小説
- ナノ -


夜更けのブーケ



 煌びやかに輝く店内に、ヒーリングミュージックの柔らかな音色が響き渡る。視界を彩るのは、この世の全ての色彩を集めたような鮮やかかつ繊細な商品たち。遠くから見るのも近くから見るのも何となく憚れるこの場所に、何故自分はいるのか。正直場違い感がすごくて吐き気すら覚える。

「ほ、ほんとに行くの?」
「当たり前じゃん。ほら、行くよ」
「うえぇぇぇ」

 完全に腰が引けている私の手を取り、頼もしい友人――ゆきちゃんは華やかな店内へと足を踏み入れた。


『夜更けのブーケ』


 事の発端はゆきちゃんに結婚の報告をした日のことだった。

「マ? あのイケメンと結婚すんの?」
「うん。色々あったけど、そうすることにしたんだ」

 厄介かつ長引いた事件がようやく終息し、諸々の後片付けも落ち着いた頃。一度現世に戻り、中学時代からの友人であるゆきちゃんに結婚の報告をしていた。

「はあ〜、ついに由佳も結婚かぁ」
「あはは。自分でも未だに信じられない気持ちでいるよ」
「何を今更。自分からプロポーズした、って言ったくせに」
「まあそうなんだけどさ」

 現在育児に専念するために休職中ということもあり、忙しいだろうから電話だけで報告しようかな。と考えていた。だけど本人から『両親に子供預かってもらえるから大丈夫』と言われ、久方ぶりに喫茶店でお茶をしていたのだ。
 そこで陸奥守にプロポーズしたこと。相手がそれを受け入れたこと。また式を挙げる予定があることを話した。

「でも相手は神様だから、式に呼ぶのは家族だけにしようかな、って考えてる」
「なるほどね。ま、相手が神様ならしょうがないか。でも神様かあ〜。由佳を迎えに来た時から只者じゃないな、とは思ってたけど、まさか神様だったとはねぇ」
「あの時は色んな意味でびっくりしたよ。むっちゃんが迎えに来たこともそうだけど、ゆきちゃんが殴りかかろうとするからさ」

 数ヶ月前に行われた中学時代の同窓会。当時“浸食”により心身共に削られていた私を迎えに来た陸奥守に対し、ゆきちゃんは思いっきり殴りかかろうとした。
 勿論日頃戦場に身を置き、手合わせや演練などにも参加している陸奥守が易々と喰らうわけがない。あっさりとその拳を受け止めた陸奥守にゆきちゃんは心底不愉快そうな顔をした。

「だってしょうがないじゃん。あんたずっと体調悪そうだったしさ。しかも泣いてたんだよ? そりゃキレるって」
「気持ちはありがたいけど、危ないからやめてね」

 穏やかな性格をしている陸奥守だったから穏便に収まったものの、もし他の刀だったらどうなっていたことか。まあ皆優しいし、私の友達だって言えばやっぱり丸く収めてはくれるだろうけどさ。
 それでも危険なことに変わりはない。もう独り身ではないのだから無理しちゃダメだよ。と注意しつつカフェラテに口をつければ、ゆきちゃんは「はいはい」と軽く返事をするだけだった。本当に分かっているのだろうか。

「ま、由佳が幸せになれるなら反対はしないよ。むしろあいつらに見せてやりたいくらい」
「あいつらって?」
「あの時同窓会にいた奴らよ。由佳があの神様と出て行った後、そりゃあもうすごかったんだから」

 皆と連絡先を交換していなかったからあの後色々と聞かれることはなかった。だけどあの場に残ったゆきちゃんは相当質問攻めにあったらしい。知らなかったとはいえ、申し訳ないことをした。

「そうだったんだ。巻き込んじゃってごめんね」
「いいよ、別に。それにあのピンクババアたちの呆然とした顔! ギャアギャア悔しそうに文句言ってたけど、負け犬の遠吠え感すごくてすっごいスッキリしたし、面白かったから問題ないよ」
「ゆきちゃん……」

 ニシシシ、と悪戯っ子のような顔で笑うゆきちゃんに苦笑いを零すものの、実際あのレベルのイケメンなんてそうそう見られるものじゃない。しかも強くて格好よくて頼りになるうえ、主である私を大切にしてくれている。
 そう考えたらあの場にいた男たちとは比べ物にならないのは明白だ。そろそろ相手を見つけてゴールインをしたい彼女たちにとっては垂涎ものだっただろう。

「あいつらがあれだけバカにしてたあんたがさ、あんなハイスペック彼氏連れて来たんだからそりゃ驚くよね」
「ははは……」

 言うてまだその時は恋人ですらなかったのだが、あれが切欠で恋人になれたのだから否定もしづらい。だから苦笑いするだけに留めていると、ゆきちゃんが「ところでさ」と机に身を乗り出して顔を近付けて来る。

「あんた、ちゃんと準備出来てんの?」
「へ? なにが?」
「何がじゃないわよ、何がじゃ。あんた結婚するんでしょ?」
「うん」
「だったら夫婦としてやることがあるでしょうが」

 え。夫婦としてやること? 結婚式以外で? なんだろう。ケーキ入刀か? いや、それ結婚式や。
 なんてアホなりに真面目に悩み始めた時だった。どうにもピンと来ていない私に気付いたらしい。ゆきちゃんは盛大に溜息を零し、それから素早くスマホに文字を打つと画面を見せてきた。そしてその明々とした画面に綴られていたのは――

『夜の生活』『夫婦の営み』『いわゆるセックスってやつよ』

 と三行にわけて文字が綴られていた。が、結局のところ最後の一文に集約される。

 あまりにもアレな内容に思わず悲鳴をあげそうになったが、咄嗟に両手で口を覆って抑え込む。だけどその仕草だけで何の用意もしていないどころか考えてすらいなかったことがバレたらしい。ゆきちゃんは再度大きなため息を零すとスマホを仕舞った。

「まさかとは思うけど、あんた、日頃使ってる下着履くつもりじゃないでしょうね?」
「そ、そのつもりでしたが……」

 店内に音楽も流れているし、周囲もお喋りを楽しんでいる。とはいえ学生が溢れるファミレスやファーストフード店に比べたら静かだ。そんな中でこんな下世話な話をするのもどうなのかとは思うのだが、ゆきちゃんが引く気配はない。自然と小声になる中顔を寄せ合い、コソコソとアレな話を続ける。

「はあ。どうせそんなことだろうと思ったわよ」
「す、すみません……」
「まっ、未経験者らしいうっかりではあるわね。あんたらしいとも言えるけど。とにかく! 結婚するんだからちゃんと準備しなさい」
「はい……」

 完全に頭から抜け落ちていたとはいえ、考えてみればすぐに分かることでもあった。だけど自分に縁がなさ過ぎて脳内から消し去っていたのか、それとも羞恥心が爆発して消し去っていたのか。どちらにせよ危ないところだった。
 漫画とかネットの記事で得た知識はあるんだけどね……。経験がないから結びつかなかったわ……。
 その点既婚者であり、一児の母でもあり、宗三並に言いたいことはハッキリと言うタイプのゆきちゃんがいてくれてよかった。と、この時はそう思ったのだが。この押しが強い友人がこれで終わるはずがなかった。

「なーんかまだ不安なんだけど」
「そんなに?!」
「うん。だって初夜はマジで人生で一度きりなのよ? しかもあんたは一度も経験がないまま本番に挑むわけでしょ? 自分からプロポーズした相手と寝るんだから、ちゃんとした格好しないと後悔するわよ?」
「うっ……。そう、なのかな……」

 しおしおと萎んでいく私を憐れだと思ったのか、ゆきちゃんは軽く咳払いしてから一緒に注文していたケーキにフォークを突き刺した。

「まあいいわ。今日は時間があるから、この後買いに行くわよ」
「買い物? 別にいいけど……。何か買うの?」

 この流れで何故汲み取れないのか。そう言わんばかりのジト目で睨まれるが、すぐにゆきちゃんはため息を吐き出すと同時に、ケーキに突き刺したフォークを私の口の中に突っ込んできた。

「んぐっ」
「まどろっこしいわね。勝負下着よ、勝負下着」
「ん゛っ?!」

 口に突っ込まれたのはコーヒー味のケーキだったが、甘さ控えめのそれがより一層苦みを増す単語に思わず喉が詰まる。それでも悲鳴を上げなかったのはケーキのおかげなので、大人しく咀嚼し飲み込んだ。
 結局『穏やかなティータイム』は秒で崩れ去り、ケーキセットを食べ終えたゆきちゃんから「時間は有限! 早く行くわよ!」と急かされ、慌てて喫茶店を出た。


 ◇ ◇ ◇


「っていうかさ、一個気になってたんだけど」
「ん? なに?」

 ゆきちゃんオススメのランジェリーショップに向かう中、隣を歩くゆきちゃんが何気ないトーンでとんでもないことを質問してくる。

「あんたの旦那になる神様、女と寝た経験あんの?」
「ブフッ!!」

 本日二度目のとんでも質問に吹き出すが、正直知らん。知らんし分からん。経験者かどうかなんて未経験者に分かるはずもない。
 だから素直に「知りません」と答えたのだが、何故かゆきちゃんは腕を組んで眉間に皺まで寄せて唸る。

「うーん……。もしも未経験者同士だとしたらあんたが痛い思いするかもしれないわね」
「まあ……。未経験だからね……」

 表立って『処女』とは言えないので『未経験者』と言うしかないのだが、それにしたって酷い話である。何が悲しくて友人とこんな話をしているのか。いや、親とする方がイヤだからゆきちゃんが相手でよかったのかもしれないけどさ。

「じゃあ下着のついでに色々買っておく? ゴムとか」
「ゲフッ!」

 もう何度吹き出し、咳き込めばいいのか分からない。だけどこちらが返事をするよりも前に「あ。ダメだ。サイズ分かんないよね」と言われ無言で頷いた。
 そりゃあね? 一応知識としては存じているんですよ。ゴムにサイズがあることは。ただ陸奥守がどのサイズなのかは知らない。マジで知らない。一回足に当たったことはあるけど、それだけの情報で「むっちゃんのアレは〇サイズ!」とか分からんでしょ。分かったら天才通り越したただの変態だよ。そもそも分かる程経験積んでないから。元気になった男性のアレなんて同人誌とかでしか見たことないわ。

 もうなんか色んな意味で疲れた。そして何もかもが足りていない自分に情けなさも感じてため息を零していると、何を考えたのか。突然ゆきちゃんが両手を打った。

「よし。決めた。下着買ったらあそこに行こう」
「は? なに?」
「今言ったらあんた卒倒しそうだから先に下着買いに行くよ」
「ねえ? 待って? 本当に待って? せめて心の準備をさせて?」

 容赦なく先に進む友人の手を必死に掴んだものの、そのまま手を握られランジェリーショップへと連行される。案外あの喫茶店から近かったらしい。

 煌びやかな店舗は普段通販で買い物を済ませる私からしてみれば消し飛びそうなほどに華やかだ。もうなんかどこもかしこもキラキラしてる。お店の中にいるお客さんも、店員さんもキラキラフワフワして見える。マネキンとかナイスバディだしな。あのくびれが私も欲しい。
 そんな圧倒的『女性の園』につい『回れ右』をして帰りそうになるが、手を握られたままだったからすぐにリードで繋がれた犬みたいに引っ張り戻されてしまった。

「こら。何逃げようとしてんの」
「だ、だって……!」
「だーい丈夫だって。初心者のあんたに変なもの勧めたりしないから」
「変な物ってなに?!」

 そっち系の知識が経験者より乏しいことは分かっている。それでも中途半端とはいえ知識はあるのだ。
 だけど力強い友人の手から逃れることは出来ず、見た目ゆるふわ、中身アダルトな世界に足を踏み入れることになってしまった。

「折角だから普通の下着も新調しな。お金ちゃんと持って来たんでしょ?」
「そりゃ持って来たけど、って、まさかこのために?!」

 実は会う前にゆきちゃんから『お金卸してから来なさい』と言われていたのだ。てっきり普通のショッピングをするのかと思っていただけにショックは大きい。
 現に半ば信じられない気持ちで長年の友人を見上げれば、中身さえ知らなければ聖母のような笑みを浮かべてこちらを見ていた。絶対そのつもりだったじゃんこの顔!!!!

「さ。つべこべ言ってないで選ぶよ」
「ピーーーッ!!! この確信犯ーーーーッ!!!」

 お店の人たちに迷惑にならないよう、極力声は抑えつつも悲鳴を上げる。そんな私を笑い飛ばしながらゆきちゃんは早速それっぽいコーナーへと足を進めたのだった。


 ◇ ◇ ◇


 ――小一時間後。

「恥ずか死ぬかと思った……」
「何でよ。結構可愛かったじゃん」
「だからだよ!」

 上はともかく、下は試着などしていない。ていうか出来るはずもない。それにゆきちゃんが選んだデザインはどれも私にとっては過激で、出来ることならその場で卒倒したかった。
 それでも恥ずかしさのあまり絶対に着られない、なんてデザインばかりでもなかったので結局購入したのだが。恥ずかしいことに変わりはない。

「いいじゃん。初めての夜になるんだからさ。旦那のためにも自分のためにも気合入れてこ」
「うう〜」

 そりゃあ陸奥守が「私のために」なんて言って着飾ってくれたら嬉しいよ? だってあんなに格好いいのだ。何を着ても似合うはず。
 実際、会議終わりに現世を歩き回った時に着せたカッチリとした服装も似合っていた。それに他の審神者さんの元でパーカーなどの現代服を着ている個体も見たことがある。だけどそのどれもが似合っていて、壊滅的に「ダセエ!」と突っ込みたくなる姿は見たことがない。
 だから陸奥守が何でも似合うことは分かっているんだけれども、こっちはそうじゃない。日頃からやる気と女子力、どちらも欠けた格好をしているから、いざそういうものを手に取ると恥ずかしさが勝るのだ。
 そりゃあたまに遊びに行く時とか、出かける用事がある時はそれなりの格好をするけどさ。やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしい。
 だけど今度からは『人妻』改め『神妻』になるのだ。もう気楽な格好は出来ないと考えた方がいいだろう。

「あの……ゆきちゃん?」
「うん?」
「折角だから、普通の服も買っていい?」

 色んなことが重なって多少痩せたこともあり、ジーンズやスカートのウエストが合わないものが幾つか出て来た。トップスは多少だぼついても問題ないけど、流石に下はね……。ベルトで無理矢理締める、って手もないわけじゃないけど、やっぱり見た目が悪いから。
 そう思って何気にお洒落なゆきちゃんにお願いすれば、日頃「服なんてTシャツとジーンズで十分」と口にする私の発言だとは思えなかったのだろう。目を丸くして「は?!」と言われたけど、すぐさま笑顔を浮かべて頷いてくれた。

「あったりまえじゃん! あの男が言葉失くすぐらい可愛い奴選ぶよ!」
「いや! 別に可愛くしなくてもいいから! 普通でいいから!」
「バカ言ってんじゃないよ! ほら、行くよ!」
「ヴァーーーッ!!!」

 思ったより色々と買ってしまったランジェリーショップの紙袋を片手に、グイグイと手を引っ張る友人に逆らえず複合商業施設へと足を踏み入れる。そこには年頃の女性だけでなく、ご年配の方や家族連れも多く来店している。正直BGMなど必要ないほど賑やかだ。
 そんな賑やかしい施設の中を颯爽と進み、アパレルショップが集まっている階で物色を始める。

「あ。これ由佳に似合いそう」
「へえ、このスカートもいいじゃん」
「こっちのブラウスもいいけど、由佳にはこっちの方が似合うなぁ」

 昔からこうだけど、ゆきちゃんは手あたり次第ショップに足を踏み入れる。そうしてアレコレと商品を見繕っては鋭い観察眼とセンスでコーディネートを決めていくのだ。
 因みに当の本人である私は「着るか着ないか」「着たいか着たくないか」をジャッジするだけである。だって買うのも着るのも私だしね。だからゆきちゃんが「これどう?」と尋ねて来ても、好みで無ければ「いやである」と首を横に振った。
 逆に好ましいのを見つけたら自分からも「これどう?」と尋ねたり、「アレいいな」とか「これ可愛くない?」と持って行っては確認している。まあこちらも自分の体型やら何やらを把握しているので大体は「いいね」と言われるのだが、たまーに「その色は由佳の顔がボケて見えるから却下」とダメ出しを喰らうこともある。
 結局ランジェリーショップとは違いこちらも乗り気だったこともあり、思いっきり散財してしまった。

「どうせなら靴と鞄も選ぶわよ」
「えっ」

 だけど衣服だけに留まらず、先程購入した服に合わせて鞄やら靴やらの物色まで始まってしまう。とはいえ私自身ここ数年買い替えていなかったこともあり、新しいものを欲する気持ちは確かにあった。
 特に本丸は武家屋敷だからヒールよりもスニーカーやウォーキングシューズなど、歩きやすいものばかり置いている。だからショートブーツやパンプスといった類を履く機会はめっきり減っており、逆に新鮮で楽しくなってくる。

「ゆきちゃん、これ可愛くない?」
「お! いいねえ、可愛い」
「あ、こっちも可愛い」
「これとかよくない? こっちは?」
「それはゆきちゃんに似合いそう」

 靴に鞄にと手荷物が増える中、ふと見つけたアクセサリーショップにも惹かれて二人であーだこーだ言いながら物色する。
 イヤリング派の私とは違い、ピアスを幾つもつけているゆきちゃんはアクセサリーにも詳しい。だからゆきちゃんの好きなショップにも足を運び、盛大にショッピングを楽しんだ。
 だから心から感謝したし、ホクホクとした気持ちでいっぱいだったのだが。

「よし。そろそろ休憩しようぜ」
「うん。いいけど、どこで?」

 ショッピングも一段落した頃。男らしい仕草で通りを指さすゆきちゃんに頷く。実際こっちも歩き回って足が疲れて来たところだった。
 だからてっきりどこかの喫茶店にでも入るのかな。と考えたのだが、何故かゆきちゃんは悪戯っ子の笑みを浮かべると、アプリを使ってタクシーを手配する。その後すぐにやってきたタクシーに押し込まれ、十分ほど走った頃。止まった場所からほんの数分歩いたところにそのホテルはあった。

「何ココ。ホテルじゃん」
「そ。休憩するためのホテルだよ」
「……ん? 休憩するための、ホテル?」

 日頃「鈍い」と言われ続けている私でも何となく引っかかるものを感じる。だからと言ってホテルに入ってしまったゆきちゃんを置いて帰るわけにもいかず、慌てて追いかければフロントには誰もいなかった。
 代わりに沢山のパネルと部屋番号がモニターに映っており、そのうちの幾つかは使用中らしく明かりが落ちている。

「由佳は初心者だからな〜。この辺でいっか」
「……ねえ」
「ん〜? なに〜?」
「あのさ。ここってさ、ホテルの前にカタカナ二文字、英語で四文字の単語がつかない?」

 もうここまで来たらただのビジネスホテルじゃないことは嫌でも分かる。幾ら未経験者と言えど知識はそれなりにあるのだ。だから無人のフロントと、部屋の内装が映し出されたモニター。そして壁に掲げられている『料金表』と、そこに刻印された文字を見ればここがどこなのか嫌でも察することが出来る。

「あははっ。流石ににぶちんな由佳でも分かるか」
「分かるわ! っていうか何でら、ラブホ、に来たのさ!」

 流石に『ラブホ』だけは大きな声では言えず小声になってしまったけれども。それでも意を決して尋ねれば、さっさと部屋を選んでしまったゆきちゃんが笑いながら手首を掴んでエレベーターに向かって歩き出す。

「だって普通に喫茶店で話すわけにもいかないじゃん? かと言って家に来れば両親と子供がいるし、あんたの家はここから離れてる。それにここだと色々揃ってるから教えやすいかな、と思って」
「だからって女性同士で入れるもんなの?!」
「最近は同性カップルも多いからね。案外普通に入れるホテル増えてるよ、ってここだ」

 エレベーターを降り、足早に進んだ先にゆきちゃんが選んだ部屋があった。私は初めてだけど、ゆきちゃんは利用したことがあるのだろう。手慣れた様子で部屋を開けると中に入る。

「とりあえず荷物はその辺に置いて、こっち来な」
「うい……」

 こういう状況で、というかここまで来ておきながら今更抵抗など出来るはずもない。仕方なく荷物を纏めて床に置き、渋々中へと進んだのだが。

「うわっ! 広ッ!」
「でしょ? 案外ビジホより広いのよ」

 てっきりビジホの延長戦だと思っていたが、全然違った。そりゃあ視線の先にはこれ見よがしにドデカイベッドはあるけれど、それを抜きにしても広い。そこらのワンルームマンションに住む人たちが涙を流すレベルで広い。

「お風呂も広いよ。見てみる?」
「マ? 見る見る!」

 そりゃあ本丸のお風呂も広いけど、それはそれとしてこういうホテルは初めてだから気になるじゃん? だってもうここまで来てしまったんだし。お金も払ってるんだから楽しまないと損だ。
 だからふっきれて「遊んでやろう」と浴室を覗きに行けば、想像以上に広々としており、思わず感嘆の声を上げてしまう。

「わ〜……。思ったより広いね」
「ていうか普通にうちの風呂場よりデカいからね」
「あはは! それはしゃーない!」

 複数人が入っても問題なさそうな大きな浴槽に、磨かれた巨大な鏡。揃えられたアメニティも安っぽさはなく、どちらかと言えばお洒落だ。
 そんな中ゆきちゃんが見つけた、何故か風呂場にあるムーディーなライトアップ機能に二人で爆笑し、お湯を溜めていない浴槽に並んで寝そべって「布団敷いたら寝れる」とか訳の分からないことを言いながら浴室を出た。

「やばい。普通に面白い」
「彼氏と来た時より由佳と来た時の方が面白いってのがウケる」
「わしゃ面白人間か」

 広々とした浴室からベッドルームへと戻る際、ゆきちゃんから「一番無難な部屋を選んだ」と教えられて驚く。なんでも世の中にはトンチキな部屋があるらしく、中には「何のためにその機能を付けた」と突っ込みたくなるようなものもあるのだとか。
 まあ私が利用する日は来ないだろうからその時は聞き流したのだが、その後すぐに聞き流せない話が出て来た。

「で、これがコンドームね」
「ブッ!」

 今の流れからどうして避妊具の話になる?! と心の中で突っ込みつつも差し出されたゴムを眺めてしまう。
 ……はい。ぶっちゃけ初めて見ました。すみません。

「なんか……頭痛薬とかの薬みたいにパッキングされてるんだね」
「そりゃ空気入ったら乾燥してダメになるからね。とりあえず一個出して見てみる?」
「え? そんなことしていいの?」
「いいのいいの。使うために置いてあるんだし。ま、自分たちで買ってきたやつを使うのが一番安全だけどね」

 サラッと恐ろしいことを言いつつ、ゆきちゃんはコンドームの入った袋を綺麗に破る。そして中に入っていた薄っぺらい、半透明の丸いブツを指先で摘まみ、見せて来た。

「うーわー……。絵で見たことはあったけど、実物見たのは初めてだわ」
「でしょ? これを、こういう風に、立ったアレに被せんの。で、根元までちゃんと被せたらオッケー。って感じ」
「はー、なるほどぉ〜」

 いや、成程じゃないんだけどさ。それでも頷けばゆきちゃんは「中に指入れてみる?」と言って空洞を向けて来る。だけどその意味が分からず「何で?」と尋ねれば、ゆきちゃんはこちらの手を掴むと有無を言わさず指を突っ込ませた。

「ぎゃあ! なんか濡れてるんだけど?!」
「そ。ゴムだってカラカラに乾いてたら男は痛いわけよ。だから濡れてないと男も女も変わらずに痛い、ってこと」
「な、なるほど……?」

 ゴムの中はてっきり乾燥しているものだと思っていたけれど、よくよく考えてみればむき出しになった性器に乾燥したゴムを被せるとか痛くてしょうがないに決まっている。
 聞けば中に入っているのはローションらしく、だから密封されていたのか。と二つの意味で学びを得た。だがここでベッドの周りを漁っていたゆきちゃんが何かを掴んで見せて来る。

「これ、あんまり中身残ってないけどローションね」
「びえ?!」
「もし緊張で濡れなかったらあんたが痛い目みるだけだから、心配なら買っておきな」
「わ、分かった。……って何で手に出すの?!」

 恥ずかしいけれど、これも未経験な私のために教えてくれているのだ。そう自身を納得させながら頷いたというのに、ゆきちゃんはローションのボトルを開けるとまだゴムを持っていた手の平にローションを少し載せて来る。

「何事も経験。ほら、触ってみ?」
「え〜……? うっわ、待って。気持ち悪いぐらいヌルヌルする」
「ローションにも種類あるけど、大体こんな感じだよ。試しにゴムの中に入れてみな」
「え? あ、うわっ。すごい、滑りがよくなった」
「そ。つまりはそういうことなのよ」

 うんうん。と頷くゆきちゃんにはお礼を言うが、いやあ……。なんか……。知っているのと実際に体験するのとでは色々と違うんだなぁ。とローションを入れたゴムの中に指を入れたまま考える。

「っていうかさ、このゴム薄くない? 大丈夫なん? 途中で切れたりしないの?」
「何言ってんの。基本的にゴムは薄いわよ。厚さ0.01とか普通に売ってるじゃん。これもそうだし」
「これ0.01なの?! 視力かよ!」
「視力だったらクソザコすぎるでしょ。てかゴムがクソザコだったらこっちが妊娠するからダメじゃん」

 ゆきちゃんの冷静な突っ込みに「それもそうか」とは思うけど、まさかこんなに薄いとは思わなかった。
 だけどゴムにも色んな種類があることは知っていても、やっぱり素人だからパッと見では分からない。あと意外と伸びる。でも「使い捨てだから」と適当に作られたら女性の望まぬ妊娠率は上がっていただろうから、企業様の努力には感謝するしかない。

 まあ、私と陸奥守にゴムなんて必要ないんだけどさ。

「てかさー、ラブホでテレビつけたらAV流れるって言うじゃん? あれ割とマジだから」
「え?! マジで?! って、ギャア!!」

 コンドームで遊んでいたところに思いっきりアッパーを喰らった気分だ。現にゆきちゃんが電源を入れたテレビ画面には前回入っていた人が見ていたのか、それとも再生する場所が決まっているのか。ガッツリ挿入しているシーンが大画面に映し出されて悲鳴を上げる。
 音量はそこまで大きくはないけど小さくもないので、普通に女優さんの喘ぎ声は聞こえるし、男優のなんか……色んな「声に出して読みたくない日本語」的なものも流れて来る。
 だから思わずチャンネルを奪って消そうとしたのだが。

「はい! 由佳ちゃん! これモザイク処理されてるけど男性器ね!」
「んなもん言われんでも分かるわい!」
「で、こっちが女性器ね!」
「わしにも同じものがついとるがな!」

 チャンネルで画面を指しつつ、教師よろしく説明を始めるけど中身が雑なせいでツッコミを入れずにはいられない。だけどすぐさまゆきちゃんの背後にデカデカとした胸が映し出され、再び「わーっ!」と叫んでしまった。

「あ。この女優知ってるわ。顔可愛いんだよね」
「意外と通ですね?!」
「や、昔付き合ってた彼氏がAVめっちゃ見る奴でさ。その中にこの女優が出てるやつが三本ぐらいあったのよ」
「そんなに?!」

 どうやらこの女優さん、十年ほど前にデビューしたらしく、あどけない顔つきにそぐわぬ胸とお尻の大きさ、太もものむっちり感が人気で結構な数の映像があるのだとか。今も現役かどうかは知らないらしいけど。
 ……まあ、確かに胸大きいよな……。顔も童顔というか、あどけない感じがして可愛いし……。

「男は……やっぱり大きい方が好きなんだろうか……」

 あんあんと響く喘ぎ声の最中に聞く質問ではないとは思うのだが、それでもぽつりと零れた言葉にゆきちゃんは神妙な顔をして頷く。

「そりゃあもう。何なら子供だろうと男である時点でおっぱいから離れられない」
「離れられない?!」
「まあね。ただ赤ちゃんは別としても、男なんて大概おっぱい大好きでしょ。うちの旦那だって赤ちゃん相手に嫉妬した時があるからね。俺のおっぱいなのに、つって。流石にその時は『何言ってんだコイツ』と思ったもんよ。あたしのおっぱいはあたしのもんだっての」

 ゆきちゃんの言い分は最もなんだけど、まさか旦那さんがそんなことを言う人だったとは思わず唖然とする。だけどゆきちゃんは二の句が継げない私を余所にテレビの音量を下げると、男らしい仕草で隣に座った。

「由佳。大事なことだからハッキリ言っておくね」
「な、なに……?」

 経験者から未経験者に向けてのワンポイントアドバイス! なんて軽い言葉では済まされないほど真剣な友人の顔を、緊張しながら見返す。そしてゆきちゃんもこちらを真っすぐと見つめたまま、私の手を力強く握った。

「もしも“痛い”と思ったらちゃんと言うこと。それでも無理矢理続けられそうになったら、その時はあそこを踏み潰す勢いで蹴り上げな」
「何それ怖い!!」

 元ヤンらしいとんでもない攻撃的な一言に震えあがるが、ゆきちゃんは「大事なことよ」と返す。そしてすぐさまテレビを指さし、流れ続けるAVに向かって「あれはフィクションだから」と話し始める。

「乱暴に触られても女はよくならないし、むしろ痛いし怖い。で、結局男に触られるのが嫌いになるだけだから。旦那のことを好きでい続けたいなら、自分を大切に思って拒否することも必要、ってこと」
「は、はあ……。そういうもん?」
「そういうもん」

 そこでゆきちゃんは再度テレビの前に立つと、音を立てて女優さんの胸に吸い付く男優の後頭部を指先でバシバシと叩く。

「こういう下品な音を立てて吸ってくる奴もいるけど、これも視聴者を盛り上げるための効果に過ぎないから! ここまでズビズバ音を立てて吸われてもこっちは全然よくないし、どっちかっていうと冷める。そういうのが好きならともかく、普通はキモイよこんなの。だからイヤだったらちゃんと言うこと。じゃないとAV鵜呑みにしている男だったら最悪なことになるからね。イヤだと思ったら速攻ビンタしな、ビンタ」
「えぇ……」
「あとこっちが準備整ってないのに『もう無理』『入れたい』とか言って足開かせたり、中に突っ込もうとされたら死ぬ気で叩いていいから。そんな早漏クソ野郎にセックスは早い、って教えてやらないと」
「怖い怖い」

 正直なところ刀剣男士たちにこれ系の知識がどこまであるのかは知らない。花街があるくらいだから彼らにも性欲はあるんだろうけど、うちの刀たちは全然行かないから実際のところは謎なのだ。かといって聞くわけにもいかないし……。

「まあ、頭には入れておく」
「そうしな。それでももし無理矢理ヤられたら私に連絡すること。すぐにあの男を殴り飛ばしてやるから。絶対に言うんだよ?」
「ははは……。頼りにしてます」

 男前な友人に苦笑いを返しつつ、その後も色々と話を聞き、折角だから。とクソデカベッドの上に寝転んで駄弁っていたら二人揃って軽く眠ってしまった。どうやらお互い疲れがたまっていたらしい。おかげさまでスッキリしたのだが、普通は別の意味でスッキリしながらホテルを出るんだよなぁ……。なんてしょーもないことを考えつつその日は別れた。

 正直初めてのラブホだったけど、友達と入れば案外面白い場所だった。

 だがゆきちゃんのおかげで色々と学んだはずなのに――結局結婚式当日まで色々なことが積み重なってすっかり『夫婦の営み』について頭からすっぽ抜けていたのだった。





prev / next


[ back to top ]