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翌朝、鳥の囀りが聞こえ目を覚ます。
案の定隣に寝ていたぬくもりは今はなく、乱れたシーツだけが我愛羅が此処にいたことを示している。
(冷たい…随分早く出たのね…)
皺が寄ったシーツの上。
男の名残を確かめたくて腕を伸ばしてみるがそれは掴めない。だがこれも仕方ない。互いの立場故だと重怠い体を起こせば、はらりと何かが落ちてくる。
「え…?桜?」
布団の上、落ちた花弁に瞬き頭を振れば途端にハラハラと花弁が落ちてくる。
「あの野郎…」
妙な悪戯をして行きやがってと呆れるが、枕元に散らされた花弁はそれでも美しく憎めない。
まったくしょうがない人ね、と立ち上がり朝風呂にでも入ろうかと鞄を開けた途端、広がる薄紅に脱力する。
「もーっ!今度会ったら絶対仕返ししてやるんだから!」
鞄の中にまで詰め込まれた花弁はサクラを嘲笑うように揺れ動き、憎たらしい狸顔の男を思い出しては頬を膨らませる。
それでも結局この花弁を集める姿を想像すればどうにも阿呆らしく可愛らしいので、しょうがないから許してやるかと上げていた肩を落とす。
「…我愛羅くんのばーか」
手に取る花弁は柔らかく、鼻先を寄せれば仄かな香りが鼻腔を抜ける。
昨夜の残り香を消すように朝の匂いに満ちた窓を開ければ、途端に爽やかな青空が視界に広がり目を細める。
「いい天気」
肌を撫でる風は幾らか冷たいが、それでも穏やかで優しい。そして足元を滑って行く風は部屋の中に散った花弁をも流していく。
桜吹雪とまではいかないが、それでもなかなかに風流なものだと頬を緩めて眺めていれば、なーごと猫の鳴き声が聞こえ顔を上げる。
「あら。あなたどこから入ってきたの?」
裏庭の草陰に身を潜めていた声の主を見つめれば、ガサガサと音を立て出てきた猫に思わず吹き出しそうになり慌てて口を押える。
白い毛並みに黒い縁が目の周りを覆い、新緑の瞳を持つ姿は驚くほど我愛羅にそっくりであった。
まったく、この地は飽きないものばかりだとクスクスと笑っていると、首を傾けた猫がもう一度なーごと鳴いてから首を掻く。
その平和な姿に目を細め、花弁を一枚手に持つとそれを猫の前で振ってみる。
「ほーれほれほれ〜」
ちらちらと揺れる花弁に気付いた猫は、面白い位に瞳を彷徨わせ手を出してくる。
「あはは!ほらほら、こっちだよー」
ひらりひらりと揺れる花弁を必死に追う姿に笑みを零し、最後にえい、と花弁を手離せば上手いこと猫の鼻先に張り付き、猫はくしゅんとくしゃみを零し頭を振る。
「うふふ、ねぇ、あなたのお名前つけてもいい?」
見上げる猫は数度瞬くと、一体何だと首を傾けなーごと鳴く。
それにサクラはうふふと微笑み、悪戯な男を思い浮かべ口を開いた。
「まったく、お前さんもあの子も忙しいったらないねぇ」
「それだけサクラさんが必要なお方だということですよ、お母様」
「あはは…」
朝餉を終え、荷物を肩に下げ靴を履くサクラに先代と女将が見送りに立つ。
もう少しゆっくりすることができればよかったが、桜が散る前に宿に行くには夜勤がある今日しか暇がなかったのだ。
それでも確かに花見ができたと伝えれば、それはよかったですと女将が微笑む。
その柔和な笑みの隣では、まぁ満足できたならいいんだけどねと腹の中が狸な先代がひひひと笑う。
本当にこの人には敵わない。
素知らぬ顔を通す先代に苦笑いを返した後、サクラは立ち上がりそれじゃあと二人を煽ぐ。
「また来ますね」
「はい。いつでもお待ちしております」
「気ぃつけて帰るんだよ」
控えていた馬車引きに荷物を預けていると、例の白い猫がなーごと鳴き声をあげサクラの足元にすり寄ってくる。
「あら?この猫…」
「お前さんの飼い猫かい?」
首を傾ける二人にサクラは微笑むと、ただの名付け親ですと答え抱き上げる。
「この子の名前“我愛子”って言うんです」
「なーご」
部屋に上がりこんだ猫の性別が雌だと分かったとたん、サクラはこの猫を“我愛子”と名付けた。
雄ならば我愛羅と名付けてやろうかと思ったが、雌に男の名前を付けるのは可哀想だと思ったことを二人に告げれば先代が腹を抱えて笑いだす。
「あっはっは!そりゃあいい!確かにあの子そっくりだ!」
「うふふ、我愛羅様には失礼ですけど、確かにそっくりですね」
笑いを殺せない二人の朗らかな笑みにサクラも頬を緩め、今日からあなたは我愛子よ!と見下ろせば新緑の瞳がくるりと周り数度瞬く。
「はー、笑った笑った。どれ我愛子。お前さんうちで厄介になる気はないかい?」
腰を屈め話しかける先代に、サクラの腕の中から降りた白猫こと我愛子はなーご、と返し首を掻く。
それに対し先代は笑うと、次にあの子が来たら自慢してやろうかねと悪戯な笑みを浮かべ我愛子の頭を撫でる。
その手を嫌がることなく受け入れた我愛子に目を細め、是非お願いしますとサクラが笑みを返せば任せときなと先代が胸を張る。
「あの子のしっぶーい面を想像したら笑いが止まらないねぇ」
「あの人の事だから、腕を組んでいつもの仏頂面に皺寄せるんでしょうね」
想像に容易いしかめっ面を思い浮かべ噴きだせば、流石の女将もクスクスと笑いだす。
「我愛羅様にそんなことが出来るのは、お母様とサクラ様だけですわね」
「えぇ?そうですか?」
朗らかな笑みに笑い返すが、そろそろ出なければともう一度我愛子に視線を落としてから頭を撫でる。
「じゃあね我愛子。ちゃんといい子にしてるのよ?」
「なーご」
返ってくる返事に目を細め、それじゃあもう行きますねと馬車に乗る。
「また何かあったら手紙を出すよ」
「お体にお気をつけくださいませ」
「はい。本当にありがとうございました」
頭を下げる女将と、手を振る先代にサクラも手を振り返し、のんびり欠伸を零す我愛子にまたねーと叫ぶ。
ガタガタと揺れる馬車の中、鞄の中から取り出したポーチの中には拾った花弁が詰まっている。
そっと手に取り広げれば、それはあっという間に流され消えて行く。
「…またね」
流した花弁は青空の下を泳いでいく。
その光景はさながら水の中を自由に泳ぐ金魚のようで、唯々美しく、愛らしかった。
「もーすぐ夏ねぇ」
勿論その前に梅雨は来るが、それでもきっと次に逢えるとすれば夏の中忍試験の時ぐらいだろう。
それでも一歩ずつ、自分たちは進むしかないのだと照れ屋な我愛羅が残して行った桜の形を催したイヤリングを手に取り目を細める。
「本当、不器用なんだから」
詰め込まれた花弁の下、衣服を取り出す際に引っかかった小さな箱は綺麗に包装されており、挟まっていたカードには簡素な文字で“やる”の二文字だけが書かれていた。
けれどそのカードの端、綺麗な文字で“Happy Birthday”と描かれたものを使っているあたり抜けているのかそれとも故意なのか。
分からないが面と向かって渡せなかったことだけは理解できたので、本当にしょうがない人だとただ笑ったのだ。
(もし次逢ったらつけてあげようかな)
小さくてシンプルな物ではあるが、確かに感じられる想いにただ笑みを広げる。
散り行くことのない花弁は馬車の隙間から差し込む光にキラリと反射し、揺れる水面を思い出させる。
愛らしいその贈り物を箱に戻し、花弁と一緒にポーチに戻してから目を閉じる。
(我愛羅くん)
揺れる水面に聞こえる波音。
凪いだ風に乗る潮風に揺れる茜。
久しぶりに感じたあの海に、サクラの心は満たされる。
ああ、そうだ。今度の夏は海に行こう。
誰かと一緒でも、二人だけでもいい。
彼の瞳よりもずっと濃い、青い世界に包まれて、彼の瞳と共に泳ぐのだ。
青い青い、この世界を。
「…私、頑張るからね」
呟く声は馬車の音と共に消え、風に流され消えて行く。
だが今はそれでいいのだと、光り輝く太陽を見上げぐっと拳を握り締めた。
二人の未来は、まだこれからも続いているのだから。
【春の舞】了
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