小説
- ナノ -




 確かに聞こえて来た『こっちへ』という声に応えるべく黒い水へと飛び込めば、途端に数多の腕に体を捕まれ引っ張り込まれた。
 そうして勢いよくどこかに連れて行かれたかと思うと、今度は勢いよく押し上げられ、訳も分からず水面へと顔を出す。

「がぼぼっ、ぶッはあ! ゴホッ! ゴホッ、ゲホッ!」
「ぶはっ! ゲホッ、ゴホッ! おい、じょ、嬢ちゃん、あんた、ほんと、なんつー無茶を……!」

 頑張ってついて来てくれた日本号さんに「すみません……」と謝罪していると、黒い水面の向こうから「おーい!」とこちらを呼ぶ声がする。
 その聞き覚えがありすぎる声に勢いよく首を巡らせれば、濡れたシャツに立派な体躯を包んだ男性――武田さんが手を振っていた。

「水野さーん! 大丈夫かー!?」
「た、武田さーん!」

 うわー! よかったよー! 武田さん無事だったー!!
 あんな出来事があったのだ。大怪我でもしていたらどうしよう。と思っていただけに元気そうで安心する。そして彼の傍にいた刀たちも全員無事なようで、それぞれが手を振り、声をかけてくる。
 ああ、よかった。本当によかった。皆元気そうだ。思わずほっと息をついていると――

「まったく……。少し目を離した途端に厄介事に巻き込まれるとは……。そなたも難儀な子よなぁ」
「鳳凰様?!」

 呆れを滲ませた低い声音に頭上を見上げれば、そこには青空を背景に、燃え盛る炎を大翼として広げて佇む鳳凰様がいた。
 どうやら今回は人型ではなく鳳凰の御姿でのお越しらしい。それにしても、人型だろうと鳥の姿であろうとやっぱり神様って綺麗だなぁ。とポケーっと見上げていると、武田さんが木片をビート版代わりにして助けに来てくれた。

「水野さん、これに掴まれ。日本号は、泳げるか?」
「あそこまでの距離なら、なんとかな」
「よし。じゃあ行くぞ」
「あ。ありがとうございます」

 どうやら武田さんは水泳も得意らしい。力強いバタ足で難なく泳ぎきると、全身ずぶ濡れの私を引き上げ――訝るように眉間に皺を寄せた。

「あんた……何でこんな薄着なんだ?」
「――ッ!! 主! 早く私の上着を水野さんに!」
「主! ぼさっとしない! 嫁入り前の娘さんを辱めるなど、御神刀にあるまじき失態だよ!」
「お、おお?!」

 幾ら黒く染められているとはいえ、薄い長襦袢一枚という姿は目に毒なのだろう。すぐさま太郎太刀が上着を脱ぎ、石切丸が武田さんを叱り飛ばした。現代人の武田さんは私の格好が昔で言うところの肌着姿であると気付いていないのだろう。まあ、実際には肌襦袢が正しい意味での肌着姿になるのだが、似たようなものだ。
 しかも現在は濡れているため体の線もハッキリと出ている。中学時代のクソヤバ体型だったら恥ずかしくてずっと水に浸かっていただろうが、何やかんやあって多少は見られてもマシな体型にはなった。とはいえ見られていいわけではないので有難く太郎太刀の上着を借りれば、本丸の様子を確認するかのように空を舞っていた鳳凰様が戻って来られる。

「友の気配が一瞬消えたのでな。駆けつけてみればこの有様よ」
「ご心配おかけしてすみません……」
「うむ。そなたも友も辛うじて無事なようだが、楽観視は出来ぬぞ」
「はい」

 半壊、と呼べるほどの被害を受けた本丸は、勢いよく流れ込んできた黒い水によってあちこち破壊されている。建物もそうだし、沢山の刀たちが丹精込めて作ってくれた庭もそうだ。それに逃げ損なったであろう馬たちはどうなったのか。そして離れに匿っていた刀剣男士たちは無事なのか。
 彼らだけではない。百花さんたちの刀と共に作り上げて来た畑は無事なのか。もし穢れに晒されダメになったのだとしたら、その大地は元に戻せるのか。
 疑問も心配も尽きそうにない。

 折角奪われた視界を取り戻すことは出来たというのに、失われたものの方が圧倒的に多そうだ。
 また一からやり直すのかと思うと気が遠くなるが、憂いている場合ではない。これからのことは全部終わってから考えよう。

「それはそうと、愛し子よ。奪われたものは無事取り返したようじゃな」
「はい!」
「あ! そうだった! もう俺たちが見えるのか?」
「はい。武田さんの顔も皆さんの姿も、よく見えますよ」

 事の顛末は後日語るとして、問題は“あの本丸”とここがどういう原理で繋がっているのか、だ。というか、そもそも私を呼んだ“声”の持ち主は誰なんだ? もしかして鳳凰様だったのかな。と首を捻っていると、すぐさま鳳凰様から「否」と答えが返ってくる。

「そなたを呼んだのはあやつらよ」
「あやつら?」

 鳳凰様が嘴で示したのは、黒い水面に浮かぶ、半透明に透ける体を持つ“歌仙兼定”と“蜂須賀虎徹”の二振りだった。

「彼らは……」
「そなたを狙っていた者共と契約していた九十九であろう。微かにだが気が感じられるでな」

 恐らく水無さんの時と同じように、折れて存在を保てなくなった彼らが幽霊になって、というか魂魄だけとなって助力してくれたのだろう。山姥切さんや今剣さんと同じように。
 現に彼らは申し訳なさそうな顔でこちらを見た後、静かに頭を下げた。

「謝罪、ですかね」
「だろうな。どっちがどっちの刀かは分からねえが、恐らく初期刀として選ばれた刀だろう。責任を感じて水野さんを助けたんだろうな」

 骨喰藤四郎から聞いた話によると、大蛇になった彼らの審神者の初期刀は歌仙だ。だとしたら、蜂須賀の方は小鳥遊さんの初期刀だろう。こんなことになって、彼らはどんな気持ちでいるのだろうか。

「……彼らは、もう助からないんでしょうか」
「おそらく、希望は薄いかと」
「ああ。祓い清めようとしても、あの悪の親玉が死ねばコイツらも影響を受けるだろう」
「そう……ですか」

 太郎太刀と日本号さんの返事にやりきれない思いが滲んでくるが、私に彼らを救う手立てはない。だから代わりに彼らの気持ちを受け取ったことを証明するためにも頭を下げ返せば、彼らはゆらりと蜃気楼のように揺れてから姿を消した。

「成仏した、ってことですかね?」
「どうだろう。だが姿を見せるのは限界だったんだろうね。本来なら穢れに晒され動くことすら出来なかったはずだから」
「嬢ちゃんを助けようと尽力したんだろうよ。あの水に飛び込んだ時、俺と嬢ちゃんをここまで運んだのは間違いなくあいつらだ。あとは、水底に沈んじまった奴らの仲間たち、だな」
「彼らが……」

 例え主がどんな存在であっても、“人非ざる存在”になったとしても、彼ら刀剣男士が本当の意味で“堕ちる”ことはないのかもしれない。
 どこまでも人間想いの彼らにちょっとしんみりとした気持ちになっていると、鳳凰様がその空気を払拭するかのように天高くまで飛んで行った。

「鳳凰様?!」
「下がれ。流石にこれ以上は不快である」

 清らかな存在であらせられる鳳凰様にとって穢れた水で満たされた本丸は居心地が悪いのだろう。私たちに下がるよう告げると、厳かな声で「燃えよ」と一言だけ告げる。途端に黒い水が炎に包まれ、水底からは悲鳴のような声まで聞こえて来た。

「うわぁ……」
「なんっつー無茶苦茶な……」
「大将。オレあんな高位神相手にホイホイ会話が出来る水野さんが怖ェんだが」
「私たちが必死に祓い清めても僅かな効果しか得られませんでしたが……」
「いやぁ。流石としか言いようがないねえ」
「精魂尽きそうだねぇ……。穢れの話だよ?」

 本丸一帯を取り囲むように黒い水が満ちていたのに、鳳凰様の炎によりものの数分で全て蒸発してしまった。しかも鳳凰様は『魔を払う』力も持っている。清めの力を持つ炎は穢れを残すことなく黒い水を焼き尽くしたようで、鳳凰様は暫く大空を巡回した後戻って来られた。

「これでよかろう」
「ありがとうございます! 本当に助かりました! あの水をどうしようかと思っていたので……」
「これも友のためよ。とはいえ、貸し一つではあるがな」
「はい! 頑張ってご恩をお返しします!」

 私に何が出来るか分かんないけど、それでも今回の件では何度も助けて貰ったのだ。それに正直言えば貸し一つどころじゃ足りないぐらいお世話になっている。だからいつか必ず、どんな形でもいいから恩を返さなければ。
 よっしゃ! と改めて意気込んでいると、鳳凰様は愉快そうにクツクツと笑ってから首を巡らせた。

「あちらに流された吉行にも我が力を使ったことが伝わったであろう。同時に、そなたが無事であるということもな」
「あ。むっちゃん、やっぱり一緒にあっちに流されてたんですね」
「うむ。そなたもそなたの九十九共も、水を介した誘いに弱い故な。友が死力を尽くして守ったようじゃが……。もう力は残っておらぬだろう」
「ッ! ほ、鳳凰様、竜神様、消えない、ですよね?」

 ――竜神様が消えるかもしれない。
 そう聞かされた時の恐怖が蘇り、ギュッと両手を握り締めれば鳳凰様は頷いた。

「安心せよ。此度は大丈夫であろう」
「本当ですか?!」
「うむ。……そなたにとっては酷であろうが、そなたの肉体の一部が人から逸脱したが故にな。目が見えぬ間に魂が相応の力をつけ、友の命を首の皮一枚で繋げたようじゃ」
「……私の力が上がったから、竜神様は消えずに済んだのですか?」
「然様。友はそなたの力を糧にしているところがある故な。勿論それが全てではないが……非常食のようなものじゃ。あれば食い繋いで生きていける」

 相変わらずの分かりやすい例えに「成程」と頷いていると、珍しく小さな声で武田さんが「けどよぉ」と囁いて来る。

「水野さん、水を通してこっちに戻って来たんだろう? 無くなっちまったらどうやってあっちに行くんだ?」
「あ」

 言われてみればそうだ。最初は「あの瘴気に包まれた場所って私の本丸だったんだな」と思っていたけど、自分の本丸に奪われた“視界”が保管されているわけがない。だから「やっぱり小鳥遊さんの本丸だったんだ」とあの時思い直したんだけど、そうなると彼女の本丸IDが分からないからゲートを潜れないのだ。
 ……まあ、それ以前にゲートそのものが破壊されているからどうにも出来ないんだけどさ。
 って冷静に考えてる場合じゃねえわ! どうやってむっちゃんたちの所に行けばいいんだ?!
 冷や汗を掻きつつ必死にゲートを使う以外の方法が何かないか考えていると、鳳凰様が首を巡らせ道を示してくれた。

「水を通さずとも繋ぐことは出来る。我が悪神につけた印もあるうえ、吉行がまだそこにいるはずだからの。ならば二つの縁を辿ればよい」
「縁を、辿る?」
「うむ。そなたは退魔の力こそないが、本質を見抜く力、また辿る力は相応にある。ならば見つけてみせよ。それもまた一つの修行なり」

 それだけ告げると鳳凰様は姿を消してしまう。お礼もまともに言えていなかったから「あ」と間の抜けた声を上げてしまったのだが、きっとお忙しかったのだろう。
 それでも竜神様と私のために駆けつけてくださったのだ。その思いにはきっちり答えないと。

「陸奥守の旦那の気を辿れ、って突然言われてもなあ」
「水野さん、本当に出来るのか?」

 首を傾ける厚藤四郎と武田さんだけど、私だって伊達にこの数ヶ月間竜神様に祈りを捧げたわけじゃない。むしろ新たに得た“神気を視る”目のおかげで陸奥守の神気の色も質もちゃんと視たし覚えてもいる。そしてその力が強くなったのなら、例え離れていても彼の力を辿ることが出来るだろう。

 だってうちの陸奥守、鳳凰様の眷属になったので。神気の質も皆とはちょっと違った特別仕様なのだ。

 だから祈るように手を組み、瞼を下ろして意識を沈めていく。
 雑音は全て聞き流す。風の音も、葉が擦れる音も、皆の呼吸も、身じろぐ音も。そうしてフッと全身が軽くなると同時に、瞼の裏に広がる暗闇の中に微かに柔らかな光が灯った。

「――見つけた!」
「あ! おい、嬢ちゃん! またかよ!」

 繋がっている場所は分からない。正確な位置も、ハッキリとしたわけじゃない。それでも陸奥守の神気を見つけた場所に向かうべく、壊れたゲートに向かって駆ける。勿論ゲートは壊れたままだ。光ってもいないし、端末を操作しているわけでもない。それでも日本号さんと一緒に飛び込めば――誰かに強く腕を引かれると同時に真っ黒な球体が視界いっぱいに飛び込み、思わず悲鳴を上げた。

「ぎゃあああ?! 何アレ?!」
「おーの。元気じゃにゃあ」
「あ! むっちゃん! おかえり!」
「それはこっちの台詞ぜよ……」

 どこかぐったりとした様子の陸奥守に見上げられ、そういや何で見上げられているんだろう? と首を捻ってから自分たちの体勢を見下ろす。

 ………………Oh。
 むっちゃんの上にライドオンしとったわ。

 じゃねーんだわ!!

「ホワッ?! ご、ごめん!」

 あまりにも酷い体勢に慌てて起き上がれば、すぐさま球体の向こうから小夜たちが駆け寄ってくる。

「主!」
「小夜くん!」
「主ー!」
「あるじさん!」
「主君!」
「あるじさまー!!」
「わー! みんなおかえりー!!」

 いや、ここうちの本丸じゃねえから「おかえり」はおかしいか。
 なんて考えていると、横に倒れていたらしい。日本号さんが「とんでもねえ嬢ちゃんだ……」と呟きながら起き上がった。

「主! お怪我はありませんか?!」
「主大丈夫?! てか何でこんなブカブカの上着着てんの?!」
「あ。これ? 全身ずぶ濡れだったから太郎太刀さんが貸してくれたんだー」

 それに薄汚れた長襦袢一枚だったからね。無理矢理着せられた下着もまた濡れちゃって、本当踏んだり蹴ったりだよ。と内心で呟いた矢先に気付く。
 そうだよ! 一回本丸に帰ったんだから着替えてくればよかったんだよ! 何も考えず駆け出しちゃったせいで太郎太刀の上着まで持ってきちゃったじゃん! 私のバカ!!
 ぐぬおー! と頭を抱えている間も、黒い球体がポイポイと吐き出す気持ち悪い物体をそれぞれ切り伏せながら話しかけて来る。

「太郎太刀ってことは、武田に会ったのか?」
「うん。あの水を通して一回うちの本丸に戻れたんだ。そこに武田さんたちがいて、鳳凰様も竜神様の気が消えたからって言って駆けつけてくれたの。で、鳳凰様が残ってた水を全部焼き払ってくれたんだ」
「ああ……」

 興味深そうに尋ねてきた鶴丸にざっくりと流れを説明すれば、途端に全員が「鳳凰様かぁ」という顔をする。
 あはは……。相変わらずお世話になりっぱなしですわ……。

「あ。そうだ。主、竜神様の宝玉」
「おう。おまさんに返すぜよ」
「あー! よかった〜! どこに落としちゃったのかと気が気じゃなかったから……。小夜くんとむっちゃんが見つけてくれたの?」

 陸奥守が懐から取り出したのは、宝石のように美しい竜神様の宝玉だった。
 だけど鳳凰様が仰っていたように辛うじて御存命なのだろう。感じ取れる気が弱々しい。だから両手で受け取りギュッと胸元で抱きしめれば、宝玉の中の気が一瞬だけ揺らいだ気がした。

「違うよ。あの水に襲われた時、主の手から零れ落ちたのを僕が掴んだんだ」
「ほいでわしが弱っちょった竜神様にちっくとばあ気を与えちょったがよ」
「〜〜〜ッ!! 二人共本当にありがとう! 大好き!!」

 本当に何から何まで頼りになりすぎる二人に勢いよく抱き着けば、小夜はほっとしたように息をつき、陸奥守はいつものように優しく背を叩いてくれた。
 だけど呑気に話していられる状況でもないようで、すぐさま誰かが走って来る足音と、叫ぶような声が鼓膜をつんざいた。

「水野殿! 危ない!」
「へ?」

 二度目の骨喰の危険勧告が聞こえて来たかと思えば、こちらを抱きしめていた陸奥守がすかさず耳を塞いでくる。そして次の瞬間には全身が揺さぶられるような発砲音が二回連続で響いた。そうして誰かの悲鳴と怒号、何かが倒れる音が続き――傍にいたはずの日本号さんが勢いよく“自身”を突き出した。

「――これ以上の狼藉、幾ら主と言えど見逃せねえ。キッチリと代償支払いなぁ」
「わしらぁて主に手を出すやつには容赦はせん。日本号、おまんの主、討ち取らせてもらうぜよ」
「主殿ォ!」

 普段聞くことのない、二人の冷酷な声の合間からポタポタと何か、生暖かいものが落ちてくる。赤いそれは椿の花びらのようで、だけど季節違いだから「はて?」と一瞬悩んだ。だけど続けざまに太郎太刀の上着や肌に落ちて来たものを見て悟った。この生暖かい花弁と思われたものは、紛れもなく“日本号”に貫かれた彼らの主の“血”だと。

「主!」
「主殿!」

 殆ど悲鳴のような声にハッとしてそちらに顔を向ければ、ボロボロになった体で、泣きそうな顔で駆けて来る大和守と骨喰が目に入る。そしてほんの少し視線を上げれば、日ノ本の名を冠する美しい槍が、大蛇の喉元から脳天にかけて一直線に貫いていた。

「――ぁ」

 日本号さんが腕を動かした途端、大蛇は大地へと投げ飛ばされる。姿形が変わろうと、彼らはやっぱり“主”に対して愛情があるのだろう。大和守が泣きながらその体に縋りついたが――

「主! 見ちゃダメだ!」
「えッ?!」
「やっ、安定ぁああ!!」

 飛び出すようにして小夜が抱きしめて来る。そして加州の叫ぶ声と同時に、バギッ! と硬い何かが噛み砕かれるような音がした。

「…………え?」

 鳥肌が立つほどの静寂。沈黙。緊迫感。
 そしてどこか唖然とした空気が漂う中、私はドクドクと早くなっていく自分の心臓の音を耳の奥で聞いていた。

 だって、そんな、うそだろう。私、この音知ってる。聞いたことがある。

 硬いものが砕ける音。美しい彼らが、本来ならそう簡単に折れるようには思えない、人の身なんて簡単に切り裂いてしまえる彼らの本体が、割れる音。
 目の前で聞いたことがあるから知っている。覚えている。桜吹雪のように散った姿も、ぽっきりと折れてしまった姿も、忘れられるはずがない。だから、もし聞き間違いじゃなければ――もし、それが、どんなにおぞましくとも現実だったのなら。

「……て、てっめええ!!」
「待って! 加州!」

 私が駆けださないよう、直視しないよう、陸奥守と小夜の体で阻まれてちゃんとは見えなかったけど、それでも近くにいた加州が駆け出したのは分かる。そして何で彼がこんなに怒っているのかも、ちゃんと分かっている。

「主。そなたは見るな」
「三日月さんっ! でも、」
「先の音で察しはついているだろう。だがな、心優しきそなたにはあまりにも酷な光景だ。我らはそなたの肉体だけでなく、心も守らねばならぬ。故に、俺の願いを聞いてくれ」
「…………はい」

 三日月が優しい声音で諭す間にも、激しい剣戟の音は聞こえてくる。そして遂に、大蛇が討ち取られる音も。

「シャーーッ……! グブルルル……」

 空気を震わせるような声は憎悪に染まっている。痛みや苦しみなど感じていないかのように、血を吐き出すような濁った音を立てている。
 こんな姿になっても執拗に誰かを呪い続けるなんて、よっぽど彼女のことを、小鳥遊さんのことを愛していたのか。それとも理性などとうの昔に食いつぶされ、ただ『殺す』という意思だけで動いていたのか。どちらにせよ彼の首は誰かによって落とされ、私はそっと瞼を伏せた。

 ……どんな理由にせよ、自分の刀を噛み殺すなんて間違ってるよ。
 内心だけで呟いた言葉は彼らの主に届くこともなく、大和守の『最期』も約束通り見届けることは出来なかった。それに、まだ倒すべき相手は残っている。

『うぅ……こんな、はずでは……!』

 鳳凰様に焼き付けられた『おまけ』という名の刻印が赤く光っている。戻って来た時は球体だった黒い物体、穢れの塊は一回りどころか二回りほど小さくなっており、形を変えながらフラフラと漂っていた。

『やはり、あの時に手を引いていれば……ああ、だが契約が……対価が……』

 ブツブツと何事かを呟く“強奪”だが、鳳凰様の刻印に焼かれて力を削がれ続けているのだろう。それにヘドロのようなものを球体から落とす度に球体は小さくなっていき、落ちて来たそれらも簡単に駆逐されていく。その中には我が本丸にはいない刀も数振りおり、思ったより多くの刀がここに閉じ込められていたんだな。と改めて悲しい気持ちになった。

「主」
「うん」

 陸奥守に促され共に立ち上がれば、遂に形を維持することも出来なくなったらしい。球体の形がウイルスのように刺々しくなり――最後には骸骨姿となってボトリ。と地面に落ちた。同時に、赤い刻印が焼き付いた刀も一振り。地面に垂直に突き刺さった。……突き刺さった?

「……ねえ、むっちゃん。まさかなんだけど、あの球体に自分の刀身投げ入れたの?」
「投げ入れたっちゅーか、投擲した」
「は?! 何やってんの?! 穢されたらどうすんのさ!」
「大丈夫じゃ。今は上様の眷属やき、そう簡単に穢されやぁせん。それに今日はこぢゃんと火の気が強うての。むしろえい発散になったがよ」
「えぇ……。何それぇ……」

 こちらがとんでもねえ状況に呆気にとられている間にも、骸骨はズリズリと逃げるようにして地面を這っている。だけどその体には以前のような不気味さはなく、うっかり哀れんでしまいそうなほどに弱々しい。
 実際、この数ヶ月色んな意味で苦しめられた相手ではある。が、こうしてみると何ともちっぽけな相手だった。だけど油断すれば足元を掬われるかもしれない。だから哀れみそうになる気持ちを排除し、私や家族、友人を苦しめ続けた“悪神”の前に立ちはだかった。

「もう逃げられないよ」
『ッ、レディ……。例えここで私を殺しても、すぐに次なる“私”は生まれますよ』
「分かってるよ。そんなこと」

 だって人間の欲望は尽きることなんてないんだから。
 綺麗で誇り高い神様と一緒にいる自分だってそうだ。欲しいものは沢山あるし、時には他人を羨んだりもする。だけど、それを規制する方法なんてない。自分で律する以外の方法がない以上、人の欲望は果てなどないのだろう。だけど、だからと言って見逃していいわけじゃない。

「でも、あんただけは絶対に許さない。それに、力を蓄えるにはそれなりの時間が必要なんでしょ?」

 武田さんの膝丸が教えてくれた。これだけの力を蓄えるのにはそれなりの時間がかかるって。それに、必ずしも生まれた悪神が私や審神者を狙うとは限らない。そもそもどんなに悪いことをしてもそれが周囲で起こらない限り私には分からないのだ。そりゃあ自衛は出来るけど、他人の人生には簡単に関与出来ないし、予め防ぐことも難しい。他所の地域は勿論、国外で起これば尚の事首を突っ込むなど不可能だ。

 だけど、今回は違う。私も竜神様も、家族もそーくんも、皆が苦しめられた。小鳥遊さんの刀たちも、骨喰たちも、彼らの主も、うちの刀たちだって。皆酷い目にあわされた。本丸も壊されたし、庭園も滅茶苦茶にされた。穢れた水に晒され、竜神様はどれだけ苦しかっただろうか。

 だから、絶対に許さない。この手でちゃんと、終わらせないと。

「むっちゃん」
「おん」
「――私に、全部預けてくれる?」

 刀なんてまともに振ったことなどない、完全なド素人だ。戦に参加したことは勿論、真剣勝負だってしたことがない奴に自身を任せることが出来るだろうか。
 どこか緊張を孕んだ声で尋ねるも、陸奥守はフッと穏やかに笑み、地面に突き刺さった自身を引き抜く。そして迷うことなく柄を握るよう、こちらに向かって差し出してきた。

「主。わしはおまさんの刀じゃ。それに、前に言うたろう? 一蓮托生。どこまでも一緒にじゃ。やき、引導渡すなら、わしを使いとうせ」
「……ん。ありがとう」

 言葉にせずとも意図を察してくれた。そんな頼もしい“相棒”に笑みを返し、その柄を――あの炎に覆い尽くされた夢の中で握った時とは違う、皮膚を焼くことのない柄をしっかりと握って歩き出す。

『レ、レディ! お待ちください。是非交渉を――』
「誰がするか、んなもん」

 地面を這っていた骸骨が慌てたように細い指を突き出してくる。だけどこんなバカげた誘いに乗るほど堕ちちゃいない。

 だから鳳凰様の力が宿った陸奥守の刀身を迷うことなく掲げ――そのまま真っすぐと、逃げようとする悪神の首に突き刺し地面に落とした。
 途端に骸骨姿だった悪神はポロポロと形を崩し、陸奥守に刻まれた刻印が赤く光ると同時に靄は灰となり、それすらも燃えて消えていく。

「……はー……」

 ようやく終わった。本当に、やっと終わったのだ。数ヶ月前、突如新人審神者が元ブラック本丸に飛ばされてしまったから救出して欲しい。と要請を受け、そこで“人非ざる存在”に堕ちてしまった男性審神者に呪われてから数ヶ月経った。一年の半分とはまではいかないが、三分の一は確実に過ぎた。こんなにも長い期間一つの事件に振り回されたのは初めてだったけど、どうにか片を付けることが出来たのだ。


 それにしても、まさかこの手で誰かを、誰かの命を奪う日が来るとはなぁ……。今まで想像して来たことがなかっただけに、中々に感慨深い。

 ………………いや。でも今まで蟻とか蚊とか黒光りするゴキ、ん゛んっ。あん畜生とか色んな命を奪って来たから今更か。深く考えんどこ。

「よし! 討伐完了!」

 陸奥守が何かしらの術をかけ続けていたのだろう。何一つ残さず、穢れすらも燃やしながら消えていく姿は本当にあっけないというか何というか。自分一人では何も出来ず苦しめられ、死にかけただけに妙な気持ちだ。というか、神様の手に掛かればあっという間に死んでしまう存在なんだなぁ、と思ってしまう。やっぱり神様って規格外の存在だ。

 そんなことを考えつつ刀身を地面から引き抜けば、傍にいた陸奥守が片手を差し出して来た。

「主」
「うん。ありがとう、むっちゃん。何も言わなかったのに察してくれて」
「これでもおまさんとの付き合いは一番長いきの」
「あはは。そうだね」

 もしかしたら、陸奥守は私が止めを刺さなくてもいいと思っていたかもしれない。でも、私自身大変な目にあってきたし、皆にも心配をかけた。だから皆の苦労に報いるためにも、家族や友人を苦しめた怨みを晴らすためにも、この手で止めを刺したかった。

 だって私は“復讐”を否定するほど“綺麗”な女じゃないからね。むしろその逆だ。『復讐は誰のためにもならない』と言われても『うるせえ。私がすっきりするからそれでいいんだよ』と言い返すタイプである。それに、この歴史修正主義者との戦争に参加し、彼らに「敵を斬れ」と命じたその日からこの手は血に汚れている。だから今更悪神を一柱葬ったところで良心は痛まない。

 ただ一つ心残りがあるとすれば――

「……骨喰さん……」

 陸奥守に刀を返し、太郎太刀から借りた上着を引きずらないよう、両手で余った裾を持ち上げながら地面に座り込み、項垂れている骨喰藤四郎へと近付く。
 彼の目の前には折れた刀が一振りと、悪神と共に燃え尽きたのだろう。大蛇へと変貌した彼らの主が流した大量の血痕が残っているだけだった。

 骨すら残さず燃えた主に彼は何を思うのか。焼け落ちた自身を重ねて見たのか。それとも結局、自分の手で彼を救えなかったことを悔やんでいるのか。その本心は、項垂れる姿からは読み取れなかった。

「……結局、共に逝けたのは大和守だけだったな……」

 消沈したように呟く彼は、そっと地面に残った血痕に指を這わす。そうして人の形を残していないにも関わらず、愛しい誰かを撫でるような動作で土をなぞると、そこに小さな雫を幾つも落とした。

「俺には……できなかった……!」
「骨喰……」
「兄弟……」

 彼と縁のある三日月と、同じ脇差であり、兄弟刀でもある鯰尾がそれぞれ近付き、その背に手を当てる。それでも震える体は血を吐くような声で「怖かったんだ」と、胸中を吐露した。

「目の前で主が燃え始めた時、俺は、また燃えることが怖くて、進むどころか後退ってしまった……。こんな俺に、一緒に逝く資格があるのか、主に、顔向けが出来るのかと……わからなく、なって……!」

 誰だって炎に巻かれたら恐ろしく感じても仕方ない。しかも今回はただの炎じゃない。高位の火神が授けた炎だ。その力の強さにも恐れ戦き、二の足を踏んでも可笑しくはない。恥じることもない。
 だけど彼は『主と共に逝きたい』と口にしたのだ。そして自分の手で彼を屠るという決心をした。だけど、どれも守ることは出来なかった。それを心の底から悔いている。

「主……!」

 背を丸め、地面に額がつきそうなほどに上体を折り曲げ懺悔する彼に投げかけられる言葉なんてない。だけどずっとここにいるわけにもいかない。
 だって私は“審神者”だから。皆の、刀剣男士の前に立っている以上、やらなければいけないことがある。守らなければいけない“ルール”がある。
 所詮単なる小間使いでしかない私に、彼らを自由に出来る顕現などないのだから。

「骨喰さん。このまま生きるのが辛いのであれば、私の本丸でとなりますが、『刀解』という手もあります」
「主! それは……!」
「鯰尾。気持ちは分かるけど、主と一緒に逝きたいと決めたのは彼だよ。主君を変えるのが刀の定めなのだとしても、仕える主君を今のあなた達は選ぶことが出来る。……主に「生きろ」と言われなかったのなら、政府の役員が彼を見つける前に、彼の選択を優先してあげたい」

 確かに“生きろ”という言葉は美しく聞こえるかもしれない。だけど実際にはとても残酷な言葉だと思う。だって、これは“寿ぎ”ではなく“呪い”だから。死ぬことを許さない、永遠の呪い。寿命であれ病気であれ、死神がその鎌を振るその一瞬まで死ぬことは許さないという、主君の命令なのだ。
 だけど彼らの主はそれを口にしなかった。出来なかった、というのもあるだろうけど、結果だけ見れば同じことだ。だから彼は呪われてなんかいない。選び取ることが出来るのだ。
 この辛い生を終え、一時と言えど、眠りにつくことが許されているのだ。

 それは、ある意味『救い』だろう。“生きろ”と言われることよりも、よっぽど。

「骨喰。刀解が嫌だ、ってんなら、今この場で俺が折ってやってもいい」
「日本号さん?!」

 頷くことも首を振ることもない骨喰に業を煮やしたのか、日本号さんが近付いて来る。だけど彼の声音に冗談や揶揄う色はなく、本気で彼を折る気でいるのだということが伝わってきた。

「ま、お前さんがどうしても、って言うならだけどな。だが、俺たちはここにいる嬢ちゃんに何の恩も返してねえ。このまま泣いて縋りついて折れる、ってのは、ちょっと違うんじゃねえか?」
「日本号さん……」

 彼らの主の死因は、間違いなく日本号さんの一突きによるものだろう。喉元から脳天にかけて深く貫かれた刀身は、血が滴っていてもどこか美しかった。
 だけど、本当なら彼も『主君殺し』なんてしたくなかっただろう。彼は忠義の槍だ。例え私に恩を感じていたのだとしても、優先すべきは自らを顕現させた主のはずだ。実際ギリギリまではそう考えていたに違いない。だけどそんな彼が迷うことなく自身を突き出したのだ。……自らの主を、これ以上畜生に堕とさないために。


「――死は、この世で最も優しい救いである」


「主?」

 ふとどこかで読んだことのある一節を諳んじれば、小夜を始めとした皆の視線が集まって来る。それにちょっとだけ懐かしさを覚えたのは、きっとこの数カ月間視界を失い、真っ暗な世界にいたせいだ。
 だから改めて、色とりどりの、美しい見目をした神様たちを順繰りに眺めていく。

「別に私が体験したことじゃないよ? ただ、昔そう書かれた本を読んだだけ」

 当時はまだ学生で、その言葉の意味は分からなかった。むしろ「殺されるとか怖いじゃん! どこが“救い”なわけ?!」と思ったものだけど、例えば癌で苦しんでいる人とか、精神病で苦しんでもう「死にたい」と思っている人とか。そういう「生きるのが辛い」「苦しい」と思っている人にとっては間違いなく“救い”だろう。
 遺された人にとっては違っても、当事者にとっては“息をすることすら辛い現世から解放される”ことになるのだから。

「生きることは、簡単じゃない。それは私よりも皆の方が深く知っているはず。だから、このことについて私から言えることは何もない」

 実際、たかだか二十数年生きただけの私と、何百年も生きて来た彼らとでは語れるものが違う。それに平安から戦国、幕末と、とんでもない激動の時代を主と共に駆け抜けた刀が沢山いるのだ。
 そんな彼らに生死について語るなど、それこそ『百年早い』だろう。だから私が言えることなんて、結局は自分の主観的な意見しかないのだ。

「でもね、たかが二十年ちょっとしか生きていなくても、大事な人がいなくなったら“寂しい”“辛い”“苦しい”って思う気持ちは分かるよ。大切な誰かを失った時に抱く思いは、人も神様も同じだと思ってる。勿論目には見えないものだから簡単に推し量ることなんて出来ないけど……。でも、悲しみは人それぞれだから。自分の方が、とか、そんなこと言いたくないし、言った途端亡くなった人は“悲しみを推しはかるアクセサリー”になってしまうようで、私は好きじゃない」

 学生時代からずっと思ってた。沢山の言葉に傷つけられ、傷ついて、鈍感になって大丈夫な振りをしてきたけれど。それでも、傷ついた時は本当に痛かったから。

「“死にたい”って、思ってもいいと思うよ。でも、ただ漠然と“生きたくない”と思うことと“死にたい”と思うことは違う気がするから……。骨喰さんの気持ちは、骨喰さんにしか分からない。それを叶えることが出来る相手がここにいるのかも分からない。それでも、もし手伝えることがあれば、私はお手伝いしたいと思う」

 心は、一番自由なようでいてその実全然自由じゃない。沢山のことに縛られて身動きが取れなくなるなんて沢山ある。
 中には縛られずにずっと自由気ままにやりたいように生きている人もいるけれど、そうじゃない人の方が多い。

「すぐに決めなくてもいいですよ。時間は沢山ありますから。沢山悩んで、それから答えを出しても遅くはないと思います」

 確かに時間は過ぎていくし、今すぐ折れたところで刀剣男士と堕ちた人間が同じ場所に逝けるとは思わない。むしろ別々だろう。それでも大切な人が消えてしまった世界で生きるのは辛いはずだから。

「――息が出来ないほど苦しくなったら、それが答えだと思うから」

 浅く呼吸を繰り返していた体がピクリと動く。そして倒れ込むように下げていた頭を上げると、赤くなった瞳でこちらを見上げた。

「大丈夫。あなたの選択も、決意も、私は否定しない」

 笑ったりもしない。尊重し、守ってみせる。

 太郎太刀には本当に心の底から申し訳ないとは思うけど、それでも極力汚れないよう上着を持ち上げてから地面に膝をついて骨喰と視線を合わせる。
 三日月が刺繍してくれた面布はどこかに流されてしまったのか、もうないけれど。だからこそ骨喰も私の顔がよく見えるだろう。大して綺麗じゃないから福笑いとでも思って笑ってくれたらいい。笑えるかどうかは知らんけど。

「……水野、殿」
「はい」
「俺は……主殿と、共に、死にたかった」
「はい」

 流星のような透明な雫が頬を滑り、それから銀糸の睫毛が所狭しと並ぶ瞼が、水気を絞るようにギュウッと下ろされ、ゆっくりと上げられる。

「主殿は……俺を、待っていてくれるだろうか……」
「待ってくれてなかったら追いかけりゃあいいんですよ。だって人間より絶対骨喰さんの方が足速いんですから。思いっきり走って行って、思いっきりその背中に蹴りでも入れてやってください」

 それが出来なかったら抱き着けばいいのだ。どんな形であれ、彼らを顕現させた主には彼らを受け止めなければいけない“責任”があるのだから。

「ふっ……。主殿は、打たれ弱いからな……」
「はは。刀は何度も打たれて強くなりますけど、人間は何度も打たれたら死にますからね。加減はしてあげてください」
「ふはっ。……そうする」

 これが彼の答えだ。それが分かったのだろう。鯰尾はギュッと唇を噛んだけど、三日月がそっと肩に手を置けば立ち上がり、数歩下がった。

「……日本号。頼めるか」
「おう。介錯は任せな」
「では――」

 だけどここで腹を切ろうとした骨喰に、小さな体が勢いよく抱き着く。

「一人で逝っちゃダメです! 骨喰兄さん!」
「五虎退……?」

 戸惑う骨喰に、五虎退は縋るような声でもう一度「ダメです……」と呟く。こんな五虎退は珍しいのだろう。「どうしてダメなんだ?」と優しく尋ねる骨喰に、五虎退はしがみついていた体をそっと離した。

「ぼくも、一緒にいきます」
「なんだと?」
「おい、五虎退!」

 五虎退の言葉にずっと事態を見守っていた後藤藤四郎も驚いたらしい。すぐさま駆け寄ってくるが、珍しく五虎退は泣きながらも笑みを浮かべた。

「だって、僕は、あるじさまが初めて鍛刀してよばれた刀だから……。僕も一緒じゃないと、あるじさま、きっと泣いちゃいます」
「な、なんだよ……それ……」
「それに、骨喰兄さんは方向音痴だから……」
「…………否定は、できないな」

 本当に泣いてしまうのは主ではなく五虎退の方だろう。だけど骨喰が方向音痴だという理由をつけたのは、彼なりに必死に考えた言い訳に違いない。
 そんな可愛い弟の必死の強がりを読み解けない刀ではないはずだ。現に後藤藤四郎は数歩後退ると、先程の鯰尾同様唇を強く噛み締め、勢いよく背中を向けた。

「骨喰兄さんの手を引っ張ってやんないといけないならしょうがねえな! けど、男として! 一度決めたなら泣くんじゃねえぞ!」
「はいっ!」

 どんなに可愛い弟であっても、一度決めたことを覆すのは難しいのだろう。それに彼らはどんなに可愛らしく、か弱く見えても男士で、戦をするために呼ばれた神様だ。仕えるべき主を定めたのならば、その人について行くと、守ると決めたのなら。その気持ちを、尊重したい。

「主」
「大丈夫。見届けるよ。ちゃんと、最期まで」

 流石に五虎退に切腹をさせるのは忍びない。それに、彼らの刀身は既にボロボロだ。穢れた水に触れたせいで余計に脆くなっている。だからこそ日本号はたった一振りで二振りの刃を折ることが出来た。

「……短い間でしたが、我々に御助力頂き、まことにありがとうございました」

 綺麗に折れた刀身に向かい、指を揃えて頭を下げる。深く頭を下げ過ぎて額が地面についたけど、今はそんなことどうでもいい。
 願わくば、彼らの黄泉路に彼らの主がいて欲しいと思う。例え会えなくても、追いつけなくても、その背を諦めずに追いかけて欲しいと思う。そうして出来たら、彼らの主は後ろを振り返って欲しい。大和守だけじゃなく、あなたを慕って追いかけてくれた刀がいるのだと、気付いて欲しいから。

「……私たちも帰ろうか」

 どれほど頭を下げていたのか。よく分からない。だけど皆も私と同じように硬い地面に膝をつき、頭を下げ、祈ってくれた。そんな彼らが誇らしい。

 ちょっとだけしんみりしつつも、土やら小石やらがついた膝を軽く叩いて立ち上がれば、皆も同様に立ち上がり、私を囲んだ。

「そう言えば、主。あなたもう僕たちが見えているんですか?」
「ん? うん! ちゃんと取り返したからね! ちゃーんと見えてるよ! 宗三さん今日も超びじーん!」
「茶化すんじゃありません」
「ぐえーっ」

 頬を摘ままれた挙句、そのまま横に伸ばされ呻けば何人かから笑われる。だけど次々に「よかったな」とか「俺のことはちゃんと見えているか」とか、色々声をかけられ自然と笑みが浮かぶ。

「うん。やっぱり皆の顔が見られると嬉しいね。取り戻せてよかったよ」

 皆は神様だから年取らないし、見た目も変わらないから「顔立ちが分からない」なんてことはなかったけど、それでもやっぱり見えていた方がいい。
 怒った顔も笑った顔も、全部大好きだから。

「ったく、相変わらずお気楽に笑いやがって」
「本当だよ。こっちは敵に嫁入りさせられそうになってる姿まで見せられたのにさ。焦ったんだからね?」
「あー……。まあそれに関しては大変申し訳なく……」

 一度は骨喰と日本号さんに助けられたけど、結局自分の視界を取り戻すために彼らを騙しちゃったからなぁ。
 内心罪悪感を抱きつつ後ろ頭を掻けば、何故か皆の視線がじとーっとしたものになっていく。あら? もしかして、何か気づいちゃった?

「……主。もしかして、真っ黒に染められた花嫁衣裳、着てた?」
「あー、うん。着てたっつーか、着せられたっていうか、ぁあああ!!」

 やっべ!! こんなこと言ったら皆過保護だから変に勘繰るというか首突っ込んで色々聞いて来ようとするじゃん! ここはさりげなく「アイツが偽物にそういう格好させただけだよー」ぐらいで濁せばよかったのに、うっかり「着せられた」なんて素直に口にしてしまったものだから、案の定敏い彼らは何かを察して肩を捕んでくる。

「主。ちゃんと説明しとうせ。アレは作り物やったきえいとして、何でおまさんが“花嫁衣裳”着ちょったがか。誰に着せられたんじゃ」
「ひいっ! むっちゃんの目がガチ!! って、い、いや、そうじゃなくて。その、き、着せられたっていうか、そのー……」
「主。嘘ついたり誤魔化そうと思っても駄目だからね。面布も御簾もしてないんだから、僕たちすぐに分かるよ」
「皆の洞察力がエグすぎて審神者負けそうですぅ!!」

 ひぃん! と情けない悲鳴を上げつつもどうにか言葉を濁そうと頑張ってみたが、結局あっちからこっちから「どういうことだおい」「説明しろよ逃げんな」と追い詰められ――白状することになった。
 それこそ洗いざらい、敵が扮した小夜と乱と三日月と鶴丸と鶯丸に服も下着も破られたことまで。途端に落ち着いていたはずの皆の怒りが再び燃え上がる。

「復讐復讐復讐復讐復讐……」
「絶対、絶対に許さないんだから……! ボクの姿を真似した挙句、あるじさんの服を破るとか……!」
「お、落ち着いて二人共……!」

 ブツブツと「復讐」の二文字を繰り返す懐刀こと小夜に、珍しく可愛らしい顔に青筋を浮かべて拳を握り締める乱をどうにか抑えようと頭を撫でてみる。
 だけど二人だけでなく、一度黄泉から戻って来た経験がある古刀太刀も顔に笑みを貼り付けながらも激おこだった。

「ははは。そうかそうか。俺が主を襲うように見せかけたか。そうかそうか。はははは。おもしろい。よし。もう一度殺そう」
「三日月さんの棒読みの笑い声って初めて聞いたんだけど?! っていうかもうどこにもアイツいないから!」
「殺生は好まないんだがな。だがそれとこれとは別か。よし。俺も本気を出そう」
「待って待って。鶯丸さんの本気こんなところで見たくない」
「なーに、心配するな。鶴さんにすべて任せておけ」
「ねえ待って! 鶴丸の笑顔が一番怖いんだけど?!」

 ワーワー言いつつも審神者室まで赴き、作動するかどうか分からないゲートに電源を入れる。その間に他の皆に何か手がかりになるようなものがないか探してもらい、ようやくここの本丸IDと小鳥遊さんの審神者名を見つけ、帰還する運びとなった。
 ――ただここで一つ、不可思議なことが。

「……あ、あの……?」
「うむ? どうした? 父に何か用か?」
「い、いえ……何故、その……ここに小烏丸さんと髭切さんと鬼丸国綱さんがいらっしゃるのかなー……と」

 そうなのだ。自本丸に帰還しようとゲートを作動させたら、何故かちゃっかり私たちの刀の中に見知らぬ刀が三振り混ざっていたのだ。だから一体どういうことなのかと冷や汗をかきつつ尋ねたのだが、

「え? どうせなら僕たちも拾ってもらおうと思って」
「どうやらあんたは鬼に好かれやすい質みたいだからな。あちこち回るより、あんたの元にいた方が鬼を退治しやすそうだと判断したまでだ」
「ほほほ。そなたの元にはおもしろきことが起きるようだからな。父が力になってやろう」

 おわー!! 野生の古刀太刀が飛び出して来た! 仲間にして欲しそうに見ているどころか完全に仲間になる体でくっついてきちゃったよ!!!
 いやまあ……うちにはいない刀だから全然嬉しいしありがたいんですけど……。

「とりあえず……皆で帰ろっか」

 もう細かいこと考えるのは帰ってからでいいや。あと着替えたいし、太郎太刀にも上着返したい。

 そんなわけでゲートを潜って帰還すれば、私の本丸で留守番をしてくれていた武田さんたちがほっと息を吐き出し、あたたかく迎え入れてくれたのだった。





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