小説
- ナノ -






だが話はそう上手くいくものではなく、断りを入れたにも関わらず男は何かとサクラに付き纏うようになっていた。
手紙から始まり、花を贈ってきたり映画に誘って来たり。
時には友人を紹介したいから会えないかなどと訳の分からないことまで言い出す始末で、ほとほと疲れ果てていた。

そんな中、贈られてきた手紙を処理しようと引き出しを開けたところであの宿屋からの手紙を見つける。
そういえば、と再び便箋を手に取り中身を確認し、そろそろ時期だなぁと思いながら勤務表を手に取る。

「…夏場は多分混むわよね…避暑地だし、シーズンだし…だったら早めに行こうかなぁ」

梅雨時期の勤務表はまだ出ていない。
時期的に食中毒などの不安要素はあるが、比較的患者は少ない時期だ。
よし。とサクラは手紙を仕舞うと、有給届を手に取る。
そして後日、受理された有給日を明記し宿屋に手紙を送る。

シーズンオフの梅雨の日、サクラはどうせ一人なのだから、と一番安い部屋に予約を入れた。
久々に里から離れたあの宿屋で、疲れた体を癒したかった。


そしてあっという間に木の葉に梅雨が訪れ、毎日しとしとしとしと雨が降る。
そんな中久々に馬車に揺られながら、あの宿屋へと訪れた。

「春野様、ようこそおいでくださいました」
「お久しぶりです。お手紙ありがとうござました」

出迎えてくれた女将の心休まるような笑顔に、ああ、来たんだなぁ。と感慨深く思っていると、とにかく中へ、と促され玄関を潜る。

「やっぱり避暑地なだけあって少し寒いですね」
「そうですねぇ。木の葉の里に比べると気温が5度から8度ぐらいは違いますから」
「へえ、そんなに違うんですか。どうりで」

台帳に名前を記入し、案内された部屋は以前の部屋より一回り程小さかったが濡れ縁がついており、安くとも贅沢な部屋だなぁと思う。
ちらりと覗けば、雨風にさらされた濡れ縁の板は雨を吸収し黒く濡れ光っている。
それが何とも言えない風情を感じさせ、無意識にいい部屋ですね。と言葉が漏れる。
そんなサクラの言葉に女将は嬉しそうに笑うと、とびっきりの笑顔で礼を言う。

「実はこの部屋は先代のお気に入りの部屋なんですよ」
「え?そうなんですか?」
「はい」

そう言って女将は部屋の奥にある格子窓を開けると、こちらをご覧いただけますか?とサクラを促す。
何かと思い身を乗り出せば、目の前に広がる光景にうわぁ…!と声を漏らす。

「綺麗な紫陽花!」

格子窓から見えるそこには、裏庭いっぱいに咲き誇る紫陽花が所狭しと花弁を広げ葉を広げ、降り注ぐ雨を甘受している。
綺麗…と呟けば、女将は嬉しそうにでしょう?と笑う。

「この部屋は表の庭園より裏庭の方がよく見えるんです。庭園の方にも紫陽花は咲いてはおりますが、裏庭ほど咲かないんですよ」
「本当にすごいですね。こんなにたくさんの紫陽花見たの初めてです」

まるで紫陽花園ですね。
そう例えてしまえるほどに裏庭に咲き誇る紫陽花は見事であった。

春の終わり、見合いの席の料亭で見せられた紫陽花とは雲泥の差である。
これはとっておきの部屋ですね。と笑ったが、すぐにはて。と気づく。

「あの…でもそんなお部屋に…私本当にこの部屋でよかったんですか?」
「はい。先代が春野様の宿泊にはぜひこの部屋を、と強く念押ししてきましたので」

この部屋を私に?
首を傾け伺えば、女将ははい。と頷く。

「この部屋にお通しするのには意味があるんですよ。けれど今先代は出かけておりますので、その話は先代が戻ってきてからになりますが」
「へえ…じゃあ楽しみに待っておきますね」

霧雨の如く細かくしとやかな雨が降り注ぐ中、女将はそれではごゆっくり。と頭を下げ部屋を出ていく。
こじんまりとした部屋ではあるが、年季の入った柔らかな畳と窓の外から見える紫陽花の景色はこの上なく疲れた心を癒してくれる。

荷物を置き、座椅子を動かし咲き誇る紫陽花を眺める。
雨が花びらの表面を打つ度に、しなやかな花弁が雫を落とすさまは実に優美で美しい。
避暑地だから夏場がメインだと思われがちだが、寒ささえ気にしなければ梅雨には梅雨で美しき風情が此処にはある。
本当に見事な場所だとうっとりしながら、しばらくの間サクラはずっとその紫陽花を眺めていた。


昼餉を挟んだ後、雨足が弱まった頃に先代が宿へと戻ってきた。

「サクラ、よく来たね」
「はい。この度はご招待ありがとうございます」
「なーに気にするこたぁない。どうだ?部屋はいい部屋だっただろう?」

悪戯小僧よろしくひひひと笑う先代にとっても!と頷けば、それはよかったと先代は笑う。
ところであの部屋に通してくれた理由は何なのかと尋ねようとしたところで、先に名を呼ばれ口を閉ざす。

「お前さん雨が降ってるからってどこにも出てないんだろう?」
「え?ええ…まぁ」
「じゃあちょっと行ってみてほしいところがあるんだよ。本当にいい所だから、お前さんには行っておいてほしくてね」

そう言うやいなや、先代ははいよ。と赤い番傘をサクラに手渡しその背を押す。

「い、行ってほしいってどこへ?」
「ここから出て東の方に行くとね、でっかい神社があるのさ。お前さんたちこの間は行ってなかったんだろう?一度はお参りに行ってごらん。いいことがあるよ」

そう言って地図を渡され背を押され、追い出されるようにして宿を出る。
一体全体なんなのか。
思いつつも水たまりに気を付けながら地図を頼りに歩き出す。

(それにしても、一年ぶりかぁ…何だか不思議な気分…)

我愛羅との関係が始まって一年も立つのかと思うと何だか妙な気分ではあったが、それでも未だに関係は曖昧なままだ。
いつかは蹴りをつけなければいけないとは思うのだが、思うようにいかない。
思わずため息を零しそうになるがそれをぐっとこらえ、濡れた石畳を歩き、人がまばらな商店街を抜けていくと朱色の鳥居が見え、あれか。と見上げる。

「え…すごっ…」

初めに見えた鳥居は一つであったが、近づけば奥に一定間隔で朱い鳥居が続いているのが見えてくる。
しかも一番手前に見えたものは通常の二倍ほど大きく、何だコレ。と口を大きく開けてしまうほどであった。
とにかく登ってみるか。
それほど高くない山の中、頂上に設えているだろう神社の拝殿を目指し緩やかな道を歩き出した。



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