事件 -02-
『今度会ったら――また、一緒に星を見よう』
木の葉に帰る前。我愛羅と交わした“約束”を思い出しながらサクラは自室の窓を開け、町中を見下ろす。
「明日はアカデミーの見学、その後に昼食会。それが終われば帰っちゃうのよねぇ……」
まだ同盟を組んだばかりの里同士だ。一度に情報を詳らかにするわけにもいかず、またどこまで見せるのかも問題になってくる。そのため今回は『木の葉の里全体の空気』と『アカデミー』に焦点を当てたのだ。
一行にはハードなスケジュールかもしれないが、まだ同盟に反対する者たちも多い。彼らの反感をこれ以上買わないためにも、これ以上の情報公開は出来そうになかった。
「まだまだ先は長い、か」
砂隠一行が木の葉に来る前。ぼやいたミナトの言葉をサクラは繰り返す。
ミナトも自来也も我愛羅に対し敵対心はない。むしろ『ナルトと同い年の子供』と言わんばかりに穏やかに接している。自来也の場合は孫のようでもあるが。それでも確かに、穏やかな目を向ける二人に我愛羅も随分と心を許している様子ではあった。
「砂隠ではどうなのかしら。結局テマリさんには聞けなかったな」
聞くタイミングはあった。それこそ温泉に浸かっている時にでも聞こうと思えば聞けたのだ。だが周囲には木の葉の人間しかいない。そんな中砂隠の話をさせるわけにはいかなかった。
彼女たちの中に反同盟派の人間がいないとは限らない。だから根掘り葉掘り聞くことが出来なかったのだ。
「はー……。折角会えたのになぁ。あんまり話、出来なかったなぁ」
以前は我愛羅と会話をする人間はサクラとサソリ以外殆どいなかった。だがこちらに来てからはナルトを始めとした多くの人間が我愛羅と接し、また言葉を交わした。
あのシカクでさえ昼食会の時は我愛羅と会話をしたのだ。それを思うと嘆いてばかりはいられない。それに、我愛羅自身以前よりずっと受け答えが穏やかになっていた。端的な返事は時折あるものの、自分の気持ちを少ない言葉で伝えようとする姿は以前とは雲泥の差だ。
いい傾向だと思う。我愛羅にとって今回の訪問がより人生に刺激を与え、知識を深めるものになって欲しいと思う。
だが一方でまた、自分としかまともな会話を交わさなかった頃が懐かしくもある。あの頃は我愛羅にとって自身の気持ちを伝えられる相手はサクラしかいなかった。そしてサクラも自分の弱いところを全て曝け出した相手である。思い入れは深い。
だからなのだろうか。今日あまり言葉を交わせなかったことが妙に寂しく感じるのは。
サクラは時計の針が静かに時を刻む音を聞きながら大きく息を吸うと「悩んでもしょうがないか!」と背を伸ばしてから立ち上がる。
「眠気が来ないんだからしょうがないわよね。別に深い意味なんてないんだから」
忍なのだから窓から出入りすることなど多くある。むしろ自室に靴を忍ばせておくなど常識だ。サクラは机の下に置いていた箱の中から靴を取り出すと足を通し、するりと窓から飛び降りる。
木の葉は夜になろうとどこか明るい。それは夜遅くまで営業する店が多く、家々の灯りも半数近く消えていないからだ。
砂隠は土地柄的な問題なのか、店の営業時間は木の葉と違って短い。祭りや何某かの行事の時は遅くまで営業するが、普段は違う。砂嵐が襲ってきた時などは営業すら出来ないのだ。
それに木の葉と違い提灯など道を照らす道具も少ないため、夜道は暗い。例え家々の灯りが付いていたとしても木の葉ほど町全体が明るく見えることはないのだ。
だからこそ余計に星が鮮やかに、ハッキリと見えたのだろう。
サクラは空を見上げてから溜息を零す。
「これじゃあ星、あんまり見えないわね」
町の中は未だ明るく、空には雲も出ている。星は見えないことはないが、欠けた月の存在もあって砂隠にいた時よりも見えにくい。今夜は忍にも観測にも向かない日だ。
それでも町中を歩くサクラの足先が自宅に戻ることはなかった。
◇ ◇ ◇
「おっし、寝るぞ!」
宿につき、女将直々に部屋へと案内された砂隠の一行は、既に敷かれていた布団を前に寝る準備に入っていた。
どうやら相当にお疲れらしい。
普段ならバキも「少し待て」と今日学んだことを報告書に纏めるよう指示を出したが、あのバキでさえ自来也に振り回されたのだ。心労が重なった二人は「早朝にやれば問題ないはずだ」と珍しく意見を一致させていた。
事実一度睡眠をとって体力を回復した方が頭もスッキリして明瞭な報告書も書けるというもの。それは子供達も変わらない。
部屋の構造として大人と子供で布団が敷かれている位置は離れているものの、間取りが続いているため実質同室だ。それでもテマリが眠る予定の布団とカンクロウたちとの間には仕切りが置かれているため、配慮はされている。
そんな中「もう寝るのか?」と声を上げたのはテマリだけだった。
「賛成。俺はもう寝るじゃん」
「テマリ。悪いが俺も先に休む。お前もたまには早く寝なさい」
「バキ先生?! 幾らなんでもまだ早すぎじゃないか? まだ十時だよ?」
むしろ十時になったばかりである。アカデミー生でもあるまいし。と言わんばかりに驚くテマリに対し、サソリは疲れた目を向けた。
「言っとくが、俺たち保護者の同伴なく勝手に宿を出たら罰則だからな。眠れねえからっつって遊びに行くんじゃねえぞ」
「分かってるよ」
「眠れねえなら睡眠導入剤をやる。それが嫌なら大人しく寝ろ」
よほど疲れが溜まっているのだろう。イライラし始めたサソリにテマリも「八つ当たりしやがって」と内心で呟きながらも渋々布団に潜る。
実際ミナトとの戦闘に加え、自来也を止めるために精神的にも肉体的にも疲労を重ねた身だ。幾らサソリと言えどいい加減倒れそうであった。
「おら、いいから寝ろ。さっさと寝ろ。秒で寝ろ」
「うるさいね! 分かったからお前もさっさと寝ろ!!」
「たりめーだ。カンクロウは……もう寝てんな。相変わらずコイツ寝つきだけはいいよなぁ」
寝起きはアレだが寝つきはいいのだ。既にスヤスヤと眠るカンクロウにサソリは呆れたような吐息を零し、続いてその隣で開け放した窓の向こうを見ていた我愛羅に近付く。
「おら坊ちゃん。お前もさっさと横になれ」
「む。だが……」
「いいから寝ろ。あと、勝手に出て行くんじゃねえぞ」
「分かっている」
わざわざ目線を合わせるようにしゃがんでまで忠告してくるサソリに、我愛羅は「疑われているのだろうな」と冷静に判断しながらも布団に入る。ここにはサクラがいるのだから疑うのも無理はない。
それでも我愛羅が布団に入って目を閉じたのを確認すると、引率者であるバキが電気を消した。
「俺たちも寝るか」
「そうだな」
何だかんだ言って引率者としての責任がある。サソリは「ようやく一日が終わった……」とぼやきながら布団に入ると、カンクロウのことをとやかく言えないレベルで寝落ちたのだった。
そして初めは文句を言っていたテマリも、いつでも眠れるよう訓練しているためかすんなりと眠りにつく。そんな一行が落ちた空気を肌で感じながらも、我愛羅は閉じた瞼を開けてぼんやりと天井を見上げていた。
(眠れないわけではないのだがな。今日は守鶴の機嫌が悪かったから、会えば文句を言われるだろう。あまり眠りたくないな)
木の葉に行くことが決まった時、守鶴は我愛羅の中で大いに暴れた。どうやら木の葉の里にいるとされる尾獣――九尾が嫌いらしい。我愛羅はひたすら聞かされた愚痴を思い出しながら考える。
(九尾がどこに封印されているのかは知らんが、守鶴が表に出てくることはないはずだ。……多分)
もし自分がうっかり眠ってしまい、その際守鶴が出てきて九尾と争い始めたらどうしようか。そんなことをうっかり考えてしまった我愛羅は慌てて起き上がり、首を振る。
別に守鶴が信じられないわけではない。この数ヶ月で我愛羅と守鶴の仲は随分と深まった。今更『化物』と罵ることも、守鶴に対する不信感もない。だが、それでも――。
(九尾側がどうかは、分からない)
もし九尾の封印が解かれ、町に来てしまったら? その時は幾ら我愛羅と言えど守鶴を止められる自信はない。むしろ人と尾獣が争うより尾獣同士で戦った方が人的被害は少ないかもしれない。町中はめちゃくちゃになるかもしれないが、それはそれ。生きてさえいればどうにかなる。
我愛羅はグルグルと考えながらもそっと閉めたばかりの窓を開け、夜風に髪を遊ばせる。そうして見上げた夜空には星が幾つか瞬いており、ふとサクラが木の葉に帰る間に約束したことを思い出した。
『今度会えたら――』
そう、自分から口にした一方的な願いをサクラは受け入れてくれた。あれから随分と季節は過ぎてしまったが、サクラは忘れずに覚えてくれているだろうか。
そんなことを考えている時だった。ヒラヒラと視界の端で白い手が蠢く。一体何かと思い視線を落とせば、それこそ今の今まで脳裏に思い浮かべていた少女が手を振っていた。
「サ――」
思わず名前を呼ぼうとして口を塞ぐ。代わりに片手で「少し待っていてくれ」と伝え、背後を振り返る。サソリから「勝手に出て行くな」と釘を刺されたばかりではあるが、寝入るサソリとバキを起こすのも忍びない。
というよりようやくサクラと二人きりになれそうなのだ。このチャンスを逃したくはない。
しかし木の葉で『最も危険な人物』として知られている自覚がある。サソリたちに黙って宿から出ることは出来ない。外交問題に繋がるからだ。だが、それでも――。
(宿の敷地内であれば許される、か?)
我愛羅はサクラに『敷地内に来れるか?』とジェスチャーで伝えると、無言で頷かれる。それに頷き返すと立ち上がり、そっと気配を殺して部屋を出る。他の部屋ではまだ人が起きているのだろう。話し声や笑い声も聞こえて来る。そんな中我愛羅は周囲に気を配りながらも靴を下駄箱の中から取り出し、もう一度部屋に戻ってから窓から外へと飛び降りる。
「サクラ」
「よかった。寝てたらどうしようかと思っちゃった」
庭の一画で身を潜めていたサクラに近付けば、心底安心したのだろう。ふにゃりと柔らかく微笑まれて我愛羅は無意識に唇を噛む。それでも周囲を軽く見回し人の気配がないことを確認すると、改めてサクラと向き直った。
「こんな時間にどうしたんだ?」
「えっと……ほら、我愛羅くんたち、明日アカデミーの見学したらもう帰るじゃない?」
サクラが言うように、明日はアカデミーの見学を終えたら再度親睦を深めるための昼食会が開かれる。だがそれが終われば木の葉を去らねばならなかった。
期間としては短く感じるが、互いに同盟を結んだばかりだ。それに十年もの間戦争を続けてきた間でこれ以上滞在すれば町民の不安にも繋がる。ただでさえ自分たちの些細な行動で火種となりかねないのだ。こうして宿に無事辿り着けただけでも御の字ともいえよう。
だが分かってはいても「寂しい」と思う気持ちは互いにある。二人は気まずそうに視線を逸らすが、すぐにサクラは小さな声で「約束したから」と続ける。
「“今度会えたら、また一緒に星を見よう”って、約束したから。だから――会いに来たの」
逸らされた視線が戻って来る。どこかキラキラとした、サクラに譲渡した宝石のように滑らかに輝く瞳に射抜かれたように、我愛羅の呼吸が一瞬止まる。
だが次に全身に襲い掛かって来たのは紛れもなく『喜び』であった。サクラが自分との“約束”を覚えていてくれた。それだけで我愛羅は温泉に入っていた時よりもずっと体が熱くなっていくのを感じる。
「そう、か」
「うん」
「そうか……。ありがとう」
だがここでは星など大して見えない。互いにそれは分かっている。それでもサクラは逢いに来てくれたのだ。
それが嬉しくて我愛羅が微笑めば、サクラもどこかほっとしたように笑みを浮かべる。
「でもあんまり見えないのよね」
「木の葉は明るいからな」
「そうなのよ。もっと高い場所なら別かもしれないけど――」
そう言ってサクラが見上げたのは歴代の里長の顔が彫られた岩崖だ。だが宿から距離があるうえ、我愛羅を宿から連れ出すことは出来ない。サクラとてそれが不味いことは重々承知だ。むしろこうして一人で会いに来たこと自体許されることではない。
分かっていても会いに来てくれたサクラをこのまま帰すことは出来なかった。
「――高いところならばいいんだな?」
「へ? うわっ?!」
何を思ったのか。我愛羅はいきなりサクラを横抱きにすると一気に壁を駆け上がっていく。そんな突然の行動に叫ぶことも出来ず、ギュッと口を塞いで我愛羅にしがみついていたサクラはあることに気付く。そしてそれはすぐさま現実となった。
「ここならば少しはマシだろう」
そう言って我愛羅がサクラを下したのは、なんてことはない。宿の屋上――もとい屋根の上だった。ただでさえ住居区域から少し距離があるのだ。屋根に上れば一層家々の灯りは遠くなり、地上にいる時よりずっと空は近く、星も輝いて見える。
「もう、ビックリしちゃった。突然担ぐんだもん」
「ん? ああ、そうか。一言言うべきだったな」
学んでいる最中とはいえ、未だ人と接することに慣れていない我愛羅である。人を担ぐ前にまず確認を取らなければならないことを失念していた。「また一つ学んだな」と考える我愛羅の思考が何となく読めたのだろう。サクラは苦笑いした後瓦の上に腰かける。
「そういえば、ずっと言おうと思ってたんだけど」
「うん?」
サクラの隣に座した我愛羅をまっすぐ見つめながら、サクラはどこか嬉しそうに声を弾ませて伝えたかったことを口にした。
「我愛羅くん、背、伸びたね」
実のところ門前で出迎えた時から気付いていたのだ。砂隠を離れて数ヶ月。その間に我愛羅はしっかりと栄養や睡眠が取れるようになっていた。そのため遅ればせながらも体が成長を始めたのだ。
サクラは医者だ。一年近く傍にいた人間の背格好が変わっていればすぐに分かる。
そんなサクラの言葉に我愛羅は目を丸くした後、こちらも嬉しそうに口元を緩めた。
「ああ。少しだがな」
「でも大事なことよ。それに我愛羅くんは男の子だから、また離れているうちにドンドン大きくなっていくんだろうなぁ」
サクラも拉致された時より少し背は伸びていたが、我愛羅ほどではない。事実我愛羅はサクラが去ってからの半年間ほどで五センチ近く高くなっており、少し驚いたぐらいだった。
そんな我愛羅もサクラ相手には素直なもので、普通なら隠したがる「成長痛が痛い」という感想も素直に告げる。勿論サクラもサソリ同様『成長痛』ではなく急激な成長による身体の変化に筋肉と骨が付いて行かず悲鳴を上げているだけだと知ってはいるのだが、それだけ我愛羅が栄養を取れるようになったのだと思うと素直に嬉しくなった。
「今は辛いかもしれないけど、今後が楽しみだね」
「だといいのだがな」
実のところ本人は一切気にしたことはなかったのだが、テマリやバキだけでなく、父親である羅砂からも「大きくなる」ことについて期待が寄せられているのだ。身長が高いと色々と便利なこともあるだろうが、忍ぶには不便だ。だから我愛羅的には「そこまで伸びなくてもいいのでは?」と考えていたのだが、サクラが『楽しみだ』と言うならそれが「一般的な感情」なのだろう。
未だ人の機微に疎いところがあると自覚している我愛羅は人の意見をたくさん聞き、吟味するよう心掛けていた。
「そう言うサクラも、少し変わったな」
「え。そう?」
「ああ。綺麗になった」
サソリが出合い頭言ったように多少肉がついたことを指摘されるのかと身構えたサクラではあったが、まったく違う言葉が薄い唇から零れ出て面食らう。
「へ。え?! き、きれ――?!」
「綺麗になった。髪も、肌も。やはり木の葉に戻れたのがよかったのだろうな」
カッと頬を赤らめるサクラの心情など伝わっていないのだろう。サクラに対し素直になった男はどこまでも素直に、飾ることなく本心を告げていく。
「今日の食事会を通して改めて実感した。木の葉と砂隠では物流の豊かさが違う。食材一つとってもそうだ。砂隠では得られないものが沢山あった。以前、お前も言っていただろう。“健康的な肉体を作るのに大切なのは食材だ”と。その意味がようやく分かった気がする」
砂隠は物資不足が多少改善されてはきたが、木の葉には到底及ばない。香辛料の類は増えてきても食材そのものは未だ乏しいままなのだ。
成長速度が速い作物はともかくとして、薬草の類は未だに不足したままだし、肉や鶏卵も貴重な食材であることに変わりはない。それを考えるとサクラが綺麗になったのは『衣食住の環境が改善された』からなのだろう。だからこそ我愛羅は「サクラが木の葉に戻ることが出来て本当によかった」と考えていたのだが、言われた方としては返事に困る内容ではある。
確かに木の葉に戻ってきたことにより食事環境は改善されたが、まさかこんな形で指摘されるとは思ってもみなかった。むしろサソリのように皮肉の利いた言葉の方が馴染みやすいと思ってしまうぐらいには動揺していた。
「そ、そう?」
「ああ」
「そ、そっかー……。あはは……」
サクラとて褒められたことがないわけではない。近所の人は勿論、人当たりが良く、昔から顔見知りのミナトからは小さい頃からしょっちゅう「可愛いね」と言われてきたし、その妻であるクシナや息子のナルトからも未だに言われている。
だが他の同年代――しかも男の子から、だ――ここまでストレートに褒められたことはない。動揺するサクラに気付いているのかいないのか。いや、いないのだろう。我愛羅は星空を見上げながら更に言葉を重ねていく。
「温泉に入っていた時もそうだ。奈良シカマルから『温泉にはいろいろな効能がある』と聞いた。ならばサクラの見目が美しくなっても可笑しくはないな。と思ったものだ」
「うぐぐ……! そ、そう……」
正直言ってかなり恥ずかしい。思い返せば「可愛い」と言われたことはあれど「綺麗だ」と言われたことは殆どないのだ。それが今日だけで既に何度も言われている。これは一体どういうことなのか。
ドクドクと高鳴っていく心臓と急上昇していく体温に、サクラ自身が追い付けずに両手で頬を挟む。吹きすさぶ風は冷たいが、却ってそれが心地よく感じるほど、今のサクラは全身が火照って仕方なかった。
「どうかしたか?」
「へ?!」
「顔が赤いようだが……」
首を傾ける我愛羅に慌てて「何でもないよ!」と返すが、やはり気になるのだろう。我愛羅はそっと手を伸ばし、サクラの赤らんだ頬に手の甲を軽く押し当てる。
「やはり熱い」
指先ではなく、手の甲で触れた理由はただ単に面積が広くて体温を測りやすいからなのだろう。だがそれでも、我愛羅の乾いた肌にサクラの火照った肌は吸い付くように貼りつき、それが「恥ずかしい」とサクラは軽く目を伏せる。
「き、気のせいじゃないかな」
「そんなわけあるか。昔触れた時はここまで熱くなかっただろう」
昔触れた時――とは、おそらくサクラが砂隠にいた頃の話だろう。我愛羅と過ごした時間はどれも濃厚で忘れたことはないが、我愛羅に触れられたことは然程多くない。では何故我愛羅がサクラの体温を知っているかと言うと、我愛羅が己の感情を爆発させた時、サクラが自ら触れさせたのだ。自身の頬に。
その時のことを改めて考えれば「随分と大胆なことをしたものだ」と思うのだが、当時は互いに必死で、そんなことを考える余裕すらなかった。
つまり今はそれだけ心に余裕が出来たということなのだが、逆に言えば余裕があるからこそ見えて来るものがある。
それは我愛羅の手の大きさであったり、ゴツゴツとした太い骨の感触であったり、自分よりも硬い皮膚の感触であったりと様々だ。
つまりサクラはこの時、久方ぶりに我愛羅が『異性である』ということを噛み締めていた。
「ま、まあ、ちょっと……歩いてきたから、かな? うちからここまで少し離れてるし……」
「そうなのか? ならばあまり長居しない方がいいな。家族に心配を掛けるのは本意ではないだろう」
我愛羅とてサクラと過ごした時間は全て覚えている。サクラが「母に会いたい」と泣いた日の事もしっかりと記憶されているためそう口にしたのだが、サクラは慌てて首を横に振った。
「だ、大丈夫! 気にしないで! それに今日、お母さん仕事で出かけてて戻らないのよ」
「そうなのか」
「うん。明日の夕方か夜には戻って来る予定だから、心配はしていないんだけどね」
我愛羅には伏せたが、サクラの母、メブキは『同盟反対派』の一人でもある。だがその気持ちが分からなくはない。何せ夫であるキザシを戦争で喪い、一人娘であるサクラまで拉致されていたのだ。幾ら耐え忍ぶことが忍の性だとしても、そう簡単に許せる問題ではない。
だからこそサクラも努力しなければならない。我愛羅が、砂隠の人たちが、メブキが考えているよりもずっと『自分達と何も変わらない、感情のある人間だ』ということを伝えていかなければならない。
とはいえサクラも里に帰って間もない身だ。まだまだ信頼を取り戻すには時間が足りない。
「ごめんね、我愛羅くん」
「何がだ?」
「本当は、木の葉に来たくなかったでしょ?」
今日は多くの者が出払っているが、同盟反対派は極一部だけではない。むしろ声を大にしていないだけで疑問を抱く者は多くいる。それに我愛羅は有名人だ。戦場に立ったことのある者であれば一度はその名を耳にし、また実際に姿を目にした者もいる。木の葉に来れば危ないことは分かっていたはずだ。それでも来てくれたのはミナトが招待したからだと知っている。
そう告げるサクラに、我愛羅は首を横に振ることでそれに答える。
「そんなことはない。確かに来る前にひと悶着あるにはあったが……」
それは主に自身の姉兄が勝手に盛り上がったことであり、サクラや木の葉には関係のないことだ。我愛羅は再度頭を振ることでそれを頭の隅に追いやり、膝を抱えるサクラの頭を軽く撫でる。最近、家族やサソリが自分によくするように。
「木の葉には、一度ちゃんと来てみたかったんだ。ミナトさんや自来也殿にも改めてお礼と謝罪がしたかったから」
勿論ミナトと自来也からは「そんなものいらない」と苦笑いされたが、我愛羅にとって二人の存在はとても大きく、父親とはまた別の意味で深く尊敬している。この長々と続いた戦争を終えることが出来たのも二人が力を貸してくれたからだ。
だからこそサクラを木の葉に帰すことが出来た。それを、我愛羅は心から感謝している。
「それに、手紙でやり取りをしていても実際に顔が見えるわけではないからな。サクラが元気にしているか、この目で見たいとも思っていた」
「我愛羅くん……」
我愛羅の言葉にサクラは顔を上げる。何せその台詞は、サクラが我愛羅に向けていた感情と一致していたからだ。
だが門前で我愛羅を見た時。姉兄と戯れる姿を見て、その顔立ちが砂隠から去った時よりもまた一段と穏やかになっていたことで理解出来た。
――我愛羅は、砂隠で受け入れられ始めているのだと。
「俺たちのせいとはいえ、お前は一度仲間に背を向けた。そのことで何か言われているのではないかと、ずっと気になっていたんだ」
幾らミナトがいるとはいえ、その目が常にサクラを見ているわけではない。陰で何を言われているか、あるいは何をされているのか。我愛羅は知ることが出来ない。
砂隠にいた時からそうだった。テマリからそれとなく当時のサクラが置かれていた状況を聞かされた時には気付けなかった自分に愕然としたが、それでも過酷な状況の中であろうと自身に寄り添ってくれたサクラの強さに改めて感服もした。
だがサクラの強さも知ってはいるが、弱さも知っている我愛羅だ。特に仲間のこととなると途端に弱くなる。だからこそ気になっていたのだが、サクラは存外元気そうで安心した。
そんな我愛羅にサクラは笑みを返す。
「私の場合はお師匠様がいてくれたから」
「サクラに医療忍術を教えてくれた人か?」
「そう。伝説の三忍の一人、綱手様。あの人が私を守ってくれているの。だから平気よ」
“サクラに文句がある奴はまず私に言え!”
そう胸を張って堂々と宣言してくれた姿は太陽のように眩しかった。サクラは改めて師の存在の大きさを噛み締めていたが、ふいに我愛羅の指が夜風に踊らされるサクラの髪を一房掴む。そうして指先で軽く撫でたかと思うと、躊躇うかのように視線を彷徨わせた後自身の考えを口にした。
「だが、“心の傷”は目には見えないものだろう」
「――――」
「お前は、泣くべきところで泣かないから――」
不安になる。
そう、囁くように告げられた言葉に目を丸くし、サクラは口を噤む。
確かに寄せられる視線の多さには辟易していた。砂隠で浴びてきたものとは違う。敵意はないがあちこちから飛んでくる無粋なそれらに疲労は溜まっていた。それでも――それが『傷』になるとはサクラ自身考えてもいなかった。
我愛羅だからこそ気付けたことなのだろう。サクラはそう考えると、自身が随分と沢山の視線に晒されていたことを思い出し、嘆息した。
「……うん。そうね。疲れていないと言えば嘘になるわ」
「サクラ、」
「でもね。死にそうなほど辛くはないの。耐えること自体に苦しみはない。でも、時々――」
――息が詰まる。
先程の我愛羅と同じように小さな声で呟けば、風に踊らされる髪から我愛羅の指が離れ、そのまま肩に回って優しく抱き寄せられる。
「すまない。嫌なことを聞いたな」
「ううん。平気よ。心配してくれただけだって、分かってるから」
吹きすさぶ風から守るように、あるいは今までこの環境に耐えてきたサクラを慰めるかのように、我愛羅の成長し、大きくなった手がサクラを包み込む。そのことに以前よりずっとドキドキしながらも、サクラは懐かしく感じる我愛羅の体温や匂いに安堵もしていた。
(不思議。我愛羅くんのこと“男の子だ”って分かってるのに、サスケくんとは違うって分かってるのに、どうしてこんなにも――)
嬉しくて、安心するのか。そして同時に――不思議なくらいドキドキして、恥ずかしい。
なのに離れがたくもあるのだ。このままこの腕の中にいたいと、傍にいたいと、思ってしまう自分がいる。
そんな背反した気持ちに困惑しながらも、サクラは我愛羅の肩に額を押し当て、目を閉じる。
もしここがベッドの中であれば、あの時のように一緒に眠ってしまっていただろう。だがここは外であり、サクラには帰るべき家がある。二人は互いの存在を確かめるように暫くの間無言で身を寄せ合っていたが、そのうち自然と体を離した。
「そういえば、今日あんまり星見てないね」
「ああ……。思ったより木の葉は明るいからな。砂隠と違って見えにくいのだろう」
「あとは季節の問題もあるかも。秋は雲が多いから。夏とか冬だったらまた違うんだろうなぁ」
夏も冬も見える星が少しばかり変わってくる。それに、今日のように雲がかかる日は多くない。そう零すサクラと共に僅かに見える星々を眺めながら、我愛羅は口を開いた。
「ならばまた次回、楽しみにしていよう」
その一言にサクラはハッとする。我愛羅は信じているのだ。“次”もまた木の葉に来られると。この同盟が、平和が続くということを。
我愛羅からしてみれば何気ない一言なのかもしれない。囁かな、特に意味もない、約束にも満たない感想なのかもしれない。だがその一言は確かにサクラの心に響き、熱を灯した。
“頑張ろう”と――思わせてくれたのだ。
ならばサクラもそれに応えたい。変わりゆく我愛羅の傍に立っても誰にも文句を言われないぐらい、努力する我愛羅を誰かに傷つけられないように、サクラは自身を奮い立たせるように“約束”をした。
「――また、一緒に見ようね」
木の葉に来た時も。自分がいつか、砂隠へ行った時も。星を眺める時はまた傍にいて欲しい。一緒に見て欲しい。
そんな思いを込めて告げたサクラの目を見返しながら、我愛羅は穏やかな声音で「ああ」と頷くのだった。
◇ ◇ ◇
「それじゃあ、私帰るね」
「ああ。気をつけてな」
「うん」
暫くの間些細な会話と共に星を眺めていた二人ではあるが、夜風が冷たくなってきたところで「そろそろ頃合いか」と立ち上がる。正直言えばもう少し一緒にいたかったのだが、うっかりしていたことに薄着で出てきてしまったのだ。
もうすぐ本格的な寒さがやってくるだろうなぁ。などと考えていたせいだろうか。サクラは「はくしゅっ!」とくしゃみを零してしまう。
「すまん。長々と外にいたから体が冷えたのだろう。大丈夫か?」
「うん。平気。薄着で出た私が悪いんだから」
苦笑いするサクラに我愛羅は「どうしたものか」と眉間に皺を寄せ――「あ」と呟いてしまう。
「ん? どうしたの?」
屋根から飛び降りようとしていたサクラはその声をしっかりと聴き拾っており、背後にいた我愛羅を振り返る。そんなサクラのキョトンとした瞳を一瞬見下ろし、我愛羅はウロウロと視線を彷徨わせ始めた。
(こ、これは……渡す機会なのだろうか? だが渡したら渡したでテマリたちに根掘り葉掘り聞かれそうな……いや、だが、サクラが風邪をひいたら俺のせいに……)
うぐぐ、と悩み始める我愛羅にサクラは「どうしたんだろう?」と首を傾ける。だがこのままここにいれば体が冷え切ってしまう。仕方なく我愛羅の袖を引けば、決心がついたのだろう。「少し待っていてくれ」と告げると宿の一室へと降りていく。
そうして戻って来た我愛羅の腕には、小さな包みが抱えられていた。
「何? コレ」
「…………餞別?」
「何それ」
悩んで出した答えがそれなのかとサクラは思わず笑ってしまうが、それでも「開けていい?」と聞けばどこか照れた様子で頷かれる。柔らかな感触からして食べ物ではないのだろう。一体何が入っているのかと包みを開け――出て来たものに目を見開いた。
「なにこれ! すっごく可愛い!」
薄紅色の包みから出て来たのは、砂隠であればさほど目立たないであろう、淡いクリームのような色をしたパステルイエローの砂除け用の外套と、カシミアのように柔らかな素材で織られた襟巻だった。
コートの裾や襟には同じくパステルカラーのピンクやラベンダーの糸で愛らしい花の刺繍が施されており、襟巻も木の葉では見られない変わった網目で織られている。
キラキラと目を輝かせるサクラに、我愛羅は居心地悪そうに膝を抱えながら「大したものじゃない」と呟くように答える。
「でも、本当に貰っていいの?」
「ああ。気に入らなければ棄てても――」
「嬉しい! ありがとう、我愛羅くんっ!」
棄ててもいい。そう告げようとした我愛羅にサクラは輝かんばかりの笑みを向ける。その久方ぶりに見るサクラの心からの笑みに、我愛羅は何故か心臓を強く掴まれたような心地になる。
そうしてドクドクと全身で感じ始めた鼓動に頭の中が疑問符でいっぱいになるが、サクラが喜んでくれたことにほっとしたのだろう。と見当違いなことを考え、納得した。
「どう? 似合う?」
外套に袖を通し、クルリと目の前で回るサクラは髪の色と相まって春の妖精のようだ。むしろ最近読んだばかりの本に出て来る「春を司る女神」の描写を思い出し、自然とそれが口から零れ出ていた。
「――女神みたいだ」
「は? え?!」
まさかそこまで言われるとは思っていなかったのだろう。驚きに硬直するサクラに、我愛羅もすぐさま「ちがっ……!」と慌てだす。
「そ、その、最近読んだ本にそういう姿をした女神が出て来る話があって……!」
「あ、ああ、ビックリした! ビックリした〜、もぉ〜! 突然何言いだすのかと思ったじゃない!」
家々の灯りも消え始め、随分と暗くなってきたから互いの顔色はハッキリと視認出来てはいないが、ここが明るければすぐさま互いの顔が赤く染まっていたことに気付いただろう。
しかし運がいいのか悪いのか。周囲は暗く、二人はほぼ同時に深呼吸すると改めて向き合う。
「本当に嬉しいわ。ありがとう」
「いや……。気に入ってくれたなら、俺も嬉しい」
当時渡すことが出来なかったとはいえ、気のいい老婆が選んでくれた商品だ。それに手触りからして粗悪品ではない。真冬に着れば寒いだろうが、今の時期であれば丁度いい厚さだろう。
内心「テマリとカンクロウに感謝せねばならんか……」と苦虫を噛むような気持に駆られたが、幸せそうな顔で襟巻に頬を埋めるサクラを見れば一瞬でそんな気持ちはどこかに飛んで行った。
「それじゃあおやすみ、我愛羅くん」
「ああ。気をつけてな」
誰かに見られては不味いからと、このまま解散することにしたサクラは幸せそうな笑みと共に手を振ってから地表へと飛び降りる。忍でなければ到底飛び降りることなど出来ない高さではあるが、サクラは難なく着地すると、最後にもう一度我愛羅に手を振ってから宿を去って行った。
「…………眠れる気がしないな」
対する我愛羅はそう呟きながらも部屋へと戻り、火照った体を冷ますように開け放った窓の桟に肘をつく。そうして入り込む風に目を閉じ、熱い吐息を零しては甘美な時間を何度も頭の中で反芻するのであった。