小説2
- ナノ -





俺の背中に当たったのは、彼女の小さな背中だった。


油断していた俺を短剣から守った彼女ではあったが、別方向からの煌めきに気づいたのは俺が先だった。
このままでは彼女が怪我をしてしまう。それだけは何としてでも阻止しなくては。そう思うよりも先に体が動いていた。
俺の腕は彼女の薄い腹を抱え込み、そのまま庇うように敵に向かって体を反転させた。当然弾かれていない短剣は俺へと突き刺さり、俺は彼女を抱き込んだまま後方へ退いた。

彼女を守らなければ。彼女を傷つけてはいけない。
ただ漠然とそう思った。これ以上彼女を傷つけることは俺の中の何かが許さなかった。

守りたかった。ただそれだけだった。

他の全て、何もかもを投げ出してもいい。実際俺の視界は彼女と敵しか映っていなかった。周りの声も、背景も、何も聞こえず、何も見えてはこなかった。
腕の中の小さなぬくもりが愛おしかった。彼女に怪我がないことに気付いて安堵した。
なのに、俺の口から出たのは彼女に向けられた短剣よりも遥かに鋭い言葉の刃だった。

「邪魔をするな!足手纏いだ!」

違う。本当はこんなことが言いたかったんじゃない。
本当はもっと違う言葉が言いたかったんだ。彼女は足手纏いではない。彼女はいつだって一生懸命で、歯を食いしばりながら泣くのを我慢して、それでも立ち上がって、前を見据えて歩いていた強い女の子だった。

眩しかった。守りたいと思った。愛しいと思った。
自分に自信が持てず苦しむ彼女を、包み込んでやりたかった。
けれど彼女が本当に望んでいる腕はこの腕ではない。この手でも、この体温でもない。
彼女が求めているのはナルトがずっと追いかけているあの男の手だ。

俺にはないものを沢山持っている。ナルトも、アイツも。
だから惹かれるのは分かる。アイツは、今は闇に落ちているけれど、きっといい奴だと思うから。
だが力は強くても俺と同じで心は強くなかった。だからナルトとサクラを切り離すことでしか己の心の安寧を保っていられなかったのだ。

本当は弱いのだと思う。
アイツも、サクラも。そして、俺も。ナルトもそうだろう。誰だって初めから強い奴はいない。無頓着な奴はいても、無自覚なだけで皆傷ついている。
けどその痛みに向き合う強さがあれば、その痛みを真正面から受け止める強さがあれば、きっと俺もアイツも闇に落ちることはなかっただろう。
だからこそその強さを持っているナルトは輝いている。サクラも、今は綺麗に輝いている。

あの中忍試験の時以来、久方ぶりに見つけた彼女は傷だらけで、泥だらけで、まるで捨て犬のように覚束ない足取りで歩いていた。
無視することは出来なかった。昔の自分を見ているようで、放っておけなかった。
あの時の彼女は泣いてはいなかったけれど、心が泣き続けて涙が出せない状態だったのだろう。昔の俺のように。
本当は心配だった。あの日から俺はずっと彼女の姿を見ていなかったから。
けれど風影に就任した時、彼女から貰った文に知らず心が落ち着いた。彼女は元気にやっていると、そう言った。

本当はそんなことなかっただろう。
修行は辛いだろうし、勉強も大変だったろう。今まで一緒だった班がバラバラになり、一人里に取り残された彼女がどんな思いで日々を過ごしたか、きっと俺には理解できない。
友達が多くても師に恵まれていようとも、心が孤独であれば周りの言葉などあってないようなものだ。
彼女には傷ついてほしくなかった。もうそれ以上泣く必要はないのだと教えてやりたかった。
けど俺は不器用だったから、ただ彼女に向かって文を放つしかなかった。飛んでいく鳥の背に向かってどうか彼女の心が晴れればいい。そう呟くことしか出来なかった。

とはいえ俺も人のことは言えなかった。
里長になり姉兄は祝福してくれた。だが本当は知っていた。俺がこんなにも早く影に就任できたのは守鶴を制御するためだと。
俺が影になれず暴れると思ったのだろうか。笑わせてくれる。だが実際に笑うことなど出来なかった。俺のせいでこの里は何度も危ない目にあっている。
父様がいなければどうなっていたか。恐れる上層部の考えも分からなくはない。
そうして見えない首輪をかけられた俺は守鶴に嘲笑われながらもゆっくりと歩き出した。その先にあるのは明るい未来か、底が抜け落ち首が締る絞首台か。
思えば綱渡りのような毎日だった。


そんな中でも潤いはあった。
慣れないデスクワークに会議に接待。心が折れそうになる度俺は彼女の手紙を読み返した。
綴られる文字はいつだって毎日が楽しいと語っていた。本当は辛かっただろうに、それでも彼女はまっすぐと前を向いていた。
まるで真夏に咲く向日葵のように、一途に前を向いていた。

綺麗だった。綺麗だと思った。
彼女のひたむきさが、心が。ただただ美しかった。
陽の光を浴びながら歩んでいるのは彼女の方だ。俺はもしかしたら、彼女に背を向けて歩いているかもしれなかった。
けれど彼女の言葉に救われた。

 −我愛羅くんは頑張り屋さんだもんねぇ。−
頑張ってるね、なんて言われて素直に頷けるほど俺は出来ていない。けれど本当は頑張っていたんだ。
周りに敵しかいないと思っていた。肉親ですら殺すべき人間だと思っていた。だがそれではダメなんだと気づいて、愛する努力をした。
向けられる刃に脅えながらも丸腰になる覚悟をした。

怖かった。本当は、守って欲しかった。父様に、母様に、夜叉丸に、守って欲しかった。甘えたかった。
けれど俺にはそれが許されていなくて、いつも一人ぼっちだった。寂しかった。悲しいぐらいに、寂しくて、痛かった。

けれど人を愛する努力をし、人に近づく努力をした。何を言われても傷つかないフリをした。
石を投げられても黙っていた。牙を抜かれた獣のように、ただ大人しく、声も出さず受け入れていた。
そのうち石が飛んでくる回数が減ってきた。向けられる刃も少しずつ下され、ついには一本も見えなくなった。
つけられた首輪はそのままだったけれど、嵌められた枷は壊れていた。

俺は立ち上がった。初めて自分の足で歩き出した。その時ようやく気付いたのだ。
俺の力は傷つけるだけではない。誰かを守るために形を持たず操れるのだと、その時やっと気づけたのだ。

砂は自在に形を変え、俺の思うままに動く。それには随分な練習が必要だったが、苦ではなかった。
もう他人に恐怖を与えたくはない。脅えさせたくない。俺の操る砂は他人を傷つける刃ではなく、皆を守る盾になるのだと知って欲しかった。

あとはもうがむしゃらだった。
俺の力は盾に使おう。そう思うからこそ、皆の力を借りねばならないと思った。
俺一人だけでは生きてはいけない。敵を倒すことが出来ない。だが皆と一緒なら、俺の砂を盾にして共に戦ってほしいと思った。
そのために今までまともに目を通したこともない兵法を学んだ。自里のことながらまともに思い描くことすら出来なかった地理も勿論、自分に足りないものは全て学ぼうと思った。
時間なんてあっという間だった。一日が二十四時間なんて足りないぐらいだ。元より不眠症だ。だから夜間も寝る間を惜しんで勉強した。

楽しくはなかったけれど、ふとした瞬間に身についているのが分かると嬉しかった。
一歩ずつ俺は前に進んでいる。そう思えたことが、嬉しかった。

ナルトのようになりたいと思った。
周りに認められ、頼りにされ、いつだって自信に満ち溢れ、光の中を突き進んでいくナルトのようになりたかった。

だが今の自分はナルトのように進めているだろうか?
擡げる不安はいつだって俺の足を遅れさせ、路頭に迷わせた。けれどそれを救ってくれたのは他でもない、彼女だった。

春野サクラ。

名前の通り可憐で美しい女、と呼ぶにはあまりにも豪傑になってしまったけれど、彼女の笑みは変わらず陽だまりのようにあたたかく優しいし、揺れる薄紅の髪は綺麗だと思う。
性格は風に散り行く桜というよりはひたむきに太陽を追いかける真夏の向日葵のようだけど、どちらにせよ彼女は輝いているし、美しいと思う。

彼女の手紙だけが支えだった。
どんな境遇に立たされても負けない彼女が強くて、格好いいと思った。ナルトやロック・リーが惚れるのも頷ける。そう思った。
けれど彼女はただ太陽を追いかけるだけの可憐な花ではなかった。彼女は月光の中、誰の目に晒すことなく花開かせる月下美人のように大輪の華を咲かせる“女”だった。

ダメだと思った時にはもう遅かった。
俺は華の匂いに、鮮やかな色に誘われる虫のように彼女に近づき、彼女の花開いた花弁に口付た。
あとはもうただただ、坂を転げ落ちていく石のように勢いに任せ彼女の体を貪った。流れる汗も、溢れる体液も、涙の一筋も残さず欲しいと思った。
腕の中、震える体が愛しいと思った。指先や触れた唇から伝わる体の柔らかさに感動した。美しかった。どんな芸術品よりも、絵画よりも、生きている彼女が美しかった。

欲しかった。彼女が、彼女の全てが欲しいと思った。
けれど彼女は俺を見てはいない。いつだってナルトが追いかける男の背を共に見つめている。その視線の先に俺はいない。

俺は、誰に必要とされているのだろう。
誰のために働き、誰のために生き、誰のために死ぬのだろう。

そんなことを考える日が多くなった。
それでも手紙だけは書き続けた。彼女に当てた手紙は月に一通では足りなくて、送らないからいいかと思って週に何度もしたためた。
出来上がった文は一度仕舞って、それからまとめて燃やして捨てた。俺の気持ちのように、痛みを残すことなく風に飛んで消えて行った。

彼女に当てた手紙は果たして何通になったのか。きっと重ねれば俺の身長位あるかもしれない。いや、流石に誇張しすぎたか。精々彼女の背ぐらいだろう。…これも言い過ぎだろうか?
だが気持ちの上ではそれぐらいなのだ。送っても送っても足りない想いはいつだって身の内から溢れ出てきて、彼女の涙のように大地が吸って消してはくれない。
だから書いては燃やして、書いては墨を零し真っ黒に塗りつぶしてから捨てた。それでも俺の想いは消えてはくれなかった。
むしろ益々膨れていくばかりで、いつしかこの小さな体はこの想いに負けて弾けて死ぬんじゃないかと思った。
それぐらい、俺はバカみたいに彼女が好きだった。


だがあの謎の侵入者に負けた時、俺はやはりナルトにも二人が追い掛ける男にもなれないのだと思った。
所詮俺は俺でしかない。無力で、ちっぽけで、本当は何もできない臆病な人間。
努力をしても、前に進んでいると思っていても本当は進めていなかった愚かな男。

本当は、もう死んでもいいかな。とほんの少しだけ思ってしまった。
けれど彼女に対する想いを抱きながら死ぬのはあまりにも辛いから、それだけは置いて行きたいかな、とも思ってしまった。
だから忘れてしまったのだろう。愛した彼女を、彼女への想いを。俺は浅はかで、バカだったから。本当に大事なものまで置いて行こうとしていたんだ。

想いはもうただの物なんかではなくなっていた。想いは、俺の心だった。ならばもう、心は、もう二度と置いて行ったりは出来ないなぁ。そんなことを今更ながらに気づいたんだ。
本当に俺はいつだってバカだ。気づくのが遅いなんて、鈍感にもほどがあるな。

なぁ、サクラ。



「守るために、踏み出す一歩だったのよ!」


背後から彼女の声が聞こえた時、俺は咄嗟に振り返った。
目の前から男の拳が向かってきているのには気づいていた。けれど俺の目はまっすぐと、彼女に向けられた短剣を捕えていた。
だが彼女はそれを見てすらいなかった。彼女の瞳は、あの腕は、俺の奥にいる男に向かって向けられていた。

その時俺は何を思ったのだろう。
男を殺すつもりでいたのに、次の瞬間には俺の腕は短剣へと向かって伸びていた。
俺の空っぽな思考を補うように、形を持った砂は短剣を弾き、男の体を飲み込み地面に叩きつけた。
そうして俺の背後からは彼女のいつもの掛け声が聞こえ、狼狽えた男の声は呻き声に変わり、遅れて建物が倒壊する音が聞こえた。

それは意図せず行われた、一瞬の交差だった。

「が、我愛羅様!サクラさんっ…!!」

駆け寄ってきたマツリは男を吹っ飛ばしたサクラを抱きしめ、体中に傷を負ったテマリはくノ一を引きずって戻ってきた。
その背に続いていたカンクロウはすぐさまサクラが吹っ飛ばした男の元へと駆けつけ、反応を確認してから合掌した。

女は怖いな。怒らせると、特に。
そう思ったけれどすぐに違うと気づいた。

サクラは守ろうとしてくれたのだ。力では男に敵わないであろうあの男の手から、自らの命を賭けて、この俺を。

強いなぁ、と思う。本当に、女は…サクラは、強い。
母様も、サクラも、どうして女という生き物はこと誰かを守るという立場に立った時あそこまで強くなれるのか。その秘訣があるならば教えて欲しい。
けれど聞いたところで返ってくる答えなど分かっているのだ。

だってしょうがないじゃない。勝手に体が動いたんだもん。だ。

彼女の唇がそう動き、俺に向かって笑いかけた時、俺は無意識で彼女の背に腕を回し小さな体を抱きしめた。
息を吸い込めば肺を満たす彼女の香りも、伝わってくるぬくもりも、背に当てた掌から伝わってくる心音も、そのどれもが変わらずココにあることに感謝した。

「サクラ、お前が生きていてよかった…」

愛してる。
そう告げたか告げてないか。覚えてないがそこで俺の意識は一度落ちた。
ずり落ちる体を支えた掌はやはり小さくて、けれど彼女は難なく俺を立ち上がらせてしまうのだ。
母親が子供を抱き上げるように、あの日記憶をなくして立ち上がれなかった俺を抱き上げた時のように、彼女はいつだって、俺の支えになってくれるんだ。



どのくらい眠っていたのか。目覚めた俺は自室のものとは違う天井を眺めてから、あー…と呟いた。

「ようやく起きたの?お寝坊さんね」

そう言って笑った彼女の髪は動きやすいように束ねられており、いつもは見れないうなじが眺められていいなぁ、と思った。

「…どのくらい寝てた?」
「ぐっすり五日間。寝すぎよ、ア・ナ・タ?」

そう言って俺の上に圧し掛かってきた彼女は子供のような顔をしているが既に三十路を超えている。
けれどその見た目はいつまでも若々しく、隣に並べば俺の方が老けているように見えてしまう。
別に皺があったって気にしないんだがなぁ…とぼやいたところで彼女は美に妥協しないのだ。ダイエットは妥協しても。

「子供たちは?」
「お寝坊さんなお父様を置いてみーんなお出かけしちゃったわよ。私はアナタのこーもーりッ」
「はは、そうか。それは貧乏くじだったなぁ」

俺は今あの日の続きのように病室の寝台で目を覚ました。
懐かしい話だ。俺たちはあれから十年近く連れ添っている。人生何があるか分からないとは言うが、本当だなぁと思う。

「ところで俺の状態はどうなんだ?」
「安心して。五体満足よ。でも打ち所が悪かったから軽い記憶障害とかが出るかもしれないわ。何か思い出せないこととかある?」
「そうだなぁ…」

そう言えば俺は先日、侵入してきた敵を殲滅するため前線に立っていた。そこで確か捨て身の爆撃攻撃をしてきた相手から皆を守ろうと盾を作って、それからの記憶が無くなっていた。
といってもその後は病院に運ばれ、皆が必死に看病する中懐かしい俺はすやすやと眠り続け、夢の代わりにあの懐かしい記憶を呼び起こしていたというわけだ。
本当にあの時は笑えるほど毎日狼狽えていた。
不安で、恐ろしくて。記憶喪失だと言われているのに幻術か瞳術かと疑ってビクビクしていた。牙を抜かれた獣というより、あれは違う家に送り込まれた小動物そのものだ。
見慣れぬ風景や人物に警戒心が解けず、ひたすら毛を逆立てていただけの幼い記憶。
俺はふと口の端を緩めると、俺を覗き込む彼女の頬へと指を這わせた。

「そうだなぁ…あの時の返事が、思い出せないなぁ…」
「あの時?どの時よ。十年連れ添ってるんだからあの時なんていっぱいありすぎて分かんないわっ!」

一緒に過ごした時間は長いのよ。
そう言って笑う彼女に俺はそれもそうかと頷いて、頬から耳たぶを掠め、腕を後頭部に回してから彼女の顔を引き寄せた。

「君が生きていてよかった。愛してる」

これであの日のことだと気づけただろうか?
懐かしいと笑う彼女の唇が俺のものに触れ、それから再度微笑んだ。

愛しい唇が紡ぐ言葉は、この世のどんな言葉より俺を支えてくれる。昔も、今も、変わらずに。そしてきっとこれからも。
俺は彼女の紡ぐ言葉の力強さに、今日も安心して笑うんだ。



end



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