小説2
- ナノ -





実習は始まってしまえばあっという間だった。そりゃあ毎日忙しい。院内は走っちゃいけないから自分の中で限界のスピードで歩くことになるのだが、これが意外にも辛い。
だったらいっそ走らせてくれ!とすら思うのだが、やっぱり院内は走っちゃいけないのだ。
それに外からでは分からない内側の世界と言うのは恐ろしく、いつもはニコニコと笑っている看護婦さんの怖い顔も見ることになる。

どうして理解できないの?本当に聞いてる?分かってる?何でこんなことでミスするの?人の命がかかってるのよ?あなた患者殺す気?
もう泣きそうだった。ていうか泣いた。レポートも日誌も書かなくちゃいけなくて、寝る間も惜しんで書いた。
でも書きながら悔しくって辛くって、私は何度も泣きながら滲む視界でノートを埋めた。

そんなある日だった。
私はその日とんでもないミスを犯してしまって、そりゃあもう怒られた。看護婦さん、っていうか女の人ってこんなに怖くなるんだ。って思うぐらいの勢いで睨まれ、怒られた。
もう看護婦さんっていうより殺人鬼のようだった。多分子供の象さんぐらいなら余裕で一匹は殺せる。そんな勢いだった。
でも私が悪いのだ。下手をすれば一つのミスで多くの命が失われる。医者じゃないにしてもその位の覚悟でいなきゃいけない。
分かっていたつもりなのに結局私はまだ未熟で、それが正しく理解できていなかったのだと思う。
泣きじゃくる私は本当にもう身も心もボロボロで、看護婦なんてなれっこないんだと諦めていた。
この実習が終わったら両親に話して学校を辞めさせてもらおう。そんなことまで考えてた。逃げてると分かっていても耐えられなかった。
そんな時携帯がチカチカと点滅して、震える手でそれを確認すれば我愛羅くんからメール、ではなく、お世話になっている先輩からの電話だった。

『やっほー、サクラー?元気ー?』

男の先輩で、その人は一度社会人を経験しているけれどお金を貯めてから学校に通いだした人だった。
一度社会を経験しているというだけあり、彼の話や知識、社会観というのは尊敬できるもので、私は彼にとても懐いていた。

「う…か、カカシ先輩〜っ!」
『えぇ?!どしたのサクラ?!泣いてんの?!』

電話口で先輩の狼狽える声がする。
でも私は大丈夫?何か苦しいの?悲しいことあった?と問いかけてくる先輩の優しい声に益々涙腺が決壊して、夜遅い時間だというのにもかかわらずに声を上げて泣いた。
こんな姿我愛羅くんには見せられないな、と思っているのに先輩になら見せてもいいかな、と思ってる。
だって我愛羅くんには泣いてる顔なんて見られたくないし(それこそ益々不細工になってるだろうから…)サスケくんだったら病院にクレームつけるかもしれない。
もう一人の幼馴染であるナルトなら、きっと先輩みたいに冷静になれなくて狼狽えてばかりいるだろうし、そう考えるとやっぱりこういう姿は先輩にしか見せられないなと思った。

「わ、わだし、わだじが、ひぐっ」
『あーあーあー…いいよいいよ、ゆっくりでいいよ。落ち着いてから話しな?電話は繋いでてあげるから』
「ごめんなざい〜!」
『ほらほら、謝らなくていいから。ちゃんと涙拭いて、ゆっくり深呼吸しなさい』
「うぅ…ふっ、は、いっ、」

それでも結局暫く涙は止まらなくて、嗚咽交じりの声は酷いし言葉なんて何を言っているか分からない状態だったけど、先輩はずっと優しく声をかけ続けてくれた。
もし我愛羅くんに出逢ってなかったら先輩のこと好きになってたかもしれない。そんなバカなこと思いながら溢れる涙をティッシュで拭い去った。

『どう?落ち着いた?』
「ぐす…はい…すみません…ご迷惑おかけして…」

結局私が泣き止んだのは電話がかかってきてから三十分もたってからで、電話代大変なことになっちゃうな、と思ってしまった。
けれど先輩はお金あるから大丈夫。と笑って流してくれ、ついでに何があったか話してごらん。と言ってくれた。本当に先輩は頼りになる。
改めて先輩のありがたみを噛みしめながら私が今日犯してしまった酷いミスの話と、学校を辞めようと思うという旨を伝えれば先輩は成程ねと頷いた。

『まぁ失敗は誰にでもあることだけどね、サクラはちょっと抜けてるところがあるから、まずはそれをキチンと自覚しないといけないね』
「抜けて…ますかね?」

でも実際我愛羅くんにはしょっちゅう危機感を持てと怒られているし、サスケくんにも昔から俺がついてないとお前はダメだな、と言われ続けてきた。
そう思うと確かに私は彼らから見てどこか抜けているのかもしれない。でもあの二人は元々優秀だから、平凡な私がダメに見えるだけなのではないかとも思う。

「でも私…ミスしようと思ったわけじゃないです」
『それは当然のことでしょ。じゃないと犯罪になっちゃうし…とにかくそういうことじゃなくて、もっと周りをよく見て冷静になりなさい、ってこと』
「…独り善がりになってる、ってことですか?」

周囲が見えず、自分の信じる道しか進んでいない。つまりはそういうことだろうかと問いかければ、先輩はちょっと違うかなーと困ったように言葉を濁す。
では一体なんだというのだ。ハッキリしない先輩の態度に思わず唇を尖らせてしまう。そんな私に先輩はあのねぇ、サクラ。と殊更優しい声を出してくる。

『サクラは確かにすごい頑張り屋さんなんだけど、頑張りすぎて視界が狭まってるんだと思うんだよね』
「…?」

頑張ることで視界が狭まる。私には何だかあまりピンとこない言葉だ。
昔から頑張ることは当たり前だと思ってた。勉強なんてしなくても頭に入ってくるほど優秀じゃないし、運動だって継続しないとすぐに後れを取ってしまうタイプだ。
サスケくんやナルトみたいに身体能力が高いわけじゃないし、女の子の中でも頑張らないと上位に入れない。それに運動部に所属していないと負けてしまう。
一番がいいというわけじゃない。でも何でもこなしてしまう二人と釣り合うためには、私は努力して自分の居場所を獲得しなければならなかった。
サスケくんにお前は俺がいないとダメだな、と言われたくなかった。ナルトにサクラちゃんは俺が守るから、なんて言ってほしくなかった。
私は二人に守られるんじゃなくて、ちゃんと対等な立場でいたかった。男の子にはなれないけど、ちゃんと“友人”でいたかった。

『もう少し気を緩めてもいいんじゃないかな。まだ難しいかもしれないけど、そんなに頑張らなくてもいいよ』

先輩の言葉は優しい。分かってる。先輩は私のことをすごく心配してくれているって。でも、私は努力しなければ進めない奴なのだ。
努力を辞めてしまえば、頑張らなければ人並みの能力すら手に入れられない。過保護な二人にいつまでも守られているということは、つまりそういうことなのだ。
私が…落ちこぼれだから。

「…分かりました。ありがとうございます、先輩…」

頑張るなと言われたわけじゃない。ただもう少し気を緩めてもいいと言われただけ。
でも私には、それが“お前が頑張ったところでどうしようもない”という言葉に聞こえた。被害妄想だと分かってる。でも、拭い去れなかった。

『…ま、もう少しで実習終わるでしょ?その時また詳しい話を聞くよ。今日はもう寝なさい』
「…はい。おやすみなさい、先輩」

電話を切ってからそれをベッドに投げる。
頑張りすぎ、と言われた私のノートはぎっしりと文字で覆われていて、成程これは頑張っているなぁと思いつつ、それでもやっぱりこのぐらい普通なんじゃないかなと思った。

「どんなに書いても、どんなに学んでも…テストでいい点取っても、考査の結果が上位に入っても、実際には何の役にも立たないんだなぁ〜…」

止まったはずの涙がまた一つぽつりとノートの上に落ちる。それが文字を歪めてしまう前に慌てて拭い去り、それでも私は後から後から溢れてくる涙を止められずにいた。

「が、頑張らなきゃいけないのよ…私は、頑張らなきゃ…」

まるで呪文のように何度もその言葉を繰り返し、私は日誌を書くためにペンを取った。
歪む視界では文字は書きづらくて、泣きすぎたせいで何度も寝落ちしそうになりながらも耐えた。
罫線をはみ出す汚い文字はすぐに消して、何度も書き直しながらいつもの倍近く時間をかけて日誌を書き上げた。寝る時間なんて、殆ど残っていなかった。


実習の期間は一ヶ月だった。
長いようで、短い時間。私は一月の間で物凄くやつれ、顔にはニキビが出来ていた。

「うわっ…ちょっとサクラ大丈夫?!生きてる?」
「ん…平気…」

学校のキャンパスで顔を合わせたのは、こちらも幼い頃からの付き合いである親友、いのだった。
いのは看護ではなく保母さんを目指していて、隣接されている同大学の別棟に通っていた。
私の実習が終わるといつも愚痴交じりの報告を聞いてもらっていたのだが、顔を合わせた彼女は私の形相に目を開くと慌てて近づいてきた。
やっぱりいのからしてみても酷い顔に見えるらしい。やだなぁ〜。

「何があったのよ…ていうかここで大丈夫?うち来る?」
「んー…多分、平気。もう泣かないから…」

結局学校は辞めないことにした。やっぱりここで逃げるのは嫌だったし、結局お前はその程度だったのかと言われるのが嫌だった。
誰に、と言われたら誰も面と向かってそんなこと言わないだろうけど、何となく、皆ちょっとはそういうこと思うんじゃないかなと思うと嫌だった。
それに今更頑張らない生活なんて出来なかった。今までそうやって生きてきたのだ。突然やーめたっ、とは流石に言えなかった。

「ふぅん…そんなことあったの…」
「うん…私が悪いんだけどね」

いのには何でも話せた。元々お姉さん気質なのだろう。サスケくんやナルトに言えないことは大概彼女に話したし、今みたいに泣き言も聞いてもらった。
彼女は昔から強くて、自信に溢れてて、格好いい人だから、甘え下手な私でも無理なく甘えることが出来る。
そんな彼女にアレコレと実習中に起きたことを話せば、大変だったねと言って頭を撫でられた。

「サクラは本っ当昔から頑張り屋さんよねー。そう言うところ尊敬するわ」
「そうでもないわよ。人並みにやったって出来ないから頑張らなきゃいけないだけで、きっとしてなかったらとんでもないおバカさんよ、私」

別に自分を卑下してるわけではない。でも自分の周りにはいつも優秀で、輝いている人ばかりだから。私も頑張らなきゃと思うのが常だった。

ナルトは確かに勉強は苦手だけどスポーツは得意だし友人も多い。少し人見知りの気がある私とは違ってどんな人にでもぶつかっていけるのは本当にすごいと思う。
サスケくんは勉強もそうだけどスポーツも何でも得意で、料理だって私より手際がいいし美味しい。ただ素直じゃないのは神様が彼に与えた唯一の欠点かもしれない。
いのは面倒見もいいし運動神経も悪くない。それに彼女の魅力はどこまでも自信に溢れ、まっすぐ前を見る強さだと思う。でも女らしさも忘れてない。そんな所が格好いいし、可愛い。
カカシ先輩は一度社会人になってるから年齢は離れてるけど、いつも落ち着いてるし優しいし、飄々としてるけど面倒見は良い。根はいい人なんだなーと思う。たまに不真面目だけど。
あとカカシ先輩の後輩、でも私にとっては先輩のヤマト先輩は影は薄いけど努力家って感じだし、困ったことがあると助けてくれる。たまにスパルタだけど、それは相手のことを思ってだと分かっている。

本当にすごい人ばかりが周りにいるから、頑張らないと肩を並べて歩けないんだよね。と思った時にふと彼のことを思いだした。
我愛羅くんのことを何だか他の人と違うなと思ったのはきっと、私が彼のことをよく知らないからだ。
厳しくも優しい人だけど、何を考えてるかは分からないし自分の気持ちもあんまり口にしない。学校のこともあまり話さないし、交友関係も謎だ。
でも彼は見栄を張ったり嘘をついたりしない。いつだって背伸びばかりしてる私に等身大の自分を見せてくれているようだった。
無駄にはしゃいだりはしない。でも楽しんでないわけじゃない。私が嬉しいと思っていることを感じ取れば、彼は優しい顔で口の端を緩める。
何となく、感情表現は不器用だけど頼れるお父さん、っていう感じの人なのだ。

「…逢いたいなぁ…」

我愛羅くんといるといい意味で肩の力が抜けた。いつも皆と並ぼうと背伸びしている私からしてみれば、穏やかに佇む彼の傍はとても落ち着いた。
無駄にあれこれ話さなくてもいいと思った。一度図書館に二人で行った時、彼が静かに本を読む姿を眺めたり、頁を捲る音に耳を傾けるのが好きだなぁと思った。
並んで歩く時も一定の距離を保っていて、それは彼なりの礼儀なのだと思う。マイペースだけどそう言うことろはキチンとしていて、だから穏やかながらもしっかりしているように見えるのだと思う。

でも時々彼が分からなくて不安になる。サスケくんやナルト、いのみたいに思ったことを彼は正直に言ってはくれない。
カカシ先生みたいに分かりやすく飄々としているわけでもないし、ヤマト先輩みたいに飴と鞭を使い分けてるわけでもない。
ただ流れる川のように、手で掬っても零れ落ちてしまう水のように掴み処のない彼は時折私を酷く不安にさせた。

「会いたいって…誰によ」
「え?あれ?もしかして口に出してた?!」

気付いたら喫茶店のテーブルに頬をつけていた私に、いのがニヤニヤとした顔をして聞いてくる。
口に出したつもりはなかったけど心の声が漏れていたらしい。慌てて顔を上げた私にいのはなーによーと人の悪い顔を浮かべている。

「実習中につらいことばっかりだったのかと思ったら、何々〜?メルヘンゲットしちゃったわけ〜?」
「ち、違うわよ!ていうか昔の言葉引っ張り出してこないでよ、もーっ!」

からかってくるいのに肩を上げていると、ちょうど喫茶店の入り口から見慣れた姿が入ってくる。

「や、サクラにいのじゃないの。何してんの〜?」
「カカシ先輩!」

入ってきたのはカカシ先輩とヤマト先輩で、どうやら賭けに負けたヤマト先輩がカカシ先輩にコーヒーを驕ることになったらしい。

「いやー、でもやっぱり時間帯的に多いね。相席しても大丈夫?」
「え、ええ…どうぞ」
「すまないね、二人とも」

いのとカカシ先輩は何度も顔を合わせているので問題ない。ヤマト先輩も確か以前顔を合わせたことがある。
まぁいのは初対面相手でもフランクに接することが出来るタイプだから誰が相手でも問題ないだろうけど。
席を詰め二人を促せば、私たちと向かい合うように二人は腰を下ろした。

「あ、そうそう。サクラ実習はどうだったの?だいぶやつれてるけど…ちゃんとご飯食べてる?」
「ぁ…はい。大丈夫です。あの時はご心配おかけしました」

カカシ先輩の言葉に私が頭を下げれば、いのは知ってたんですか?と先輩に問いかける。ヤマト先輩もどうやらカカシ先輩からある程度聞いていたらしい。
僕も少しは聞きかじってるよ、と言われた時は何だか申し訳ない気持ちになった。

「でもサクラが学校辞めないでよかったよ。折角努力してきたんだからここで辞めるのもったいないしね」
「僕もそう思うよ。サクラが苦しんだことや躓いたことは絶対に将来役立つからね。諦めずに夢を叶えてほしいよ」
「…ありがとうございます」

二人の先輩はとても優しい。勉強だって教えてくれるし、レポートや課題の助言もくれる。時には遊びにも連れて行ってくれるし、こうして相談も聞いてくれる。
でも何だかそれがすごく申し訳ないなーと思った。二人の時間を私が奪ってるみたいで、彼女とかいればデートとかしたいだろうに。
そう思うと徐々に居た堪れなくなって、私はあの、と声を上げて立ち上がった。

「す、すみません。私まだ提出してないレポートがあったこと思い出して…」
「え?そうなの?」
「何よー。それならそうともっと早く言いなさいよね。期日は?大丈夫そうなの?」

尋ねてくるいのに今から書けば何とかなるかも、と誤魔化せばそうと頷かれる。
ある程度お喋りもしたしそろそろお暇しようかと皆席を立てば、ちょうど私の後ろを歩いていたカカシ先輩が隣に並んだ。

「サクラ、本当に平気?」
「え…?あ、大丈夫です…本当に」

覗き込んでくるカカシ先輩の目は眠たそうだけど存外真剣で、私の後ろめたい気持ちなんてすぐ見抜いてしまいそうだった。
だから慌てて笑顔を作って頷けば、先輩はそれ以上聞かずそう、と頷いた。
けど駅までの道のりでヤマト先輩にも顔色が悪いと指摘され、いのにちゃんとご飯食べて寝なさいね、と叱られてしまった。
その時にはもう既に泣きそうになってて、必死に我慢しながら笑ってた。

もう帰って寝よう。
そう思って駅の改札を抜ければ、何故かカカシ先輩も後をついてくる。

「…あの、先輩?」
「ん?何?」
「先輩って確か、電車通じゃなかったですよね?」

先輩の部屋には一度皆で遊びに行ったことがある。男子数人と女子数人、カカシ先輩の同期の先輩も含めて勉強会を開いたことがあるのだ。
確かその時電車は使わずバスで行ったはずだし、実際先輩はバス通だったはずだ。首を傾け問いかける私に、先輩はいやーねぇ、と頭を掻いた。

「幾ら口では大丈夫って言ってもね。顔に出てないのよ。だから送ってあげようかな、と思ってね」

今までだったらそうですかー?なんて言いつつ言葉に甘えていただろう。でも今は一人になりたかったし、何となく我愛羅くんに危機感がないと言われたことを思いだしていた。
でも先輩だし…と思う心も正直ある。どう見てもカカシ先輩の守備範囲内に私はいないだろう。だから大丈夫でしょ、と囁く自分がいる半面、彼に諭された私がダメよ!危機感がないって言われてたでしょ!と怒ってもいる。
どちらの言葉に従うべきか、迷っている間に電車はホームに入ってきてしまった。

「ほら、ぼーっとしてたら危ないよ、サクラ」
「ぁ…すみません…」

あの日、合コンの帰り道のように腕を引かれ、溢れる人ごみから体を避ける。でも何でだろう。今はカカシ先輩が相手だというのに怖くてドキドキしてる。
あんなに信頼してたはずの先輩なのに、私、どうしちゃったのかな。

「はい。後ろの人が待ってるから乗って乗って」
「は、はい…」

後ろから先輩に押され、フラフラと覚束ない足取りのまま電車に乗る。
帰宅ラッシュの前だから席は空いていて、近くの座席に座れば隣に先輩が腰かけてきた。けど今更ながらにその近さにビックリする。
今まで意識したことなんてなかったのに、こんなに先輩と近づいたことがなかったから正直戸惑っていた。

「電車って久々だなぁ。昔はよく乗ってたのに」
「…そうなんですか?」
「うん。ほら、俺一回社会人経験してるから。大変だったよ〜朝とか特に」

のんびり笑う先輩から悪意や下心は感じられない。でも、何でだろう。心のどこかで先輩を怖いと思ってる自分がいる。
昔はこんなことなかったのに。我愛羅くんに何度も危機感がないって注意されたから?それとも私が先輩を異性として意識し始めたってこと?分からないけど、これ以上考えるのも疲れてきた。

「…サクラ、本当に顔色悪いよ。着いたら起こしてあげるから、ちょっと寝なさい」
「……はい…そうします…」

先輩に促され、私は窓に凭れるようにして体を傾けてから目を閉じる。出来るだけ先輩と距離を置きたかった。
でも先輩はそんな私に頭打つと危ないから、と言って肩を抱き寄せた。そうなると自然と私の頭は先輩の肩に置くことになり、私は益々混乱した。

「大丈夫。変なことしないって約束するから。安心していーよ」
「誰もそんなこと心配してませんよ…」

口ではそう言って否定したけど、本当はすごく怖かった。こんな電車の中で変なことをされるとかそんなことは思っていないけど、でも、男の人の体に触れるっていうのが怖かった。

(もし我愛羅くんだったらどうしたかな…私に座らせて、自分だけは立って私のことを見守ってくれたのかな…分かんないや…)

緊張であんまり深くは眠れなかったけど、実際実習の疲れとレポートの疲れ、精神的な緊張と戸惑いとで疲れていた私は瞼を閉じて微睡んだ。
電車の揺れる音と伝わってくる振動が心地好い。足元から流れてくるゆるやかな風が疲れた体を癒すようで、結局私は先輩の手を拒めず目を閉じていた。




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