小説2
- ナノ -


君がくれるもの





63072000秒。あるいは1022000分。時間にして576時間。年数にして二年。俺の記憶がない時間。

「おはよう我愛羅。調子はどうだ?」

ナルトたちに助けられ、目覚めた俺は部分的な記憶喪失になっていた。
正確に思い出せる記憶は、ナルトに敗れ、木の葉崩しに失敗し、里に戻り正規軍として勤め始めたあたりまででそこから先はぼやけている。
それに俺の持つ記憶の中では未だ俺の腹の中には守鶴という化物がいたはずなのに、今の俺にはもうない。
病室の寝台で眠ることも普通ならば当前のことだ。だがずっと眠ることを避けていた俺は未だにそれが慣れず、守鶴がいないから問題ないと言われても抵抗がある。
しかし運ばれてくる新聞の日付は明らかに未来の物であるし、カレンダーも然りだ。夢にしてはあまりにも出来すぎている。だからこそ俺は不安だった。

「…問題ない」

そう、問題はない。問題はないのだ。外傷的には。
ただ俺の時間と周りの時間の差が大きいだけで、それ以外特筆すべき問題は特に内容に思われる。
だがその差は自分にとってあまりにも大きかった。何せ目指すと決めたばかりの風影に、俺はもう既になっていたというのだから。

「そうか。話は聞いているとは思うが退院の許可が出てる。早速で悪いがついて来てほしい」

そう言って俺に向かって手を差し出してきたのは俺と初めて正面から向き合った男、うずまきナルト。ではなく実姉であるテマリだった。
俺の記憶の中にいる彼女と、今目の前にいる彼女は随分と変わっていた。大人びたというか、女らしくなったというか。
背負う鉄扇は変わらないはずなのに、どうしてだか他人のように思ってしまう。第一俺の記憶の中にいる姉はこんな風に手を差し伸べてきたりはしなかった。
どこか俺の機嫌を窺うような、それでいて決して近寄っては来ない、手負いの獣を前にした人間のようだった。
なのに今では何の躊躇いもなく俺に向かって手を差し伸べてきている。いや、躊躇いはあるのかもしれない。何せ今の俺は記憶喪失なのだ。彼女と和解したのであろう未来を俺は覚えていない。
彼女の中にいる俺と、今の俺とでは明らかに違うだろう。幾ら姉が優秀な忍と言えどそう簡単に過去の手負いの獣を受け入れることは出来ないだろう。
だからこそ俺は目の前に差し出された手から目を逸らし、己の手で体を起こした。

「…いい。一人で立てる」
「…そうか。じゃあ行こう」

先に歩き出したテマリの他にこの場にいる人間はいない。
カンクロウは俺の代理とまではいかなくとも周囲に指示を飛ばし、里の皆に仕事を割り振っているらしい。
あの臆病者が他人を動かせるまでになったとは。いや、臆病と言ってもあいつは俺以外に対してはそう恐怖心を抱くような腑抜けではなかった。
流石に自分より実力が上の相手にはそれなりに警戒心や恐れを抱いてはいたようだが、目覚めた俺の前に立つアイツからはそんな気配を感じなかった。
二年の間でテマリだけでなくカンクロウも変わっていた。それが妙に落ち着かなかった。

「おう我愛羅、もう大丈夫なのかよ?」
「外傷的には何の問題もない。お前たちが騒ぎすぎなだけだ」

俺の職場である風影室。記憶の中では父様が座っていた場所に、今の俺は座っているという。
自分にとっては現実味を帯びない話であっても周囲の人間は皆俺のことを“風影様”と呼ぶ。俺は本当に、風影になったのだろうか。

「まぁとりあえず座れよ。お前がいない間捌ける書類は捌いておいたからよ、とりあえず期日がやばい奴だけ目を通して欲しいじゃん」
「内容が分からなければ言ってくれ。私たちが補佐する」
「………分かった」

俺の真新しい記憶の中にいるカンクロウ、は今の時代でいうところの二年前のカンクロウだ。
当時のアイツはまぁそれなりに俺のことを気にかけてくれていたようには思うが、こんなにも頼もしい雰囲気は出していなかった。
背丈が伸びたせいだろうか?それとも体つきが変わったせいだろうか?隈取の柄はしょっちゅう変わっていたので今更言及する気は無いが、それでも分かる幼さの消えた顔は精悍と言ってもいい。
父様に良く似た顔が、書類の山から何かを探している。

「えーとだな、この右側にある書類がマジで期日がヤバい奴。で、この真ん中のが来週でも大丈夫な奴。左側のは今日来たばかりだからまぁ暫く放っておいても問題ない奴」
「勝手なことを言うなカンクロウ。我愛羅、今日来た分は私が目を通す。急ぎのものがあれば回すから、お前も目を通してくれ」
「…分かった」

仕事を、している。
任務ではなくデスクワークを、だ。ずっと父様が座っていた席に俺が座り、積まれた書類を目にすればいつかの記憶が呼び起こされる。
幼い頃、扉の隙間から窺ったことのある父様の姿。気難しい顔をして書類に目を通し、筆を走らせ判を押していた姿。あの時父様が座っていた場所に、今俺がいる。

「………」

腰かけた椅子は驚くほど体に親しんでいるし、広がる机もどことなく懐かしい気配がする。
節々についた墨の後や、文鎮が当たったのか落ちたのか、机上の窪みや傷跡、父様が座っていた頃についたのか俺がつけたのか分からない仕事の跡が至る所に残っている。
ここにも、俺が失ったはずの記憶の残骸がある。俺だけが置いてけぼりを喰らった世界。それが、今俺のいる世界だ。

「気分が悪くなったらちゃんと言うんだぞ。無理しなくていいからな、我愛羅」
「まぁ適度に休憩は挟むからよ、様子を見ながら進めていくじゃん」
「…分かった」

俺に対し遠慮も恐れも抱いていない姉兄に、俺を“風影様”と呼び近づいてくる忍達。
未だに俺はそれらに馴染めない。だが、思い出さなくてはならない。これを“日常”と呼んでいた頃の俺に、俺の記憶を、呼び戻さなければならない。

だが今すぐに記憶が蘇ってくるような気配は当然なく、仕方なく俺は急ぎの書類から一枚取った。それには今の俺にとって未来の日付が印字されている。だが正確に言えば数日前の日付だ。しかし俺にとっては未来の話でしかない。
読んだところでちんぷんかんぷんと言うか、よその国の出来事を新聞で読んでいるような気分になる。
結局今の俺では無理なのだ。書類一枚捌くのにも時間がかかる。知識がない。記憶がない。勝手がわからない。想像以上の役立たずが父様が座っていたあの場所に座っている。

「…分からん」

情けないという気持ちはありつつも、俺は開始数秒で白旗を上げた。当然と言えば当然のことだが、もう少し頑張ってみたかった。だが分からないものは分からないのだ。
今の俺は二年前までの記憶しかない。まだ風影を目指していただけの、一端の忍だ。
しかし風影はこの里に俺以外いないのだ。だからこそテマリもカンクロウも、記憶がないと分かっていながら俺を引きずって来るしかなかった。
今更ながらに風影とは生半可な気持ちで務まるものではないと学べただけでもよしとしよう。そう思わなければ心が折れそうだった。
折れる程大層な心を築いた記憶もなかったが。



話は少し前に遡るが、そもそも俺の記憶が抜けていると分かったのは、チヨ様に蘇生されてすぐのことだった。
目覚めた俺の傍らに立っていたのはどこか安堵したような、気が抜けたような複雑な表情をしたナルトで、しかしその顔つきも背丈も、纏う衣服すらも変わっていることに違和感を覚えた。
人は成長するものだ。だがたかが数日、数か月で変われるものでもない。なのに俺を覗き込むナルトは明らかに“大人”へと近づいており、俺の肩を抱く手も大きくなっていた。
そして次第に明るくなった視界の中、俺を囲むように溢れる人だかりに肝が冷えた。また俺は守鶴で暴走してしまったのかと、そう思ったのだ。
だが実際は違った。皆一様に俺に向かって“風影様”と呼び、声を上げて泣き、笑い、喜んだ。

意味が分からなかった。

まるで祝福されているかのようだった。見たことはないが、今しがた誕生したばかりの命を祝うかのような勢いだった。
これは一体どういうことか。分からず周囲を見渡せば、眠るように目を閉じたチヨ様と駆けつけてくるテマリの姿が目に入った。
そうしていつの間にか俺から離れていたナルトと会話を交わす、カンクロウと思われるであろう男の姿も視界に入る。俺は一体どうしてしまったというのか。
タイムスリップでもしたというのか。混乱する俺にテマリはどこか痛くないかと聞いた。

ああ、痛い。痛いさ。痛い。頭が痛い。

此処は何処だ。俺は誰だ。お前たちは何者なんだ。本当に俺の姉兄なのか。砂隠の額当てをしているが本当に砂忍なのか?
口々に“風影様”と呼ぶお前たちに俺は言いたい。風影は死んだ。俺の父親は死んでいたのだ。だから次の影を決めなければ里が成り立たないぞと、そう言ってやりたかった。
なのに周囲の目は俺を見ている。俺に向かって“風影様”と呼ぶ。何なんだコレは。夢なのか?ならば何と悪い夢なのだろうか。
確かに俺はカンクロウに言った。一人の忍として認められたいと。自分の意思で風影を目指すと。

だがこの夢は何だ!

俺の深層意識が見せたのか?しかしあまりにも現実味を帯びすぎていて気持ちが悪い。いっそ吐き気すら込み上げてくる。
もし瞳術の類なのだとしたらチャクラを流し術を解かねばならない。けれど殆どチャクラは残っておらず、指一本動かすことすら億劫だ。
こんな状態で戦えるわけがない。なのに皆何の警戒もしていない。やはりこれは罠だ。幻術か、瞳術か。分からないが厄介な術なのは確かだ。
どうにかして状況を打破しなければ。そう思ったところで俺の意識は再び闇の中に落ちた。
我愛羅、と俺の名を呼ぶ姉兄の声も、どこか別人のように聞こえた。

そして次に目覚めたのは病院の寝台の上だった。
眠っていた。そう気づいた時には体が跳ね、傷みすら忘れず寝台の上から飛びのいた。俺の体は、俺の手は、俺の意識は、里は、皆は、怪我を、血を、流してはいないだろうか。
バクバクと喧しいほどに鳴る心臓の音と共に冷や汗を掻きながら、乱れる呼吸を落ちつけようと耳を塞いでいた。その時だった。
砂隠では一度として見たことのない薄紅の髪が視界に飛び込んできたのは。

『大丈夫?我愛羅くん。落ち着いて。怖がらなくていいわ。大丈夫。誰も怪我なんてしてないし、あなたは暴走なんかしていない』
「?」

震える喉と勝手に溢れる涙を零しながら、見上げた先には見慣れぬ女がいた。
名は春野サクラ。
俺の記憶に残っている少女とは似ても似つかぬ落ち着いた雰囲気に、俺は動揺していたはずなのに徐々に呼吸が落ち着いていった。
そうして俺の傍に膝をついた彼女は俺の背に手を当て宥めるように撫で擦った。
暫くするとヒューヒューと風切り音が鳴る喉にも徐々に道ができ呼吸が楽になり、その頃には俺の心拍も落ち着きを取り戻し霞みがかった頭もはっきりしていた。

『平気?』
『ぁ…ああ…』

まだ緊張が残る体を縮め、それでも上目で女を伺えば穏やかに微笑まれる。
その顔は不思議と母様を髣髴とさせ、俺は知らず彼女を見つめていた。

『目が覚めてよかったわ。栄養剤の投与はしていたけど不安だったの。やっぱり健康が一番よね。そう思わない?』
『あ?あ、ああ…』

突飛な話の切り出し方に戸惑いはしたものの、何故かそれを嫌だとは思わなかった。
微笑む彼女は座っていた俺に合わせるようにしゃがみ込んでおり、俺の意識が正常だと分かると膝を伸ばし立ち上がった。
彼女は看護服に身を包んでいたが、木の葉の額当てを腰に下げていた。

『立てる?』
『…ああ…』

彼女に促され、足腰に力を入れ立ち上がろうと試みるが思ったよりも動かず苦闘する。
だが彼女は特に驚く様子もなく、じゃあちょっとお手伝い。と言ったかと思うと俺の脇腹に手を差し入れ、その細い腕からは想像できない力で俺を抱き上げた。
何なんだこの女は。
思った時には俺の両足は地面へと着地しており、彼女は驚く俺を尻目にはい、じゃあ検査しますねー。なんて言って微笑んでいる。
もう訳が分からない。好きにしてくれ。
そう思いはしたが口にすることはなく、俺は力なく飛び退いたはずの寝台へと腰を落ち着けた。
彼女の背丈もやはり、伸びていた。

そこであれこれ診察を受けた際、俺の記憶が二年分消えていることが分かった。
彼女は、俺を診察し面倒を見ていた薄紅の髪を持った女、春野サクラは別段驚いた様子は見せなかった。
一時的なショックなものかもしれないから、暫く様子を見ましょう。
そう言って微笑んだ彼女に対し俺は何と言っていいか分からず口を噤んだ。俺は、彼女に顔向けできる男ではなかった。

ナルトとの勝負の際、彼女を使った。ナルトを挑発し、追いこむために利用したのだ。
その件について未だ頭を下げていなかったことに俺が後ろめたさを覚えていると、彼女は何か聞きたいこととかある?と首を傾けた。
あんなことをした男に対し何故彼女はこうも平然としていられるのだろうか。女は強いと言うが、先程俺を持ち上げた怪力とそれとでは意味が違う。
バカげたことを考えているとは思ったが、そうでもしないと俺は混乱する頭のまままた彼女を傷つけそうで怖かった。
だが何も言わない俺に彼女は何を思ったのか、手を伸ばし頭を撫でてきた。当然のことながら意味が分からなかった。

『大丈夫よ。必ずあなたの記憶は戻るから。心配しないで』

どうやら彼女は俺が記憶を失っていることに対し不安を抱いている、と思ったらしい。
だが生憎俺は記憶喪失という実感がないせいかそれに対し不安は大して抱いておらず、けれどそれを否定するのももう面倒になって黙って頷いた。
彼女が優秀な医療忍者だと知ったのは、彼女が席を外してからの事だった。

『おう我愛羅、気分はどーだってばよ?』
『うずまきナルト、か…特に問題はない』

ナルト達が一旦木の葉に帰省する際、最後に顔を見せに来たナルトはやはり大人びて見えた。
だが言動は相変わらずと言っていいほど気さくで、けれど二年分の記憶がない俺からしてみればやはりどこか違和感を覚える。
慣れない親しげな態度に狼狽える俺を尻目に、ナルトは木の葉の医療班が後日改めて来ることを伝え、軽く俺を励ましてから病室を後にした。
それ以来、俺は木の葉の人間と関わっていない。
俺の記憶に関する件で木の葉から医療班が派遣されることは聞いてはいるが、それがいつになるのか、誰が来るのか。俺はまだ何も知らなかった。

「あ、そうそう。丁度木の葉から手紙が来てたからよ。悪いが先に目を通させてもらったぜ」
「内容は何だったんだい?」
「木の葉から医療班を派遣してくれる、っていうあの話だよ。よかったな我愛羅」

昼餉を摂り終わった頃だった。カンクロウはそう切り出すと懐から一通の手紙を取り出した。
差出人の所には火影の印が押されており、僅かばかり躊躇してしまう。だが風影は俺なのだ。別に後ろめたく思う気持ちなどない。
しかしどうしても手紙を持つ手に緊張が走ってしまい、俺は平静を装いつつも一度深く息を吸い込み、ゆっくりと吐きだしてから手紙を開いた。

そこにはカンクロウの言う通り、木の葉から特別に医療班を派遣するという旨が綴られていた。
砂隠に辿り着くのはあと五日か、六日後だろう。組まれたメンバーの中には当然ナルトの名前はなく、代わりに彼女の名が連なっていた。
春野サクラ。
俺は手紙をざっと読み終えてから頷き、懐に仕舞った。

因みに、俺の記憶の中で木の葉に五代目が就任したという話はない。
失った二年間の間で就任した忍がいるらしい。筆跡と名前からして女だと気づいた時には驚いたものだが、テマリもカンクロウも類稀なる女傑だと声を揃えて説いた。
そんな女傑こと五代目火影、綱手殿によると俺の記憶障害は一時的な物である可能性が高いということだった。
尾獣を抜かれ、生死の境を彷徨ったのだから当然と言えば当然な気もする。だが早く記憶が戻ってもらわねば困るのは火影も同じようだった。
どうやら暁という犯罪者集団による被害があちらこちらで出ているというのだ。それについて話し合う予定があったらしい。
二年の間で木の葉と砂隠は随分と変わったようだ。襲うはずだった木の葉と同盟を結び、あまつさえ火影と共に里の平和のために連携を取っている。
喜ぶべきなのだろう。
自分だって風影になると決めた身だ。だが、そう決心してから俺はまだ歩み始めたばかりなのだ。
例え実際の年月が二年進んでいたとしても、俺にその記憶はない。俺の記憶は二年前で止まっており、今の時世について行くにはあまりにも世間を知らな過ぎる。
いや、実際には世間だけではない。家族のことも、友のことも、何も分からないのだ。
何故なら今共に食事を摂っている姉兄のことでさえ俺はどこか信じきれずにいる。本当に自分の姉兄なのか。心の底では俺を騙しているのではないか。
そんな不安ばかりが頭をよぎる。だが今までならその弱みに付け込む声が聞こえてきたのに、今では何の音沙汰もない。

本当にもう、いないのだ。
俺の中に、体の奥底に、守鶴という名の化物はもういない。
それは有難いはずなのに、ずっと望んできたことだったはずなのに、今ではその声があって欲しいと思う。アイツが俺の中にいればまだこれが現実だと受け入れることが出来た。
だがいないとなれば俺の都合のいい夢のような、あるいは幻術にかかっているような…そんな気にさせるのだ。
過ぎる時間の中に身を置いていても現実味がない。まるで重力のない世界に身を置き、右も左も、上も下もない世界にいるようだった。
キリリ、と痛む頭を押さえても、俺の腹の底で聞こえていたあの憎たらしい声は一切聞こえてこなかった。



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