ口に出来ないというのだ。一番関係が強い家族ですら信じられないと言うのであれば、他者に対し信頼を覚えることなど出来るはずもない。実際連れ去られてからサクラが見た限りでは、我愛羅に“友”と呼べる存在はいないように思えた。

 おそらく彼は“孤独”なのだ。

 何故そこまで他人を厭うのか。何故そこまで他者を拒絶するのか。
 サクラには分からない。分かりたくもない。
 何故なら、もし知ってしまえば、最悪我愛羅に復讐することを躊躇してしまう。仲間の命を奪った男に絆されてしまう。――そんな気がしたのだ。

 だからこそ、敢えて目を反らした。

 誰とも相容れない、受け入れることも、分かち合うこともきっと出来ない。そんな孤独な男の背から、無理にでも目を反らした。

 ズキズキと痛む胸は、忌まわしい記憶を呼び起こした時とはまた違う痛みを呼んでいた。






第一章【捕虜】了