小説2
- ナノ -





そしてやはり神は我愛羅が嫌いらしい。
彼女に与えた猶予も一日消費したというのに、二日目は例の嫁候補が屋敷を訪れていた。

「素敵なお屋敷ですわね、侯爵様」
「えぇ…それはどうも」

社交界にデビューしたばかりのバンビは侯爵である我愛羅の屋敷に興味津々のようだった。
これでは立派なレディというよりは子供だ。我愛羅は零しそうになる溜息をぐっと押し込め、周囲を見渡すバンビに紅茶を勧めた。

「あまり面白いものは置いていませんよ。どうぞ、こちらにおかけになってください」
「まぁ…ごめんなさい、気を遣わせてしまって」

本当はただ単にあまり物を見て欲しくないだけだった。
現在我愛羅たちが身を置いているのは応接間ではあるが、それでも土足で入り込まれるのは困る。
頼むからじっとしていてくれ。そう願う我愛羅の反対側では、例の叔母二人がゆったりと微笑んでいた。

「そうよお嬢様。もしその素敵なドレスに埃がついたらいけないわ」
「ええ、例え綺麗にしていたとしても何があるか分かりませんもの。ねぇ?」
「お気づかいありがとう、マダム」

何がお気遣いだ。軽くこちらの使用人たちの仕事を非難しておきながら。
我愛羅は思わず顰め面を作ったが、すぐに戻すとそれで?と叔母たちに向かって口を開いた。

「わざわざご令嬢が足を運んできた理由は何です?」
「あら、未来のお嫁さんのことをよく知りたいとは思わなくて?」
「久しぶりに屋敷にいるんだから、彼女を連れて乗馬に出てもいいと思うのよ」

口々に好き勝手言う叔母たちに怒ればいいのか呆れればいいのか。
我愛羅は視線を外し肩を落としたところで、例のバンビが快活に乗馬?!と声を上げてきた。

「侯爵様は乗馬がご趣味なんですね?!羨ましいわ。私はお父様から禁じられてて…一度も馬に乗ったことがありませんの」

物悲しげに瞼を伏せる令嬢には悪いが、こんな落ち着きのないバンビが背中に乗れば馬も安心して走れないだろう。
馬に乗るならば当然馬との信頼関係が必要になる。馬は賢い生き物だ。自分の主だと思った人間にはどこまでも従順に尽くす。
だが馬に認められなければまともに乗ることはできない。それが分かっているのだろうか、このバンビは。

「乗馬は傍から見れば優雅に見えるでしょうが、存外危ないものです。お嬢様のようなレディが怪我をするのは痛ましい。ですからお父上様も禁止なさっているのでしょう」

それにあなたには馬ではなくポニーの方がお似合いだ。
続けて出そうになった皮肉をぐっと胃の底まで押さえつけ、仮面の笑みを張り付けた我愛羅にバンビは頬を染めた。
叔母たちも我愛羅の紳士な態度にほくそ笑み、この婚約が上手くいくものだと考えている。

誰がお前たちの望みどおりに結婚などするか。

煮えくり返る気持ちをそのままに悪態をつきたくなったが、顔を上げたバンビの一言によりそれは喉の奥に引っ込んだ。

「あの、でも侯爵様とご一緒なら大丈夫だと思います!ですから、その…よろしければ一度だけでもいいので、私を馬に乗せてはくれませんか?」

最悪だ。
我愛羅は愛馬に人を乗せることが好きではない。勿論場合によっては乗せることがあるが、基本的に進んで乗せるのはサクラだけだ。
子馬に乗せた時からそうだった。サクラは恐怖心を抱くことなく馬の背に跨り、手綱を握っていた。それは馬にとってとても有難いことだ。
人間の恐怖心は馬に伝わる。ともすれば馬も情緒不安定になり走りが乱れるのだ。しかし彼女は初めてであるにも関わらず、恐れることなく馬の躍動を感じ取っていた。
だからこそ我愛羅は進んで彼女を愛馬に乗せ、共に大地を駆けたのだ。

しかしこのバンビにその度胸があるとは思えない。
何せ我愛羅の愛馬は中々の暴れん坊だ。
自身は子馬の時から面倒を見ていたためその暴れぶりに振り回されたことはないが、厩の使用人たちは随分苦労したらしい。
実際今でも結構な気分屋だ。
しかし力強い足腰と心臓、鍛えられたスタミナは他の馬と比べ物にならない。
だからこそ共に戦場を駆け抜けることが出来たというのに、こんな好奇心だけで馬に乗りたいと口にするバンビを乗せたくはなかった。

「…どうしてもとおっしゃるのであれば、練習用の大人しい馬を用意いたします。流石に私の愛馬に乗せることは出来ません」

事実愛馬は認めた人間でなければすぐに振り落としてしまう。
だからこそ先に釘をさしたのだが、バンビよりも先に叔母たちが顔をしかめた。

「まぁ、侯爵様。そんな意地悪をおっしゃらずに共に乗ればいいじゃありませんの」
「えぇ、そうですわ侯爵様。あなたが手綱を握ればきっと馬も言うことを聞くでしょう」

言うことを聞く聞かないではないのだ。
なのに乗馬をしないご婦人二人はまるで馬を機械のように言う。馬とて生き物だ。感情がある。好き嫌いもある。なのに何故それが分からないのか。
遂に額を押さえ嘆息した我愛羅に、バンビが慌てて立ち上がった。

「いいえ侯爵様!私は馬に乗れるのであればどんな子でも構いません!例え侯爵様の愛馬に乗ることが叶わなくても、私は幸せです」

請われても許可するつもりはなかったが、向こうが引いてくれて助かった。
我愛羅はそうですかと頷くと早速馬を手配しようと席を立ち、後を付いて来ようとするバンビを手で制した。

「お嬢様はこのままお待ちになってください。馬は私が用意してくるので」

それに出来ることなら長いこと一緒にいたくはなかった。
これならヒナタ嬢と乗馬を楽しむ方が遥かにいい。そんなことを思いながら我愛羅は扉を閉め、廊下を曲がった先で盛大に悪態をついた。



サクラはてっきり今日も我愛羅が来るのだと思っていた。
しかし昼時になっても夕暮れになっても姿を現さず、サクラはそっと嘆息した。

「サクラ、もう冷えるから中に入りなさい」

玄関先で膝を抱えていたサクラの背に母の声がかかる。
実際空の向こうでは紫色の闇が顔を出し始めた。この眩いほどの茜の空も、いつしかあの闇に浸食されてしまうだろう。
サクラは再度嘆息した後立ち上がり、玄関を開けた所でおーい!と呼びかけてくる父の声を聞いた。

「ただいまサクラー!」
「お父さん、おかえりなさい」

同じく農家である友人の所に顔を出していた父親と共に中に入り、鍵を閉めれば母も奥から出てくる。

「そうそう。帰りにちょっと街の方を通って来たんだがね、彼の噂がまた出ていたよ」
「彼?彼って誰のこと?」

コートを脱ぎ、埃を払う父親の言葉にサクラが問いかければ、父親はにんまりと口を広げて笑う。

「我愛羅様のことだよ!何やら今日はものすごく可愛らしいお嬢さんと一緒に乗馬をなさっていたそうだよ。いやぁ〜、貴族というのはやっぱり優雅だねぇ」

俺たちも牛の背に跨ろうか。
そんなくだらない冗談を飛ばす父に母は笑うが、サクラは一つも笑わず目を見開いた。

(もしかして…それって“望まぬ結婚相手”のことかしら…)

我愛羅は政略婚などしたくないと言っていた。しかし特定の相手がいなければそのまま結婚せざるを得ないのだ。
自分か、その可愛らしいお嬢様か。
普通に考えれば自分など切り捨てるべきだ。だがサクラは、自分ではない他の誰かが我愛羅の隣で笑い、彼の子を腕に抱いて行くのかと思うと眩暈がしそうであった。

「どうしたのサクラ?顔が真っ青よ」
「気分が悪いのかい?」

問いかけてくる両親に我に返りつつ、それでも今すぐにでも倒れてしまいそうな体を壁についた手で支える。

「ええ…えぇ…その、気分が悪いわ…悪いけど、ご飯はいらない」
「そう。じゃあ後でホットミルクを作って持って行くわ。部屋に行って寝ていなさい」

母に促され、サクラはそうするわと頷いてから自室へと歩いて行く。
しかし一歩踏み出す度に地面は揺れ、足が床にちゃんとついているのかどうかも怪しい。

(彼が結婚…結婚?可愛らしいお嬢様と結婚して、子供を授かって…それで?)

我愛羅のあの薄い唇がどこかの令嬢の唇に重なるのか。あのあたたかな掌が別の女の肌をまさぐり、サクラでさえ見たことない部分を令嬢の中に押し込めるのか。
そうしてそのうち子供を授かり、二人は力を合わせて子を育てていくのか。

「うっ…」

考えれば考える程に信じられなくて、サクラは途中トイレに駆け込み胃の中の物を全てぶちまけた。

「そんな…そんな…ダメよ…そんなの…」

我愛羅はサクラを愛していると言った。そしてまた、サクラだって我愛羅のことを心の底から愛している。
なのにその間に誰かが入り込み、彼の腕を取ってサクラから遠ざけようとしている。
そんなの嫌だ。耐えられない。
だが子爵の嫁になるというだけで随分なプレッシャーだったのに、今度は侯爵だ。まともに自分に勤めが出来るとは思わない。
ダンスのまともなステップさえ知らない。貴族社会の常識を知らない。どんな挨拶を行い、どんな食事のマナーがあるのか分からない。
未知なる世界はいつだって恐ろしい。
いつもなら旺盛な好奇心に背を押され飛び込んだかもしれないが、それをするにはあまりにもサクラは歳を喰いすぎていた。

だが明日には返事を出さねばならないし、いつまでも彼のプロポーズを先延ばしにすることは出来ない。
それにもしこのままYESともNOとも言わずにいれば、きっと彼はどこぞの令嬢と結婚してしまうだろう。
例え後悔することになろうとも、サクラは自分の出した答えを彼に告げなければならなかった。

「…明日…返事をしよう…」

だが立ち上がったサクラの耳に届いたのは、困惑しつつも誰かと話をする両親の声だった。

(こんな時間に誰かしら…)

父親を飲みに誘いに来た友人たちだとしたら母はこんな声を出したりはしない。
それに父親だって陽気な声を上げて玄関の扉を閉めただろう。なのに一体何が起こっているというのか。
思わず居間へと続く道を戻ったところで、サクラはこの場に相応しくない二人の貴婦人に出逢ってしまった。

「…まぁ、この方が娘さん?」
「薄汚い格好…でも農家の娘にしては小奇麗な方なのかしら?」

出会い頭から随分と失礼な貴婦人に顰め面を作れば、二人は同時に笑い声をあげサクラを見上げてくる。

「品のない顔、品のない瞳、品のない唇、品のない格好…どれも侯爵様とは釣りあわないわ」
「えぇ。きっと侯爵様は農家の娘が物珍しいのよ。あるいは憐れんでいらっしゃるだけだわ。でなければ頻繁に此処に足を運ぶ理由が見つかりませんもの」
「あの…失礼ですが、先程から一体何なんです?」

言いたい放題な貴婦人を果敢にも真正面から見返し、尋ねるサクラに貴婦人は目を細める。

「何て無作法な娘…やっぱり侯爵様にはあのご令嬢がお似合いだわ」
「当然よ。こんな薄汚く埃っぽい家、まるで豚小屋だわ。侯爵様は此処に来るべきではないのよ」

先程とは打って変わり、腹の底から怒りが湧いてくる。我愛羅に対する悪口もそうだが、家族や農家に対する悪口が鼻につく。
サクラは毅然と顎を持ち上げ、エメラルドグリーンの瞳で貴婦人を射抜けば、二人は目を合わせてから鞄から一枚の小切手を取り出した。

「お嬢さん、よろしかったらコレで手を切りませんこと?」
「あなた方農民はこれだけあれば十分に生きていけるでしょう?慎ましく、穏やかに暮らしなさい」

居間のテーブルの上に置かれた小切手に記された額は随分なものであった。きっとサクラたちが一生働いたって稼げない金額だ。
しかし息をのむ両親とは打って変わり、サクラはそれを軽く一瞥しただけであった。

「何をおっしゃられているのか分かりません。もう少し丁寧なご説明をお願いいたします」
「察しの悪い子ねぇ…」
「教養がなってないのね」

もしこの二人が貴族でなければ目の前の紅茶を浴びせていたところだ。
しかしサクラはぐっと堪え、この二人が何のために此処に来たのか、正確に知る必要があった。
本当は聞かずとも分かっていたが、それでも聞かねばならないと思った。

「では手短に済ませるけど、あなたに侯爵様とのご縁を切って欲しいのよ」
「侯爵様には立派な結婚相手がいますから、あなたみたいな物珍しい娘に構っている暇はないのよ」

言いたい放題言ってくれる。本当に。
サクラは怒りのあまり涙が溢れそうになるのを唇を噛みしめることで堪え、差し出された小切手をつき返した。

「このようなもの、ご用意されずとも元よりお断りさせていただくつもりでした」
「サクラ…!」

両親は我愛羅に求婚されていたことは知らない。だがこれだけ話を聞いていれば察しはつくだろう。
だが両親には悪いが、この小切手を受け取るわけにはいかなかった。我愛羅との誇り高い“友情”を守るために、汚い金が間に入ることをサクラは良しとはしなかった。

「…あら、そう…教養はなくとも常識はあったみたいね」
「安心したわ」

サクラと我愛羅の間にある“友情”は決して、例え死した婚約相手でも汚すことは許さない。
二人の間に築かれた信頼も愛情も、全てサクラにとっては宝物であり、人生の美点だ。それを誰かの手で汚されることは辛抱ならない。
だからこそサクラは毅然とした態度をどこまでも貫き通し、貴婦人たちに向き直った。

「今日はもうお引き取りください。あなた方も此処にはいたくありませんでしょうから」
「ええ。そうさせて頂くわ。ご理解いただけてありがとう」
「もう二度とお会いすることはないでしょうけど、御機嫌よう、皆さま」

二人の貴婦人は軽く口元を綻ばせるとキツイ香水の匂いを振りまきながら去っていく。
サクラは行き場のない怒りを暫くは抱えていたが、二人が乗ったであろう馬車の音が遠ざかるにつれ徐々に力が抜けて行った。

「…サクラ…」
「サクラ…」

両親に肩を抱かれ、ソファーに身を沈めた時、サクラは遂に耐え切れず両の眼から涙を溢れさせ顔を覆った。

「ああ!なんてこと…!なんて卑怯な方たちなのかしら…!彼は、彼はあんな人たちのために結婚させられるというの?!」

悔しさと怒りで涙が溢れて止まらない。
両親はそんなサクラに説明を求めるよりも先に細い両肩を抱き、よく頑張ったね、よく誇り高い態度を貫き通したねと慰め続けた。

我愛羅は望まない結婚をさせられるといっていた。
事業拡大のためだけに。そんなことのために我愛羅は人生を誰かに捧げなくてはならないのだ。偽りの愛を、囁かねばならないのだ。
だがサクラがそれを救うことは出来ない。サクラはただの農民だ。あの貴婦人たちに対抗できるほど沢山のものを持っていない。
お金も、地位も、名誉も宝石も何もかも。あるのはオレンジ畑だけだ。こんな娘と結婚して一体どこに幸せがあるというのだ。
サクラは唯々泣き崩れた。
何も持たない自分を恥じることはないと思っていたのに、その時は何よりもそれが悔しく、恥ずかしかった。



prev / next


[ back to top ]