小説2
- ナノ -





「そういえばサクラのマンションってどこだっけ?」

駅に着き、まだ明るい中を先輩と共に歩く。
周囲には子連れのお母さんとか運送会社の配達員さんとかが数人いる。いつもならこの道を一人か、あるいはサスケくんかナルトか、我愛羅くんと歩くのに、今日は先輩が隣にいる。
そう言えば先輩はうちに来たことなかったっけ、と記憶を手繰り寄せながら私は公園の入り口で足を止めた。

「この先にあるマンションです。ここまでで大丈夫です。すぐそこなんで、ありがとうございました」

以前我愛羅くんに男に住居を特定させるな、と言われたから私は公園の入り口まででいいと先輩に頭を下げた。
でも先輩はいやいやいやとニコニコした顔のまま帰る気配を見せない。…どういうことだろうか。

「だから言ったでしょ?不安だから見送るって」
「え…いや、だからもう大丈夫ですって。電車の中で寝てちょっとすっきりしましたし、この公園を抜けたら本当にすぐなんで、平気です」

周囲にはお散歩に来ているお母さんたちもいるし、老夫婦もいる。配達員のお兄さんだってもし何かあれば駆けつけてくれるかもしれない。
時間帯的にもまだ暗くはないし、むしろ明るくていい天気だ。それなのに何が不安なのかと先輩を見上げれば、相変わらず先輩はニコニコと笑っていた。

「部屋の中にまでは押しかけないよ。でもマンションのエントランスまで送らせてよ。そしたら安心して帰るからさ」
「で、でも…」

我愛羅くんの言葉が蘇る。先輩は知り合いだけど、男の人だ。教えてもいいのかな。でも、どうなんだろう。
こんな時サスケくんがいたらどうするかな。助けて、くれるかな。うちのサクラがお世話になりましたってあの時我愛羅くんに言ったみたいに私を連れて行ってくれるかな。
ナルトならどうするかな。お前ってば信用ならねー!って喧嘩を売って、先輩を呆れさせて警戒しながら私のことマンションまで送ってくれるかな。
いのならどうするだろう。あんたしつこいわよ!ってハッキリ振るのかな。余計なお世話よって彼女なら不敵に笑って一人で歩き出すに違いない。
でも、私は、私ならどうするんだろう。どうすればいいんだろう。今まで皆に甘えてたツケなのか、無自覚だった自分に罰が当たったのか。
この状況をどう打開すればいいのか分からない。助けて欲しいと思っても周りの人は助けてはくれない。
サスケくんはいないしナルトもいない。いのとはさっき別れたばっかりだし、ヤマト先輩も学校に後戻りしていた。
我愛羅くんはどこにいるか分からない。そういえば、実習中に一度だけメールのやりとりをしたぐらいだ。

 一ヵ月間実習に行くの。頑張るね!
そんなことを言った覚えがある。彼は確か無理するなよ、とか、ご飯はちゃんと食べて睡眠もとること、といのみたいなこと言ってたっけ。
アレ?でもそれはサスケくんだったっけ…サスケくんもよく私にそういうメールをしてくれたから…何だかもう分からなくなってきた。
我愛羅くんは、なんて言ったっけ?

「サクラ、」

先輩の手が私に向かって伸びてくる。どうしよう。

怖い。

「ぃ…」

イヤ、そう言いそうになった時、先輩の手は横から弾かれた。

「?!」
「失礼、彼女が嫌がっていたようなので」

聞こえてきた声に混乱していた頭が反応する。いつの間にか下がっていた視線を上げれば、一月の間見ていなかった赤い髪が目に入った。

「あー…別に俺痴漢とか、ナンパとかじゃないんだけどねぇ〜…」
「そうですか。ですが嫌がる女性に無理やり迫ってはセクハラになりますよ。覚えておいた方がいい」

先輩の手を弾いたのはどうやら彼のようだった。たった一月会ってないだけなのに、聞こえてくる涼しげで揺るぎのない声音が懐かしいと思った。

「セクハラ、ねえ…ねえサクラ。この人知り合い?それともただの通りすがり?」
「え…あ、と、友達です…」

先輩は困ったように肩を竦め、彼に守られるように背中側にいた私に声をかけてくる。
そこでようやく彼が私と先輩の間に立ち、私を守るように背を向けてくれていることに気付いた。
あまり彼の背中を見たことが無かったから分からなかったけど、後ろから見れば彼の体はしっかりと筋肉がついていて、頼もしいと思った。

先輩は私の言葉にそう、と頷いた後まじまじと彼を見つめた。

「うちの大学では見ない顔だね。余所の学生?」
「知ってどうするんです?個人情報はむやみやたらと教えない主義なので、無駄な質問はお控えいただきたい」
「つれないねぇ〜、キミ」

肩を竦める先輩に対し我愛羅くんはサスケくんの時同様事務的な返答をする。何と言うか、ちょっぴり怖い。
けど先輩は自分の方が年上だという自覚があるのか、それとも大人の男の余裕と言うやつだろうか。どこかピリピリした様子の彼を眺めると、しょうがないかと一つ吐息を吐きだした。

「不安定になってるサクラを慰めてあげようかな、って思ってたけど。相手がいるなら俺は必要ないね」
「え?あ、そ、そんなんじゃないです!」

先輩の言葉に慌てて声を上げるが、先輩はいいのいいのと相変わらず食えない笑みを浮かべ、私から彼に再び視線を戻した。

「大変だよ、キミ。この子凄い鈍いから」
「今更だ。理解はしている」

二人の間で交わされる言葉の意味が分からない。というかあれだけピリピリした空気が流れていたのに、今では何か…お互い同じ悩みを持っている人同士、みたいな空気になっている。
ど、どういうことだってばよ…?

「ま、でも今までのサクラだったら平気で俺のこと家にあげてたかもねぇ〜。その辺はちょっと成長したかな?」
「ほぉ…そうか。それはいいことを聞いたな…」

あ。やばい。我愛羅くんの地雷を踏んだ。
そう思った時には既に遅く、空気を呼んだらしい先輩がじゃ、そういうことで。と片手をあげて去って行った。あんなにさっきは食い下がってたのに何と言う掌返し。
先輩、やっぱり待って!置いてかないで!一人にしないで〜!という私の心の叫びは勿論口から洩れるはずなく、私は恐る恐る助けてくれた彼を見上げた。

「え、えへ?」
「…えへ、じゃない。この阿呆!」
「あいったっ!!」

べしん、と彼のデコピンが私の額を撃ち抜く。い、いったぁ〜!!これ結構マジなやつだ…

「な、何するのよっ!」
「それはこちらの台詞だ!あれほど警戒しろと言ったのに、ホイホイ男を連れてくるなんてどういう了見だ!」
「ち、違うもん!私のせいじゃないもん!先輩が勝手についてきただけだもん!!」

痛みの余り涙目になっている私に対し、彼はたじろぐことなく叱りつけてくる。うぅ…【秘技、女の涙】も彼には通じないらしい。
これがサスケくんとかナルトだったら結構効果あるのになぁ〜…やっぱり彼は一筋縄ではいかないようだ。

「全く…顔色も悪いしふらついているし…ちゃんと休んでいるんだろうな?」
「これから寝ようと思ってたもん…」

きっと赤くなっているだろう、彼に弾かれた額を擦っていると呆れたような吐息が聞こえてくる。
反射的に肩が跳ね上がり、自然と下がっていた視線をもう一度上げれば彼の表情から既に怒気が消えていた。
これ以上私に怒るつもりはないらしい。本当は多分、もっと色々言いたいのだろうけど。

「もういい…気を付けて帰れよ」
「ぁ…ちょ、ちょっと待って!」

もう用はないと言わんばかりの体で踵を返す彼の手を慌てて掴めば、どうかしたのかと翡翠の瞳が私を見下ろす。
まだ怒ってるかな、と思っていたけど彼の瞳は以外にも穏やかだった。だから私は疑問に思っていたことを口にした。

「あの…どうして我愛羅くんがここにいるのかな、って…」

確か我愛羅くんの家は私が乗る電車と反対方向だと言っていた。だから私といる時は見送るために彼はこちらに来るが、それ以外で用があるとは思えない。
元々ここは住宅街だし、買い物なら都心の方がいい。もし植物を観察・採取するためだとしてもこんな場所に来なくていいはずだ。
公園なんて規模を問わなければあちこちにあるものだし、そもそも彼の大学には植物なんていっぱいあるだろう。
だからどうしてこんな所にいるのか、問いかければ彼は途端に黙った。

「ねえ、何で?」

ぐっと黙った後視線を逸らす彼を見上げ、開いている距離を詰めれば珍しく彼が一歩下がる。
どうやら彼の中で私と保つべき距離というものがあるらしい。でも私はそんな距離詰めてやれ!と思った。

「ねえねえねえ、何で何でなーんでー?」
「こ、子供みたいな聞き方をするなっ、たまたまだ、たまたま」

そう言って再度顔を逸らすけど、明るい日の下にいるからか彼の染まった頬がよく見える。
私は素直に本当のことを言ってくれない彼に頬を膨らませ、それからえいと彼の体に勢いよく抱き着いた。勿論彼は固まったけど。

「な…お、おい、サクラっ!」

彼の狼狽える声なんて珍しい。そう思いながらも私はぎゅうと彼にしがみつき、彼の肩に額を押し付けた。
そうして深く息を吸い込めば全身に彼の匂いが沁み渡って、しがみついた腕と、重なり合う部分から熱が伝わってきて熱いと思った。

「…怖かった」
「え?」

固まる彼は未だ狼狽えていたけれど、私が怖かったと言えば体の緊張を解いた。彼の体は思った以上にあったかくて、大きかった。

「さっき…先輩に送るって言われた時も、無理やりついてこられた時も、ここまで歩いてる間も、ずっと…怖かった…」

ぎゅうと彼の服を掴んで体を押し付ければ、彼の手が不慣れな動きで私の頭をポンポンと二度叩き、それから宥めるように数度撫でてくる。
まるで恐る恐る、といった体なのがちょっとばかし可笑しかったけれど、私はそれ以上にすごく安心して、心地好いと思った。

「私、多分…我愛羅くんに言われてなかったら何の警戒もせず先輩のこと家にあげてたと思う」
「お前な…」
「うん…でも、私怖くなったの。我愛羅くんに言われてたから、ちゃんと気をつけなきゃって思ってたの…でも先輩は優しくて、いい人だったから…どうすればいいか分からなくなった。警戒すればいいのか信用すればいいのか。尊敬してる人だけど、先輩も男の人だから。だから迷ったし、怖かった」

呟くように気持ちを吐露する私の背を彼がぎこちない手つきで撫でる。
あんなに先輩の手が怖いと思ったのに、彼の手は全然怖くない。サスケくんともナルトとも違う。ちゃんとした異性の手なのに、この手になら何をされてもいいと思えた。

「だからね、我愛羅くんが助けに来てくれた時本当に嬉しかったの。アメリカの映画に出てくるスーパーヒーローみたいで、すっごく格好良かった」

颯爽と現れてはヒロインを助けてくれる。お伽噺の王子様とは違う、街を守りつつもヒロインを助けてくれるヒーロー。
日本の特撮はヒロインを守るんじゃなくて地球や日本を守るっていうのがお仕事だから、同じヒーローでも彼はアメリカのヒーローみたいだった。

「…俺は手から蜘蛛の糸なんぞ出せんぞ」
「ふふっ、知ってる。でも出せてもいいよ。そしたらやっぱりあなたはヒーローだもの」

くすくすと彼の腕の中で笑う私に呆れたような吐息を零すと、私の背を優しく叩いてから肩に手を置いた。
それを合図に、私は彼から体を離した。

「言っておくが俺は一般人だ。ヒーローと言われてまぁ…悪い気もしないが…基本的には無力だ」
「…思ったより謙虚ね」

てっきり男の子なら喜ぶフレーズかな、と思ってたいたけど、彼はそこまで子供じゃないからなと口の端を僅かに緩めた。
ああそうだ。こういうところがナルトともサスケくんとも違うのだ。彼は“男の子”だけど、ちゃんとした男性の、“大人の男らしさ”を持っている。
同年代の誰とも違うこの雰囲気が、私が自然と甘え、背伸びしなくてもいいと思える空気だったのだ。

「…サクラ」
「はい」

公園の入り口で、人通りが少ないとはいえこんな場所で長々と話すのはどうかと思う。
でも私たちは当然そんなこと気にもならないぐらいお互いしか目に入っていなくて、一生懸命だった。

「その…あまり格好悪いから言いたくなかったんだがな、心配、だったんだ」
「え…?」

どこか気まずそうに、けれど恥ずかしそうに口元に手を当て咳払いする彼の耳は赤い。
どうやら先程の私の質問に答えてくれる気になったらしい。

「連絡がずっと来なかっただろう?お前は考えすぎるところがあるから、不安とか期待とか、そういうものに押しつぶされたりしてないか…気になっていた」
「そうだったんだ…」
「ああ。本当は連絡するつもりだったんだが、中々いい文章が浮かばなくてな。悩んでるうちにその…顔が見たくなって…いるかもわからないお前を…その…探してた…」

そこまで言い終えると彼は本当に今まで見たことがない位顔を赤くして、私から顔を背けてしまった。
逸らした顔と、捩じった首筋は少しばかり汗ばんでいてものすごく緊張していることが分かる。あるいは、照れているのか。
あんなに格好よく私のことを助けてくれた彼なのに、今ではこんなにも顔を赤くして照れている。
なんだかそのギャップが可愛くて、愛しくて、私は自然と頬を緩めていた。

「だから…その、だな…俺は別にアメリカンヒーローみたいに格好良くはないし、ヒロインの危機に駆けつけられるような特殊能力もない。本当に偶然だったんだ」
「でも運も実力のうち、って言うでしょ?ヒーローの素質あるんじゃない?我愛羅くん」

ふふふ、と笑って私がからかえば、彼は冗談じゃないと赤い顔を手で扇ぎながら文句を零す。

「もし俺がヒーローになってみろ。お前といる時間が減って結局俺がノイローゼになってしまう。そうなったらヒーロー失格だろう」
「え…そ、れは…どーいう意味…かな…」

一旦自分の恥ずかしい所を露見したから感覚が麻痺したのか、それとももう開き直ったのか。
今まで全然掴めなかった彼が珍しいほどに恥ずかしい言葉を述べていく。え?何これ。何かの罰ゲーム…じゃあないよね?

「だから…その…だな………」
「うん…」

ピピピ、と公園の木々の中から鳥の囀る声が聞こえてくる。
遠くの方ではゲートボールをしているらしいおじいちゃんやおばあちゃんたちの声が聞こえ、時折散歩中なのか赤ちゃんの泣き声が聞こえてくる。
あまりにも長閑な空気の中、彼は顔だけでなく首まで赤く染めてから私に向き直った。

「サクラ、俺はお前が好きだ。その…心底、惚れてる」
「ぅ…うん…」

燦々と降り注ぐ太陽はあたたかく、彼と私の横を車が何台も通り過ぎていく。
配達員のお兄さんは荷物を運び終えたのか、荷台を仕舞うと颯爽と運転席に乗り込み、左右を確認してから発車してしまった。
そして私はというと、彼からの告白に自分でも驚く位体が熱くなっていた。

「その、俺は口やかましい男だと思う。古風だと言われることも多いし、自分でも理解している」
「あー…うん…まぁ、分かるよ。すごい、心配性だもんね、我愛羅くん」
「ああ…俺は周りの男みたいに一人暮らしの女性の家に上がる気もないし、自分の家に連れてくることもしたくない。自分が男だからこそ“そういうこと”は避けたいんだ。大切に、してやりたい…」
「うん…」

私は彼の家を知らない。遊びに行ったこともないし、どの辺にあるのかも知らない。
でも多分それはきっと、彼が私に心を許してないんじゃなくて自分が男だから、女の私を上げるわけにはいかないと自制していたのだ。
私は看護科だから勿論そういうこともちゃんと勉強してる。男性としての生殖本能が働くのは十代から二十代がピークだ。彼は丁度その最中にいる。
どれだけ抑えようと思っても抑えきれるものではない、性欲なんて。だから問題も起きるし、事件性も出てくる。
女同士でもそういう話は出てくるし、男の子同士の会話なんてもっぱらそればかりだと聞いたこともある。
だからこそ彼はけじめをつけておきたいのだろう。周りの皆が身を置く“お付き合い”ではなく、彼は“男女の交際”としてキチンと区別をつけているから。

「…私も、我愛羅くんのことが好きだよ」

今この時代で、これほどまでに男女の付き合い方を真剣に考えている人がどれだけいるだろうか。
何回目のデートでキスするとか、ベッドに入るとか、そんな即物的なことばかりが記事になる雑誌がいい例だ。
そりゃあ女にだって性欲はある。十代や二十代の男性に比べれば強くなくても女だって人間だ。快楽には弱いし、本能には抗えない。
でも彼は自分の欲望を満たすことを第一にしていないのだ。自己犠牲なんかじゃない。相手をちゃんと大切にし、守ろうとしてくれているのだ。
昔ながらの不器用な考えと言われるかもしれない。でも私はそんな彼の生真面目さを愛おしいと思った。
彼とならきっと、私はどんなことでも乗り越えて行ける気がする。
だって彼は初対面の私に対してもあんなに優しく、真摯に対応してくれたのだから。

「ふふ、何だか、私我愛羅くんに出逢わなかったらずっと独り身な気がする」
「何だそれは…」

別に結婚して欲しいなんて言われたわけじゃないけど、多分、私はこの人とずっと一緒にいるんだろうなと思った。
だって彼は私の突飛な発言に呆れたものの否定はしなかったもの。少なからず私との未来を考えてくれてる、と思ってもいいよね?

「ねえ我愛羅くん」
「何だ?」

自然と頬が緩んで仕方ないのを止めることもせず、彼を見上げて名前を呼べば翡翠の瞳が私を映す。
それが嬉しくて益々頬を緩めれば、彼はうっと詰まった後に視線を外した。

「…その顔はやめろ…」
「え?!何で…もしかして不細工だった?」

まさかそんな酷い顔をしていたというのだろうか。と思ったところで気付く。
そういえば今ニキビも出来てるしやつれてるとか言われたし…もしかしなくてもそういうことだ…うわっ…最悪…

「不細工ですみません…」

さっきまでの幸せな気分はどこに行ったのか。途端に落ち込む私に彼はバカ、と零す。
伸ばされた手は私の頭を軽く小突くと、それからぎゅうと抱き込んできた。

「…可愛くて、困る…から、あまり外でそんな顔をするな…」

そう言って体を離した彼はやっぱり首筋に汗を掻いていて、視線を逸らして熱い熱いと手で風を煽っている。
自分で言っておいて自分で照れるなんて、やっぱり可愛い人。と私が思わず笑えば彼はバツが悪そうに咳払いした。

その後は彼に連れられマンションまでの短い道のりを歩き、それじゃあと帰ろうとした彼に強請りまくって初めてのキスをした。

あれから私たちは実習とか試験とか進学とか、いろんなことを乗り越えながらそれぞれ卒業し、就職した。
私は第一志望だった病院に勤めることが決まり、彼は何とかっていうところの研究チームに所属することになった。
話を聞いても私には難しくてよく分からなかったけど、簡単に言えば植物のことを研究して、砂漠や緑の少ない土地で緑を育てようと研究している所だと言われた。
お互いそれなりに忙しい毎日だけど、とても楽しい。

成人して、卒業して、就職して。私たちは社会人として歩み出してから初めてお互いの家に上がるようになった。
彼からはまだ正式にプロポーズは受けていないんだけど、初めて彼が私を家にあげた時に左手の薬指にキスをされた。
つまり、そう言う気でいるのだと。
当然私は物凄く恥ずかしかったけど、それ以上に嬉しくて、彼に釣り合えるように頑張ろうと思った。

そして今、私は彼の家でアルバムを広げている。

「へー…やっぱり卒業式スーツの人が多かったんだね」
「ああ。袴の女性の方が少なかったな。大して興味はなかったが」

のんびりお茶を啜る彼の卒業アルバムには、彼の姿が写った写真が数枚載っていた。勿論白衣を着ている姿もあってとても新鮮だった。
何だかお医者さんみたいねと笑えば、本職が何を言ってるんだと呆れられたけど。

「あ、そうだ。ねえねえ、私ずっと聞きたかったことがあるんだけど」
「何だ?」

彼の住むマンションは少し古びているけれど、中は綺麗だし思ったより広い。交通の便が悪いということと、都心まで遠いということで家賃が安いそうだ。
外からは相変わらず長閑な住宅地らしい犬の声と、子供たちの遊び声。時折バイクや車が走る音が聞こえてくる。
そんな中私は少しばかり緊張しながら、それでもあのねと彼に向かって声をかけた。

「その…私の何処に惚れたのかなーって…ほら、あなたあんまりそういう姿見せてくれなかったじゃない」

私の何処が好き?なんて質問は男性にするべきじゃないと聞いたことがあるけれど、やっぱり気になってしょうがない。
実際彼はそんなこと聞いてどうするんだ、と不機嫌そうな顔をしたけど、それは照れ隠しの表情だと分かっているので私は食いついてみる。

「いいじゃない!一回だけ、一回だけしか聞かないから教えて!」
「………イヤだ」

顔を背ける彼に拝み倒し、お願いお願いと暫く粘って食いつけば、彼はやれやれと諦め口を開いた。
彼は意外とこういう手口に弱い。押しに弱いというか何と言うか、結局私に甘いのだ。

「合コンで…目の前に座ってただろう」
「うん」
「あの時、箸の持ち方が綺麗だなーと…そう思った。だけだ」

え。何それ。
思ったことが顔に出ていたのか、彼は期待はずれだろうがと視線を背けた。自分でも分かっているらしい。
でも彼らしいと言えばらしいかなと思ったのも事実なので、躾けてくれたお母さんにはいつかちゃんとお礼を言わなきゃなと思ったぐらいだ。

「そういうお前はどうなんだ、とは聞いてくれないの?」
「…興味がないからいい」

嘘。本当は興味津々だけど素直になれないだけなのだ。
拗ねたように視線を逸らす彼の表情を勝手にそう解釈し、私はふふ、と笑ってから彼の隣に腰かけた。

「私はねー、我愛羅くんの不器用だけど、すっごく優しい所が好きだよ」
「…言わんでもいい…」

拗ねた表情から照れた表情に。照れれば照れるほど物理的に距離を置こうとする彼の体にすり寄って、私はでもね、と続ける。

「私のこと、初対面にも関わらずあんなに心配してくれたでしょ?そんな人周りにいなかったからすごく印象に残ってたの。きっとその時よ。私があなたを好きになったのは」

過保護な人はいる。心配性な人も、優しい人も。でも彼とは全然違う。彼の持ってる優しさと、周りの人から向けられる優しさは何かが違う。
その何かはきっと彼が持っていた輝きで、私を惹きつける暖かさなのだと思う。
甘える私を背に張り付けたまま、彼は暫く無言でいたかと思うと突然長い溜息を吐きだした。
え?重かった?と思わず身を起こした私に、彼は小さくバカ、と呟いた。

「…そういうことをな、軽々しく言うんじゃない」
「いたっ」

ペシン、と軽く額を叩かれ不満げに彼を見つめれば、子供が拗ねたような顔だな、と彼が冷やかしてくる。
それに対しどーせ子供っぽいですよーだ、と彼を真似して顔を背ければ、彼はやれやれと呟き私の体を抱き寄せた。

「一度しか言わんぞ」
「何を?」

耳元で聞こえてくる優しい声音に緩みそうになる頬を抑えていれば、彼は少し間を置いた後小さく呟いた。

「一目惚れだよ」

そう言って重ねられた唇はあたたかく、私は自分でも分かるぐらいに顔が火照って熱くてしょうがなかった。
してやったり、とした体で笑う彼はアメリカンヒーローというよりもそこらへんで遊んでいる少年のようで、私はどうしようもない愛しさに駆られお返しと言わんばかりに彼の頬にキスをした。


外では未だに穏やかに時間が過ぎている。
鳥や犬の鳴き声に、子供のはしゃぐ声。赤ちゃんの泣く声に、お母さんの宥める声。車やバイクが走る音に、自転車の車輪が回る音。
彼の部屋に飾られた風鈴が季節外れの音を奏でるのを聞きながら、私は彼の腕の中でゆっくりと目を閉じた。

うららかな春の陽気が、ただ暖かかった。


end




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