長編U
- ナノ -

捕虜 -01-



 両手に掛けられた手錠が不快な音を立てる。嵌められたそれはズシリと重く、肌に食い込むようだった。
 窓のない地下牢に陽は差さず、硬いベッドの上でサクラは「うっ、」と苦し気な声を漏らしつつ上半身を起こす。
 寝起きで回らない頭を僅かばかり左右に振れば、上方からコツコツと床を叩く靴音が響いてきた。

「起きたか、女」

 地下牢に嫌というほどに響いていた靴音が格子の前で止まり、同時に投げかけられた言葉は冷たく無感情だ。おそらく道具に声をつけたらこんな感じだろう。それほどまでに抑揚も何もないソレは、サクラの肩を僅かに震わせる。
 声を無視することも出来ずに視線をあげれば、そこには小柄な男が一人、トレーを片手に持って立っていた。

「食え」

 無造作に置かれたトレーの上には、本日初の食事が載っている。とはいえ決して褒められたものではない。
 冷え切ったスープに小ぶりなパンが一つ。それからコップ一杯の水が鎮座するだけだった。

「俺は今日から戦場に出る。昼からの監視はテマリだ。分かったな」

 男はそれだけ言うと牢の斜め前に設置された椅子に腰かけ、背を向ける。その冷たい声音に対し、サクラはただ「はい」と頷く。
 地下に響く声は、それで途切れてしまった。



 鋼の心 第一章……捕虜



 サクラが男に捕えられたのは、今より少しばかり時を遡る。

 それは夏の終わり――戦争で手足を失った患者たちの包帯を交換している時のことだった。
 第一前線から少しばかり後退した、第二前線にある本部横の医療テント。そこで砂隠の忍である“砂漠の我愛羅”から夜襲を受けたのだ。

 テントの隙間から入り込んだ砂が形になるのは早く、抵抗しようとする患者を掴んでは引きずり回し、辺り一面におびただしい量の血潮が舞う。
 それこそ子供たちがホースを繋いでいた蛇口を目いっぱい捻り、悪戯に遊ぶかのような酷い有様だった。見る者によっては『壊れた噴水』と称したかもしれない。それ程までにその奇襲は残酷に、そして冷淡に行われた。

 錯乱した者は数名。すぐに動ける者たちが横にある本部はどうしたのかとテントを裂けば、目を疑いたくなるほどの砂が津波のように押し寄せ、周囲の木々を薙ぎ倒しながらすべてを飲み込んでいく。
 人も、悲鳴も、何もかも――。
 そうして後に残ったのは、まるでそこだけ砂漠になったかのような、乾いた砂ばかりだった。

『ここに“春野サクラ”という女はいるか』

 無機質に響いた声に皆の視線が一斉に動く。あろうことか奇襲を掛けた男は、忍らしからず堂々と真正面から入り込んできたのだ。
 しかもそこに立っていたのはサクラとそう身丈の変わらない、幼い顔をした少年だった。
 だがそれで気を抜く面々ではない。何せその少年が“砂漠の我愛羅”であることを知っていたからだ。

 そう。“砂漠の我愛羅”だ。
 彼はこの戦争で最も恐れられている忍の一人である。幾ら小柄で幼い顔立ちをしているとはいえ、見た目に騙されてはいけない。
 我愛羅が繰り出す技はそこいらの忍が太刀打ちできるものではないのだ。

 膨大なチャクラに、それを操る技術。ただでさえ尋常ではない力を持つうえに、手数も多く油断は出来ない。更には彼が扱う媒体は最も身近なもの――砂だ。ようは土さえあればどこでも戦えるという規格外の力を持った男なのだ。
 とはいえ彼が戦場で名を上げているのはそれだけではない。我愛羅を我愛羅足らしめている要素はというと――

『うおおおお!』
『待って! ダメ!』

 簡易ベッドから転げ落ちるように一人の忍がクナイを取り出し、それを勢いよく投げつける。
 しかしその鋭い切っ先は白い肌に傷一つ付けることなく、立ち昇った砂によって阻まれた。

『クッ……! これが噂に聞く“絶対防御”か……!』

 サラサラと流れ落ちる砂と共に、投げ打ったクナイが乾いた音を立てて地面に落ちる。その音は周囲にいる者たちの緊張感を否応なく高めた。

『フンッ。死にぞこないの雑魚が』

 嘲るような台詞とは裏腹に、絶対零度の瞳は何の感慨もない。落ちたクナイにさえ一瞥をくれてやることなく、我愛羅はそこに立ち続けている。
 そう。我愛羅の名を戦場に轟かせているのは、あらゆる攻撃を全て弾く『絶対防御』にある。

『サクラさん……!』

 医忍の一人が震える手でサクラの袖を掴む。患者たちの多くは投げ飛ばされた衝撃で意識を失い、方々で倒れていた。

 ――何としてでも彼らを助けなくては――。

 サクラはドクドクと脈打つ心臓を、緊張と恐怖で硬くなる自身を落ち着けるように深呼吸をし――怯みそうになる気持ちを押さえつけ、前に出る。

『私が春野サクラよ』

 チクチクと肌を突き刺す冷たい視線に負けじと睨み返すが、額に浮かんだ汗を止めることは出来なかった。
 もし後ろに患者や他の医忍たちがいなければ、我愛羅の放つ殺気と威圧感に膝を折っていたことだろう。そんなサクラに対し、我愛羅は無機質な声音で淡々と告げる。

『貴様を生け捕りに来た。抵抗するならこの場にいる全員を殺す』

 言葉にすると同時に我愛羅の足元から幾多の砂の腕が伸びてくる。それはサクラたちを誘うかのように、あるいは嘲笑うかのように、ゆらゆらと揺れては開閉する。
 あの砂に捕まればひとたまりもない。事実幾ら負傷しているとはいえ、中忍や上忍が一瞬で意識不明の重体に追いやられたのだ。怪我がないとはいえ、女であるサクラに――例え他の医忍と連携を取ったとところで――敵うとは思えなかった。

『……私が素直について行けば、此処にいる全員の命は見逃してくれるの?』

 震えそうになる足を叱咤し、何とか立ち向かうような姿勢で尋ねる。だが男は憮然とした態度を崩しもせず、まるで「興味がない」と言わんばかりの声音で「さあな」と答えるだけだった。

『さあなって……!』

 そんな無責任な、と続けようとしたところで、後ろから髪を四つに縛った女が入ってくる。

『我愛羅、横の本部隊の奴らは始末した。あとは此処だけだよ』
『そうか。分かった』

 ――始末。
 本部の人間が誰一人として生きていないという発言に目を剥けば、男は腕を組み、数度瞬く。

『女。早く決めろ』
『……分かったわ』

 サクラの返事に、後ろにいた部下の一人が「そんな!」と声を上げる。だがそれに答える余裕はなかった。

『では行くぞ。女』

 一切の感情を感じさせない、無機質な瞳はどこまでも暗く、底が見えなかった。
 それこそ地面に穿たれた巨大な穴を覗き込むような――。そんな、言い様のない恐ろしさを秘めた瞳だった。

 男は己の力に絶対の自信を持っているのだろう。あっさりと身を翻した背を睨みながらサクラが一歩前に踏み出した。――その時だった。

 誰かがサクラの名を呼んだ。

 だがもし反応して振り返れば、たちまち男の手が皆に向けられそうで恐ろしかった。だからこそ無視をした。して、しまった。良かれと思って。皆を守るためだと言い訳をして。
 だがあくまで“逃げた”だけだ。決して“守る”という行為とは程遠い行動を咎めるかのように、あるいは縋るように。その手は掴んでしまった。

 そう。“掴んでしまった”のだ。他の誰でもない。我愛羅の足を。
 引き倒された衝撃で気を失っていた彼は事の成り行きを理解出来ず、掴んでしまったのだ。
 咄嗟にサクラが声を上げて止めようとするが、実際はそれよりも早く砂の腕が動いた。獲物を狩る獣のような、一瞬の隙をついた目にもとまらぬ速さだった。

『残念だったな、女。こいつらは自ら死を選んだ』
『待って! 彼は気を失ってたのよ?! 私たちの話を聞いていないはずだわ!』

 患部を強く握りしめられ、患者の口からは断末魔と呼べるほど苦痛に塗れた声が零れる。だが我愛羅にはその声が聞こえていないかのように冷ややかな目で男を一瞥すると、組んでいた片手を伸ばし、広げていた掌をぐっと握りしめた。
 その瞬間――我愛羅の動きに連動するかのように、患者を掴んでいた砂の腕がその体を握り潰した。

 到底人の力では敵わぬ、圧倒的で、一方的な殺戮だった。

『――――――』

 ――絶句。
 言葉はおろか呼吸すら忘れるほどの衝撃が襲い掛かってくる。それこそ後ろから思いきり殴られたかのようだった。
 それでも震える膝を、全身を奮い立たせて何とか踏み止まった。しかしその足元には、震えるサクラを嘲笑うかのように、殺害された患者から流れ出した血がじわじわと押し寄せて来ていた。

『女。一つ教えてやろう』

 遅れて上がる悲鳴がテント中に響く中、固まるサクラの前に立つ男は再度腕を掲げた。

『“はず”という言葉は口にしないことだ。曖昧な言葉は相手を引きとめる言葉として相応しくない』

 そう言ってサクラを一瞥した男の瞳の恐ろしさを、きっと忘れることが出来ないだろう。
 嘲笑でも侮蔑でもない。氷のように冷たく、けれど淀んだ瞳は何の戸惑いもなく次々と命を奪っていく。全身を織りなす細胞の一つ一つが危険信号を発し、“ここから逃げろ”と叫びだす。
 だがその思いとは裏腹に視界はどんどん狭まくなり、呼吸が荒く、浅くなっていく。

 ――助けなきゃ。皆を、患者を、助けなきゃ。
 頭では分かっていても、サクラの体はピクリとも動かなかった。ただドクドクと心臓が忙しなく脈打ち、全身に響き渡っていた。

 “生きている”。

 そう。サクラはまだ生きているのだ。そして逃げ惑う彼、彼女たちもまた、生きているのだ。
 だが立ち竦む体は冷水をかけられたかのように震えて動かない。ガタガタと歯の根もかみ合わないサクラに向け、男は砂を操るもう一方の腕を向けた。途端に周囲を蹂躙していた腕の一つが抵抗する暇もなくサクラの体を拘束し、そのまま外へと投げ飛ばす。

『うぐっ!』
『そこでよく見ているんだな。自分の仲間が無様に死んで逝くのを』
『やめて!』

 声の限り叫んだ。あらゆる感情を込め、あらん限りの声で叫び、懇願した。
 だが作り上げられた砂の腕は容赦なく患者を、仲間を、部下を、先輩を掴んでは握り潰していった。

 抵抗なんて殆どできなかった。

 医忍は前線に出る忍ほどチャクラの量が多いわけでも、実戦経験が豊富なわけでもない。更にはテントにいる者の多くが負傷者だ。万全な状態の敵に敵うはずがない。
 地面から湧き出た砂の腕は立ち塞がる者も、縮こまって震える者も関係なく呑み込み、押し潰していった。

『さ、くら……さん……』

 まだ医療忍者になったばかりの、それも先日十五歳になったばかりの少女が呆然とするサクラに向けて細い腕を伸ばす。だが拘束された体ではその腕を取ることも、傷を癒し、助けることも出来ない。
 少女はサクラの目の前で――それこそたかだが数メートル程しか離れていなかったその場所で――砂に押し潰され、ただの肉塊へと変貌した。

 鼻につく血臭も、鼓膜を引き裂かんばかりの悲鳴も、もはや分からなくなっていた。

『これで全員だな』

 目の前で起こった惨劇にサクラは何も出来なかった。“やめてくれ”と懇願することさえ出来なかった。いつもなら迫ってくる吐き気すら感じず、心も体もここではないどこかに旅立っているかのようだった。
 ただただ目の前で殺されていく仲間たちの悲鳴を聞き続けた。だがその声が脳裏に焼き付く前に、男は全てを蹂躙し、圧し潰し、葬った。

 誰も敵わなかった。何も出来なかったサクラとて例外ではない。
 我愛羅はサクラの仲間だけでなく、心まで完膚なきまでに叩き潰し、殺しつくしたのだ。

『テマリ。カンクロウ。こちらも終わった。女を連れて帰るぞ』

 男はどこにそんな力があるのか、サクラとそう変わりのない身丈の癖に固まったまま動けずにいるサクラを軽々と拾い上げて歩き出す。

『我愛羅、担いで帰ると時間かかるじゃん』
『ならば黒蟻を出せ』

 周囲を警戒しつつ話しかけて来たのは、黒子のような格好をした男だ。顔には木の葉では珍しい隈取の化粧がされており、その口調と相まって酷薄そうな印象を受ける。
 その男は我愛羅に言われるがまま地面に巻物を広げ、そこから飛び出してきた樽のような物体に手を掛ける。その上部には不気味な頭部がついており、目を向けてしまったサクラは咄嗟に叫びそうになった。
 だが悲鳴を上げるよりも早く、その不気味な樽人形の大きく開いた腹部の中に無理矢理押し込められてしまう。

『行くぞ、我愛羅。カンクロウ。夜が明ける前に此処から出ないと、第一前線にいる敵に狙われるからね』
『分かってるじゃん』
『御託はいい。さっさと行くぞ』

 硬い木製の檻の中で、サクラは無様に拘束されながら前線を後にした。己の不甲斐なさに悔し涙を流すことも、失った命に懺悔することも出来ないまま、ただ心ここに非ずな状態で連れ去られた。
 それは火の意志を継ぐ忍として、何とも情けない、蒸し暑い夜だった。