小説
- ナノ -





 小夜の話によると、この三日間特に襲撃や怪しい気配、黒い影を見ることはなかったそうだ。刀たちも皆慎ましく過ごし、あのビックリ爺こと鶴丸ですら大人しくしていたという。まあ、逆に言えばそれだけ竜神様の一大事、ということなんだけど。
 あとは鳳凰様に指示された通り、時間を見つけては宝玉に祈りを捧げていたそうだ。その間の出陣は勿論、本丸に出る必要のある遠征や演練は中止。内番だけ行い、その他の手が空いていた皆で本丸の清掃やら祈祷やらに従事していたと報告された。

「そっか。問題がなくてよかったよ」
「うん。主も、大丈夫だった?」
「私は……」

 本丸のことも皆のことも忘れ、ひたすら竜神様に祈りを捧げた。それでも反応があったのは私を目覚めさせるために背中を押したあの時だけで、それ以外ではずっと沈黙を保たれていた。
 いつもは感じる清浄な気もうっすらとしか感じられず、心細さと申し訳なさに自然と頭が下がる。
 小夜は何も言わない私の背にそっと手を当て、優しく擦ってくれた。だから「ありがとう」と返せば、少し前に部屋を出て行った光忠が「主」と声をかけてくる。

「お待たせ。お風呂湧いたよ」
「ありがとう、光忠」
「どういたしまして。皆に見られたくないだろうから、羽織も用意したよ。着替えを持ったら僕と小夜ちゃんが連れて行くから、呼んでくれる?」
「わ〜、至れり尽くせりだ〜」
「伊達男としてこのぐらいは出来て当然だよね」

 本当、何から何まで気遣い上手な伊達男に苦笑いしつつ、小夜に断りを入れて立ち上がる。その時若干体がふらついたものの、すぐに小夜が支えてくれた。
 小夜は私より背丈は小さいが立派な刀剣男士だ。こちらを支える手の平は存外力強く、いつも以上に頼もしさを感じる。

「それじゃあ、二人共お願いします」
「うん。任せて」
「はい。僕が手を引くから、足元には気にせず歩いて」
「ありがとう」

 目が見えないことと、寝起きということもありあまり姿を見られたくない。光忠が先触れを出してくれているとは言っていたけれど、念のためだろう。小夜が普段『休憩終了』を知らせる鈴を一度鳴らしてから歩き始める。
 ……なんか、こうしてみるとすげえ偉い人になった気分だ。こう……平安貴族とか、戦国の殿様の奥さんとか。そういう上の立場っていうのかな。だって鈴を鳴らしてから本丸の廊下を歩くなんてよっぽどだ。普段そんなことしないから違和感がすごい。
 体験入学改め職業体験かよ。いや、そもそも殿様の職業体験ってなんだ。焼き討ちでもすんのか。
 あまりのことに若干現実逃避しかけたが、おかげで周囲の目を気にすることなく脱衣所まで辿り着くことが出来た。

「それじゃあ僕は食事の用意をしてくるね。小夜ちゃん、後はよろしく」
「はい。分かりました」
「二人共ありがとう。光忠も、色々とごめんね」
「主が謝る必要なんてないよ。それに、困っている主を助けるのは家臣の務めだよ? だから気にしないの」
「ふふっ、ありがと」

 いつになくおどけた調子で話すのは私の目が見えていないせいだろう。負担に思わせないため、というか。どちらにせよ慮ってくれる彼に謝罪ではなくお礼を伝えれば、光忠も笑ってくれたようだった。
 なので小夜に見張りを頼みつつ脱衣所へと足を踏み入れ、服を足先に当たった籠に入れて浴場へと進む。
 今までは何気なく歩いていた冷たいタイルの上も何も見えない状態だと一歩進む度に緊張する。滑って転んだら洒落にならんからな。最悪後頭部強打して死ぬぞ。
 じりじりとすり足で浴槽まで歩くと、桶を手に取りあたたかな湯を全身に掛ける。

「あ〜……。めっちゃ気持ちいい〜……」

 ヘアケア用品を置いている位置は決まっているし、ボトルの形も違うからシャンプーとトリートメントを間違うことはない。ボディソープと洗顔料を間違える、なんて初歩的ミスも当然ながらするはずがない。
 目が見えないから多少もたつくことはあるが、それでも何事もなく全身を洗い、湯船に浸かるとほっとした。

「やっぱりお風呂はいいわぁ〜」

 浴槽の縁に頭を預け、誰に話すでもなく一人呟く。実家のお風呂とも、福岡で一人暮らししていた時とも違う。広い浴槽ってそれだけで贅沢だ。
 それでもリラックスしていたのはその時だけで、すぐに思考を巡らせる。

 竜神様は、日頃からあんなに冷たい場所で暮らしているのだろうか。もしくは弱っている今は敵が来ないよう、こっそりとした隠れ家的な場所に身を潜めているとか? でも元々水の神様だからなぁ。水圧とか水温とか気にしなくても大丈夫なのかもしれない。

 いつもならこうして悩んでいると竜神様が突然あの滝壺に召喚してきたりするのだが、今日はそれもない。というか、最後にここで召喚されたのは骨喰藤四郎を助けた時だ。
 あの時も謎の本丸に連れて行かれたけれど、あそこは骨喰藤四郎の主がいる例の本丸だろう。小鳥遊さんに会うまでは普通だった、けれどいつしか『魔のモノ』と契約をしてしまった男性審神者。今は呪詛返しにあい、悪堕ちしてしまったと考えられている。

 ……そういえば、あの時本丸に残され、瘴気の中徘徊していた刀たちはどうなったのだろうか。やっぱり今もまだあの瘴気の中、見つかりもしない私を探してうろついているのだろうか。
 うーん……。そう考えると怖いような不気味なような……。でも巻き込まれた刀剣男士たちが不憫でもある。
 というか、瘴気に侵されてしまった彼らは元に戻すことが出来るのだろうか。それとも一度破壊するしかないのか。どちらにせよ保護した刀たちは心苦しいだろうな。あの時全員助けられたらよかったんだけど、そんな余裕はなかったし……。

 それに、目が見えない状態であそこに行くのは危険すぎるよなぁ。

 目が見えている状態でも危険がいっぱいどころか、日本号さんがいなければ戻ることすら出来なかったであろう場所だ。竜神様の加護も望めない今、あんな危険な場所に赴けばどうなるか。想像出来ないほどバカではない。

「でも手がかりがあるとしたらあそこなんだよなぁ」

 現在あの本丸がどうなっているのかは分からない。小鳥遊さんの本丸のようになっているのか、あるいは瘴気に完全に呑み込まれて刀剣男士たちも姿を保てず刀に戻っているのか。それとも今もあのままなのか。
 この“目”で視えればいいけど、生憎と別本丸の状況を覗き見出来るような便利さはない。てか視えても困る。求めてもいないのに見えるようになったら本気で困るし。

 少々思考が脱線したが、結局手詰まりのままだ。
 落胆したくなるが、悩んでいてもしょうがない。気分を一新するためにも「えいっ」と息を吸い込み湯の中に潜れば、不意に真っ暗だった世界に光が差した。

「ん?!」

 とはいえ眩い光ではない。うすぼんやりとした、褪せた映画のフィルムのようなほんのりとした光だ。だけど久方ぶりに感じる光に感動している間にも息が苦しくなり、名残惜しいと思いながらも水面に顔を出せば光は消えてしまう。

「……何だったんだろう……? 今の」

 ポタポタと全身から水が滴り落ちる。開いた眼に前髪から伝った雫が入り込むが、やっぱり何かが見えるわけではない。だからもう一度息を吸い込み潜ってみたが、何度やってもあの光が見えることはなかった。
 結局五回目あたりで湯がぬるくなり、小夜から「主? 大丈夫?」と声をかけられたので止める。どうせ今の自分じゃ何も出来ない。それに鳳凰様に言われたばかりじゃないか。私が動けば竜神様は休めない、って。だから今は本丸での生活に体を慣らすことに集中しよう。

 問題は山積みだけど、まずは目の前のことから片付ける。
 改めてそう決心し、小夜に「もうすぐ上がるよー」と返事をしてから浴槽から上がった。


 ◇ ◇ ◇


 お風呂から上がった後は光忠が用意してくれたお粥を食べ(この時も皆に部屋にいるよう、光忠が触れ回ってくれていた)、陸奥守と話を終えた石切丸と話をすることになった。

「久しぶりだね、水野さん。調子はどうだい?」
「ご心配をおかけしてすみません。私の方は特に問題ありません。ですが、その……」

 竜神様の方はどうなのだろうか。逸る気持ちが声にも態度にも乗っていたのだろう。対面に座すお師匠様の石切丸は、落ち着きのある声で所感を聞かせてくれる。

「遠回しな表現も、誤魔化すこともせずにはっきりと言えば、かなり危うい状態だね」
「……そう、ですか」
「水神が完全に消失せずに残っているのは、きみの中に残る神気と、火神の気のおかげだろう。それがなければ危ういどころか完全に消滅していた可能性もある」
「ッ……!」

 そんなにもあの“黒い水”は穢れていたのか。
 幾ら被害者とはいえ、そんな場所に竜神様を連れて行ったのかと思うと申し訳なさで歯噛みしてしまう。現に食いしばった奥歯がギチッ、と嫌な音をたてたが、暴走しそうになる気持ちを抑えて石切丸に続きを促した。

「本丸自体に邪気は残っていないものの、この本丸は度々不思議なことが起こる謎めいた場所だ。今までも水野さんはここで行方不明になったことがあるだろう? だから油断は出来ない」
「はい」
「今は百花さんの結界札と浄化札で守りを固めてはいるが、ずっと本丸を封鎖するわけにもいかないからね。また外に出るようになればどうなるか分からない」
「……はい」
「そこで、だ」

 石切丸はそこで言葉を区切ると、僅かな衣擦れの後、こちらの手に何かを握らせた。

「これは……?」
「うちにいる小烏丸が考案した図案を、ここにいる三日月が刺繍した特別な面布だよ。これには魔除けや君の霊力を隠蔽する力が織り込まれている。勿論、完璧ではないから過信は出来ないけどね」

 うちの三日月にそんな趣味があったとは知らなかった。が、手中に収められた柔らかな布地に指を這わせれば、確かに何らかの刺繍が施されていることが分かる。文字……のようにも感じるけど、うねうねして何の文字を刺しているのかは分からない。
 それでも今着けている御簾を外せば、すかさず傍にいた小夜が特別に拵えてくれた面布を着けてくれた。

「どう?」
「うん。特に問題ないよ」
「今後はそちらを身に着けるといいよ。そのうち魔除け以外の効果も分かるだろうから」
「魔除け以外の効果、ですか?」

 一体何を施してくれたのか。分からずに首を傾けるが、石切丸はハッキリと明言しなかった。何でも「口にすれば効果が出ないかもしれないから」ということらしい。
 うーん……。おまじない、みたいなものかしら?

「何にせよ、君は今まで以上に注意した方がいい。出来ることなら現世には戻らず、ここで刀剣男士と過ごした方が安全だろう」
「はい」
「あとは、落ち着くまでは外からの訪問者は断りたまえ。君にとっても、その方がいいだろう」
「……ありがとうございます」

 日頃畑仕事を手伝ってくれている百花さんたちには申し訳ないが、今回の件に巻き込むわけにはいかない。百歩譲って百花さんであれば式神が扱えるからまだ安心は出来る。だけど夢前さんや日向陽さん、柊さん、武田さんは別だ。あの人たちを巻き込むわけにはいかない。
 どこからどうやって『魔のモノ』が忍び込み、襲い掛かってくるのか分からないのだ。用心は重ねておいた方がいい。
 頷く私に、石切丸も「それじゃあ私からの話はこれでおしまいかな」と柔らかく返してくる。だから今度はこちらから一つ質問することにした。

「あの、石切丸さん」
「うん? なんだい?」
「一つ、お尋ねしたいのですが――……」

 それは、ハッキリ言えばかなり危険な行為だろう。
 それでも相談した内容に石切丸は難色を示すだけでなく、「危険は伴うがやってみる価値はある」と答えてくれた。問題は、うちの過保護な刀たちが後押ししてくれるかどうかだ。

「主……」
「小夜くん。皆を広間に集めてくれるかな。石切丸さんは、休憩なさってください。本当に、いつもご迷惑をおかけしてすみません」
「なに、主にとって君は大切なお弟子さんだ。それに私自身応援している。だから助けが必要な時はいつでも声をかけなさい」
「……ありがとうございます」

 陸奥守が臨時で用意してくれた、石切丸専用の部屋に彼が下がった後、小夜は全員を広間に集めてくれた。普段は用意したホワイトボードの前に立って会議を進めるんだけど、今は『見えないから』という理由で座らせてもらっている。
 だから皆が押し掛けるようにして広間に入って来た時は驚きすぎてちょっと背をのけ反らせてしまった。

「主君! もう大丈夫なのですか?!」
「あるじさま……!」
「大将、目が覚めて早々会議とは、本当に大丈夫なのか?」
「薬研の言う通りですよ、主。無理は禁物ですよ」
「あはは……。皆心配してくれてありがとう。でも話をするだけだから」

 とはいえその内容が問題なんだけど。現に皆を呼んでくれた小夜は私と石切丸の会話を聞いていたため不安げだ。でも今の自分に出来ることはこのぐらいしかない。だからどうにかして皆から了承を得ないと。
 因みに現在本丸を取り仕切っている初期刀様は現在鳳凰様への報告中とのことで不在だ。とはいえ本丸にはいるので、そのうち来るだろう。とのことだった。
 だから彼が来るまでの間、代わる代わる話しかけて来る刀たちと言葉を交わす。

「主よ。加減はどうだ」
「三日月さん。ご心配おかけしました。それと、これ、ありがとうございます。三日月さんにこんな趣味があるとは思いませんでした」

 いつになく硬い声で問いかけて来る三日月に、心配しなくても大丈夫だよ。という思いを込めてちょっとだけ茶化してみる。だけど明るい声で答えたというのに、何故か広間には沈黙が落ちる。
 え、ええ〜……。これもしかして言ったらあかんやつだった?
 内心冷や汗どっさり掻いていたのだが、実際には『触れてはいけない趣味』のことではなく、こんな状態になってしまったことを憂いているようだった。

「……すまんな、主。我々が不甲斐ないばかりに、そなたに不自由な思いをさせてしまった」
「三日月さん……」

 そっと膝の上に置いていた手を握られ、ようやく視界が奪われた私のことを心配しているのだと実感する。それに、傍にいたのだろう。鶴丸がいつもとは違う、それこそ出陣前にも聞かせないような声で「主」と呼び掛けて来る。

「きみが眠りについてから、詳しい話を陸奥守と小夜から聞いた」
「あ……」

 その一言だけである程度察してしまった。きっと、言葉を伏せた私とは違い、陸奥守と小夜は包み隠さず話したんだろう。私と“強奪”のやり取りを含めた全部の出来事を。

「主。俺たちはな、自分たちの不甲斐なさにも、きみの意固地なところにも、腹が立って仕方がない」
「うえっ。い、意固地、ですか?」
「そうだ」

 ドスッ。と常にない乱暴な仕草で真向かいに座る三日月の隣に座した様子の鶴丸から、ヒシヒシとした怒りのようなものを感じ取ることが出来る。だけどそれは鋭利な刃物のような恐ろしさを伴ったものではなく、先に鶴丸が口にしたような『後悔』や『無念』――そう言った『悔しさ』が滲む、ままならない感情のように思えた。

「……主。俺たちはな、きみに“あんなこと”を言わせた自分たちが心底情けなくてしょうがない」
「あんなこと?」

 何か言ったっけ?
 マジで何も思い当たる節がなくて首を傾けていると、隣に座していた小夜から強く手を握られる。それに驚く暇もなく、廊下の先から聞き慣れた声が降ってきた。

「おまさんが口にした“穢れた姿”についての話じゃ」
「あー……」

 陸奥守の一言で「そのことか」と悟る。分かってはいた。分かってはいたんだ。だけど、どうしてもコレだけは譲ることが出来なかった。

「主よ。我らはそなたが大事だ。そなたのどこかが欠けるなど、想像したくもない。それこそ髪の毛一本だろうと失いたくはないというのに……」
「きみ自身が“いらない”と口にしてしまってはなあ……」
「憤りよりも、遣る瀬無さの方が募るというものです」
「おおう……」

 三日月や鶴丸だけでなく、宗三の声からも心苦しく思っている様子が伝わってくる。でも、あの言葉に“嘘”はない。だけどそれが『問題』なのだと皆は口にする。

「主。あんたが嘘をつかねえ御仁なのはここにいる全員が知ってる」
「ああ。だけどな、大将。それが必ずしも“いいこと”ではないんだぜ」
「“嘘ではない”。それが分かるからこそ、知っているからこそ、我々にはどうしようも出来ないのだと……。あなたの心を変えることが出来ないのだと言われているようで、悔しく思うのです」
「……僕は、あなたに自分を大切にしてもらいたい。あなたに失っていい部分なんて、一つもないんだから」

 本丸に戻ってすぐ私の目が見えていないことに気付いた和泉守も、私を本丸に置き去りにしてしまったと後悔の念を抱えていた薬研も、私が女であろうと主として認め、共にいてくれると誓ってくれた江雪も、心底悔しいと思っているのだろう。
 そして、共に現世での時間を過ごした小夜も。同じか、それ以上に。私の言葉に傷ついている。

「……ごめん。軽く考えていたわけではなかったんだけど……」

 ただ、譲れなかったのだ。何も出来ない自分だからこそ、皆に“嘘を吐かない”という部分しか誇れる場所がないと思っているからこそ、せめて“穢された場所”などない体で皆の前に立っていたかった。皆の“主”でいるために、必ず必要なことだと思っていた。
 だけどそれは『間違いだ』と皆が言う。

「確かに“穢れ”は毒だ。だが、そんなもの“禊”を繰り返せば次第に消えていく」
「そうだぞ、主。根絶が叶わなくとも、我々と過ごす分には支障などない」
「皆の言う通りじゃ。おまさんは、ほんに自己評価が低うてかなわん」
「うぐっ、皆めっちゃ言うじゃん」

 心配してくれているのはありがたいし嬉しいんだけど、そこまで言うかね? そりゃあ確かに自分の一部が欠けるなんてイヤだけどさ。でも、戦時中なのだ。例え戦場に出ていなくても今後本丸が襲撃されないとは言い切れない。むしろ一度襲われている身だ。いつ自身の体が損なってもいいよう初めから覚悟はしていた。
 だから何の問題もないのだと伝えたかったのに、

「それは結局、僕たちが力不足だ。ってことだよね」
「え?!」

 光忠から思わぬ一言を告げられ固まれば、すぐさま山姥切から「そういうことか」と自嘲気味な相槌が寄こされ冷や汗が溢れ出す。
 待て待て待て。ちょっと待ってくれ! 何でそんな話になるのさ!

「ちが――」
「まあ、主がそう思うのも仕方ないですよね。実際、俺たち主が危険な目に合っている時、何にも知らずに寝てたんですから」
「ああ。全くもって不甲斐ないね。幾ら練度が上がろうと所詮僕らはただの“刀”。主が連れて行ってくれなければ何も出来ない。ただの“なまくら”だ」
「鯰尾と歌仙の言う通りだ。叶うことなら、このへし切長谷部。このまま砕けて資材の一部になってしまいたいぐらいだ」
「ちょちょちょ、何てこと言うのさ!」

 話が思わぬ方向に転がり、心から焦る。
 だって不甲斐ないのは自分だけなのだ。皆みたいに戦える力があればいいけど、陸奥守がいなければ“強奪”を追い払うことさえ出来なかった。そんな自分が“視覚だけ”を奪われたのは幸運だと言ってもいい。だって命とか意識とか奪われてたらこうして皆の元に帰ることも出来なかったんだから。
 でもそれについての責任を皆に求めるつもりはない。現世に戻る際、他の刀も連れて行ってはどうだ? と薬研は呈してくれた。でもそれを断ったのは私だ。だからこんな状態になった責任は私にあるわけで、皆のせいでも陸奥守のせいでもない。強いて言えば“強奪”のせいだ。

 それなのに皆のことを『力不足』だなんて言うはずがない。思うことすらない。

 第一日頃奥に引っ込んでいる身だ。皆を戦場に送り出すだけの私とは違い、実際に命のやり取りを繰り返しているのは彼らだ。
 生きて帰ってきてくれるだけでもありがたいのに、それ以上を望むなんて“間違っている”。だって私は人間で、彼らは――

「待ちい」
「ッ!」

 いつの間に隣にいたのか。面布の上から口を塞がれ、息を飲む。そして私の思考も言葉も塞いだ相手、陸奥守は、呆れたような溜息を吐き出した。

「おまさんのそれはしょうまっこと根深いにゃあ。いつになったらその悪癖を治せるんやろうか」
「な、にが」
「まだ分かっちょらんがか? おまさん、また自分のことを蔑もうとしたやろ。許さんち言うたろうが。もう忘れたがか?」
「――――」

 面布の奥で見えない目を見開き固まる私に、陸奥守は再度ため息を零す。

「にゃあ。どういたらおまさんにわしらぁの言葉が届く? こじゃんと大切に思っちょっても、おまさんに届かんうえに自分から「いらん」ち捨てられてしもうたら、わしらの気持ちはどこにやったらえいがよ」
「そ、れは――」
「……頼むき、もっとわしらを信じとうせ。おまさん、わしに言うたろう? 自分を信じろ、ち。わしらぁもおんなしこと思いゆう。もっと頼ってくれんか。わしらは、そがぁに信用がないかえ?」

 優しくも、悲しくも聞こえる声音に二の句が継げず、押し黙る。
 だけど、肯定したいわけじゃない。
 だからフルフルと首を横に振ると、陸奥守の手が離れていく。

「聞かせとうせ。おまさんの“まこと”が、わしらには必要なんじゃ」

 本音を聞かせろ、と陸奥守は言う。だけど、私はいつだって嘘偽りのない言葉を伝えてきた。気持ちをぶつけてきた。だから“偽っていること”なんて何もないのに、今更何を話せと言うのか。
 俯く私の手を、対面に座したままだった三日月が両手で包み込んでくる。

「主よ。何故そなたはそこまで己を下に見る。我々が親愛の情を込めて“主”と呼び、慕い、守ろうとしているのに、何故頑なに拒むのだ? 刀が恐ろしいか? 付喪神だから、人の心が分からぬと思っているのか? それとも、我らが不甲斐ないか?」
「違う! そうじゃない……。そうじゃないよ……」

 確かに彼らは付喪神だ。人と感性が違うのは当然だし、生まれて来た時代、過ごした時代によって現在の価値観と異なる視点を持っていることも理解している。
 だけど、そうじゃない。そうじゃないんだよ。
 神様だろうと人だろうと、分かり合える人とは分かり合えるし、そうじゃない人は絶対にいる。私と鬼崎がそうであったように、同じ人間でも思想も思考も理解出来ない人は必ずいるのだ。彼らが刀だからだとか、神様だからだとか、そんなの関係ない。
 ただ――


「……私には、“価値”がないから」


 守られるだけの価値も、大事にされるだけの価値も、愛されるだけの価値も、何もない。

 この一言を口にするまでにどれほどの勇気が必要だったか。そして、この一言がどれほど情けない声音で、震えていたか。理解したくもない。

 確かに“浸食”を司る『魔のモノ』から助けて貰った時に『もうこんな考え方をしてはいけない』と思った。それでも、すぐに消えるような簡単な思いでもなかった。
 だって、私のせいで竜神様の命が危険に晒されてしまった。それなのに、どうして胸を張って立っていられるだろうか。

「だってそうでしょ? 刀である皆を手にして実際に戦場に行って戦ってるわけじゃない。奥に引きこもって、指示だけだして……。確かに、手入れ出来るのは私しかいないかもしれない。けど、逆に言えば“それしかない”んだよ。審神者の価値なんて」

 勝手に震える手を、三日月が力強く握り返してくれる。それでも心はどんどん冷えて行き、指先から熱が奪われていくような心地になる。

 ――頭の奥で、同級生たちの嘲笑が木霊する。

「私は、自分の“価値”が分からない。竜神様や鳳凰様がどうしてこんなに良くしてくださるのかも分からない。それでも皆がこうして守って慕ってくれているのは、私が“主”だから。それは流石に分かってる。でも、元の主に比べたらただの一般人でしかない。石ころみたいな、いてもいなくても変わらない、そんな人間なんだよ」

 何も出来ない。戦えもしない。浄化も出来ない。結界だって張れない。ないない尽くしの三拍子どころか四拍子、いや、フルコースだ。そんな私がどうやって自信を持って彼らの“主”となれるだろう。
 こんな考え方ダメだと分かっているのに、一度零れた言葉は取り戻せない。無造作に転がる土のついた石のように、ゴロゴロと溢れては床の上にぶつかって落ちていく。

「むしろ私のせいでいつも大変な目に合ってる。鬼崎に狙われた時も、水無さんの本丸に飛ばされた時も、今回だって……。私はいつも足手纏いで、何一つとして成しえていない」

 どうすれば彼らの“主”として堂々とした人間になれるんだろう。前を向いて、胸を張って、神様たちが慕ってくれるだけの価値ある人間になれるんだろう。
 分からずに「自分が情けない」と言い募れば、三日月が握っていた手を額に当ててきた。

「三日月さん?」
「……まったく、どうしてそなたはそう……」
「はあー……。本当に、どうしたものかなぁ……。なあ、主。きみは“言葉”の強さを理解しているようでしていない。同じ過ちを繰り返すのが人間だということは分かってはいるが、こうも目の前で繰り返されると流石に辛いぞ」
「鶴丸?」

 二人とも何をそんなに悩んでいるのだろうか。あれかな。どう叱ればいいのか考えているのかな。
 自分の最も情けなくて汚い部分を曝け出したせいだろうか。虚無感というか、虚脱感のようなものを感じていると、改めて三日月が言葉をかけてきた。

「主よ。ようやく分かったぞ。そなたは愛を与えることばかりに優れ、他者からの愛を受け取ることが悉く苦手で下手くそなのだ」
「は?」

 思わぬ一言に素っ頓狂な声を上げてしまうが、鶴丸は「ああ。確かに」と頷き、陸奥守も「しょう困ったお人じゃ」と呆れた声を上げる。

「主。おまさんはずっとそがなこと考えて生きちょったがか?」
「ん? うん。だってそうでしょ? 審神者に選ばれた時も『何で自分なんかが選ばれたんだろうなぁ』って思ったし、今でも、いつもじゃないけどさ。時々皆に『主』って呼ばれることに疑問を抱く時があるよ」

 これも本当のことだ。最初は違和感凄すぎて恐縮してたし、慣れた今でも時々冷静になって考える時がある。「なんでこんなのを“主”と呼んで慕ってくれるのかなぁ」って。言っちゃえば他の審神者さんの方が優秀だったり、有能だったりするわけじゃん。だからその人たちの元に顕現してた方が彼らも幸せだったんじゃないかなぁ、と思うのだ。
 こんなにも毎回死にかけたり変な事件に巻き込まれる事故物件女よりかはさ。

「あー……。おまさんのソレはわしらぁが考えちょったよりしょうえっずいのぉ……」
「えずいって、何が?」
「自己評価の低さじゃ。わしはおまさんの話を聞いたき、原因も分かっちゅうし、覚えちゅう。けんど、心の傷は想像以上やった、っちゅう話ぜよ。おまさんの鈍さは、自分を守るために生まれてきたようなもんじゃ」

 陸奥守が何を言っているのか分からずに首を傾けていると、疲れたような声音で「昔話のことじゃ」と言われて「あ」と声を出す。多分、陸奥守は『中学生時代の辛い記憶』のことを言っているのだろう。あの時傷ついたままの子供が大人になったことを嘆いているのだ。
 でも中学生時代に戻ってやり直さない限り、自分は自分のままだ。簡単には変われない。面白くない思い出も、言われた言葉も、それに傷ついた事実も、無くならない。
 考えてみればあれは「言葉による迫害」や「イジメ」と呼んでも差し支えないものだった。だけど当時はそう思えなかった。……いや。思いたくなかった、という方が正しいか。だから咄嗟に俯けば、誰かの手が優しく頭を撫でてきた。

「確かに、我々では母が我が子を愛するような“無償の愛”はやれんなあ」
「下心ありきだからなぁ。あいたぁ!」
「次言ったら鞘で殴りつけますよ、鶴丸」
「いたた……。いつから近くに立っていたんだ、宗三……」

 よく分からないけど鶴丸が殴られたらしい。そして鶴丸を殴った様子の宗三が、恐らく立っている状態なのだろう。物理的に上から物申してきた。

「はー……。主。あなたは本ッ当に質が悪いですね」
「へ? な、何でさ」
「宗三の言う通りだぞ、主。そなたは我らを“まことの言葉”で口説き落とし、無自覚に縛り付けている。それなのに釣った魚に餌をやるばかりで食おうとはしないのだから、呆れもする」
「普通であれば心が飢えるだろうに、きみは変に鈍感だから自分の傷にさえ気づかない。そしてその傷に気付かなかった俺たちも、情けなくて仕方ない」
「な、何? 何の話?」

 全くもって意味が分からず、見えないながらもあちこちに視線を飛ばせば、それこそ座していた様子の全員から呆れたような溜息やら文句やらが飛んできた。

「主。君がそうなった原因を知っているのは陸奥守だけというのはこの際置いておくが、君は我々にとって大切な主だ。幾ら君であろうと、言葉で傷つけるのは看過できない」
「鶯丸の言う通りだぜ、主。ったく、まさかこんなに自信がねえとはなぁ。道理でこっちの心配やら何やらが通じねえわけだよ」
「主さんはとことん自己評価低いなぁ。とは思ってたけど、想像以上だったね、兼さん」
「もーさぁ、本当さぁ、主はもっと自分を大事にしてよ。何なら俺たちに愛されまくってること自覚して〜。お願いだからさぁ」
「僕がそれっぽく言うと『嘘臭い』って言われるからあんまり言わないようにしてたんだけど……。これはもうストレートに愛を囁き続けるしかないかな?」
「やめろ、光坊。ここを現代の“ほすとくらぶ”にするつもりか」
「ホストより食堂の方が主は喜ぶ気がするんだがね」
「色気より食い気ってか? ははは! そりゃあいい! 俺もそっちの方がやりやすいってなあ!」
「ちょっと歌仙くん! 同田貫くん! 僕は真面目に言ってるんだけど!?」

 何かよく分からんけど皆いつもの調子が戻ってきたようだ。それにほっとしていたら、隣に座していた陸奥守から「主」と改めて呼びかけられる。

「おまさんは、わしらのことをこじゃんと大事にしてくれちゅう。それはわしらも分かっちゅう。やき、疑ったことはないろう?」
「う、うん」
「けんど、わしらの言葉を受け取れんがは、おまさんの“心の傷”が塞がってない証拠じゃ。こんまい頃に言われた言葉が、今もまだ塞がらんで血を流しゆう。そこを塞がん限り、わしらの想いは血と一緒に流れてしまうがよ」
「……心の、傷」

 あんまり自分自身の内側について考えたことはなかったけど、そんなものが残っているのだろうか。中学生時代なんて遥か昔のことなのに。まだ傷口が塞がってすらいないという陸奥守の言葉をどこか他人事のように聞いていると、反対側に座していた小夜がいきなり「復讐する?」と聞いていた。

「主を傷つけた人たちがいるなら、僕が一人残らず復讐してくるよ」
「え?! あ、いや! 流石にそこまでは!」

 久方ぶりに感じる『小夜左文字』節に慄き、慌てて止めるが皆何をそんなに怒っているのか。次から次へと物騒な言葉を紡ぎ始める。

「はっはっはっ。遠慮するな、主よ。なに、室内戦であろうと振るえぬわけではない。それに俺自身戦えぬわけではないからな。うむ。最悪素手殺るから安心しろ」
「怖い怖い怖い! 三日月さんどうした?!」
「いやー、三日月よ。殴り殺すならお前じゃなくて歌仙に任せておけ。いや、むしろ投石兵を積んだ打刀たちに行かせた方がいっそのこと早いかもしれん。なあ、長谷部」
「無論。主に不敬を働いた者など生きる価値もない。見つけ次第即斬首する」
「そうですよ、鶴丸。投石兵に頼っては主の家臣としても魔王の刻印を持つ者としても名折れとなってしまいます。家ごと焼きましょう」
「焼き討ちすなーーー!!!」

 いやもう何がどうしてこうなった?!
 訳が分からず思考がグルグルするが、それでもいつもの癖で織田刀に突っ込みを入れれば薬研の笑い飛ばす声が鼓膜を揺する。

「はっはっはっ! 落ち着け長谷部、宗三。現世で焼き討ちすると周りに被害が出る。主に迷惑はかけられんだろう?」
「む。それは確かに」
「ならばどうするおつもりです? 物理で行きますか?」

 なんで薬研が止めたにも関わらず最終的に物理で殴る(脳筋思考)になるんだよ。小夜もそうだけど宗三も割と血の気が多いよな。と呆れていると、新選組副隊長の相棒枠が「はい!」と元気よく挙手をした。

「闇討ちしましょう! もしくは暗殺で!」
「いや、こっえーよ!!」
「はい! 暗殺ならボクたちもいけるよ!」
「あ、あるじさまのためなら……!」
「ええ。歴史に支障が出るような人物とは思えませんし、大義のための犠牲だと思って処理しましょう」
「落ち着け粟田口ー!!」

 あれ?! おかしいな?! 短刀たちってこんなに殺意高かったっけ?!
 どうやったら皆が止まってくれるのかと慌てていると、黙って聞いていた陸奥守がクスクスと笑い始めた。

「おまさん、これでもまだ分からんかえ?」
「へ?」
「わしらがどれだけおまさんを好いちゅーか、いい加減気付いて欲しいもんやけんど」

 詰るようなセリフの割に、どこまでも優しく響く声音に改めて皆の物騒な発言を噛み砕く。……いや。だからってそんなさぁ。『邪魔者も不敬者も即死刑ね!』って言われたら誰だって焦るって。

「陸奥守よ。急いてはいかんぞ。主は“まことの言葉”を使うばかりで、受け取り方を知らぬようだ。我々が時間を掛けてゆっくりと教えていこうではないか」
「そうは言ってもだなぁ。今回ばかりは少なくとも“自覚”してもらわんと困るぞ」
「鶴丸の言う通りだぞ、三日月。主よ。何故俺たちが戻って来たのか、今一度よく思い出してみてくれ」

 鶯丸に諭すような声音で乞われ、鬼崎によって我が本丸に送り込まれ、そして折れた五振りの太刀が戻って来てくれた時のことを思い出す。そして、もう一つの本丸で過ごした時間も、そこで出会った刀たちのことも、全て。

「主よ。そなたは“価値がなければ愛されてはいけない”と考えているようだが、それは違うぞ」
「そうですよ、主。むしろ世間一般では愛した分だけ“見返り”を求めるものです。あなたのように、見返りも何も求めずただ与えるだけの人間なんて、そうはいませんよ」
「きみの言葉も、きみがくれる無償の愛も、信頼も、尊敬も、すべてが金で買えぬ貴重なものだ。それに応え、また返したいと思うのは悪いことだろうか?」
「そ、れは……」

 初めて言われた。『愛されるのが下手くそだ』なんて。それに『与えるばかりで受け取り方を知らない』と言われたことも。“見返りを求める愛”もそれを返したいと思う皆の“気持ち”も、どれも言われるまで自分には縁のないものだと思っていた。
 改めて気付かされた事実に困惑していると、私の手を握っていた三日月がぽんぽん。と優しく片手でそこを叩いてきた。

「主。知らなかったのならこれから覚えれば良い。我らの想いも、我らに愛されていることも」
「そうだなぁ。まだ“難しい”と思うならば、まずは我々に頼ることから始めればいい」
「甘えても構わんぞ。なに、茶を煎れる腕前なら本丸一だと自負している。茶菓子選びは歌仙に譲るがな」
「料理の腕前も譲って欲しい所だけどね。まあ、主は自己評価が著しく低いということが露見したから、我々もあの手この手で知らしめていこうじゃないか」
「そうだね。手始めに主の好きなものを網羅したうえで増やしていくことが僕なりの愛し方で、目標かな」
「胃袋を掴みにいくとかガチじゃねえか」
「僕はいつだって本気だよ? 和泉守くん」

 いつもの賑わしさが戻ってきたことに安堵する傍ら、頭の片隅で「“愛”とは何だろう」と考える。
 鳩尾さんにも以前聞いたことがある。だけど、刀でもあり長らく人を見てきた彼らの考える“愛”が人間と同じとは限らない。だからつい、ポロリと、口にしてしまった。

 愛とは何なのか、と。

「ふむ。愛とは何か、か。これはまた、難しい質問だなぁ」
「我々は付喪神ですからね。人とは観点や思想が違っていますから、お望みの答えにはならないでしょう」
「それでもよろしいのでしたら各自お答えすることは出来るかと思いますよ、主」
「……いや。ううん。いい。気持ちだけ受け取っておく」

 宗三と長谷部の言葉だけでも十分だ。
 そうだよ。“愛”は目に見えない。形が決まっているわけでもない。分かっていたのに聞くなんて、よっぽど視野が狭まっていたんだな。

 それが分かっただけでも一歩前進したかもしれない。

 先とは違い、前向きに考えることが出来たのは皆のおかげだろう。だから、もう恐怖とか“価値がどうの”とか、そういう気持ちは全部“捨てる”。そして全部捨てたうえで、私は自分のやりたいこと、なさねばならないこと。成したいと思うことを、口にする。

「皆。私は、竜神様を助けたい」

 突然話題を変えるな。と思われたかもしれない。突拍子もないことを言っているという自覚もある。
 それでも何も見えない世界の中、顔を上げて出来るだけ大きな声で告げれば、改めて皆が耳を傾けてくれているのを肌で感じた。

「皆も分かっていると思うけど、竜神様は今とても危険な状態なんだって。この数日間眠っている間、鈍い私でもそれがよく分かった。いつも助けられてばかりいる自分に何が出来るかなんて分からない。でも、」

 もしもこの方法が役に立つのであれば、“試してみたい”と思うのだ。竜神様のためにも、自分自身の“今後”のためにも。

「私は、今日からまた“夢”に潜ろうと思う」

 音もなく空気が揺れたのが分かった。隣に座っていた小夜が身を固くしたのも、ちゃんと分かる。それでも“言葉”を重ねていく。今の私に出来ることは、私の“武器”は、これしかないから。

「竜神様の傍にいたいの! 力になりたい……。私の祈りや、想いだけでどうにかなるとは思わないけど、それでも……」

 あの冷たい水の底で、お一人で苦しんでいるのであれば。寄り添ってあげたい。この小さな体で身を挺して守ることが叶わなくても、せめて、心だけは――。傍に、いたいから。

「皆には、迷惑をかけると分かってる。出陣もまともに出来ないし、外と交流も出来ない。本丸に閉じ込めると分かってる。それでも、協力して欲しい」

 今まで何度も助けられてきた。だから今度は私が竜神様を助けたい。ほんの少し、僅かな欠片だけでもいいから。竜神様の回復に役立てられることがあるのなら、全力で勤しみたいのだ。
 若干の恐怖と緊張を持って伝えれば、暫しの沈黙の後、陸奥守が背中を優しく叩いてきた。

「本丸のことはわしと小夜に任せちょけ。おまさんは、自分の好きにしたらえい」
「むっちゃん……」
「そうだよ、主。籠城戦だと思えばそう難しいことじゃない」
「小夜の言う通りです。主。作戦を立て、計画的に生活すれば兵站に問題もありません」

 小夜と長谷部の言にほっとすれば、他の刀たちも存外あっさりと了承してくれた。ただ、あまりにも長く眠ると私の体に支障が出るので、連続で眠るのではなく休憩を挟むよう言われる。

「本音を言えば丸一日は開けて欲しいものだが……」
「緊急事態だからね。主の身に危険が及ばないのであれば、限界まで挑んでみるのも一つの手だと思うよ」
「俺っちたちも宝玉に祈りを捧げ続けるから安心しな。多少は大将の力になるかもしれねえからな」
「皆……ありがとう」

 正直反対意見も出てくるかと思ったが、皆竜神様の状態に思うところがあるのだろう。「無理のない範囲で」という条件付きではあるが、承諾を得ることが出来た。
 だからほっと肩の荷を下ろせば、陸奥守から「三日じゃ」と囁かれる。

「上様に言われた限度が三日やきの。それ以上はおまさんの身が危ないき、三日経ったら必ず起こす。えいな?」
「うん。分かった」
「けんど、今日はダメじゃ。三日眠ったら一日は回復に当てた方がえい。……自分でも分かっちゅうろう。おまさんの体、こじゃんと冷えちゅう。これ以上は命に関わるき、聞きとうせ」

 陸奥守の言う通りだ。そして三日月がずっと手を離さないのも、それが理由だろう。
 熱いお風呂に浸かってもまだ感覚が鈍く、指先もいつもと違って生ぬるい。もしこのまま潜ったとしてもすぐに追い返されてしまうだろう。そうなれば竜神様も休めない。本末転倒だ。
 だからその提案に頷きを返せば、陸奥守も手を叩いてまとめに入った。

「ほいたら今日は回復に当てる日じゃ。ほいでもおまさんの承認や確認が必要な書類も溜まっちゅうき、遊ばせることは出来んが」
「あはは。それはいいよ。むしろ気になってることいっぱいあるからさ。サクサク処理しちゃおう」

 そして明日からまた夢に潜らなければ。
 いつ“強奪”が襲ってくるか分からない中、竜神様にばかりかまけて対策を立てないのは愚行かもしれない。だけどそれについては陸奥守が「わしに任せちょけ」と言うので、もう完全に丸投げすることにした。

「頼りにしてます」
「うむ。そうしてくれ」
「応えて見せますよ、あなたの刀なんですから」

 心強い刀たちの返答に改めて安堵し、その日は色んな刀に声をかけられたり、様子を見に来られたりしながら溜まっていた事務仕事をこなしたのだった。



prev / next


[ back to top ]