小説2
- ナノ -





サクラからの返事を貰うつもりでいたのに、我愛羅はどういうわけか気乗りしない晩餐会に出席していた。

「侯爵様、ワインを如何ですかな?」
「いいえ、結構。怪我に障りますので」

次から次へと並べられる豪奢な料理。どこぞの厨房から引き抜いてきたという一流シェフの料理も、主催者の話も全て右から左へと受け流した。
そうして注がれたワインの代わりとなる冷や水に口をつけ、周囲に座る親族と自分以外の貴族たちを眺める。

「まぁ…なんて素敵なお料理でしょう」
「このお肉の焼け具合…流石一流シェフね」
「こんなに美味い料理は初めてだ。是非家にも来て欲しいね」

料理の話に夢中になっている者もいれば、相変わらずドレスや宝石に目を輝かせている者もいる。
我愛羅は先程から殆どと言っていいほど料理に口をつけておらず、ただひたすらに無言を貫いていた。

「…我愛羅、叔母様たちに腹を立ててるのは分かるがここは社交の場だぞ?」

横から兄であるカンクロウが諌めてくるが、我愛羅はそれすら無視して壁にかけられた絵画を見つめていた。
それはどこぞの皇帝が軍を率いて敵を倒し、自国の旗を掲げている勇ましいものであった。
普段であればその旗を刺す人物が己だろうと考えていただろうが、今の自分はその真逆だ。勝者に踏みしめられた敗者。まさしくその中の一人であった。
我愛羅は先程からずっと寄越される叔母たちの視線を無視したまま、ついに立ち上がった。

「我愛羅!」

カンクロウが小声で諌めるが、我愛羅は晩餐会の主催者に近づくと腰を折る。

「申し訳ありませんが、怪我が疼くので今日は失礼させて頂きます。また今度機会があればお誘いください」
「ああ!こちらこそ申し訳ない。ゆっくり養生してくだされ」

主催者は我愛羅を気遣うように言葉を投げかけ、玄関先まで見送ってくる。
それに対し深く腰を折ると、我愛羅は待たせていた馬車に乗り込んだ。

「屋敷に戻ってくれ」
「畏まりました」

御者は我愛羅の言葉に頷くと、馬の尻に鞭を軽く当て走らせる。
そうして徐々に馬車が晩餐会の会場から離れていくと、我愛羅は盛大に舌打ちをし、髪を掻き乱した。




いつの間にかサクラは随分と遅くまで眠っていた。
起きた頃には辺りは暗く染まっており、閉め切っていなかったカーテンの隙間からは星の光が漏れている。

人ってこんなにも長く眠れるのね。
そんなことを思いつつ起き上がり、鏡台の前に立てばやはり酷い顔をした自身が映っていた。

「酷い顔…瞼も腫れて…これじゃあ外に出れないわ…」

腫れぼったい瞼を擦りつつ部屋を出て、居間に下りるが両親は既に寝室へと籠っているようだった。
暖炉の火は少しばかり燃えてはいるが、そろそろ消えるだろう。サクラは洗面所に入ると顔を洗い、乱れた髪や衣服を整え外に出た。

「……はぁ…いい香り…」

冷たい夜風が運んでくるのは、昔から慣れ親しんだオレンジの爽やかな香りだ。
サクラはいつもこの香りを嗅げば頭がスッキリとし、落ち着くことができた。

「たまには夜の散歩も悪くはないわね」

普段は昼間にオレンジの実を見に行くが、今日は既に両親がした後だ。
サクラはランプを片手に、ただ自由にオレンジ畑の中を練り歩く。

「そういえば、彼が初めてオレンジを採ったのはこの木だっけ…」

幼い我愛羅が両親に交じってオレンジの収穫を手伝ってくれた時があった。その時我愛羅は初めて自らの手で果実を採取したと、感動に打ち震えていた。

「それにこっちがかくれんぼで使ってた木。あの木の根っこに足をひっかけて転んだこともあったっけ」

広いオレンジ畑ではあるが、それでもその木々一つ一つに思い出がある。我愛羅と触れ合った、遊びまわった幼い頃の思い出が。

「これが木登りをした木。こっちが背比べをした木。あれがお昼寝をした木。あっちが並んで本を読んだ木」

口に出していけば一つずつ、我愛羅との思い出が蘇ってくる。
背の高い我愛羅にせがんで木の枝に乗せてもらったこと。読み書きが未熟であったサクラに授業をしてくれたこと。屋敷からこっそり絵描き道具を持ってきては共にオレンジ畑を描いたこと。
沢山の思い出が湯水のように溢れてくる。
そうして徐々にサクラの足は一本の大きく育った木へと向いて行き、ゆっくりと立ち止まった。

「…そしてこれが…彼と、いつもワルツを踊る時に使っていた木」

サクラの目の前には一際大きく育ったオレンジの木がある。この背の高い木の下で、サクラたちは伴奏の無い、互いのハミングだけを頼りにワルツを踊った。
くるくるくるくると、身分も年齢も金も名誉も見栄も欲も、何もかも感じぬまま、唯踊った。

「…っ…!イヤっ…イヤぁ…!」

離れたくない。傍にいたい。
我愛羅から離れるなんて考えられない。
ずっと幼い頃から一緒にいたのに、ずっと昔からたった一人に恋をしていたのに、その想いごとすべてを突き放さなくてはならない。
例え我愛羅が結婚し子供を授かったとして、本当にそれは真実の愛になるのだろうか?愛情と慈悲はどう違うのだろうか。
そして自分はどうするのだろうか?我愛羅の友人ですらサクラの恋を消せなかった。新しい恋を築くことが出来なかった。
それなのにどうして、他の誰にこれほどまでの愛情を捧げることが出来るだろうか?
この抑えようのない、やり場のない気持ちをどうやって整理し、昇華すればいいのだろうか。

まったく分からない。

それなのにイヤだイヤだと叫ぶ声だけが大きくなっていく。
まるで子供に還ったかのようにサクラは声を上げて泣きだし、オレンジの木の下で蹲る。

冷たい風が顔を覆うサクラの指を冷やしても、スカートの裾を捲り上げても、セットした髪を崩しても、サクラは構わず泣き続けた。
そうしてぐすぐすと目を擦りながら鼻を啜っていると、街の方から蹄の音が聞こえてきた。

「……我愛羅くん…」

街ではきっと今日もどこかで舞踏会が開かれ、晩餐会が開かれ、パーティーが開かれているのだろう。
そうして通路にはあちこちを駆け回る馬車と馬の蹄の音がひしめき合い、人の声と共に交じって消えて行く。
あの蹄の音もそのうちの一つだろう。そう思ったにも関わらず、その蹄の音は徐々にこちらに近づいて行き、遂には止まった。

立ち止まった蹄の音に、サクラは覚えがあった。

「……ウソ…そんな…ウソよ…だって彼は腕を怪我していて、とてもあの暴れん坊に乗ることなんて…」

我愛羅の愛馬はとてつもない暴れ馬だ。
気に入らないことがあれば全身を振って不満を露わにし、近づいてきた人間に噛みつこうとする。
あるいは後ろ足で蹴りあげようとしたり、前足で踏みつぶそうとしたりする。
そんな暴れ馬に乗ることは容易ではなく、サクラも幾度か振り落とされそうになった。
しかし我愛羅が一度手綱を握ると気持ちを鎮め、サクラを背に乗せたまま大地を駆けだした。

あの馬に彼が乗っているの?白馬の王子様みたいに?

瞬く度に風に冷やされた涙が頬を伝っていく。
けれどそれを拭うことなく周囲に耳を傾けていると、どこからかランプの灯がゆらゆらと揺れ動くのを視覚が捕えた。

「………」

不思議な光景だった。
見慣れたオレンジ畑は例え夜の中でも安心できるのに、自分のものではないランプが揺れるだけで心細くなってくる。
もしこのランプの持ち主が彼ではなかったらどうしよう。悪漢や、酔っ払いだったらどうしよう。あるいは食糧難で忍び込んできた盗人であればどうしよう。
不安に身構えるサクラの耳に、近付いてくる足音が聞こえた。
そうしてぐっと胸の前で手を組み合わせ、全身を強張らせるサクラの前に現れたのは、どこか疲れた表情をした我愛羅であった。

「…はぁ…お転婆も此処まで来ると天晴だな。今何時だと思ってるんだ?」
「…そういうあなたこそ、こんな時間にどうしたのよ」

サクラは足元に置いていたランプを片手に一歩身を引けば、我愛羅はそこから動かぬまま嘆息した。

「…どうしても、最後に一目キミに会いたかった。寝ているかもしれないとは思ったが、それでも止められなくてな」

我愛羅は戸惑うサクラの気持ちを察しているのだろう。互いの顔が見えるギリギリの位置で足を止め、そこから微動だにしなかった。
それなのにサクラはどこかに逃げ出したい気持ちに駆られ、思わず木の後ろに身を隠してしまった。

「ああ…もう、どうしてそんなこと言うの?!最後だなんて…そんな…!」
「覚えてると思うがこの間説明しただろう?結婚したら俺はもう二度とキミとは会えない。こんな風に…言葉を交わすことさえ出来なくなる」

サクラにとってそれは苦痛だった。誰よりも共にいて楽しいと思える相手だった。
同じ街に住んでいるのに二度と会えないなんて、まさに地獄としか言いようがなかった。

「…キミの答えは聞かずとも分かっている…それに、叔母たちが随分と迷惑をかけた。それを謝っておきたい気持ちもあったんだ」

我愛羅が謝る必要なんてどこにもない。むしろサクラの方が謝るべきだった。
自分と交流をしていたせいで我愛羅は謂れのない悪口を言われる羽目になり、品格を落とされたのだ。
すべては自分のせいだ。
再び溢れてくる涙を唇を噛みしめて耐えていたが、耳のいい我愛羅はその声を見事に拾い上げ、苦しそうに俯いた。

「…すまなかった。本当に…キミを、こんなにも苦しめて…俺は酷い男だ」

暗闇に包まれたオレンジ畑の中で、彼の低い声が静かに響く。
サクラは木のごつごつとした表面を背中で感じながらも、五感は全て彼の声を聞いていた。

「もし…キミの中に慈悲が残っているのだとしたら、最後に一つだけ、俺の願いを聞いて欲しい」
「………なに?」

最後に一つだけ。もう二度と会えない、今生の別れ際にたった一つだけ。我愛羅はサクラに願いを伝えた。

「俺と踊って欲しい。この木の下で…最後の、ワルツを」

サクラの瞳から、絶えることなく涙が溢れてくる。
拭っても拭ってもそれは零れ落ち、白い頬を濡らしていく。
そうしていつしか近づいてきた我愛羅の手が頬に触れ、サクラの雨粒のような涙を優しく拭った。

「泣かないでくれ、愛しい人。俺はこれから死ぬまでずっとキミへの愛で磔にされる。だがそれをキミが悔いることはない。俺は望んで、磔にされるんだ」
「……わたし…私は…」

我愛羅への愛をどこまで貫くことが出来るのだろうか。たった一人の、こんなにも愛した男などいないのに。
この男以外の人と結婚した時、果たして自分の心はどこへ飛んでいくのだろうか。
不安と、恐怖と、悲しみと、様々な苦悩が入り混じるサクラの瞳をまっすぐ見つめながら、我愛羅はそっと微笑んだ。

「キミの笑顔も泣き顔も、全て忘れずに覚えておくよ。どこで死んでも、悔いがないように」

そう言ってそっと降ろされた指はサクラの肩を撫で、腕を辿り、ゆっくりと指先を滑らせながらサクラの手に辿り着いた。

「踊ってくれるだろう?それぐらいの慈悲は、与えてくれないか」
「…えぇ…踊るわ…あなたと、ワルツを…」

震える指を重ね、握りしめ、涙で濡れた瞳を上げれば我愛羅は嬉しそうに微笑んだ。

「リードは任せて。好きなように踏んで」
「うん…足を踏んでも、ごめんね、って、もう謝らないからっ…!」

二つの灯りが躍る二人を照らし出す。
まだ未成熟なオレンジの実をつけた木の下で、冷たい夜風と聞き慣れたハミングを伴奏に踊りだす。
皺の寄ったスカートの裾を羽ばたかせ、頬に流れる天の川のような涙を瞬かせ、呼吸を合わせリズムを合わせ、二人はただただ踊る。

「嗚呼!俺は幸せだ!本当に!」

ランプが照らす中、我愛羅のコバルトグリーンの瞳がキラリと瞬く。
それは涙ではなく情熱の色。我愛羅の心が燃やす、たった一つの強い色。
サクラはぐっと唇を噛みしめてから、無理やりにでも微笑んでみせる。

「私、あなたと出逢えてよかった!本当に!」

ステップもリズムも何もかも投げ捨てて、ただ二人はがむしゃらに踊る。そうしてそのうち引き合うように体をぶつけ合い、抱き合った。

「…忘れないで…俺は、本当に、キミだけを愛してる…!」
「ええ…ええ…覚えているわ。ずっと、死ぬまでずっと、忘れたりなんかしない…!」

ジャスミンの香りと、オレンジの香りが混ざり合い、溶けあっていく。
サクラは我愛羅の逞しい肩に額を押し付け、枯れたと思っていた涙を再び流しながら何度も我愛羅の名前を呼んだ。
そうして我愛羅は泣きじゃくるサクラの体を痛い程に抱きしめながら、何度も愛を囁き、背を撫でた。

いつしか二人の体は膝を降り、地面に足をつけ抱き合っていた。

「…このまま、太陽が昇るまでここにいていいか?それとも帰った方がご両親の為にもいいかな」
「いいえ…ここにいて…最後まで…私の傍にいて…」

我愛羅の腕の中で瞼を閉じて、逞しい胸板の奥底から聞こえてくる命の音に胸を震わせる。
全身で感じるジャスミンの香りと、それに混じって香る彼自身の匂い。
硬いギプスに手を馳せれば、彼は少しだけ笑ってその手を振った。

「最初はこの手を切り落としても構わないと思っていた。だがやはり揃っていた方がいいな」
「当たり前でしょ。あなたってバカね」
「ああ、全くだ。片腕しか残っていなかったら、こうして夜風からキミの体を守ることすら出来なかっただろうに」

そこでようやくサクラは自身の体に夜風が当たっていないことに気付く。
我愛羅の体と、オレンジの木によって風が阻まれていたのだ。しかしそれでは我愛羅が体を冷やしてしまう。
反射的に体を起こしたサクラに我愛羅はいいから、と告げ、強制的にサクラを元の位置に戻した。

「このままでいさせてくれ。これ以上にない幸福を、今味わっているんだから」
「…私も覚えておくわ。あなたのすべてを…」

我愛羅の腕の中に全てを預け、サクラは瞼を落とし感じ入る。
夜が明けるにはまだ早い。
畑の向こう側の世界をどこか遠くの事のように思いながら、サクラは夜が明けるまでずっと我愛羅のぬくもりに浸っていた。




prev / next


[ back to top ]