小説
- ナノ -




 どれだけの時間気を失っていたのか。気が付けば硬い床の上に寝そべっており、痛む節々にうめき声をあげながら起き上がる。

「ここは……」

 若干冷えた手を動かせば、ざらついた木の板が手の平を押し返してくる。ということは、あの時視えた光景と同じ状態になっているのだろう。
 刀剣男士の神気すら見えない、薄暗く、瘴気に満ちた本丸に向かう小舟の上。そこにいるのだ。

 まさか自分の本丸が黒い水に穢されることになろうとは。それに空気中には瘴気が満ちているのだろう。少し息を吸っただけでも肺が戦慄き、咳き込んでしまう。喉風邪というよりもインフルエンザに近いかもしれない。この感覚は。
 何度も咳込みつつ、それでも辺りに誰かいないか探ってみる。が、やはり誰の気配もしない。皆もだが、武田さんはどうなったんだろう。一応浄化札と破魔の札は堀川が渡したはずだけど、結界札は全て本丸を守るために使っていたから彼も飲み込まれたはずだ。
 それに武田さんには竜神様や鳳凰様の加護がない。厚藤四郎が傍にいてくれたらいいが、あれだけ勢いよく水が流れ込んできたのだ。それに二人はゲートの前に立っていた。物理的に怪我を負っている可能性がある。それに加えて打ち所が悪ければ即死している可能性もあるのだ。
 他にも、壊れた門の破片が体のどこかに突き刺さって身動きが取れなくなっているかもしれない。骨が折れていたり、壊れた何かに挟まれて身動きが取れていないかもしれない。本当に最悪なのは溺死している場合だ。しかもそれを完全に否定できないから怖い。

 視界がない分余計に心配になり、ブルブルと全身が震え始める。

 今日こうなることが分かっていたなら武田さんを呼んだりしなかった。せめて私一人なら耐えられたのに、もしも彼に何かあったらと思うと冷静ではいられない。
 だって彼は“人”なのだ。“人非ざる者”として変化している私とは違う。この“穢れた水”にも耐えられないかもしれない。人体のどこかに影響が出るかもしれない。もう、審神者を続けられないかもしれない。

 考えれば考えるほど恐怖と後悔で全身を掻きむしりたくなる。鳳凰様が燃やしてくださらなかったら、今頃私の中に残っていた“浸食”が遺憾なく実力を発揮していたことだろう。
 私の最大の短所であり泣き所でもある“自己嫌悪”という感情を糧にして。

「どうか、無事でいてください……」

 両手を組んで祈りを捧げる中、舟は音を立てて進んでいく。だけどここに来てあることに気が付く。

 竜神様の宝玉がどこにもないのだ。

 あの時咄嗟に両手で握りしめたが、陸奥守たちと一緒に流されてしまったのだろうか。

「どうしよう……! 竜神様! 竜神様!!」

 もしも宝玉が、竜神様がこの“穢れた水”の中に沈んでしまっていたら――。
 考えただけでもゾッとし、舟が揺れることも構わず身を乗り出して声を張り上げる。だけど幾ら呼びかけても返事どころか反応すらない。

 ――竜神様の神気を、感じることが出来ない。

「あ……ああ……!」

 どうしよう。どうしようどうしようどうしようどうしよう。

 竜神様が、ずっと、ずっとご先祖様たちを、祖父母を守ってくれていた竜神様が、私が産まれた時から成長を見守ってくれていた竜神様が、死んでしまったら……!

「いや! やだ、やだよ竜神様! 返事をして! お願いだから……!」

 震える声で何度も呼びかけるが、自分の声しか響かない空間に神経が焼ききれそうになる。だけどあの時視えた光景を信じれば、この舟の下。水の中からは数多の腕が突き出ているはずだ。
 もしもその腕に捕われたらどうなるのか。
 分からない。分からない分からない分からない。何も、分からない。

 気が付けば涙が溢れていた。恐怖と惨めさに喉が震え、無様に喘いで丸くなる。苦し紛れに叫んでみても慰めてくれる誰かはどこにもおらず、ただただ舟が水をかき分け進む音だけが響いている。
 暫くすると、遂に舟が本丸へと辿り着いたらしい。ガコンッ。という硬い物にぶつかる音と同時に衝撃が全身を揺らす。だけどすぐに起き上がる気にはなれず、そのまま舟の上で丸くなっていた。

「竜神様……。むっちゃん……。小夜くん……」

 心細さと不甲斐なさに心が折れそうになっていると、前回は誰もいなかった本丸の玄関が音を立てて開いていく。向こう側に誰かいるのか。それとも謎の力を使って開けたのか。どちらにせよ何も見えない私はただ舟の上で蹲る。
 前回のように本丸に乗り込む勇気も、気力も、湧いては来なかった。
 だから「殺すならもう殺してしまえ」という気持ちで丸くなっていると、不意に誰かの手が背中に触れる。

「――ッ!!」

 殆ど反射と言っても過言ではない勢いで腕を振りかざせば、途端にその手は離れていく。だけど驚いたように零された声に、すかさず動きも呼吸も止まった。

「おおの、そがぁに警戒せんでも大丈夫ちゃ。わしじゃ。陸奥守じゃ」
「…………陸奥守?」

 いつもなら感じられる神気が一切感じられない。だけど“穢れた水”で頭から足先までずぶ濡れなのだ。感覚が狂っている可能性は十分ある。それでも完全には信用することが出来ず、声がした方向から逃げるように身を捩る。
 とはいえ小さな舟だ。すぐさま背中は縁にあたり、逃げ場はなくなってしまった。

「大丈夫じゃ。怖がらんでもえい。わしが守っちゃるき」

 警戒心マックスな私を安心させるためだろう。いつもよりゆっくりと紡がれる声も言葉も一層穏やかだ。だけど、本当に彼が『陸奥守吉行』なのかが分からない。
 もしもあの泥人形が、骨喰藤四郎に憑りついていた奴が陸奥守を飲み込んでいたら? あいつが陸奥守の声や話し方を装っていたら?
 イヤな考えは次から次へと浮かび、増々全身に力が入る。
 だけど自分を『陸奥守だ』と名乗った男は「なーんも心配せんでえい」と柔らかく紡いだかと思うと、こちらの手を強引に掴んで引き上げて来た。

「あっ!」
「大丈夫じゃ。なんもせん。それよりも早う行くぜよ。このままやとおんしの体が冷えてしまうがよ。本丸ん中に着替えがあったき、こっち来とうせ」
「ちょ、ちょっと……!」

 今自分がどんな格好をしているのか分からない。本丸にいた時の状態、いつも通りのTシャツにジーンズ姿なのか、それとも巫女服姿なのか。というか、全身ずぶ濡れなのを承知の上で担いで来るとはどういう了見だ。
 離せ下ろせと抗議するが陸奥守は笑うだけで足を止めず、結局とある部屋に辿り着くまで担がれたままだった。

「乱、小夜。着替えを手伝ってくれんか」
「おっけー! まっかせて!」
「分かりました」
「は?! ちょっと待ってよ!」
「ほいたらわしは行くぜよ。広間におるきね〜」

 一方的に言いたいことだけ言うと自称『陸奥守』は去っていく。それに唖然としている間にも、乱と小夜らしき存在が近付いてきた。

「あるじさん! そのままだと風邪引いちゃうよ? 早く着替えよ?」
「着替えはこちらに用意しています。手ぬぐいもありますから、どうぞ」
「……あ、ありがとう……」

 小夜の手だろう。然程大きさの変わらない手がまっさらな、乾いた布を一枚握らせてくる。だから渋々それを髪に当て水気を取っていると、乱だろうか。もう一枚の手ぬぐいで私の頬を拭ってきた。

「うわっ!」
「あ。動いたら拭けないよ〜」
「い、いいよ、自分でするからっ」
「ダメだよ! 早くしないと風邪引いちゃう!」

 一切引こうとしない乱に、「じゃあ代わりに髪の毛拭いて」とお願いして体を拭き始める。とはいえ幾ら何でも着替えは一人で行いたい。下着だって濡れているし……って、そうだよ! 下着の着替えとか絶対あるはずないじゃん! 男所帯の本丸に!
 うっわ。マジ最悪。と内心で悪態を吐いていると、まるでこちらの心中を読んだかのように乱がとんでもない一言を囁いて来る。

「大丈夫だよ、あるじさん。下着の替えもちゃんとあるから」
「は?!」

 確かに日頃本丸で生活しているし、洗濯も行っているけど、彼らの目に触れないように気を付けていた。それこそ経費で落とした乾燥機に洗い終えた洋服一式をぶち込み、そのままカラッと乾かして箪笥に仕舞っていたのだ。
 だから部屋干しはおろか風に揺れている姿すら見たことがないはず。そんな彼らが下着のサイズなんて知っているはずないのに、何を言っているのか。
 開いた口が塞がらない状態の私に対し、乱はおかしそうに笑う。

「サイズなんて測らなくても分かるよ〜。だっていつもあるじさんに抱き着いてるから。大体このぐらいかな、って思ってたもん」
「な、なんちゅーことを……」

 あまりのセクハラ発言にドン引きだ。
 おかしい。やっぱりおかしい。幾ら乱が男の子だからって、こんな侮辱めいた発言をする子ではなかった。むしろ気付いていても黙っているタイプだと思っていたのに、この場にいるのは本当に『私の乱藤四郎』なのか。
 分からずに恐怖を抱いていると、小夜が「主」と呼ぶ。

「着替えを見られるのが嫌なのは分かるけど、いつまでも濡れたままじゃ危ないよ」
「それは……そうだろうけど……」
「さ! 早く着替えよ!」
「あ、ちょっと!」

 強引に手を引く乱に慌てたが、これで確信した。やっぱり“彼ら”は私の刀じゃな――

「えいっ!」
「…………は?」

 だけどここで思わぬ行動に出られ思考が止まる。いや、違う。頭の中が“真っ白”になってしまった。

 だって、私に一度として刃を向けたことのない乱が、小夜が、私の服を鋭い何かで引き裂いたからだ。

「な――」

 何してるの。

 そう問いたかったのに、言葉は声にならず、泣き出す寸前みたいに喉が震えるだけだった。その間にも乱は機嫌よく私の服に刃物を突き立て、引き裂き、破いていく。

「や、やだ! やめて!」
「あ! 動いたら危ないよ、あるじさん!」
「大丈夫だよ。主には傷をつけないから」
「いやだ! 来ないで!」

 なりふりなんて構っていられない。下はともかく上は完全に破けてしまったらしい。肌に纏わりつく布の感触が殆どない。それでも転がるように部屋を飛び出し、滑る廊下を駆け抜け逃げようとしたのに。

「あなや。どこへ行こうというのだ? 主よ」
「おっと! そんな格好で部屋を飛び出すと風邪をひくぞ?」
「それとも俺たちを誘っているのか? いやあ、大胆だなぁ、主よ。流石の俺も驚いたぞ」
「――――ッ!」

 聞こえてきたのは三日月、鶴丸、鶯丸の声だった。だけどやっぱり彼らの美しい“神気”が見えない。

 この三人は誰だ。何が彼らに成りすましているんだ。

 恐怖に慄きそうになるが、それでも必死に足を動かし踵を返す。だけどすぐさま背後から伸びて来た腕に捕まってしまった。

「待て。どうして逃げる? 我らの主よ」
「こんなに震えて、可哀想に。寒いのなら俺たちがあたためてやろう」
「なぁに、すぐに“気持ちよくなる”さ」
「――い、いや、いやだ! 離して! 離してよ!!」

 違う違う違う違う違う!! 私の三日月は、鶴丸は、鶯丸は、こんなこと言わない。こんなこと、私が嫌がるようなことは絶対にしない。
 確かに口では沢山揶揄って来るけど、彼らが私に触れる手はいつだって愛情に満ちていた。思いやりに溢れていた。私を、守り、大切にしてくれていたのに――。

「触るな! 私の刀たちを侮辱するなあ!!」

 叫び、暴れ、引っかき、手足をばたつかせようとも、彼らはまるで“泥”のように私の抵抗を受け流していく。嘲笑っていく。
 可愛い。愛い。と心底愛おし気な声で囁きながら、徐々に歪さを孕み、軋んでいく“音”となり全身に纏わりついて来る。

 ――主。主。主。主。

 まるで『かごめかごめ』をしているかのように、メリーゴーランドやコーヒーカップに乗っている時のように、音がグルグルと回っていく。彼らに似た、けれど違う“声”が鼓膜を揺らし、肌を這う。

 イヤだ。止めろ。触るな。離れろ。

 何度も何度も繰り返し、何度も何度も手足で物理的に彼らの手を払い続けたが、結局私の衣服も下着も全て毟り取られ、一糸纏わぬ姿にされてしまった。

「いやだ……。見ないで……」

 両手で見られたくない場所を覆い、柔らかい畳の上に崩れ落ちるようにして座り込む。

 羞恥を感じる暇もなかった。ただ涙が溢れた。

 これに比べたら学生時代に遭遇した痴漢なんて可愛いものだ。硬いジーンズの上からケツを触られたぐらいで震えていた頃がいっそ懐かしい。声も出せずに震えていただけの十代は、キチンと暴れ回ることが出来る大人に成長した。
 だけど結局得体のしれない何かに襲われるようにして衣服をはぎ取られ、裸にされてしまった。

 その事実にどうしようもなく震えていたが、彼らはそれ以上無体を働くことはなかった。代わりに着せられたのは重苦しい何かだ。
 着物にしては重く、濡れて纏めやすくなった髪を誰かが慣れた動作で結い上げていく。その間に溢れる涙を誰かが拭いながら化粧を施し、最後に帽子のようなものを被せられた。

「さあ! 陸奥守さんのところへ行こう!」

 どこまでも楽しそうに乱が告げる。だけど、もうどこにも行きたくない。動きたくない。
 せめてもの抗議として顔を逸らしたが、再び誰かが私の手を取り、無理矢理立たせて廊下を歩んでいく。

 これからどうなるんだろうか。悪神の供物にでもされるのだろうか。それとも見世物にされるのだろうか。

 分からないまま廊下を進んでいると、次第に賑やかな声が聞こえてくる。どうやら広間には皆が集まっているらしく、乱が声をかけると一瞬で静まり返った。それが一層不気味でならない。
 それでも私の姿を目にした途端広間は騒がしさを増し、あちこちから「おめでとう」だの「綺麗だ」など、うすら寒い賞賛の声が嵐のように降りかかってきた。

 まるで出来損ないの茶番劇の登場人物にされた気分だ。

 どんどん冷え切っていく感情を更に凍らせるかのように、自称『陸奥守』は嬉しそうな声を上げながら近付いて来る。

「おおのぉ。わしの嫁さんはこじゃんと綺麗じゃ」

 ――はっ。

 知らず知らずのうちに鼻で嘲笑うかのような声が漏れる。どうやら私が着せられたのは“巫女服”ではなく“花嫁衣裳”らしい。一体誰と結婚させるつもりなのか。
 得体のしれない何かに供物にされる気分ってこういうものなのか。ほんっと、最低で最悪だ。

 自らの境遇を嘆くことは勿論、抗うことも出来ない。ここに来るまでの間何度も連行する手を解こうとしたが、その度に拘束され、引きずられるようにして廊下を進んだ。
 そうして誰かが有無を言わさぬ力で背中を押してくる中、別の誰かが力強く私の手を握った。


 ◇ ◇ ◇


 ――寄せては返す波の音がする。

 確かに海もプールも好きだから夏になるとよく遊びに行くが、今は休日でも長期休暇でもなかったはずだ。だから波の音が聞こえるのはおかしい。
 それに気付いてどうにか重たい瞼を開けると――そこには今まで見たことがない光景が広がっていた。

「なん、だ……。こりゃあ……」

 打ち砕かれたようにひしゃげたゲートに、本丸が存在する異空間を満たすような黒い水。その中に漂うのは木片と散った花びらたち。そして――

「おい! 太郎! 青江! 石切丸! 膝丸! しっかりしろ!」

 漂流する、壊れた門扉の一部に上半身を預けていたことにすら気付かないまま、黒い水に浮かんでいた自身の刀たちに声をかける。すると隣から小さな呻き声が聞こえた。

「大将……声デケエって……」
「厚! 無事だったのか!」
「おー……。水野さんがくれたお札のおかげ、ってな。はは……。まあ、大将を守るので精いっぱいだったから、他のみんなは分かんねえけど……」

 厚が口にした“水野さん”という名称でここがどこで、直前に何が起きたかを思い出す。
 そうだ。確かゲートが封印されて身動きが取れなかったから、どうにかして開けようと試行錯誤を繰り返していた。すると突然門が膨らみ、ミシミシと音を立て始めた。それに気付いた時には既に厚から「危ねえ大将!」と切羽詰まった表情で叫ばれ、庇うように飛びつかれた。

 その後のことは記憶にねえ。が、厚がこの木片に俺の上半身を乗せ、沈まないよう頑張ってくれたのだろう。
 ただそれが成功したのも水野さんの堀川が渡してくれたお札のおかげだ。これがなかったらどうなっていたか。
 スーツの内ポケットに仕舞い込んでいた二枚の札を取り出せば、皺くちゃにはなっていたが濡れてはいなかった。おかしな話だ。スーツも靴も下着も水に浸かってびしょ濡れなのにな。やっぱり榊さんのお札は一味違うぜ。

「うっ……あ、るじ……」
「太郎! こっちだ! しっかりしろ!」

 泳ぐことは勿論、木片にしがみつくことすら出来ないのだろう。漂う太郎は苦しそうに呻くだけだ。だから「ちょっと待ってろ!」と声をかけ、木片をビート版代わりにして泳ぎ出す。

「色んなもんがぐちゃぐちゃにはなってはいるが、水が引いてるだけでも僥倖だ、ってな」
「大将……元気だな……」

 ぐったりとしている厚を置いてけぼりにしないよう注意しながら、まだ多少水が残っている本丸の縁側へと連れて行く。幾ら弱っていても自分の足で歩く力は残っているらしい。
 厚はふらふらと水が引いた場所まで進むと、そこに倒れ込んだ。

「うえぇ……」
「厚。少しの間休んでろ。太郎! すぐ行くからな! 沈むなよ!」

 ガキの頃から体を動かすことが好きだった。だから物心ついた頃には柔道を始め、中高では水泳にも精を出した。それが高じてライフセーバーの認定試験を受けたりもしたのだが、まさかそれがこんなところで役に立つとは。
 人生何が起こるか分からねえなあ。なんて他人事のように考えながらも、自分よりもデカイ太郎を抱え、本丸へと運ぶ。

「太郎、水飲んでねえだろうな」
「の、みません、よ、こんな、もの」
「おう。それだけ悪態つけりゃ十分だ。石切丸! お前も生きてるか!」
「勝手に、殺さない、で、くれる、かな」
「よし。大丈夫だな。青江は! 膝丸はどうだ!」
「にっかり〜……ってね」
「兄者を、おいていくわけには……!」
「おう。青江は最後でいいな。ピースする余力があるならもう少し踏ん張れるだろ」
「えぇ……。酷いなぁ……」

 一人一人確認していけば、どうやらうちの刀たちは全員弱ってはいるが死ぬほどではないらしい。とはいえこの“穢れた黒い水”は心身に響くのだろう。御神刀である太郎と石切丸は苦しそうだ。
 だから先に石切丸を回収し、次に膝丸、最後に青江を運ぶ。そうして一段落してから改めて水野さんの、ほぼ半壊している本丸を見渡した。

「あんなに綺麗だった本丸がここまで穢されるとはな……」
「ええ……。本当に、うっ! ひどい、もの、です……」
「どうにか水神の宝玉は彼女に渡せたけど……。これだけの“穢れ”に触れて彼女が無事かどうか……」
「心配だね。彼女、半神に近付いてたから」
「は? それマジかよ」

 青江の一言に目を丸くすれば、青江だけでなく膝丸も頷き返してくる。

「彼女は気付いていないようだったがな。……いや。気付いていても黙っていただけかもしれない。彼女の体から、人間では到底持ち得ることが出来ない神気を感じた」
「な……なんで早く言わねえんだよ!」
「うっ、おおごえ、を、ださない、で、ください……」
「お、おお。すまねえ」

 太郎の傍に座っていたからか、一番ダメージを受けている太郎がいつも以上に険しい表情で睨んでくる。だからすぐに謝罪を入れれば、太郎は疲れたように瞼を下ろし、それから息も絶え絶えながらも話し出す。

「水野、さんは、水神の、力を、宿しています。はあ……。そのうえ、こんかいの、事件……で、視界を、うしないました」
「主。きみなら分かるだろう。人として“見えない”ことと、神職として“視えない”ことは別物だと」
「そりゃあ、意味合いとしては分かるけどよ……」

 太郎の後を継ぐように話し出した石切丸だが、その表情は太郎同様厳しい。だがそれは俺に対して怒っているのではなく、水野さんに対する心配から来ているようだった。

「彼女は、恐らく水神から力を与えられたのだろう。普通ならば扱いきれるものではないが、彼女は特別だ」
「ああ。不可思議なほど“器”が出来上がっている。たかだか二十年を生きた娘に出来ることではない。あの娘は、なるべくして“半神”になったのだろう」
「ど、どういう意味でえ」

 あまりにもスケールがデカすぎるというか、手に負えない話になってきた。そもそも水野さんが『なるべくして半神になった』っていうのがもう既に意味が分からん。
 出会った時なんかまだひよっこの新人審神者だったんだぞ? そりゃあ当時から訳分かんねえ厄介なやつに目をつけられて大変な目に遭ってたけどよ、呆れて笑っちまいたくなるほど刀たちに大事にされていた。
 だけどただ守られるだけじゃない。その負けん気の強さと心の強さで全員を引っ張り上げ、刀たちの心を一つに纏め上げていた。だが水野さん自身は竹刀を握ったこともなければ護身術も習ったことがない、ごくごく普通の一般人でもある。
 そんな彼女の一体どこにそんな要素が、と顎に手を当てていると、刀たちは「特別な産まれだからだろう」と口にした。

「彼女の出自自体は平凡であっても、彼女の血筋は特別なものだった。以前主はそう言っていたじゃないか」
「それは、まあ……。榊さんが調べたことだから、信憑性は高いだろう。だけどそんなの昔の話だろ?! 何百年、何千年も前の血筋やら何やらなんぞ、もうとっくに薄れてるだろうが!」

 近親婚を繰り返せば短命な子供しか生まれないと歴史が語っている。もしくは奇形児や障害を持って生まれるか。どちらにせよ長く血筋は続かない。だからこそ沢山の血族と交わり、力が強くなる時もあるが、大概は薄まっていくものだ。
 だから水野さんの先祖が如何に凄かろうと彼女にそんな力はないはず。ずっとそう思っていたが、この場にいる全員が首を横に振った。

「違う。確かに彼女の血自体は薄れているだろう。だが“神の寵愛”と“人間の血筋”は全くの別物だ」
「ってことは何だ? 例の水神様がずっと水野さんの一族を守ってきたから、ってことかよ」
「おそらく、ね。そして特に血が濃い者、能力を得た者がいれば、水神は迷うことなく自らの力を分け与えたはずだよ。その人間たちを守るためにね。何せ彼の神様はとても慈愛に満ちているようだったから、可能性は高い」
「そ、んな……」

 確かに神様の御意向なんてこっちには伝わるもんじゃねえし、推し量れるものでもない。優しさや怒りってやつも、人間の物差しで測れるものじゃねえ。
 だが、だからといって聞き流せるものでもない。

 そりゃあ『土地神から寵愛を得ている』なんて聞けば「すっげー」と思うかもしれねえが、現状水野さんは何度も危ない目に合っている。命を狙われたこともあれば、いつの間にか事件に巻き込まれ死にかけたこともある。今だってそうだ。今回は免れていたとしても、病院送りになったことなんて何度あったことか。
 それに、幾ら竜神が守っていようと彼女の肉体は人間のものだ。それを、神は分かっていないのか?
 憤りで震える拳を握り締めると、すぐさま石切丸が「勘違いしてはいけないよ」と釘を刺してくる。

「神から寵愛を受けるということは、それに見合った困難が待ち受けている。と言い換えることもできるんだ」
「はっ、何だよそりゃ……! 水野さんが望んでこうなったわけでもねえのにか?!」
「さあ。それはどうだろう。主が知らないだけで、彼女が心のどこかで『あなたのために戦います』とでも誓っていたら話は変わるよ?」

 青江の冷静な一言に返す言葉がなく、グッと奥歯を噛み締める。
 実際、否定出来なかった。水野さんは自己評価が低い人だ。そして他人の命を優先し、自身の命を軽んじる悪癖がある。その人たちを守るために変な誓いをしていないとは言い切れない。
 あるいは幼い頃、記憶に残らないほど昔に何か“約束”してしまった可能性だってあるのだ。
 そうなればこちらからでは手が出せない。

「何にせよ、水野さんを助けることが出来るのは彼らだけです」
「ええ。おそらく、彼らは水野さんと共に流されてしまったのでしょう。“もう一つの本丸”に」
「もう一つの……。水野さんと狭間が飛ばされた本丸か?」
「いや。おそらく、彼女が一度連れ去られたという穢れに満ちた本丸だろう」

 石切丸と膝丸が言うには、この“黒い穢れた水”を通して水野さんの本丸と、悪神たちの拠点である本丸を繋げたのではないか。ということだった。
 何せ水野さん自身に“水神”の力が宿っているため、持っている霊力は勿論、それを源にして存在する本丸にも、顕現された刀剣男士にも“水”の力が作用している。何の繋がりも持たない俺たちとは違い、水を媒介にした召喚や誘いには抗い辛いのだと言う。
 だからこそ俺たちだけがここに取り残され、水野さんの刀たちは一緒に流されてしまったのだろう、と二人はそれぞれ口にした。

「クソッ。こうなりゃじっとしている場合じゃねえな。今のうちに援軍が呼べねえか試してみねえと」

 もしゲートが作動すれば本丸に残っていた奴らや、柊、榊さんにも手を貸してもらえるはずだ。
 だからすぐさまスーツの内ポケットに仕舞っていたスマホを取り出すが、防水加工を施されていたそれは電源は入って相変わらず圏外のままだった。チクショウ! うんともすんとも言わねえ!
 それなら執務室からゲートを動かしてやろうじゃねえか。と水野さんが普段仕事をしているであろう執務室まで行こうとしたが、廊下が途中で破壊されて通れなくなっているうえ、黒い水も穢れが強いらしく刀たちから止められてしまう。

「主。私たちが無事だったのは、水野さんが残してくれたお札があったからです。これがなければ私たちも、今頃……」
「だーッ!! クソッ!」

 連絡も取れない。身動きも出来ない。
 そんな『何も出来ない』状態にされてしまった俺たちは、ひたすら彼女の無事を祈ることしか出来なかった。







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