小説2
- ナノ -





舞踏会は珍しく美術館で行われた。何やら有名な彫刻家が夜間にだけ見れるという特殊な仕掛けを作ったらしく、それを展示するために夜間営業をしているらしい。
とはいえ一般人が来れぬよう仕切りは立ててある。行こうと思えば貴族側からは行けたが、一般市民はこちらに入れぬよう警備員も立っていた。
だが決して居心地がいいわけではなく、我愛羅は久方ぶりに袖を通した正装にうんざりとした表情を見せていた。

「我愛羅、もう少し愛想よくしな」
「これ以上にか?」
「今のお前にどこに愛想があるじゃん?」
「来ただけで十分だろう。これ以上は金を取るぞ」

堅苦しいクラヴァットを今すぐにでも抜き去り、シャツを肌蹴させベルトのバックルを外しズボンを脱ぎ捨て、そのままベッドに潜り込みたい気分であった。
けれども目の前には紳士淑女がひしめき合い、互いのドレスや宝石に目を光らせ相手の懐状況を探りあっている。
とんだ地獄だ。
白目を剥きそうになりながらも我愛羅は必死に両足で立ち、両脇を固めている姉兄に視線を移した。

「ところでお前たちはパートナーの元に行かなくていいのか?他の方へのご挨拶は?」
「我愛羅がやる気を出したら私も行く」
「お前がここから動き出すのを確認し、知人に挨拶を始めたら俺も行くじゃん」

まさに地獄だ。
我愛羅は一瞬本気で白目を剥きそうになったが、ここまで来たら腹を括るしかない。
両脇の姉兄以外には誰にも聞こえぬよう溜息を零してから、我愛羅は背を正し歩き始めた。

「やあ侯爵様、この度は随分と大変なご出征でしたな」
「ああ、お久しぶりです…」

歩き出してすぐに顔見知りに捕まり、我愛羅は今までの態度をおくびにも出さず挨拶を始める。
それを確認してからテマリやカンクロウも歩きだし、それぞれ知人やパートナーの元に散っていく。
我愛羅自身今まで他所に挨拶に行くのを鬱陶しいと思ったことはあまりなかったが、今日ほど気分が乗らない時は流石に思わずにはいられない。
しかも例のお節介焼の叔母二人は案の定新しい嫁候補を連れて我愛羅の前に立ちはだかり、令嬢の手を取らせた。

「御機嫌よう侯爵様」
「ああ…これはまた随分と可愛らしい雛鳥だ」

叔母二人が連れてきたのは今年初めて社交界にデビューしたばかりだという十代半ばの少女であった。
小鹿のようなくるりとした丸い茶色の瞳はキラキラと瞬いており、自然な頬の赤みと覗く白い歯に多くの男は庇護欲を駆られることだろう。
だが生憎我愛羅はピクリとも表情を変えず、張りつけた余所行きの顔のまま令嬢に挨拶をした。
しかし叔母二人は挨拶回りを続けようとする我愛羅を押しとどめると、もうすぐ始まるダンスに令嬢を誘えと脇腹を突いてきた。

「彼女はとってもいい子なのよ。若いし聞き分けもいいわ」
「ええ、とってもいい家柄のお嬢様なのよ」

また金の話か。
うんざりとした表情を零しそうになるのをぐっと堪え、我愛羅は自身が事細かに品評されているとは知らないであろう令嬢へと視線を落とした。

「…この後よろしければ一曲如何です?」
「まぁ!私と踊ってくださるの?!喜んでご一緒しますわ!」

キラキラと輝く瞳は純粋そのものだ。こんなバンビを宛がってくるとは、きっとやる気のない我愛羅に対する戒めなのだろう。
つくづく性格の悪い叔母様たちだと内心で悪態をつきつつ、我愛羅は文字通りはしゃぐバンビの手を取り歩き出した。



美術館に来るのは久しぶりだ。
サクラは母親と共にドレスに身を包み、紳士淑女が集まる夜の美術館へとやってきた。
とはいえ今日はやけに立派な馬車をよく見る。まるでどこかの貴族がやってきているようだ。
しかしその中に見慣れた馬車を見つけることが出来ず、サクラはきっと“彼”は此処にいないのね。と判断し、楽しげな母と共に館内へと入っていく。

「まぁ見てサクラ!あの彫刻実に奇妙だと思わない?」
「ええ、そうね。お母さんが作ったハンバーグの形にそっくりだわ」

皮肉るサクラの背を母親が軽く叩くが、サクラは軽く笑ってそれを流す。
サクラにとって母とは親でもあり友人でもあり、尊敬すべき先導者であった。彼女が傍にいればサクラも自然と笑えたし、勇気づけられることも多かった。
対する父親は平民らしく何事も飾らない主義で、母と共にくだらないことで大笑いしてはサクラを呆れさせた。
けれども婚約相手を亡くしたサクラを父親は力強く支え、母親はこうして気分転換に連れて行ってくれた。
婚約相手の訃報を聞いたのは終戦直後の新聞だったので既に一月近くなるが、サクラは未だに二人に支えられ生きていた。

「それにしても今日は馬車がよく着くわね。そんなにこの展示会って人気なのかしら?」

しかし辿り着く馬車の数に反して館内の人数は増えているようには見えない。
首を傾ける母娘に、近場に立っていた紳士が教えてくれた。

「おや知らないのですか、奥様。今日はあちらの仕切りの向こうで、貴族の方々が舞踏会をなさっているんですよ」
「あらそうなの?だから馬車が多いのね」

舞踏会。サクラは一度として参加したことはないが、よく“彼”に連れられオレンジの木の下でワルツを踊った。
上手いか下手かは比較できないので分からなかったが、“彼”と共に踊っている間はとても楽しく、気分がよかった。

「まぁ私たち農民には関係のないことだわ。でも警備員の隙間から中を覗きたい、っていう気持ちはどうにもならないわね」
「もう、本当好奇心旺盛なんだから」

自分よりも遥かに子供っぽい母親の言葉に軽く笑いつつ、サクラはきっと留守番をしている父もこの場にいれば同じことを言っただろうな、と考えた。
そして“彼”ならきっと、あちらに行けば覗けそうだと悪戯心を発揮して、サクラの手を取り走り出しただろう。
下らないことを考えては頬を緩め、けれどすぐに首を振ったサクラは母を促し看板の先へと進む。

暗闇の中、スポットライトに照らされた彫刻は時に勇ましく、時に恐ろしく、闇を引き立て役として素晴らしい結果を出していた。
サクラは一つ一つの彫刻に頷いたり驚いたり、時には母と一緒に恐ろしいと肩を竦めながら道なりに歩み、最後の展示品を鑑賞してから外のベンチに腰かけた。

「あ、そういえばこの後花火があがるらしいわよ。お父さん家からじゃ見えないかもしれないわね」
「うーん…どうだろう。でも教会の鐘で遮られて見えないかもしれないわね」

どこから取り出したのか、母親は今日のことが記されたチラシに目を通し、すぐに折りたたんだ。

「他にも展示品が見れるらしいわ。行ってみる?」
「うん、そうね。でも先に行ってて。少し休んでから行くから」

周囲には老夫婦と幼子をつれた家族がいたが、母は遅い時間に娘を一人にすることを渋った。しかしサクラが少し考えたいことがあるの。と言えば諦めて頷いた。

「でも決して一人になってはいけませんよ。危険が迫ったら精一杯叫びなさい。いいわね?」

母の忠告に頷き、小さな背を見送ってからサクラは星が瞬く夜空を見上げた。

「…キレイな空…」

今この星空の下、どこかに“彼”はいる。
そう思うだけで心がどこか高揚し、けれど同時に痛みが胸を刺す。
この痛みはきっと裏切りの痛みね。と首に下げたままの婚約指輪を戒めのように握っていると、自然とため息が零れた。

「…逢いたいな…」

“彼”は何処にいるのだろう。此処にいないのだとすると、今頃きっと屋敷で本を読んでいるだろう。“彼”は冒険好きでもあるが読書好きでもある。
あまり本を買う機会がないサクラにこっそりとお奨めを持ってきてくれては貸してくれた、悪戯な瞳を思い出しては胸をときめかせる。

「…やっぱり駄目ね。一人になったところで、考えるのはアノ人のことじゃないもの…」

サクラは少しばかり皺の寄ったドレスの裾を正すと、夜間営業をしている別の展示室へと足を進めていく。
けれどその途中、曲がり角を一つ間違え静まった通路へと出てしまった。
まさかこんなところで迷子になるとは。
昔からどこか道に迷う癖のあったサクラは成長を見せない自身に額を抑えつつ、けれど顔を上げた時ふと仕切りの間に隙間があることに気付いた。

(…警備員は…いないわね。ちょっとぐらいなら覗いたって罰は当たらないわよね?)

母を戒めはしたがサクラとて好奇心が旺盛な方だ。そのおかげで幼い頃畑に迷い、“彼”と出逢ったのだから。
サクラはそっと周囲を探ってから仕切りに手をかけ、隙間から奥を覗いてみる。

(わっ…!何て煌びやかな世界!すごいわ…ドレスも…とっても綺麗…)

仕切りの向こうはまるで別世界だった。
美しく着飾った老若男女がワインの入ったグラスを片手に笑いあい、豪華な食事を口に運んでいる。
自分たちが普段口にしているのとは遥かに違う、見目も味も百八十度違うであろうそれらにお腹が鳴りそうだと思っていると、かなり奥の方、中央より壁側で見慣れた姿を見つけた。

「っ…!」

“彼”だわ。
狼狽える自身の、逸る心臓を必死に深呼吸で抑えつけ、サクラはもう一度周囲を確認してから再び仕切りの間に顔を近づける。
そしてやはり目に入ったのは、侯爵の名に見合った優雅な出で立ちをした“彼”であった。

「…素敵…」

つい口から出てきた言葉にハッとしつつ、けれど心からの感想を誤魔化すことは出来なかった。
普段自分の前で見せる姿とは違う、鮮麗された衣服を纏った気品を感じさせる姿。それが余計に“彼”の魅力をひきたてている。
逞しく張った肩からくびれた腰への艶やかな曲線。引き締まった臀部から始まる長い足。軍人らしく正された背からは頼りがいが感じられ、周囲にいる誰よりも“彼”は目立っているように見えた。

「……やっぱり…“ダメ”ね…」

私と“彼”とじゃ身分がありすぎる。
そう思い仕切りから体を離そうとしたところで、突然“彼”が後ろを振り返った。

「っ!」

咄嗟にドレスを翻し隠れようとしたサクラではあるが、あまりにも慌てていたせいで仕切りから離れるのが遅くなってしまった。
確認することは出来ないが動体視力のいい“彼”はすぐさま覗いていたのがサクラだと気づくだろう。
だがもし此処を出てそのまま外に出れば、勘のいい、時折ハンターのように鋭い嗅覚を発揮する“彼”に捕まってしまうに違いない。
だが奥には母がいる。そこに行けばきっと“彼”はこの仕切りを超えて探しにはこれまいと震える膝を叩き起こし、もつれそうになる足を必死に前に押し出しながら廊下から飛び出る。

だがここでサクラはハッと息をのんだ。
彼女は迷子癖がある。
だからどの道を進めば母がいるであろう展示室に行けるのか、分からなくなっていた。

「え、っと…確かこっちから来たはずだから…あれ、でも彫刻の展示をしてたのが向こうで、通常展示を行っているのが…」

うろうろと視線と指先を彷徨わせ、けれど混乱した頭ではまともな答えが出ない。
サクラはもう!と叫びそうになるのを必死に堪え、とにかく今は自身の勘を信じるべきだと駆けだす。
だが駆け抜けた廊下の先の扉を開ければ、そこには既に“彼”が立っていた。

「っ!」
「はあ…相変わらずの迷子癖だな。こっちは非常用口だぞ?」

何と言う嗅覚だ。
サクラは目の前に立つ“彼”に目を見開きつつ、手にしたままの扉を閉めるかどうか悩んでいるうちに距離を詰められた。

「この扉を閉めよう、っていう冷たい考えは口にしないでくれ。俺の枕が涙で濡れてしまう」
「…あなたは、そんなことで泣くような弱い人じゃないわ…」

震える指先をそろそろとドアノブから離し、一歩後ろに下がれば“彼”は肩を落とした。

「そんな脅えた顔をしないでくれ。本当に傷つく」
「だ、だって…その…いつもと、格好が違うから…」

サクラの家に来る時“彼”は随分とラフな格好で訪れる。
首元にクラヴァットは巻いていないし、ズボンだって乗馬用のものを履いたままだったりする。ブーツも貴族らしいものではなく、軍事用の厚く耐久性がいいものを履いている。
まるで出征先からそのまま帰ってきたかのような、あるいは趣味である乗馬の途中にサクラの家に寄ったような、そんな軽い出で立ちなのだ。
しかし今目の前に立っているのは“侯爵”としての“彼”だ。周りにいた令嬢たちとは違い、安物のドレスに身を包んでいたサクラは途端に自分が恥ずかしい存在に思えてきた。

「そ、その…お願いだからそこを退いて。私お母さんの所に行かなくちゃ…」
「ここから出て母君を探すのか?言ったと思うがここは非常用口だ。キミのお母さんは見つからないと思うぞ」

ああ、恥ずかしい。
混乱していたせいでまともな忠告さえ覚えていなかったなんて。
顔から火が出そうだと俯くサクラに何を思ったのか、“彼”はふぅと吐息を零してから一歩後ろに足を引き、階段に足をかけた。

「サクラ、少し夜風に当たろう。そうすれば混乱した頭もスッキリする」
「え、ええ…そうね…」

差し出された“彼”の手に自分の手を置くことをこんなに躊躇った日はない。
きっとシルクかサテンで出来ているであろう、上質な手袋を嵌めた手に自身のささくれた手を乗せるのは憚られた。
けれどそんなサクラの躊躇いを一瞬で見抜いた“彼”は、手袋をあっさりと脱ぎ捨てるとポケットに仕舞い、再度サクラに手を出した。

「武器は持ってないだろう?」
「…バカね。誰もそんな心配してないわよ」

軽く口の端を上げる“彼”に口元を緩めつつ、サクラは観念したように自身の手を重ね、後ずさったばかりの一歩を前に押し出した。

「今日は随分と星がキレイだ。昨夜の雨が嘘のようだな」
「ええ。私もさっきそう思っていたの」

まるで初めてあなたと逢った時のようだわ。
そう口の中だけで言葉を続け、瞬くサクラの腰を突然“彼”は抱き寄せた。

「ちょっ…!」

幾ら非常用口前だとはいえ、いつだれが通るかも分からない。
それにこれでは誰かに勘違いされてしまう。
“彼”の名前に傷をつけることだけは出来ないと離れようと胸に手をつくサクラに、“彼”は微笑って腕を引いた。

「踊って」
「え?」
「覚えてるだろう?ワルツさ」
「あ、ちょっと…!」

“彼”が大きく後ろに下がったおかげで、サクラは完全に芝生の上に乗り上げる羽目になる。
そうして驚くサクラを見て“彼”は悪戯小僧のように瞳を輝かせると、腕の怪我をもろともせず昔幾度となく聞いたハミングを始めながらゆっくりとステップを踏み始める。

「だ、だから、私上手じゃ…!」
「上手に踊ろうとしなくていい。サクラはサクラらしく、踊りたいように踊ってくれ。俺はそれをリードするのが楽しいんだ」

基礎も何もなっていない、傍から見ればきっと滅茶苦茶であろうステップを踏みながら、それでも“彼”に腰を抱かれ胸を密着させ、夜風と“彼”のハミングを伴奏に踊るワルツは楽しかった。

「あ、やだちょっと!」
「回って!」
「やだ!もう!あはは!」

令嬢とは違う、何の飾り気もないドレスだけれど、夜風に舞う裾は蝶のように羽を広げ闇の中を羽ばたいていく。
まるで子供に返ったように二人は屈託なく笑いながらくるくるとワルツを踊り、そのうち上がりだした花火に視線を上げ、足を止めた。

「…とってもキレイ…」
「ああ…そうだな…」

踊るのを止め、花火に魅入る間も“彼”の手はしかとサクラの腰を支え、密着している。
ワルツを踊ったばかりだからだと、跳ねる心臓の音を聞かれたとしても誤魔化せるだろう。
少しばかり乱れた呼吸を整える合間に零れた後ろ毛をピンで抑えつけ、花火ではなく“彼”に視線を移してみれば、驚いたことに“彼”の瞳はまっすぐとサクラを映していた。

「…何?」

どもりそうになるのを必死に抑え、花火の合間に絞り出した声は驚くほど小さかった。
けれど至近距離にいる“彼”には十分聞こえたらしく、“彼”は少しばかり口を開くと、諦めたように閉じて頭を軽く振る。

「…サクラ」
「何?」
「こんなこと、今のキミに聞くのは失礼なことかもしれない」
「…何?」

いつもと違い、戸惑った様子を見せる“彼”に胸騒ぎがする。
しかし不安な様子を見せることなく先を促せば、珍しく意気消沈しているかのように瞳を曇らせた“彼”が投げかけてきた。

「キミは“結婚”についてどう思ってる?」
「え?」

結婚。それは愛情の証だ。だがそれは貴族の間で当てはまるのだろうか?
街中で蔓延る噂の大半はデマだと笑い飛ばしたのは目の前にいる“彼”自身だ。
そんな“彼”が結婚で悩んでいるということは、もしかしたら近日中にそういう噂が出回る可能性があるかもしれないということだ。

「…すまない、こんなこと、突然聞いて…」
「ううん…でも、どうしてそんなこと聞くの?」

サクラの胸は先程とは違い、別の意味で早くなりつつあった。
この先を聞きたくない。聞いてはいけない。聞いてしまったらきっと、自分の中の何かが音を立てて崩れてしまう。そんな気がした。
だが皮肉なことにサクラは好奇心が旺盛だった。
曇った表情を見せる“彼”に、サクラは問いかけた。

「…情けない話、俺は今窮地に立たされている」
「え?!どういうこと?」

“彼”の身に何が起こっているというのだ。
逸る心のまま問いかけるサクラの手を握りしめ、“彼”は続ける。

「碌でもない親戚たちのせいで望んでもいない結婚をさせられそうになっているんだ。俺はそんな結婚なんぞしたくない」
「…そんな…でも、どうして?」

“彼”は侯爵といえ次男坊だ。長男ではない。だから急いで嫡男を残す必要はないはずだし、そもそも“彼”の兄であるカンクロウは既に結婚し子供を授かっている。
なのに何故“彼”が急いで結婚をさせられるのだと問いかければ、“彼”は皮肉気に口元を歪めた。

「政略婚さ。向こうの相手と結婚すれば事業が更に拡大出来るらしい」
「そんな…そんなことのために結婚させられるの?」

サクラたちからしてみれば平民同士で結婚したところで大した変りはない。
勿論農家から販売業等の職種が違う所に嫁げば別かもしれないが、それでも事業の拡大に繋がったりはしない。
汚い話、お金絡みのことに“結婚”が利用されるというのがサクラにとっては驚きだった。

「俺にもし相手がいるなら考えてやらんでもないとは言われたがな。生憎付き合っている女性はいない」

“彼”に相手がいないことを喜べばいいのか嘆いてやればいいのか。
悩むサクラに“彼”は暫し瞠目し、視線をどこかに投げていたが、すぐさま瞳を戻しサクラを映す。

「…サクラ」
「な、なに…?」

唯でさえ抱かれていた腰が更に強く引き寄せられ密着する。
いつもよりずっと、ジャスミンの香りが強く感じられた。

「…俺と、結婚してくれないか」
「…え…?」

指先が震える。“彼”から告げられた内容の意味が理解できず、視線が揺れる。
だが“彼”はサクラから視線を逸らさぬまま腰を抱いていた手を離し、その手をサクラの頬に当てる。

「本当は、ずっとキミが好きだった…アイツの死からたった一月しかたっていないのにこんなことを言うのは卑怯だと分かっている。だが、時間がなくなってしまった」
「そ、んな…突然、そんなこと言われても…」

あまりにも衝撃的すぎて頭が回らない。
目に見えて狼狽えるサクラは先程までの高揚感などすっかり忘れ、今は唯“彼”の言葉を必死に噛み砕こうとする。

「突然だということは分かってる。傷ついてるキミに迫るにはあまりにも酷だということも。ただキミの心が落ち着くまで待っていられないんだ。このまま望まぬ結婚をするくらいなら、キミに気持ちを伝えてからの方がいい。ずっと…そう考えていた」
「でも…例えあなたが誰かと結婚しても、私との友情が崩れることはないわ。そうでしょう?」

サクラは必死だった。身分が明らかに違う自分と結婚しても彼の手伝いにはならない。
それならむしろ望まぬ相手と結婚をし、財を蓄えた方が後々彼の役に立つのでは?それに愛など初めから築けるものではない。
愛情深い“彼”なら初めからは無理でも、徐々に相手に思いやりや愛情を感じていくに違いない。きっとそうだ。何故なら“彼”は“白馬の王子様”なのだから。

だがその“白馬の王子様”は、甘えるサクラにあまりにも残酷な一言を告げた。

「それは出来ない。結婚してしまえば、俺はもうキミに会うことはできない」
「っ!」

考えてみれば当然のことだ。侯爵である“彼”が何故頻繁にサクラの元を訪れることが出来ていたか。
それは“彼”が独身であり、且つ事業に手を染めていなかったからだ。もし今後結婚し、子供を授かればサクラに会いに来るのは難しくなる。
軍を退役すれば今度は議員になるか事業主になるかを選ばなくてはならない。彼の家は幾多の事業にも顔を出している。その中の一つを一任されてもおかしくない。
そんな多忙の彼に自分とお茶を楽しむ時間など果たして残されているのだろうか?
考えれば考える程絶望に染まっていく未来に、サクラの顔から血の気が引いていく。

「…決めてくれ、サクラ。今ここでというのが無理なら、後三日は待つ。だがそれ以上は待てない。俺が駄々をこねて返事を延ばすことが出来たとしても、精々三日しかないんだ」
「そんな!たったの三日で決めろだなんて、そんなの…」

無理よ。
そう言いたかったが、苦悩や怒りに濡れるコバルトグリーンの瞳を見ていれば言葉にならなかった。
サクラ以上にきっと“彼”の方が傷ついている。
だが今は“彼”を救いたいという気持ちより、身分違いの世界に足を踏み入れる恐怖の方が勝っていた。

「…覚えていてくれ。キミの答えですべてが決まる。今キミが握っているYESかNOかの答えは俺にとっては短剣だ。この無様で弱々しい心臓に突き立てられた、たった一つの」

もたらされる“彼”の言葉に唯々首を横に振ることしか出来ない。他に何を言っていいのかサッパリわからない。
混乱するサクラの濡れた瞳を物悲しく見つめた後、“彼”は名残惜しそうに体を離し、サクラの震える指先を握った。

「もしキミが俺を振ったとしても、俺の愛は永遠に変わらない。偽りの愛に身を染めたとしても、真実の愛はいつだってキミの傍にある。それを…忘れないでくれ」
「……いや…そんなの…酷いわ…」

知らぬ合間に溢れた涙が頬を伝うより早く、“彼”の指が雫を拭い去り、乱れた髪を梳く。

「…ずっと言いたかった。誰よりもキミを愛してる。幼い時から、ずっと…」
「…我愛羅くん…」

“彼”の手で、我愛羅の手で拭われたばかりだというのに、溢れた涙は結局頬を伝い落ちていく。
我愛羅はその涙を悲しそうに見つめた後、握った指先に唇を落とし、額にあてた。

「愛してる…本当に…誰よりも、愛してるんだ……サクラ」

顔を上げた我愛羅の瞳に涙は浮かんでいなかったが、それでもいつも毅然とした態度を貫く彼には珍しく弱々しい瞳をしていた。
どうして彼がこんな目に合わなくてはいけないのだろう。
命を賭けて必死に戦って、沢山の大事な人を亡くして心に傷を負っているのに、どうして周りの人はこんなに酷いことが出来るのだろう。
我愛羅の悲しみを想像すればするほど涙は後から後から溢れ出て、サクラは長い睫毛をそっと伏せた。

「…もう行くよ。そろそろ戻らないと皆からどやされる」
「……うん…分かったわ…」

取られていた手はそっと離され、体の横に戻ってくる間に我愛羅は背を向け歩き出していた。

「…我愛羅くんっ!」

思わず呼び止めた背中は律儀にも足を止め、振り返ると弱々しく微笑んで見せた。

「久々に楽しいワルツが踊れた。ありがとう」

けれどサクラが言葉を発する前にそう告げると、今度こそ振り返らぬまま闇の向こうへと消えてしまった。

「…私は…どうすればいいの…?」

花火も終わってしまい、再び静寂が戻った暗闇の中、サクラは一人呆然と立ち竦んでいた。



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