小説
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 突然胸倉を捕まれ、勢いよく地面に叩きつけられたかのような苦しみ。
 ろくに息継ぎも出来ないまま次から次へと襲ってきたのは、寒々しいほどの恐怖と焦燥感。かと思えば臓腑を焼くような怒り、憎しみが湧き上がり、声なき声で悲鳴を上げた。

 ――殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ!

 誰かが怒号のように叫び続ける。

 ――痛い痛い痛い。助けて。怖い。助けて。誰か。どうか。お願い。誰か。

 合間に聞こえてくるのはすすり泣きのようなものばかりで、頭が割れそうな程に痛くなる。

 ――殺せ助けて死ね痛い殺せ助けて死を怖い殺せ助けて死ね嫌だ殺せ助けて死ね誰か。

 グルグルと声とあらゆる声が、感情が、頭のてっぺんから足の先まで木霊する。
 誰の声なのかも分からないのに、ゾッとするような冷たさと熱が交互に襲ってきて右も左も分からなくなる。

 そうして数多の怨念と悲哀が腕となり顔となり意識となり、濁流に飲まれるように身動きが取れなくなった頃、こちらを覆うようにそれらは手足に纏わりついてきた。
 藻掻き、足掻き、出来る限りの力で抵抗したが、結局押し負け流され、自分という『全て』が数多の意識に呑み込まれて“一つ”になる直前だった。

 燃え盛る炎を見た気がしたのは。



『主従のカタチ』



 主殿を一言で表せと言われたら、昔の俺は迷うことなく『凡人』と答えただろう。
 実際、初めて顕現した時から主殿は決して効率がいいとは言えない不器用な人間だった。

「骨喰藤四郎。すまない。記憶がほとんどないんだ」

 顕現したのは発足してから一月も経っていない本丸の鍛刀場で、初期刀である歌仙兼定を従え立っていた主殿はどこかぼんやりとした様子でこちらを見つめていた。
 後から聞いた話では、連日忙しく、あまり眠れておらずぼうっとしていたそうだ。だからよっぽど審神者とは忙しい職務なのだろうと思っていたのだが、よくよく様子を見てみると単に時間配分が下手くそなだけだった。

「歌仙兼定」
「うん? 何だい、骨喰藤四郎」
「この紙の山は何だ」
「ああ……。これは政府に提出しなければならない書類でね。もう三日分は溜まっているんだ」
「は?」

 近侍として共に書類を眺めていた歌仙兼定も決して事務処理が得意とは言えず、二人して無駄に時間を喰っているという酷い有様だった。それでも現代の機械だという“たぶれっと”を駆使し、何度も何度も唸りながら数枚の報告書を仕上げていた。
 そこで何となく机上に重ねられていた紙を一枚手に取れば、印字されていた提出期限はまさにその日で、思わず「大丈夫なのか」と問いかけた。それに対する返答は苦笑いと唸り声だけで、「本当に大丈夫なのだろうか」と妙に不安になったものだ。

 だが効率は悪くとも根は真面目なようで、その日以降も不慣れながらも報告書を作ったり、戦の結果を纏めている姿を都度目にした。
 かくいう俺も事務処理には殆ど携わっては来なかったが、その分戦にはよく出た。

 記憶もない。料理も出来ない。書類仕事も出来ない。

 そんな自分が呼ばれた意義でもある戦に出ている時だけは、瞼の裏にちらつく赤い炎を忘れることが出来た。

 だが完全に忘れたわけではない。むしろ所構わず赤い炎は追いかけてきた。

 初出陣が決まった前日の夜も、日差しが強い日の内番中も、入浴や睡眠時でも、前触れもなく姿を現してはすべてを燃やし尽くした。
 そう言う意味では出陣している時の方が戦に集中出来るので安らげていたのかもしれない。

 かつては薙刀として存在していた自分が脇差となり、記憶を失ったにも関わらず戦場ではどう自分を振るえばいいのか迷うことはなかった。逆に言えばそれ以外のことは全くと言っていいほどダメだったが、それでもよかった。

 何故なら主殿は言ったのだ。刀装も料理もまともに作れず黒焦げにしてしまった自分に対し、どこか安心した様子で「君みたいな刀が来てくれて助かった」と。
 あの一言にどんな意味が込められていたのか。当時は理解出来ず、ただ「そうか」とだけ答えた。事実人の身を得たばかりの頃に感情の機微を悟るなど出来るはずもない。


 俺が顕現した頃、初期刀である歌仙兼定以外は全員短刀しかおらず、兄弟刀である彼らと共に過ごす時間は忙しなかった。戦に畑仕事に本丸の維持。互いに人の身を得て間もなかったということもあり、料理上手と謳われた歌仙もまだ不慣れな時だった。故に何度も皿を割り、食材をダメにした。
 それらを兄弟たちと共に処理し、時には舌が麻痺しそうな飯を胃に詰め込んでは腹を下した。薄皮一枚超えた向こう側から響く鈍痛。体の内側を虫に食われているかのような感覚に、人の体とはこうも不便なものなのか。と何度も辟易したものだ。

 所詮我らは刀。幾ら人の身を得ようとも、完全なる人ではない。
 戦で負傷はしても病とは縁がなく、主殿が咳き込み、熱を出しても自分達には何の影響も及ぼさなかった。だがそれを不思議には思わなかった。それが当然だと思っていたからだ。

 何故なら俺たちは刀だから。

 だが主殿だけは違い、不貞腐れたような、落胆したような声で「一人だけ風邪を引くと自分とお前たちは違うんだな、と実感してつらい」と呟いた。

 それが、妙に引っかかった。


 主殿は基本的に人畜無害な人間ではあったが、よくよく観察してみると見栄っ張りで負けず嫌いなところがあった。そして人前では出さないが自尊心が高く、けれど強気には出られない臆病な男でもあった。だが決して傲慢ではなく、むしろ善良な部分の方が多かった。
 怪我をすれば治療し、疲労や不満を口にすれば申し訳なさそうに謝罪する。猫や犬を始めとした動物が好きで、よくテレビで見ては「可愛いなぁ」と口にしていた。
 何でも過去に犬を飼っていたんだとか。だがその愛犬も主殿が学生の時に亡くなったらしく、思い出すと泣きたくなるから思い出さないようにしている。と語ってもいた。

 不器用ながらも優しい人だった。困っている人を見つけたら声をかけようかどうか暫く迷い、結局無視できずに声をかけるような人だった。
 迷いはしても無視はしない。
 そんな主殿を、嫌うことなど出来なかった。


「骨喰ー!」

 顕現して暫くの頃は「骨喰藤四郎」と正しく呼ばれていた名前が、いつしか「骨喰」だけになった。不満はなかった。呼びやすいように呼べばいい。そう思うだけだった。
 だから主殿が親しみを感じているとは露知らず、ただ出陣を繰り返した。

 炎に追いかけられながらの日々は辛いものがあったが、それでも本丸で過ごした記憶が増えるのも悪くないと思えるようになっていた。
 とはいえ人付き合いは苦手だから兄弟以外に親しい刀を持つのには時間がかかったが、それでも対立することはなかった。中には過去の自分を知る刀もいたが、やはり思い出すことは出来ず、また夢に見ることもなかった。

 楽しかったか。と聞かれたら、正直「よく分からない」と答える。だが「悪くない日々だった」と付け加えることが出来る時間であったのは確かだ。

 芳しい戦績を残せない日もあった。酷い怪我を負い、折れるかと思った日もあった。主殿の会話の半分以上が理解出来ず、ただぼんやりと聞き流した日もあった。それでも主殿が「俺にとっての脇差はお前だよ」と言ってくれたから、皆が『脇差代表』として俺を認めてくれたから、本丸での生活は息苦しくなかった。気付けば笑える日も増えていて、仲間が増えることは悪くない。そう、柄にもなく思った。


 だから、こんなことになるぐらいなら、あんな女と出会うことが分かっていたのなら、あの日俺は何が何でも主殿を本丸に繋ぎとめただろう。


 審神者名すら分からない女に主殿は突然駆け寄り『告白』をした。
 その場にいた全員が目を丸くした。俺もそうだ。ただ驚いた。
 主殿が大声を出したのも、周囲の目を気にせず声を上げたのも、衆人の中で告白した度胸にも、全てに驚いたからだ。

 最初は皆喜んでいた。
 女っ気のなかった主殿にもようやく春が来たのだと。何人かはそれを名分に酒盛りを繰り返した。当然それに怒る刀もいたが、皆それぞれ祝いの声をかけていた。
 俺もそうだ。皆のように浮かれることはなかったが、それでも「おめでとう」と口にした。

 心の底から祝福した。
 主殿に幸せが来ればいいと、本気で願っていた。


 ――だが、結果は真逆と言っていいほど酷いものだった。


 二人は順調に交際を始めたと思っていた。だが徐々に雲行きが可笑しくなり、皆が疑問を抱く頃には主殿は占いや星読みに傾倒していた。
 独り言が増え、部屋に籠る時間が長くなった。外に出てきても聞き取れないほどの小さな声で繰り返される話は早くて聞き取れず、ガリガリと音を立てて皮膚を掻く姿は病的に映った。

 それでも女が声をかければ主殿は幸せそうだった。面布で顔を覆っていても華やぐ空気は肌で感じ取れる。
 決して俺たちが望んだ形ではなかったが、それでも確かに主殿は『幸せ』だったのだ。

 今思えば、あの時既に止められない場所にまで転がっていたのだろう。

 その後も変わらず主殿は部屋に籠り、俺と歌仙以外の刀とは会話も減った。時には「あの刀のどこそこが気に入らない」と悪態を吐くようにもなった。
 それでも仕事は放りださなかった。相変わらず進軍も作戦会議も優秀とは言えなかったが、壊滅的に下手くそではなかった。だから都度部屋から出ては指示を出し、手入れをし、編成を組んだ。そして女と話した後は上機嫌になり、皆と会話をする姿も見受けられた。

 そう。まだ、この頃はまだよかった。

 本当に危ない道に転がったのは、この後だった。

 ――ある日突然主殿が刀を刀解したのだ。

 一度も使ったことがない刀解室に嫌がる彼を無理矢理押し込み、有無を言わさず刀解した。その時俺は遠征に出ており、歌仙も出準中で誰も主殿を止めることが出来なかった。
 だから玄関先で出迎えてくれた弟たちから聞かされた時は愕然とした。
 確かにその男とは特別親しくはなかったが、いきなり刀解されるような、主殿に反感を抱き、謀反を企てるような刀ではなかった。

 だから「うそだろう」と呟いた。俺の中の主殿は、そんなことをするような人ではなかった。そんなことが出来るような、気の強い男ではなかった。

 持ち帰った資材を投げるように捨て置き、刀解室へと走った。そこから出て来たのは戦装束のままの歌仙で、酷く沈んだ顔で資材となった“小狐丸”を腕に抱き、消えそうな声で「すまない」と呟いた。

 その姿を見た瞬間、足元が崩れ去ったような、今まで見ていた全てが夢か幻だったような、そんなとてつもない淋しさと恐ろしさに襲われた。
 同時に理解した。薄々感じていた『主殿が変わった』という事実を、ようやく受け止めることが出来た。ずっと目を背け続けていた代償としては、あまりにも大きすぎる犠牲だった。

 その時俺の背後で小狐丸と同室であり、同じ三条であり、俺の過去を知る男――三日月宗近が立っていたことに気付くことが出来なかった。それでも彼は俺が気づくまで黙って“小狐丸”だった資材を見つめていた。その顔にはいつもの微笑はなく、ただ冴え冴えとした夜のような、凍てついた空気を纏っているだけだった。

 そこからは坂道を転がり落ちるかのように本丸の空気は悪くなった。そして出陣も、今までにない無理な進軍が増えた。

 軽傷者は重傷になるまで放置され、疲労もなかなか取れず気絶するように眠った。途中折れる刀もいた。主に抗議しに行っては無視され、悪態を吐きつつ戻って来た刀もいた。
 仲間割れのような口喧嘩も増えた。だが次第に疲労と傷の痛みに声を出すことすら億劫になり、ただ黙って部屋で蹲る日々が続いた。

 その間も主殿はずっと部屋に籠り、新たな刀が顕現しても宴会も開かず、顔もまともに見せず、会話もしなかった。

 そのうち本丸に流れる空気そのものが悪くなり、呼吸すら苦しくなった。そんな皆を見かね、装束に血を滲ませた状態で、傷の痛みを堪えながら歌仙は「空気を管理する機械が壊れたのかもしれない」と主に変わって政府に連絡を入れた。

 だが点検が入る前に空気は淀みとなり、淀みは瘴気となった。

 御神刀たちを筆頭に、余力がある刀たちがこぞって祓い清めた。だが払っても払っても瘴気は現れ、遂には俺たちを襲い、重傷者から意識を失っていった。


 悪夢を見ているようだった。


 全てを焼き尽くす炎がいっそ恋しくなるほど、どこもかしこも瘴気に包まれ視界は暗かった。

 炎でもいいからこの視界を照らしてくれ。
 誰でもいいから皆を、主殿を救ってくれ。

 自分の手でやれることは全てやった後だったから、藁にも縋る思いで祈るしかなかった。

 付喪神と呼ばれたところで所詮は刀。
 記憶も逸話も全てあやふやな俺が出来ることなんて、もう『祈る』こと以外何もなかった。

 その癖いざ“彼女”が現れた時には「信じられない」という気持ちしか抱けず、刃を向けてしまった。
 兄弟刀である薬研藤四郎だけを連れ、本人は完全な丸腰という無防備を通り越した無鉄砲さでこちらに啖呵を切って来た女審神者――“水野”と名乗ったその人は、俺たちを見捨てなかった。

 広間で蹲る仲間を見ても、泣かず喚かず、むしろ自らの体に傷をつけてまで助けてくれた。命綱である札を躊躇することなく使ってくれた。紛れ込んだ新人審神者だという男を励ますように笑い、声を掛けた。
 そして変わり果てた主の姿を見ても、彼女は決して俺たちを犠牲にしようとはしなかった。

 流石に全員は無理だったが、それでも俺を含めた十二振りの刀が救われた。
 皆が彼女に感謝し、同時に悔いた。何故なら我らの主殿のせいで水野殿が呪われてしまったからだ。

 ただ本丸に足を踏み入れ、俺たちを助けただけなのに。どうして主殿は彼女を呪うのか。
 その原因が知りたくて探ろうとしたけれど、結局何も分からなかった。

 それなのに彼女は俺たちを詰ったりしなかった。爪弾きにすることも、邪険にすることもなく、あたたかく迎え入れてくれた。直接言葉を交わしたことは数えるほどしかなかったが、自分の刀たちを通して都度俺たちを気遣ってくれた。それが分かるほどに彼女の刀たちは細かなことまで気遣ってくれた。話しかけてくれた。笑いかけてくれた。共に食事をとり、手を合わせ、土を弄り、花を愛で、日々の尊さを噛みしめさせてくれた。

 そして彼女自身も、ただ優しいだけではなかった。戦うために呼ばれた俺たちが目を見張るほどに強く、逞しかった。

 戦う術など持たないくせに、それでも「逃げない」「諦めない」人で、見ている方がハラハラするような事態に何度も陥った。その度に彼女の刀たちはもどかしい気持ちに駆られたのだろう。事あるごとに声をかけ、心配し、言葉を重ね、想いを口にしていた。

 あの“三日月宗近”でさえそうだった。彼女の手を取り、わざわざ視線を合わせるために自ら膝を折った。天下五剣で最も美しいと謳われる刀が、誇りと矜持に満ちた彼が、周囲の目を気にすることなく自ら大地に膝をついたのだ。
 そうして我が本丸では聞いたこともない柔らかな声で「そなたが大事なのだ」と何度も口にした。声音にも彼女を見つめる瞳にも深い愛情が滲んでおり、同じ“三日月宗近”でもこうも違うのか、と驚いた。

 だから話をしてみた。彼と、うちで顕現した“三日月宗近”とどこか異なる空気を纏う彼に。珍しく自分から話しかけてみた。
 すると彼は笑って答えた。「自分は類稀な奇跡と幸運を得てここにいるのだ」と。だから自分の全てを懸けて彼女を守るのだと。柔らかくも清々しい笑みと共に教えてくれた。そこに嘘や誇張された思いはどこにもなく、日向のようにあたたかく、眩いほどにひたむきで、いっそ「純真だな」と揶揄いたくなるほどの真心が込められていた。


 ――不思議だった。


 俺の本丸にいた三日月宗近は、そんなことを口にする男ではなかった。
 泰然と構え、悠然と微笑み、鮮麗された動きで刀を振るう。相手が誰であろうと飄々とした態度を崩さず、浮かべる笑みは時に冴え冴えとし虚しく、時に空虚で虚ろだった。それこそ記憶を失った俺のように。表情や言葉からでは本心を読み取ることが出来ない、不可思議で底知れない男だった。

 それでも親しくしてくれた。ぼうっと佇んでいた俺に「懐かしいな」と声をかけ、首を傾けている間にも「かつて共にいただろう」と困ったような声音で伝えてきた。だがこちらが「覚えていない」と言って首を横に振ると、美しい彼は寂しそうに眉尻を下げて「そうか」と頷いた。
 そんな彼を見る度に覚えていないことを申し訳なく思ったが、結局どこに行っても、どこの“三日月宗近”と会っても、彼と過ごした日々を思い出すことは出来なかった。


 そんな俺の意識が変わったのは、過去の記憶を取り戻すために修行に出てからだ。


 ずっと大阪で焼け落ちたと勘違いしていたが、実際には違った。焼けたのはその後のことで、悲しみで勝手に記憶を塗り替えていただけだった。
 だから修行から戻って来てからは三日月とも話をするようになった。
 相変わらず何を考えているのか分からず、腹の底も読めなかったが、それでも俺が話しかける度に嬉しそうに顔を綻ばせてくれた。多分、それが一番穏やかな笑みだった気がする。
 思い返して比べてみれば、水野殿の三日月とその時の三日月の笑みは似ているような気がした。だがやはり水野殿の三日月の方が優しく笑う。彼女が大事だと、愛おしく思っているのだと、如実に語っているからだろう。

 俺だってちゃんと分かっている。彼女は間違いなく愛されているし、我々刀剣男士たちを愛してくれている。自分を陥れようとした男の刀だというのに、それでも俺たちのことも尊敬し、尊重し、大事にしてくれた。どうしようもなく優しくて愛情深いお人なのだと……誰に語られずとも分かるというものだ。

 実際、彼女を構う彼らを見ていれば察することが出来る。彼女が「好きだ」と口にした花を自分たちの手で育て、飾り、常に彼女の体調を気遣い、食事を作る。そうして日に何度も彼女が信仰する神の祭壇へと足を運んでは祈りを捧げ続けた。

 三日月や大典太は面布やお守りも作っていた。
 本当は針仕事など不得意なくせに、三日月は夜も眠らず刺繍を続けた。一針一針に祈りを込めるように、小烏丸が考案したという“まじない”を込めた紋様を一枚の布に縫い続けた。

 そんな彼を見ておられず、何故三日月が刺繍をする必要があるのかと尋ねたことがある。すると彼は絆創膏だらけになった手を一度止め、疲れたように息を吐き出してから微苦笑を浮かべた。

「他の俺がどうかは知らんが、この俺は“呪術”と深い縁があってな。他の刀が刺すより、力が宿るのだ」

 それが“呪い”であろうと“祝福”であろうと、より強い力を与えてしまう。そう答えた三日月はそれ以上語ることはなかった。
 一方でこの本丸の“初期刀”でもあるという『陸奥守吉行』は、彼女が信仰する水神とは別の火神の眷属となっており度肝を抜かれた。

 幾ら肉の器を得ようと我々は刀だ。俺も、彼も。一度は燃えたことがある。そんな彼が何故火神の眷属になったのか。
 ましてや彼の神は『戦神』でもあると聞いた。権能を多く持つということは、それだけ高位の位に座す神であるという証左だ。火に戦に命。どれもこれも生半可な力では扱えないものばかりだ。
 それらを自由に与えることも奪うことも出来る神など、一体どれほどの地位にいるのか。
 眩暈がするとはこのことか、と、久方ぶりに衝撃でふらついた。

 だが三日月同様、陸奥守もうちにいた『陸奥守吉行』とは随分と性格が違っていた。
 我が本丸の初期刀である『歌仙兼定』も頼りになる刀ではあったが、苦手なことも多く、不平も不満も同じくらい素直に口にする、良くも悪くも腹芸が苦手な男だった。
 その点うちの陸奥守は戦場以外では不平不満を口にすることは少なく、毎日のようにあちこちを駆けまわっては楽しそうに笑い、夜には酒を飲み、時には鶴丸と一緒に悪戯をしては怒られていた。
 宴会では率先して一発芸を見せては周囲を笑わせ、鶴丸や次郎太刀と一緒に司会進行をしたり囃し立てたりと、周囲を盛り上げることが上手い刀だった。

 だが水野殿の陸奥守はうちの陸奥守とは違った。口数は然程多くなく、騒ぐことよりも皆を纏めることの方が得意なようだった。
 時折悪戯好きの一面を見せては水野殿を揶揄ってはいたが、刀たちの前ではその顔を殆ど見せることなく、彼女が不在の間本丸を取り仕切っていた。

 彼女が語る『魔のモノ』という存在に対しての個人的な見解や対策の仕方、何を媒介に呼び寄せられたのか。どんな存在で、何を目的としているのか。皆を集めては会議を開き、何時間も話し合う姿はまさしく“主人の右腕”と称せるほどだった。
 だが不思議なことに彼はそんな姿を彼女の前では一切見せなかった。優しく陽気で、おおらかな刀で居続けた。他の刀も同様だ。皆が皆彼女に自分たちの努力を黙っていた。それが“美徳”だと考えているのではない。ただ彼女に心配や不安をかけまいとしているだけだというのは、彼らが向けるひたむきな愛情ですぐに分かった。

 妙な感覚だった。

 我らの主殿も決して性格が悪い人ではなかった。こんな事態に陥ってしまったが、結局悪魔に魂を売り渡し、人を辞めてしまったが、それでも……彼女のように愛されていたはずなのに。

 どうして俺たちの主殿と彼女は違うのだろう。

 勘違いしてもらっては困るが、決して彼女を怨んでいるわけではない。むしろ感謝している。
 苦しむ俺たちを救ってくれた。彼女でなければとっくに主殿の霊力を介して刀剣男士ではない何かに堕ちていただろう。
 最後まで俺たちが“刀剣男士”でいられたのは彼女のおかげだ。それは分かっている。

 それでも俺と大和守は主殿を選んだ。
 大和守も歌仙の次に顕現した打刀だから、主殿に対する思い入れが強いのだろう。だから俺たちは水野殿に「すまない」と断りを入れつつも、主殿と共に死ぬことを、そしてこの手で主殿を止めることを伝えた。
 彼女は止めなかった。否定する言葉も、主殿を蔑む言葉すら言わなかった。それに、主殿に対してだけじゃない。刃を向けた俺たちのことだって恨んでも可笑しくはないのに、彼女は手を握ってくれた。言葉をかけてくれた。痛みに、寄り添おうとしてくれた。
 例え面布で顔が見えずとも、真摯に気持ちを受け止めてくれたことは握られた手の平から伝わってきた。

 小さくて柔らかいのに、やはり力強い手だと――何度も死にそうになったとは思えないほどに強くて逞しい人なのだと、改めて実感した。


 ……だからこそ、考えてしまった。

 もし主殿があの女に出会わなければ、水野殿のように刀に囲まれて日々を過ごせたのではないのかと。
 共に笑い合い、助け合いながら今までのように暮らせたのではないのかと。
 兄弟や仲間たちと共に、今度こそ本気で、炎が恐ろしくても苦手でも、この新たな“生”を全う出来るのではないか。
 叶わない願いのような夢を、何度も思い描いてしまった。

 それが悪かったのか。
 彼女ではなく主殿を選んだのが原因なのか。それとも運命の女神は、戦神は、俺たちを絶望のどん底に突き落としたいだけなのか。

 俺の“欲”が生んだ隙を狙ったかのように、彼女が語る『魔のモノ』が彼女の本丸を襲撃してきた。

 かと思えばあっという間に意識が奪われ、肉体の自由まで失った。
 襲い掛かって来た“悪意”や“負の感情”を全て集めたような存在に何とか抗おうとしたものの、結局目の前は暗くなり、意識だけが僅かに残る形となった。

 また俺は何も出来ないのか。成すすべなく焼かれた時のように、今回もまた身動き一つできず誰かが死ぬ姿を見るしかないのか。

 そんな後悔のような絶望のような感情から抜け出す機会を作ってくれたのも、結局は“彼女”だった。


『私を見るな!!』


 彼女が叫んだ瞬間その言葉は“言霊”となり、彼女を守る盾となり、同時に俺たちを助ける“鉾”にもなった。

 ――視界を奪われた彼女が、悪意の塊であるモノたちの視界にヒビを入れたのだ。

 だがそこから逃げ出す寸前に穢れた水に飲まれ、一時意識を失った。
 けれど彼女の言葉の力により集められた意識の集合体はバラバラになっており、気付けば見知らぬ本丸の中で倒れていた。

「うっ……。ここは……」

 自分たちの本丸ではない。彼女の本丸でもない。
 穢れた水に浸かったことで全身が酷く怠かったが、それでも動けないほどではない。

 うすぼんやりと覚えている中では彼女の刀たちと戦っていたと思うのだが、悪意の思念体が鎧となっていたからか、自身に傷らしい傷は見当たらなかった。
 それは周囲に倒れていた日本号と五虎退も同じようで、彼らを揺すり起こせば何事もなく起き上がった。

「イッテテ……。どこだぁ、ここ」
「うぅ……兄さん、兄さん……」
「泣くな、五虎退。怖いのは分かるが、まずは逃げ道を探さないと」

 彼女の本丸はどうなったのか。そして他の仲間たちはどこに流されたのか。
 分からないが、考えている暇もない。まずはここが安全な場所なのかどうかを確認しなければ。

 修行に出ても泣き虫なのは変わらない弟の背を撫でていると、先に部屋の外を伺っていた日本号が顔を顰めながらこちらを振り返る。

「真っ暗でよく見えねえ。お前たちなら何か見えねえか?」

 夜戦に向かない槍らしく、灯りのない室内では気配を辿るのがやっとだと言う。そんな彼に偵察を任せるわけにもいかず、涙を拭いた五虎退と共にそっと開けた襖の隙間から廊下を見渡した。
 灯りはなく、人影もない。そもそも生き物がいる気配すら感じられず、静かに首を横に振った。

「……敵影はなし」
「あ。で、でも、なにか……誰か? の声……が、する、ような……?」

 首を傾ける五虎退が微かに聞き取れただけなら俺たちには殆ど聞こえないと言ってもいい。それが敵のものか味方のものか判断は出来ないが、ここでじっとしてもしょうがない。
 日本号と視線を合わせ頷き合うと、五虎退と共に先頭に立って歩き出す。

「やはり人の気配はないな」
「廃棄される本丸なのだろうか」
「で、でも、どこかで感じたことがある霊力な気が……」

 しどろもどろに伝えて来る五虎退に頷き返す。
 穢れた水のせいかそれとも場所のせいか、どうにも感覚が鈍っている気がする。それでもどことなく感じたことがある気がする霊力をそこかしこで感じつつ歩いていると、大広間に近付いてきた。
 流石にここまで来れば騒がしい声も聞こえてくる。だがそれは仲間たちの声でも、水野殿の刀たちの声でもない。

 “悪意”に満ち満ちた、奴らの声だった。

 咄嗟に刀を抜きかけたその瞬間、五虎退がグッと俺たちの袖を引く。だから一瞬放ちそうになった殺気を抑えれば、五虎退は震える指を廊下の先へと伸ばした。

「に、兄さん……あれ……あの人は――」

 そして見つけた小さな姿に、俺は五虎退の手を振り払って駆け出していた。



 ◇ ◇ ◇


 ――復讐に呑まれかけていた僕の手を握ってくれたのは、兄様たちでも、陸奥守さんでもなく、言葉と心で真摯に向き合ってくれた“主”だった。

「小夜左文字様」

 初めてそう呼ばれた時は『僕の逸話を怖がっているんだろうな』と当然のように思った。だって主は陸奥守さんのことを「陸奥守様」ではなく「陸奥守さん」と呼んでいたから。だけどそれは僕を怖がっているからではなく、僕たちが“付喪神”で、敬わなくてはならない存在だから親し気に呼べないだけなのだと教えられ、酷く驚いたものだった。

「いや、だって……。お二人共神様ですし……」

 あれは三番目に顕現した『秋田藤四郎』が来る前日のことだった。本丸発足から六日目、僕が顕現してから三日目のこと。何度も陸奥守さんの名前を噛む主に、遂に彼が「もうその呼び方諦めたらどうじゃ」と話しかけたのが切欠だった。

「お名前を呼び捨てするとか、そんなの畏れ多いと言いますか、失礼じゃないですか」
「ん〜……。おんしはちっくと考えすぎじゃ。まことにおんしがわしらをわやにしちょったら気付くけんど、そうやないろう?」
「そ、それは……そう、ですけど……」

 初出陣で血塗れになった僕を抱えて帰還した陸奥守さんが、泣きじゃくっていた主を宥めた後のことだった。ズビッ、と鼻をすすりつつ、チリ紙で鼻をかんだ主は居心地悪そうに背を丸め、それから俯いた。

「その……確かに、先輩審神者さんは皆さまのことを親し気に呼ばれていました。でも他所は他所といいますか、少なくとも私よりずっと長生きで、今も語り継がれる主人を持つお二方に親し気な口調で話しかけるのはなんというか……」
「にゃあ。わしはそがぁに威圧的ながか?」
「そ、そんなことありません! むしろめちゃくちゃお優しくて逆にビックリといいますか、本当に何でこんなに良くして下さるんだろう? という気持ちでいっぱいですすみません!」

 ガバッ! と勢いよく頭を下げた主に、陸奥守さんは困ったように息を吐き出しながら後頭部を掻いた。
 僕はそんな二人を交互に眺めてから、僅か三日とはいえ、それでも共に過ごした日々を思い出す。

「……僕も、主が僕たちを蔑ろにするような人だとは思っていませんが……」
「しませんよそんなこと! だって……私はただでさえ霊力が少なくて、政府の方からも『呼び出せる刀は少ない』と宣言されているんです。そんな私の所に来てくださった方々を邪険にするなんて、出来るはずないじゃないですか」

 主は『復讐を望むのか』と問いかけた僕に「そんな相手はいない」と答えた。そして本当は戦が嫌いなことも、血が苦手なことも、主ではなく陸奥守さんから聞いた。主自身は聞かせたくないから黙っていたのだろう。それでも戦場で意識を失い、手入れ部屋で目覚めた僕が見たのは震えながら泣き続ける主の姿だった。
 何度も「ごめんなさい」「私のせいで」と呟く主の背を陸奥守さんは何度も優しく擦りながら、安心させるように「大丈夫じゃ。心配しな」と声をかけていた。そんな陸奥守さんも中傷だったけど、主が心配だったのだろう。手入れ部屋には入らず、ずっと主を宥めていたようだった。

 彼女は優しくて弱い人だと、その時勝手に印象付けた。
 現に僕と入れ替わりに手入れ部屋に入った陸奥守さんを見送った後、主は僕に謝罪した。

「申し訳ございませんでした。私の采配のせいで小夜左文字様に大怪我を……」
「……あなたのせいじゃないよ。僕が弱かっただけ。僕の、復讐の気持ちが足りなかっただけだから」

 そう。僕は“復讐”を元に顕現した刀。あまりにも力の強い逸話は僕を象る大本となり、人の身を与えられた今尚黒い淀みとして僕の内側を食い荒らしている。
 だけど人の身を得たばかりの僕ではうまく扱いきれなかった。気持ちだけが急いて返り討ちにされた。陸奥守さんがいなければあっという間に折れていただろう。そんな僕に、主は首を横に振った。

「いいえ。貴方様は懸命に戦ってくださいました。むづ、すみません。陸奥守さんからどのような戦況であったかはお伺いしております。ですから、そのようなこと、仰らないでください」

 主は優しい人だ。だからこそ――弱い。
 顕現したばかりで尚の事弱い今の僕でさえ一突きしたら死んでしまいそうな柔らかい体をしているくせに、僕から逃げようとしない。それが不思議で、どこか苛々もする。だけどそんな僕から離れるどころか、むしろ「失礼します」と頭を下げた後僕の手を両手で握ってきた。

「ッ?!」
「お恥ずかしながら、私は刀剣について何も知らない無知な審神者です。元の主と言われる方々のことも、お名前は知っていても細かな背景などは勉強しなければ分からないです。簡単に言えば要領も頭も悪い、記憶力ゴミの雑魚審神者です。勿論政府から予め与えられた資料でおおよその逸話や性格などについては存じておりますが、それも書面上だけの話であって、貴方様ご自身の口から聞いたお話ではありません」

 主の手は、とても冷えていた。
 初めて触れられた時はあたたかかったのに、汗を掻いたせいかしっとりとしていた。その時場違いにも、「生きているのに人は冷たくもなるのか」と改めて人の身の不思議を感じていた。

「恥を上塗りするようで本当に恥ずかしいのですが、小夜左文字様が来てくださった時、初めて知ったんです。短刀は主人を守るために携帯されることが多く、また“守り刀”と呼ばれていたことも。それが“懐刀”と呼ばれるようになったことも。……本当、情けないですよね。この歳になるまで知らずに生きて来たんですから」

 それは平和な時代に産まれたからだろう。恥じる必要はないというのに、主は申し訳なさそうな声音で話し――けれど頭を下げるのではなく、こちらを真っすぐ見つめるようにして顔を上げた。

「――嬉しかったんです。私、陸奥守さんには言いませんでしたが、霊力が少ないから鍛刀が成功するとは思っていなくて。それに、名のある刀剣男士の皆様が、私みたいな人間の呼びかけに応えてくださるとも思っていなくて……。だから、小夜左文字様が顕現なさってくださった時、すごく、すごく……嬉しかったんです」

 パチッ、と、目の前で火花が飛び散った気がした。

 顕現した当初、僕は主のことを信じるつもりはなかったし、ましてや彼女の“守り刀”になることも“懐刀”になることも望んでいなかった。
 むしろ逸話通り“復讐”すればいいのだと、それだけが僕が呼ばれた理由なのだと考えていた。だけど主は“復讐”を望むことなく、ただ“僕”が顕現したことを純粋に喜んでいた。そして僕という刀を体現する過去を知ってもなお、この汚れた手を握り、言葉と心で向き合おうとしている。

 本当なら、信じるべきじゃない。人間は「欲しい」と言いながら簡単に僕たちを手離すから。あっという間に、簡単に死んでしまうから。
 だからこの人のことも信じるべきじゃない。そう、頭では分かっていたのに――。

「貴方様の過去がどのようなものであっても、私にとっての“守り刀”は“小夜左文字様”です。陸奥守様は……どちらかと言うと、私を導き、支えてくれる神様という感じがして……。いや、これもだいぶ畏れ多い見解なんですけど、でも、身長も低いし、非力な私ではあのお方を扱いきれる自信はありません。だから、恐れながらも小夜左文字様を、勝手に自分の“懐刀”だと思っているのです」

 どんな形であれ、持ち主を何度も殺した僕を“懐刀”と呼んで大丈夫なのか。もしかしたら“僕”はまたしてもこの人を――新しい“主”をこの手で殺してしまうのではないか。
 そんな気持ちが頭を擡げ、どす黒い淀みが腹の中で渦を巻いた時、主は僕の手をギュッと力を込めて握ってきた。

「――ですが、これは私が勝手に思っていることなので、小夜左文字様が応える必要なんてどこにもないんです」
「え?」
「貴方様はご自身の過去を気にしていらっしゃるようですが、私は己の過去に悩み、苦しみ、この状況に戸惑いながらも、それでも向き合おうとする小夜左文字様を好ましく思います。それに、今は偽りとはいえ手足がございますでしょう? 今度は、ご自身で選ぶことが出来るのです。主人を殺めるかどうか、守るべきかどうか。考え、手を下すことを、他人にゆだねなくてもよいのです」
「――――――」

 晴天の霹靂。と言う言葉が脳裏に過った瞬間だった。
 僕は、ずっと思っていた。どうせ僕はまた“持ち主”を、“主人”をこの手で“殺す”のだろう、と。だけど彼女は「違う」と言う。そして「選べるのだ」とまで言い切った。
 自らの頭で考え、この手で選び取っていいのだと。妄執に憑りつかれていた僕にハッキリと告げてきたのだ。

「小夜左文字様。人も神様も、心があるから悩むのです。例えこの肉体が仮初のものだとしても、政府が用意した紛い物なのだとしても。目には見えずともずっと存在していた、己の過去と共に生きて来た貴方様には“心”があるのです。だから今度は、ここで過ごす刃生は、どうかご自身の思われるままにお過ごしください。選択してください。そのお気持ちを、私は尊重します」
「でも……短刀は、他にも沢山います。来るはずです。それこそ粟田口とか……」

 今代の主はとても素直でまっすぐで、柔らかくて穢れを知らない無垢な幼子のような――穢してはいけない、弱い存在なのだと思った。だからこそ僕のような忌まわしい逸話がまとわりつく刀ではなく、華やかで名だたる偉人の元を渡り歩いた粟田口こそ相応しい。そう思ったのに。

「いいえ。この先どのような方がいらっしゃっても、私にとっての“懐刀”は貴方様だけです。名だたる短刀であろうと、私のような人間に親しみを持って下さる方であろうと、この気持ちは変わりません」
「……それは、どうして?」

 知りたかった。こんな僕をわざわざ“守り刀”にしたい人なんているなんて思わなかったから。だって主は女性だ。僕は、元々の持ち主である男の妻をこの身で貫いた刀だ。女性にとっては怖いはず。
 だけど主はさっきまで泣きじゃくっていたのが嘘のように照れたような声で告げた。

「――だって、政府から予め用意されていた“初期刀”ではなく、本当の意味で初めて“私の呼びかけ”に応えてくださったのは小夜左文字様ですから。例えご自身の意思ではなかったのだとしても、あの日、あの時。私の祈りや願いを聞き届けてくれたように降り立ってくださったのは貴方様です。ですから小夜左文字様こそが私の“守り刀”なのです」

 一瞬世界が白んだような気がした。

 でもそれは悪い意味ではなく、ずっと暗い部屋にいきなり太陽の光が差し込んだような、そんな、強くて眩い光だった。

「そ……う……です、か……」

 だけど、この時の僕は色んな感情が襲ってきて、すぐにその言葉に、願いに答えることは出来なかった。
 泰平の世で生まれ育った主にとってはおぞましいであろう過去を持つ僕が、本当に彼女の“守り刀”として存在していいのか。“懐刀”になってもいいのか分からなくて、ただ俯くことしか出来なかった。

 だからその数日後、意を決したように主に「名前の呼び方変えんか」と話しかけた陸奥守さんに便乗することにした。そして、あの時の“答え”も。

「主」
「はい……」
「主は、僕を“懐刀”だと思っていると……そう、話してくれたよね」
「は、はいっ。ほ、ほんと、あの時は勝手に言ってすみませんで――」
「なるよ」
「…………へ?」

 あの日、主に「僕を懐刀だと思っている」と語られた日はうまく眠ることが出来なかった。
 瞼を下ろせばすぐさま過去に殺して来た人たちの声が蘇って来たから。血と、怨讐が何度も僕の足を引っ張り、泥のような暗闇に引きずり込もうとした。
 今までの僕だったらその淀みに、声に、悲鳴に、囚われていただろう。だけど意識が遠のきそうになる度に主の声が、言葉が、僕の意識を呼び戻した。

 ――暗闇の中に突然差し込んできたあたたかな気持ちが、肌を、意識を焼いた。
 それを恐ろしく思ったし、正直「逃げたい」とも思った。だけど結局、逃げられなかった。

 だってどこに逃げれば主の言葉から、声から、想いから逃げられるか分からなかったから。
 あんなにもひたむきに思われたことなんてなかったから、どう受け止めていいのかも分からなかった。忘れた振りも出来なかった。

 だけど、逃げたくなんてなかった。何度も何度も泥のような闇に足を取られて転びそうになりながらも、僕の手は、意識は、主に向かっていった。
 そう。逃げるどころか自分の意思で、足で、“向かって行った”んだ。その時になってようやく気付いた。僕は、無意識だったけど、本当はもう“選んでいた”んだ、って。

「あなたが僕に望んでくれたから。僕は、あなたの……あなたを“守る刀”になる」

 主が僕を呼んだ。だけど主は言った。「僕が呼びかけに応えてくれたからだ」と。だけど、こんな僕に笑いかけてくれたのも、手を握ってくれたのも、心があるから悩み、動かせる手足があるから今度は“選べる”のだと教えてくれたのも、全部主だ。
 だから、僕は“選んだ”。彼女の、主の“懐刀になる”ということを。僕が、僕自身が、考えて、選び取ったんだ。

「僕は“小夜左文字”。あなたを守る、主を守る“懐刀”になります」
「小夜……。おんし……」
「小夜左文字様……」
「だから……余所余所しい呼び方は、止めてください。主が僕たちを大切にしてくださっていることは、言われなくてももう分かります。だって、親しみを持つことと、無礼に振舞うことは決して同義ではありませんから。僕を“懐刀”とするのなら、もう少し……その心を、預けてください」

 “小夜左文字”らしくないことを口にしている自覚はある。それでも、主はとてもまっすぐで、だけど驚くほど自己評価が低く、自分に厳しく落ち込みやすい素直な人だということも学んだから。
 そして僕たちを尊敬してくれていることも。だから、少しぐらい強気に出ないと、下手に出たら主は絶対に頷いてくれない。卑怯だとは思ったけれど、時にはそういう搦手も必要だから。
 実際、こういう手を主は思いつかないのだろう。「あ」とか「う」とか声にならない声を上げ、必死に考えている。だからこそ、だろう。今度は黙って僕たちのやり取りを眺めていた陸奥守さんが便乗してきた。

「小夜の言う通りじゃ。わしとおんしは一蓮托生。ほいで小夜は懐刀じゃ。おんしにとっては“初めての刀”で、この本丸にとっては“始まりの三人”じゃ。もうちっくとばあ、わしらを頼ってもえいと思うけんど」
「う、うぅ……! で、でも、それとこれとは関係ない様な気が……!」
「なーんでじゃ。それににゃあ、毎回毎回名前噛まれるわしの身にもなって欲しいぜよ。おんしに迷惑かけるぐらいなら、呼びやすいように呼んでもろうた方がずっとえいちゃ」
「その節は大変申し訳なく!」
「ほらまた謝りゆう。ほうやのうて、呼びやすいように呼んだらえい。ほれ、陸奥でも吉行でもなんでもえいから、おんしが呼びやすい名前で呼んでみい」
「そんな無茶な!」

 主と陸奥守さんはその後も二、三回同じようなやり取りを繰り返したけれど、結局主が言い負かされ――。
 もしも主が現世で同じ名前の人と知り合ったら何と呼ぶか。という問いを陸奥守さんがした結果、「むっちゃん」と「小夜くん」に落ち着いた。

「ほ、本当にそんな呼び方しても……」
「かまんかまん。わしらがそう言いゆうがやき、おんしは気にせず呼んだらえい」
「はい。僕も、それで構いません」
「懐が広すぎて逆に心配になるのですが?!」
「がははは! そら主限定じゃあ!」
「そんなことあります?!」

 ちょっとした問答はあったけど、結局主はその日一日かけて僕たちの呼び方を矯正し――翌日、『秋田藤四郎』を顕現させた。

 だから、彼が来た時本当は少し不安だったんだ。彼は僕とは違い、本当の意味で“守り刀”として存在していたから。だけど主は変わらなかった。自分にとっての“懐刀は僕なんだ”と、何度も口にして伝えてくれた。手を、握ってくれた。柔らかな腕で、全身で抱きしめてくれた。
 その度に“応えたい”と思ったんだ。何度も何度も己に課した役目を全うできなかった。主が望んでくれた“守り刀”らしい働きが出来なかった。


 だから今度こそ――僕は、主を、この手で守りたい。今の僕にとって、一番大事な人は主だけだから。





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