小説
- ナノ -






翌朝先に目が覚めたのは我愛羅だった。
ほぼ昨夜布団に入った時と変わらぬ状態の自分たちの姿を見て、夢じゃなかった。とサクラの髪に鼻先を埋める。
ん、と己の腕の中で僅かに身じろぐ柔らかな身体が、心から愛しかった。
暫くの間我愛羅はサクラの髪をいじり、撫で、梳いているとサクラの震える瞼が徐々に開き、緩慢な動作で瞬きを繰り返す。

「朝…?」
「ああ」

障子から漏れる光は明るく、もうすぐ起床の時間になる。
サクラは離れがたい我愛羅の背を今一度抱きなおすと、その胸に顔を埋める。
朝餉を済ませれば、もう我愛羅はこの宿から出立する。
それまではこのすっかり己の肌に馴染んで離しがたい、男の体を覚えておきたかった。

「今朝は風呂に入らなくていいのか?」

サクラの頭を撫でながら問えば、サクラはうん、と頷くと、まだこうしていたい。と我愛羅の背を指でなぞる。
男らしい逞しく、広い背だった。

「では、暫くこうしていよう」

サクラの頭を撫で、あやすように背を撫でる我愛羅の手に甘えるようにサクラはうん。と頷き目を閉じる。
ほんの僅かな時間でも、我愛羅の手の感触を覚えておきたかった。

しかし時間とは無情なもので、数刻後にはおはようございます。と仲居の声が聞こえ、朝餉を運んでおきますね。と告げられる。
ああ、もう離れなければならぬのかと思いながら同時に体を離せば、まるで自分の半身を失ったかのようにすっと体の熱が冷えるようだった。

準備を整えた二人は朝餉のおすすめを聞き頷き、黙々と料理を口に運ぶ。
最終日なのだからこそ何か会話をした方がよかったのかもしれないが、何か話せばそれだけ離れ難くなるだけだと思い互いに口を閉ざしていた。
いつもは美味い美味いと感想を零し微笑むサクラも、その日の朝餉だけは味が分からなかった。

それでも互いに綺麗に料理を平らげれば、膳を下げに来た仲居が我愛羅を呼ぶ。今ちょうど先代の女将がこの宿に来ているらしい。
我愛羅はサクラに目配せした後、行ってくる。と言って席を立つ。
思わずサクラも立ち上がりそうになるが、行ってらっしゃい。という言葉だけで我愛羅の背を押した。


「まるで恋だわ…」

サクラは部屋の主がいなくなった部屋に一人残り、広縁に腰かけ足をぶらつかせる。
たった二日の間で、サクラは我愛羅に恋をした。
それも身を焦がすような、喉から手が出るほどの貪欲な恋だ。

サスケにでさえこんなにもドロドロとした感情は抱かなかった。
サスケに対する恋はキラキラとしていて、でも時に泣きたくなるほど苦しくて、切ないものだった。
だからサクラは戸惑った。
こんなにも欲しくてたまらない、喉元に爪を立て掻きむしり、欲しい欲しいと心が泣け叫び縋りつきたくなるような想いを、サクラは知らない。

行かないで、と縋るような恋はした。
だが今感じるこの思いは、行かないで、というよりも、離さないで。という方が遥に近い。
離さないでほしいし、離したくないとも思う。

だがサクラにそれはできないし、我愛羅も無理だ。互いに里を捨てることはできない。
我愛羅が里を愛するように、サクラもまた木の葉の里を愛していた。そこに住む人々を、皆を愛していた。
だから尚のこと、心が苦しい。

「…しにたくなるわ…」

それかいっそ、心などなければよかったのに。
昨夜我愛羅が座っていた広縁に寝転がれば、目の前に広がる庭園は相変わらず優美で美しい。
だが何故か今はそれが無性に虚しく寂しい。

風が新緑を揺らし、足元でかさかさと鳴る葉が風に流されどこかへ消えていく。
流れる川の水面は朝日に瞬き目に痛いほど輝いているのに、サクラの心を照らしてはくれない。
どうして己の恋は、いつも叶わぬものばかりなのか。それともこういう運命なのだろうか。

そこでふと我愛羅の言っていた天啓という言葉を思い出す。
もしこの逢瀬が天啓であったなら、神はサクラに何を求めているというのだろうか。何をしろと言っているのだろうか。
運命なんてありきたりな言葉ではない。絶対的な意味を持った天啓が示すことは何なのだろうか。
そんなことを考えていると、すらりと襖の開く音がする。
その音に慌てて身を起こし振り返れば、そこには驚いたように口元に手を当てた女将が立っており、申し訳ありません。と頭を下げる。

「我愛羅様がロビーにいらしたので、お布団を上げに参ったのですが…」
「い、いえ!私こそすみません!連日ご迷惑おかけして…」

慌ててサクラが立ち上がり頭を下げれば、女将はいいえ。と柔和な笑みを浮かべる。

「私長いことここにお勤めしておりますが、あんなに表情豊かな我愛羅様を見たのは今回が初めてで、とても嬉しかったのですよ」
「…え?」

女将は少しよろしいでしょうか。とサクラに席を進めると、ゆっくりと丁寧な動作でお茶を淹れながら話し出す。

「毎年我愛羅様はこの時期この宿を利用してくださっているのですが、いつもいらっしゃるご姉兄の方とでもあんなに表情を崩すことはないのですよ」
「そう、なんですか?」

戸惑うサクラに女将はええ。と頷きサクラに淹れた茶をすすめる。

「あんな風に卓球に乗じることも、浴衣を着ることも、外出することも少なく、いつもこの部屋で書物を読んでいらっしゃいました」
「ああ…何となく想像できます」

サクラは入れてもらった香り豊かな茶を啜り、ほっと息をつく。
この宿は備え付けの茶も一級品だった。

「それにこういった宿でも時折あるのですが、町で仲良くなった女性を連れ込んだり、または遊び場の女性に興味を示すことも無かったので」
「確かに想像できないですよね。ナンパする我愛羅くんも、キャバクラに行く我愛羅くんも」

女将と互いに顔を見合わせて笑えば、不思議と穏やかな気持ちになる。

「よく先代は我愛羅様には女っ気がない、と常々申しておりましたので実は少し心配していたのですが、春野様とご一緒している時の我愛羅様は年相応の殿方に見えました」

女将の言葉はサクラの胸に不思議な波紋を広げていく。
まるで川に飛び石を入れたようにぽん、ぽん、と心の内側へ入り込み、じわじわと広がり実感していく。

「それに先程先代とお話している時の我愛羅様はどこか慌てた体でしたので、きっと先代にからかわれていることでしょう」

先代は我愛羅様のことを本当のお孫様のように思っていらっしゃいますから。
そう言って微笑む女将にサクラもやんわりと微笑み返す。
自分の知らないこの宿で過ごしてきた我愛羅の片鱗を知ったような気がして頬が緩んでいると、襖の外から慌ただしい声が聞こえてくる。
一体何事かと目を見開けば、女将はあらあらと口元に手を当て苦笑いを浮かべる。

「何だい、水臭いねぇ。女が出来たらあたしに報告しろと言っただろうに」
「だから違うと何度言えば…!」

どたどたと聞こえるのは我愛羅の足音だろうか。
常にない慌てようだと思っていれば、あいよ、ちょっと失礼しますよ。と軽い声がかけられ襖が開く。

「おやアンタ。こんなところで油売ってちゃダメでしょうが」
「申し訳ありません」
「女将、人の話を聞け!」

入ってきたのはチヨバア様よりは若く、けれどそこそこ年齢を重ねた女性で、ぴしりと伸びた背筋が上品な着物によく似合っている。
だが失礼するよ。とサクラの目の前に鎮座した彼女の口からでくる言葉は軽快で、本当にこの人が先代の女将さんなのだろうか。と僅かに疑問に思う。

「初めまして。申し訳ないねぇ騒がしくして」
「い、いえ…お構いなく…」
「俺は構う!いいから俺の話を聞け!」

だん、と我愛羅は荒々しくテーブルに手を置くとサクラの隣に腰かける。
こんな風に感情を乱す我愛羅は珍しく、サクラは驚く。

「これ我愛羅。嫁さんを驚かすんじゃないよ」
「だから嫁でもなければ女房でもない!」
「なーんじゃぁ、つまらんのぉ」
「だから初めから俺の話を聞けと言うに!」

苛々と眉間に皺をよせ吠える我愛羅はとんと珍しい。
サクラがまぁまぁ、と我愛羅を宥めるようにその背に触れれば、ようやく我愛羅はふうと息をつく。

「おぉ。我愛羅を鎮めることができるとは流石我愛羅の認めた女だの」
「…このっ」

まるで珍獣のような扱いに我愛羅がぐっと拳を握るが、再びまぁまぁと抑えれば先代の女将も今の女将も楽しそうにころころと笑っている。

「我愛羅様は相変わらずお母様の前だと形無しですわねぇ」
「女将には悪いが俺は正直この婆と思っている」
「あっはっはっは!その位性根が悪い方が上に立つ人間にゃあ相応しい!」

まるで好々爺の如く豪快な先代にサクラが目を白黒させていれば、我愛羅はあの人はああいう性格なんだ。と耳打ちしてくる。
見た目は年齢の割に確かに綺麗だが、なるほど。これは確かに強かそうではある。

「ところで式はいつ挙げるんだい?」
「もう痴呆が始まったのか」
「バカ言いなさんな。あたしゃまだ現役だよ。いつまでもお堅い常識守ってないでさっさとくっつきなさいな」
「あのなぁ…」

頭をぐしゃぐしゃと掻き乱す我愛羅と先代の会話はまるで親子のようだ。
そして今の女将は布団をたたみながら時折くすくすと笑っている。

「お母様、あまり我愛羅様をからかわないでくださいね」
「からかっちゃいないさ。この子が素直じゃないだけだよ」
「もう頼むから黙ってくれ…」

はあぁ、と疲れたように長い吐息を零す我愛羅は初めて見る。
いつも冷静な彼からは想像できない一面に物珍しい気になっていると、先代は珍しいかい?とサクラに話しかけてくる。

「この子いーっつも澄ました顔してるからね。こんな風に怒ったり声を荒げたりする姿見たことないだろう」
「え、ええ…」
「誰のせいだと思っている…!」
「カンクロウとテマリもね、あたしの前だと大体こんな感じだよ。まだまだ子供さ」
「だから話を聞け!」
「あ、あはは…」

まるで言葉のドッヂボールだと苦笑いしていると、先代の女将は手慣れた美しい所作で茶を淹れると、それを我愛羅に差し出す。

「そぉれ一杯」
「酒か」
「何言うとる。ボケるには早いぞ」
「…はっ倒したい…」

机にうつぶせる我愛羅にサクラは益々苦笑いする。折角の美しい所作も、この人の軽口を通せば台無しな気がする。
どうしてわざわざそんな砕けた口調を使うのだろう。
サクラが戸惑うように先代を見つめれば、目のあった先代ににんまりと笑われる。

「あんた綺麗な瞳してるねぇ」
「あ、ありがとうございます」
「しかもアレだね。あんたいざとなったら男を殴れる強さがあるね」
「そ、うでしょうか…?」

いざとなったら、というより割と頻繁に男をぶん殴っているサクラが目を僅かに逸らせば、先代はからりと笑ってそれともしょっちゅうかい?と言い当てサクラの肩がギクリと跳ねる。

「成程。テマリみたいだね。我愛羅、お前案外姉ちゃんのこと好きだったんだねぇ」
「…何とでも言え」

反論することを諦めたらしい。我愛羅がうつぶせたまま返事をすれば、はー情けない男だね。と野次が飛ぶ。

「お嬢ちゃん覚えときな。この子女との喧嘩は謝ればそれで済むと思って反省しないタイプだよ」
「え、えぇ…そ、うなんですかね?」
「あと本気で怒ると黙って何にも言わなくなるから気をつけな。因みに今がそれだよ」

今って、と思っていればさすがの我愛羅もうつぶせから起き上がる。
その眼は明らかにいい加減にしろ。と怒りの炎に燃えている。

「ようやくお目覚めかい。あんたよく寝る子だね」
「女将!」
「あたしゃ先代だよ。今の女将はあたしん娘だ」
「…先代、いい加減にしてくれないか…」

怒りの沸点を通り越したのか、疲れたと言わんばかりに肩を落とした我愛羅に先代はかっかっと笑う。

「格好つけてる姿だけじゃなくてね、こーいう姿もちゃんと見とくんだよお嬢ちゃん」
「はあ…」
「よし、じゃああたしはお嬢ちゃんの顔を見たし、我愛羅を可愛がれたしそろそろ行くかね」

よいせと先代は立ち上がると、早く出て行け。とぼそりと文句を零す我愛羅の頭をぐしゃぐしゃとかき回す。

「気ぃつけて帰るんだよ」
「…また来年くる」

お嬢ちゃんもまたおいでね。
そう言って先代はにこにこと笑いながら退室していく。
笑った顔は今の女将にそっくりだと思いながら、それでいて性格はまったくの正反対だと、まるで台風一過のような先代の背を見送る。

「…疲れた」
「うん…なんか、すごい人だったわね…」

うつぶせる我愛羅とサクラの間に、朝のような空気は無い。
そこにあるのは先代に対する疲労感だけだった。

「…そろそろ準備する」

我愛羅は先代の淹れたお茶を飲み干すと立ち上がり、荷物を置いている隣の部屋へと足を進める。
その背を目で追い、うん。と頷けば我愛羅は足を止める。

「サクラ」
「何?」
「後で女将のところへ行ってくれ」
「今じゃなくて?」
「ああ。俺が出てからでいい」

我愛羅の言葉に分かったわと頷くと、今度こそ我愛羅は少ない荷物をまとめに隣の部屋に入る。
もうお別れなのね、とサクラは鞄の中身を整理する我愛羅の広い背をぼんやりと眺めた。

「またおいでね」
「どうぞお気をつけて」
「ああ」

先代と、今の女将と共にサクラは少ない手荷物を持った我愛羅を見送るため玄関に立っていた。

「…それじゃあな」
「うん。またね」

我愛羅はまっすぐにサクラを見つめ、サクラも軽く手を上げ左右に振る。

「相変わらず不器用な男だね」
「我愛羅様はそういうお方でしょう?」
「お嬢ちゃん苦労するね」
「え、ええ…まあ…」

馬車に乗り、もう一度振り返り片手を上げる我愛羅に皆で手を振り、サクラはその背が見えなくなるまで玄関に立ち尽くす。

「ところでお嬢ちゃん」

今の女将は仕事があるので先に宿に戻ったが、先代とサクラはずっとそこに立っていた。
そして我愛羅の背を見送ったサクラに先代が声をかけ、振り返ればあんた名前は?と聞かれる。

「春野サクラです」
「忍だね」
「はい」

きっとこの人は見抜くだろうと思っていたので、特に驚くことなく先代の言葉に頷く。
すると先代は難儀だねぇ。と眉間に皺をよせ嘆息する。

「痛いだろう」
「…はい」

先代はサクラの背をぽんぽんと叩くと、ついてらっしゃい。と歩き出す。
先代の手が叩いたのは、背中からとはいえサクラの心臓の真上でまったく油断のならない人だと我愛羅と同じ苦い気持ちを味わう。
そうして通された部屋は荷物の保管室のような場所で、手前の戸棚から何かを取り出すとサクラの前にそれを広げる。

「これ、あの子からだよ」
「え…これって…」

先代の女将がサクラの前に出したのは、先日汚してしまったあの浴衣だった。

「我愛羅からのプレゼントってやつさ」

受け取ってやんな。
そう言って手渡され、サクラはおずおずとそれを受け取る。
しっとりと肌に馴染む生地は優しく、サクラの手によく馴染む。

「サクラは明日までだったっけね」
「…はい」
「ゆっくりしていきな」
「…はいっ」

ぎゅっ、と浴衣を胸に抱けば、しないはずの我愛羅の香りがするような気がして唇を噛みしめる。
そのあいだ先代はぽんぽんと、再びサクラの背を叩いた。今度は心臓の上ではなかった。

その後サクラは浴衣を持って部屋に戻り、何をするわけでもなく我愛羅がしていたように日向に当たりながらうとうととまどろみ、一日を過ごした。
我愛羅と二人並んで歩いた道を一人で歩く気にはなれなかった。
かと言って書物の続きを読む気にもならず、結局日がな一日部屋で過ごし、目を覚ますたびに浴衣を撫でた。
男の匂いはもうどこにも残っておらず、日の匂いがするだけ。
それでもサクラにとってはこの浴衣だけがこの数日のことを現実だと教えてくれる確かなものだった。

翌日サクラは朝餉を澄まし、再び馬車に揺られて木の葉へと戻る。
揺られながらぼんやりと過ぎゆく景色を見つめながら、この数日間の夢のような逢瀬の終わりを肌で感じていた。




第二部【逢瀬】了

prev / next


[ back to top ]