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 若干墓穴を掘ったものの、どうにか無事に朝日を迎えることが出来た。汗を掻いた衣服は寝具と共にコインランドリーに母が持って行ってくれることになり、その間に出勤した父を見送ってから改めて三人で昨夜何が起きたのかを話し合う。

「まず私が寝る前のことから整理していくね。むっちゃんは外にいたと思うんだけど、そこで変なのに襲われたよね?」
「おん。二人も見たと思うけんど、あいたぁは人じゃないぜよ。けんど、人の"念”が元になって生まれて来たもんで間違いないろう」
「“念”、ってことは、所謂“怨念”とか、そういうの?」
「うん。僕もそう思う。特に僕はそういうのに敏感だから、間違いないと思うよ」

 刀剣男士が逸話などを元にして顕現するように、あの黒い変な奴らも“人間の念”を元に出来ている。というのが二人の見解だ。特に小夜は“復讐”を始めとした負の感情には敏い。そんな彼が言うならほぼ確定だろう。
 それに陸奥守曰く、私が見たのは一体だけだけど、実際には何体も外をうろついていたという。

「えらくはなかったけんど、よーけおってにゃあ。こがぁに影響が出ちゅうがかとびっくりしたぜよ。やき、上様に教えてもろうた“退魔の術”で焼いちょったがやけど、いなり一つに集まっておまさんの家に飛んで行ったんじゃ」
「え゛っ。なにそれ。怖ッ」
「うん。僕も驚いた。幾つかは“大地の神様”が弾いてくれたけど、取りこぼしがあって。その残りが主を狙って来たんだ」

 一体一体が強くなくても数がいれば面倒だ。しかもそれが一体にまとまって家に突撃してくるとかどんな状況やねん。それでも大地の神様により幾つかの“怨念”は弾かれたらしく、残りを小夜が対処してくれたらしい。

「でも、その数も結構多くて。陸奥守さんが急いで戻って来てくれたんだけど、主の部屋を滅茶苦茶にするわけにはいかないから……」
「ああ……。狭いもんね……」

 本丸の私室の方がまだ広いため、さぞ戦い辛かっただろう。それでも必死に守ってくれた小夜には有難さしかない。陸奥守も発砲出来ないうえに狭い部屋での戦闘に四苦八苦したらしく、申し訳なさしかない。
 結果的に狭い部屋での立ち回りで生じた一瞬の隙を突かれ、一体の“残留思念”が私に触れたらしい。すぐさま陸奥守が燃やしたらしいけど、恐らくその時だろう。私があの“黒い本丸”に連れて行かれたのは。

 実際夢を見ている間、二人は寝苦しそうに呻く私に異変を感じ取ったらしい。そこで普段から触れ合っている陸奥守が私の夢に介入することにしたそうだ。
 ――でもちょっと待って欲しい。夢って介入出来るものなの?

「人間同士では難しいとは思うけんど、わしは上様に色々教わっちゅうき。おまさんの霊力と竜神様の神気を辿ってせせりこんだがよ」
「なるほどね」

 おかげであのとんでもねえ場所から抜け出すことが出来たんだけど、それはそれとして。まだ疑問は残っている。
 あの本丸で見た“小鳥遊さん”らしき謎の物体Xと、最後には霧散した“黒いこんのすけ”だ。我が本丸にもこんのすけはいるが、あんな薄気味悪い存在ではない。なんというか……あのこんのすけはどこか“作られた偽物”感があった。

「姿を模した、ってこと?」
「そうじゃないかと私は考えてる」
「ほに。わしもおんなし感じがしたき、あれは“こんのすけ”の形を真似した“何か”やろう」

 あれも『魔のモノ』の一種なのか、それともまた別の“何か”なのか。結局これといった手掛かりになるようなものは何も見つけることが出来なかった。そもそもあの本丸は誰が持ち主だったんだろう。
 審神者部屋から小鳥遊さんらしき物体Xが出て来たから、やっぱり小鳥遊さんの本丸なのかな。でも、だったら刀剣男士は皆どこに行ったんだ? まさかあの湖の底に沈んでいるとか?

「…………主?」

 黙り込んで考えていると、小夜が不安そうに声をかけて来る。だけどもう一度あそこに行きたくても本丸IDは分からないし、行けたとしてもまた一人だったら確実に詰む。それに今度は刀剣男士に介入されないよう、あちら側が手を打って来る可能性もある。
 そう考えたら安易に「また行けたらいいのに」とは言えない。うーん。と頭を捻っていると、コインランドリーから母が戻って来る。

「はい。これ。陸奥守さんのお着物とあんたの服。それからベッドカバーね」
「ありがと。助かった」

 小夜が「自分のはいい」と言って洗濯を拒んだため(まあ元々母には見えていないんだけど)私と陸奥守の装束、それから汗が染みたであろうベッドカバーを洗濯してもらったのだ。
 その間陸奥守には申し訳ないけど兄の服を着て貰うことにした。と言っても陸奥守の方がガタイがいいのでだいぶギリギリだけど。まあ、着て貰わないと半裸になって目のやり場に困るから無理矢理にでも着せただろうけどさ。意外にも文句一つ零さずすっと着てくれたので助かった。

「おおきに。すまんかったの」
「いいえ。お気になさらないでください」

 私が洗濯物を受け取る間にも礼を述べる陸奥守に母は笑顔を返したが、すぐに私にだけ聞こえる声で「お母さんも出勤するから。じゃあね」と言って部屋を出て行く。
 母はパートだから出勤時間が父より遅い。本丸にいる皆にも帰りが昼を過ぎることはもう伝えている。病院に何か手がかりがあればいいのだが、なければまた別の手を考えなくてはいけない。

「どっちにしろ、病院で何か掴めたらいいんだけど」
「ほうやのぉ……」

 背を向けている間にも陸奥守は衣擦れの音を立てて着替えている。小夜も手伝っているらしく、案外すぐに着替えは終わった。

「ねえ、むっちゃん。小夜くん」
「おん?」
「なに?」
「昨日の変な奴らってさ、昼間にもいると思う?」

 大体幽霊だとか妖怪だとかは日中は活動せず夜に動くものだけど、人間の“残留思念”が集まったモノがどうかは分からない。だから直接対峙した二人に所感を尋ねてみると、二人は微妙な顔をした。

「おまさんの目なら視えるかもしれんけんど……」
「でも、危険だよ」
「分かってる。それでも、病院に向かうまでの間に昨日むっちゃんが辿ったルートを歩いてみたいんだよね」

 そもそも何故その“残留思念”が私に襲い掛かって来たのかがよく分からない。昔からここにいたうえ、先日もいたのにその時は何もなかった。もしかして、秋田がブレスレットを切った人物に関係があるのだろうか。
 一応そのブレスレットは持ってきているのだが、今のところ何の反応もない。手に持っても何かが見えることもなく、また何かをおびき寄せているような感じもしない。ただの壊れた装飾品となっている。
 だからほんの少し、欠片でもいいから何か見つけたいと主張すれば、二人が傍にいるならばとりあえずは大丈夫だろう。ということで話は落ち着き、早速家を出ることにした。

「むっちゃんは昨日、どこから回ったの?」
「最初はこの辺りからあっちに……」

 説明を受けながら一緒に歩くが、やっぱり昨日大方退治したせいか何も残っていない。沢山いたそれらが一塊になって私の家に飛んで行った、という場所にも行ってみたが同様で、やはり何も残ってはいなかった。

「小夜くんも何も感じない?」
「うん」

 今回は刀の状態ではなく、人の姿のまま一緒に歩いている。私では感じ取れなくても小夜なら何か分かるかもしれないと思ったからだ。だけど小夜でも分からないなら本当に何も残っていないのだろう。
 またもや収穫なしか。とため息を吐き出した時だった。「あら?!」と甲高い声が背中に掛かり、咄嗟に振り返ると、そこには驚くことに“やっちゃんのお母さん”が立っていた。

「由佳ちゃん?! 久しぶりね〜、元気だった?」
「お、お久しぶりです〜。私は元気ですよ! おばさまは、どうしてこちらに?」
「運動がてら遠回りして出勤してるのよ〜。前はこの辺に住んでたじゃない? だから懐かしくって」

 やっちゃんの家は確かに近所だったけど、一度引っ越したんだよな。だからもうこっちで会うことはないと思っていたのに、母より何歳も若々しく見えるおばさまは綺麗に着飾って微笑んでいる。
 確かおばさまはサービス系の仕事に就いていたはずだけど……。と遥か彼方に追いやっていた記憶を掘り起こしていると、おばさまはニコニコと笑みを浮かべながら近付いて来る。

「ねえねえ、由佳ちゃん。こちらの方は?」
「え?! あ゛! え、えっと、」

 やっちゃんは家庭を持っているからおばさまにこの間の同窓会については話していないのだろう。だから私が付き合っている人だとは知らなくても当然だ。でも、絶対勘づいてるだろ。この表情は。
 どこか楽し気な表情のおばさまに頬を引きつらせながらも「恋人です」と答えようとしたのだが。何を考えたのか。陸奥守はこちらの肩を引き寄せると、とろけるような声で「夫です」と嘘を言いやがった。

 お、お前ーーーーーーーーッ!!!!!!

「まあ! 由佳ちゃん結婚してたの?!」
「え?! あ、あの、い、いや! ちがっ……!」
「これからする予定ですきに」
「ふぁ?!」
「あらあ〜! そうだったの! おめでと〜!」

 こ、こいつ……!!
 わなわなと怒りと羞恥で震えていると、陸奥守がまるで「さっきの仕返しじゃ」と言わんばかりの笑みを向けてくる。

 お、お前ーーーーーーーッ!!!!!

 だけどここで驚くべき一言がおばさまの口からもたらされた。

「じゃあ、この子は? 迷子かしら?」
「へ?」

 “この子”?

 おばさまの言葉に二人して驚くが、おばさまの目は確かに小夜を見ていた。小夜も驚いているのだろう。だけど咄嗟に陸奥守の背に隠れ、あろうことか「お父さん」と呼んだ。

 小夜くん!! お前もか!!!

「あら? ということは……」
「あ、え、えーっと、これはですね……!」

 この場合「誤解です」と言うべきなのか、それとも「後妻です」と嘘を吐くべきなのか。分からずにドッバドバ背中に汗を掻いていると、陸奥守が優しい笑みを浮かべながら小夜の頭を撫でた。 

「知人の子を引き取ったがですよ。兄弟三人しかおらんで……」
「え? あら、まあ。それじゃあ……」

 琥珀色の瞳は優しくもどこか同情の色を浮かべている。これは多分アレだな。憂いの長兄江雪と、自称籠の鳥、見た目だけはか弱い我が本丸の御意見番である宗三を思い出して「おまさんも苦労するなぁ」みたいな気持ちで見下ろしているんだろうな。
 だけど心優しいおばさまの中では一気に小夜の偽家族が悲劇を辿ったストーリーが展開されたのだろう。目を潤ませ、「大変な思いをしていた子を引き取られたんですね」と頷いている。そして小夜も哀愁漂わせる表情で俯くと、私の手を握ってきた。

 お前ら演技派だな? 今度の宴会で劇でもやってみたら? なんて考えていた時だった。

「……お母さん」

 と呟かれ、力を込めて手を握られる。その瞬間頭の中で何かが弾けた。

 っしゃおらーーーー!!! 私がママだよ!!!!! 小夜くんを泣かせるとか偉い人でも許されねえから!! 嘘の一つぐらいは付きますとも! ええ! 嘘も方便って言いますしぃい?!?!

「由佳ちゃんも立派ねぇ。ご両親も誇らしいでしょうね。これから家族三人で頑張ってね。おばさん応援するわ!」
「ありがとうございます!」
「おおきに」
「ありがとう」

 いやもう何だろうな、これ。今ちょっと何かがビッグバン起こして咄嗟に頷いちゃったっていうかお母さん気取っちゃったけどさ、小夜くんよ。それでいいのか君は。あとむっちゃん。あとで殴る。

「颯斗にも教えてあげないとね〜」
「あ゛! い、いえ、それは流石に、自分の口から説明しますと言いますかですね……!」
「あら。それもそうね。やだわ、おばさんったら! ついはしゃいじゃって。ごめんなさいね」
「い、いえいえ……」

 大丈夫です。はしゃいでいるのはおばさんじゃなくてこの隣にいる男です。顔と性格がいいからって嘘ついても許されると思うなよ。あとで殴るからな。

「それじゃあおばさんもう行くわね! 由佳ちゃん、またお話しましょう!」
「は、はい〜! お気をつけて〜!」

 引き攣りそうになる頬を必死に吊り上げ、どうにか笑顔でおばさまをお見送りし――その背中が見えなくなった瞬間陸奥守の腹にグーパンを入れた。

「そおいっ!!」
「うっ」
「何を言うとるんじゃお前はーーッ!!」
「いんや〜、まさか小夜が見えちゅう人がおるとは思わざった」
「驚きました」
「小夜くんも! 悪ノリしないの!」

 ツン、と小さな額を人差し指で突けば、後ろから「わしにはグーやったがに……」と文句が零される。うるさい。始めた奴が一番悪いんじゃい。
 あれ? でもそれを言うなら自室で「家族云々〜」って言った私が一番悪いのか? ………………よし。最初に言った奴は悪くない。嘘を吐く奴が一番悪い。ということでむっちゃんが悪いでFA。

「ったくも〜。そもそも江雪さんと宗三を育てる自信なんてないよ、私」
「何を言いゆうが。ちゃんと育てたやないか」
「まさかとは思うけど、練度のこと言ってる?」

 悪戯好きの恋人に呆れるが、当の本人から「まあいつかは本当に嫁にするけんど」と笑みを向けられ硬直する。
 う、うるせえやい!!

「ほら! もう行くよ、二人共!!」
「んははははっ! おまさんやっぱり照れ屋じゃのぉ〜!」
「うっさい! 本当に置いてくよ?!」

 一緒に歩くことすら恥ずかしくて一人で先を歩くが、どうせ二人のことだ。隣に並ばなくても後ろを歩いてくるだろう。それに通勤や通学で人通りが多くなった道では二人の会話を聞き取ることが出来ず、顔の熱が冷めるまで丁度いいクールタイムかと気にしないことにした。
 その間背後でどんな会話がされていたのか知りもせず。

「主、お互いにプロポーズしあってることにまだ気付かないのかな……」
「気付かんやろう。主は無自覚で爆弾落としていくきにゃあ」
「陸奥守さんを“お父さん”と呼ぶまではまだ弁解の余地があったのに、その後“お母さんが自分”って言っておきながら気付かないって……」
「んははは。そこがかわえくもあるけんど、本丸で言うちょったら皆びっくりしたろうね」
「……これ、黙っていた方がいいですよね?」
「おん。わしらだけの秘密じゃ」
「分かりました」

 途中陸奥守の笑い声が聞こえたからチラリと振り返ると、何やら二人して頷き合っている。また『男同士の会話』みたいなことしてんのかな。それともこの後行く病院に着いた時にどう動くかの確認とか?
 よく分からないけど、二人に聞こえるように声を上げる。

「この後来るバスに乗って行くよー」
「おーう」
「はい」

 頷く二人のうち一人は刀に戻ってもらい鞄に入れ、むっちゃんの分はお金を渡してバスに乗り込む。タクシーを使わないのは大して距離が離れていないことと、色んな人が乗り降りするから『魔のモノ』の痕跡や関係者が乗って来ないか見るためだ。
 でも結局目的地に着くまでこれといった収穫はなく、むっちゃんと並んで大学病院前のバス停に降りた。

「ほにゃあ〜! こいたあまっことざまな建物じゃのお!」

 陸奥守が「デカいな?!」と驚くのも無理はない。大学病院と言えばどこもかしこも大体大きいものだ。勿論ここも大きい。病床の数は千を超えていたはず。だから医者や看護師の数も多く、バスが止まる数秒前にも一台の救急車が飛び込んできた。
 バタバタと忙しなく指示を飛ばす声が風に乗って聞こえる中、両親から聞いた加害者がどの病室にいるのか、受付に聞いたら答えて貰えるかな。と考えていると、一台のパトカーが駐車場に停まっているのが目に入る。
 ……もしかして、意識が戻ったのかな? あるいは別件かもしれない。

 何はともあれ入って見ないと分からない。そう思い、陸奥守と共に自動ドアを潜った時だった。目の前をものすごいスピードで医者と看護婦が通り過ぎていく。……あれ走ってないからセーフなのかな。ほぼ競歩レベルなんだが。
 驚いている間にも、二人の会話が少し聞こえてきた。

「先生、警察の方が例の患者さんについて――」
「まだダメだとあれほど――」
「ですが……」

「……怪しいね」
「ほうじゃな」

 颯爽と去って行ったからちょっとしか会話は聞けなかったけど、陸奥守と一緒に二人が消えて行った方向に向かって歩いて行く。道中様々な患者さんとすれ違うが、やはり『魔のモノ』に憑りつかれている人はいそうにない。
 それでも奥へ奥へと歩いて行くと、二人の警官が上の階から降りてきた。

「まだ話が聞ける状態ではないですね」
「ああ。だがなんだってあんな状態になるんだ? 体中あちこちに黒いのが付着しているが、何の病気かも分からないっておかしくないか?」
「刺青……にしては斬新ですよねぇ」
「ったく、いい加減目を覚ましてもらわないとこっちも仕事にならんぜ」

 年齢差のある二人が早口で囁き合いながら去って行く。……うーん。ビンゴ、かな?
 一先ず上の階に向かって階段を上るが、一体どこから降りて来たのか。考えていると、陸奥守が「主」と小声で呼びかけて来る。

「おまさん、あれ、視えるかえ?」
「ん? どれ?」

 陸奥守が指さす方向に視線を向け――息を飲んだ。

「むっちゃん……」
「おん。“ビンゴ”じゃ」

 小さな窓から見える入院病棟の端。そこだけ異様に黒い靄が掛かっている。他の階にも大なり小なり何か纏わりついている形跡はあるものの、あそこが一番酷い。
 陸奥守と視線を合わせ、足早にそこに向かって歩いて行く。

「――ここだ」

 暫く歩いた先にあったのは、入院病棟の一番端にある大部屋だった。出入口にネームプレートは掲げられていないため名前の確認は出来ないが、開け放たれたドアを潜ると二つ、寝台が使用されている。
 そのうちの一つには、足を骨折したらしい。ギブスで固定した足を吊っている男性が横になって眠っており、こちらに気付いた様子はない。
 だからもう一つのカーテンが引かれているベッドに視線を向ければ、既に多くの黒い靄が漂っていた。

「……行くよ」
「おん」

 緊張する気持ちを押さえつけ、慎重に近付いていく。周囲を蠢いていた靄はこちらに気付くとサッと散ったが、大事なのはそいつらじゃない。今ここにいるであろう人物だ。

「失礼します」

 小声で一度声をかけてからカーテンを開けると、そこには痩せぎすの男性が横たわっていた。
 意識が戻っていないとは聞いていたが、自発呼吸は出来ているらしい。人工呼吸器はつけられていない。だけど顔色は悪い。蒼白と言うより土気色だ。なんだかそのうちミイラにでもなりそうだな。と思いながら観察していると、突然「ううっ」と呻き声を上げる。

 まさか起きたのか?! このタイミングで?!

 驚きながらも咄嗟に体を引けば、陸奥守の手がこちらの口元を覆う。息をするなということだろう。
 だから陸奥守に背中を預けたまま様子を伺っていると、先程逃げ出した黒い靄が男の皮膚を這うようにベッドの下から立ち昇って来る。そうしてじわじわと男の皮膚を黒く染め上げ始めた。

 ……これは……?

「首元じゃ」

 首元? 囁くような声音で教えられ、目を凝らせば男の左の首筋に何か、三角形のような四角形のような“印”が見える。あれが“契約者の印”、なのか? だとしたら、この男は一体『何』と契約したのか。
 何か手がかりはないか、もっと何か視えないか。神経を集中させるが、突然ゆったり動いていた靄が忙しなく動き出し、男の全身に覆いかぶさった。

「待って!」
「主!」

 ――連れて行かれる。

 そんな気がして男の手を掴めば、途端に視界が“切り替わる”。


 薄暗い照明に、光沢のあるテーブル。足の長いスツール。どこかのお店……。いや、バー、か? そこで酒を傾ける一人の女性。顔はぼんやりとしてハッキリしないが、恐らく小鳥遊さんだろう。カクテルグラスを傾け、何事かを話す姿は婚活会場で見た時と大差ないように思う。
 だけどすぐさま次の“記憶”に切り替わる。
 今度は車の試乗だろうか。あれこれ試している。その後は広々とした部屋――自室かホテルかは分からない――でスマホの画面を見ているようだった。だけど画面の文字が見えないな。と惜しんだのも束の間、ボケていても見覚えのある住所に息が止まる。

 ――あれは、間違いない。私の、実家の住所だ。それに両親の勤め先まで載っている。

 一瞬ゾッとしたものが這いあがるが、まだ“記憶”は止まらない。

 この男は父と母の素行調査を探偵事務所に頼みに行き、後日それを受け取った。そこには父と母の一週間の記録が記載されており、吐き気が込み上げてくる。しかも両親だけでなく私と兄のことまで調べさせたらしい。今度は怒りが湧いてくるが、すぐさま視界は切り替わった。

 そして今度は――なん、だろう。黒い、影……?
 モヤモヤとしたソレは全身真っ黒でよく分からなかったけど、突然パッと赤い瞳の“単眼”がこちらを“視た”。コイツ、あの時の……!!

 昨夜私と“目”を合わせて来た奴と同じだ。つまり、あの時陸奥守が焼いたのはこの『魔のモノ』で間違いな――

『その通り。奴の名前は“傲慢”ですよ。レディ』

「!!!!」

 耳元で、いや。頭の中だろうか。響くように聞こえて来た“声”に咄嗟に虫を払うように手を振るが、陸奥守の困惑したような「主?!」という声がするだけで謎の“声”が怯む気配はない。
 むしろどこか面白そうに笑ってすらいる。

『おやおや。随分と手が早い』
「あんた、誰」

 気付けばどこかの領域に連れて行かれたのか、それとも視界をジャックされたのか。真っ暗な場所に立っている。それでもほんのわずかに足先を動かせば硬いタイルの感触がするから、あの場所から動いていないはず。ということは――

「あんた、私から視覚を“奪った”な?」

 最初に私を呪った相手の一柱、“強奪”で間違いない。
 確信を持って問いかければ、謎の“声”は心底楽しそうに『御明察!』と答えて来る。
 まるでサーカス、いや。ステージに立つ司会者のような話し方だ。大仰で、胡散臭い。演技掛かっているとも言えるか。どちらにせよ信用出来る相手ではないのは確かだ。弱みを見せればどう付け込まれるか……。分かったものじゃない。
 だからこそ警戒していたというのに、謎の“声”は歌うように言葉を紡いで来る。

『素晴らしい! 素晴らしいですなぁ、レディ。是非とも私の新たな“契約者”になって頂きたい』
「あんたアホなの? 人の視界を奪っておいて何を、」
『だからこそ、ですよ。レディ。あなたから一時的に“拝借した”この美しきもの、正しきものを見定める“真理の眼”を、私は気に入っております』

 ………………どこから突っ込んだらええんや。
 なに? しんり? 真理か心理か審理か心裏か知らんがな、人の目に変な名前つけんじゃねーよ。
 内心で毒づいていると、謎の“声”はクスクスと笑う。そして尚も語り続ける。

『レディ。あなたもこの“眼”の価値はご存知のはず……。我々のようなものに渡すのは惜しくはありませんか?』
「我々のようなもの、って言われてもなぁ……。そもそもあんたらのこと何も知らんし。まるでこっちが全部知っているような体で話すのやめてくんない?」

 確かに『悪しきもの』『悪神』と呼ばれる存在であることは知っている。鳳凰様に教えて貰ったから。でも一体どこでどういう風に現れるのか。また誰を選びどういう契約を結ぶのか。何も分からないのだ。
 それなのに『僕たちのこと知ってるでしょ? 止めたかったら契約しよ?』と言われて誰が頷くか、ってんだ。売り込み下手くそか。吐き捨てるように言い返せば、“声”は笑い出す。

『これは失礼いたしました。レディ。てっきり、もうご存知なのかと』
「知らんことの方が多いっつーの。てか何? 何でまだ私を狙う訳? もう“小鳥遊さん”はあんたが“処分”したんでしょ?」

 あの本丸に私を連れて行ったのが『傲慢』の残滓、いや。残党ならば、この“強奪”は小鳥遊さんと思わしき物体Xを闇の中に引きずり込んだ相手だろう。ならば“黒いこんのすけ”はまた別の『魔のモノ』なのか、それともコイツが姿を変えたものなのか――。視界がないため判断がつかない。
 それでも私の体を支えてくれる陸奥守がいるから耐えられる。流されずに済む。不安を感じないで済む。私は、ちゃんと“戦える”。

『……ふむ。想像以上にレディは優秀なようだ』
「そりゃどーもぉ」
『フフフ……。いいですね。その何者にも屈しないぞ、と言わんばかりの態度。大変“美味しそう”です』

 ゾワッ、と一気に全身に鳥肌が立つ。いや、普通にキッショイわ。何だコイツ。キッモ。モテない勘違い野郎の典型みたいな台詞吐かないでくださいますぅ? せめてうちの陸奥守、いや。三日月以上の顔面用意してからそういう台詞吐けやコラ。
 などと思っていると、今度こそ手を叩いているかのように、心底楽しそうに“声”が笑う。

『ハハハハ! なるほど。あなたは“愛”を優先させる人ですか』
「は? 何を――」
『ふむ。ならばこうしましょう。あなたの視界の代わりに、あなたが最も愛する人を一人、奪いましょう』
「あ゛?」

 いかん。思わずユキちゃんみたいな返事しちゃった。でもしょうがないよね! 元ヤン時代のクソミソに荒れまくってた時も私とだけは仲良くしてくれてたもん! その時の口調をうっかり、ぽろっと真似しちゃっても許される許される!
 ただ冷静になろうと考えているのに、この謎の声。全く構わずにペラペラとおしゃべりを続けている。

『大丈夫ですとも。あなたが私の新たな“契約者”になってくだされば、あなたから奪った愛しい人も――』
「むっちゃん」
「おう」
「コイツのこと“焼いて”」
『は?!』

 どこにいるのか分からない。それでも私の霊力と竜神様の神気を通して夢に介入することが出来た陸奥守ならば、私の意識に干渉している“声”もどうにか出来ると考えた。
 実際、陸奥守は「分かった」と頷く。そして目には見えないけど、確かにあたたかな熱が目の前に灯った気がした。

『ちょっ、ご自分の“眼”がここにあるんですよ?!』
「いらん」
『は?!』
「あんたが触ったものなら、もういらない。それが元から“私のもの”だったなら尚更」
『な、にを、大切なご両親から頂いたものでしょう?!』

 このクソ野郎。分かってはいたけど、私が両親を大事にしていることを知った上で“視覚”を奪い、それを取引の材料にしやがったな? マジで許さねえぞコイツ。
 それに、先日陸奥守に言われて思ったのだ。もしも今回の事件で、あるいは今後誰かに“穢された”ならば。私は、もう“神様”たちの前に立てなくなると。
 だけど奇しくもコイツは私の体から“視覚を奪い取った”のだ。詭弁でしかないが、この肉体から乖離したものを燃やせばまだ“私自身は穢されていない”とも言える。“目玉”ではなく能力である“視覚”だけだからな。奪われたの。だったら、いっそのこと“燃やせばいい”。

「私の神様たちの前に、穢れた姿で立てるわけないだろ。だったら最初から“焼き捨てる”」
『な――』

 悪神でも驚き過ぎると二の句が継げなくなるんだな。そんなどうでもいいことを新たに知りながら、姿の見えない“声”に向かって笑ってやる。

「あんたの“穢れた言葉”に騙されるほど、私は“言葉”を軽く見てねーの。一昨日来やがれってんだ」
『くっ……!』

 目の前が熱い。でも何も見えない。相変わらず視界は真っ暗で、本当なら恐怖を覚えるべき状態だろう。でも、この事件を“一人で解決する”と決めた時から覚悟は決めていた。

 体の一部を喪うことぐらい。

 だから、何も怖くない。

『――レディ、後悔しますよ』
「私が後悔するほど、あんたに影響力があるとでも?」

 笑わせないで。と言いながらも笑みを浮かべれば、陸奥守が展開する“退魔の術”に恐れをなしたのだろう。“声”は『ここは引きましょう』と言って気配を消す。だけどその際、余裕がある振りをするような声で――それも演技かもしれないが――『またいずれ会いましょう』と囁いて行った。
 正直会いたくはないが、放置するわけにもいかない。だから、まあ、別にそれはそれでよかったんだけど。

「……むっちゃん」
「ん?」
「……泣いてる?」

 後ろからギュッと強く体を抱きしめ、肩口に顔を押し付けている恋人の頭を軽く撫でる。だけどいつもならすぐに寄こされる返事は来ず、代わりに力強い抱擁だけが贈られてくる。
 私は最初から覚悟を決めていたけれど、陸奥守にとっては初耳だったんだろうなぁ。というか、ここまでやる。とは予想していなかったのかもしれない。
 もしかしたら自分のことを責めているのかも。
 そんな責任感の強い恋人を慰めようと唇を開いたが、すぐさま塞がれてしまった。

「……やっぱり泣いてんじゃん」

 いつもよりしょっぱい。と笑えば、再度抱きしめられる。
 今更だけど、やっぱりちょっと勿体なかったな。何も見えないから、むっちゃんの貴重な泣き顔も見れないじゃん。

「泣かないでよ。私は平気だからさ」

 うんともすんとも言わない恋人は、ただ首を振る。それが分かったのは、肩口に埋められた顔の動きと、肌をくすぐる癖毛のおかげ。それ以外は、本当に何も見えない。

「あ。でも慣れるまでは色々と手伝ってくれると助かるかな。着替えとかは自分でするけど、本丸とか万事屋を移動する時は流石に足元とか分かんないし、うっかり部屋も通り過ぎるかもしれないからさ」

 別に気丈に振舞おうとしているわけではない。本当に『なくても平気』と思っているから言えるのだ。だってむっちゃん甲斐甲斐しいし、お願いすれば絶対体のどこを失っても手伝ってくれると信じていた。
 小夜も江雪も、私が“女”でも傍にいてくれると言った。守ってくれると言った。他の皆もそうだ。だから、自分が女であっても、例えこの先どこを失っても、私は皆の“主”でいられる。それが分かって嬉しかったのだ。だから、すぐに答えることが出来た。

 そりゃあ、私が頭よくって、相手を利用出来るだけの能力があればいいよ? でも、そんなのないから。
 それに、嘘もそうだけど、誰かの持ち物を奪うなんてしたくない。だってどんなものでも自分の力で手に入れないと、本当の意味で“自分のもの”になった気がしないから。
 手に入らなければそれまで。人と一緒。自分が欲しいから奪い取るだなんて、そんな幼稚な行いは子供の時に卒業した。だから、本当にあいつの力は『いらない』のだ。

「ほーら、泣くな泣くな〜」

 抱き着いたまま一向に動かない、彫刻のようながっしりとした体は、それでも微かに震えている。嗚咽を漏らさないだけ偉いと言えばいいのか、強がりの頑固者と言えばいいのか、もう分からない。
 でもそれだけ一所懸命愛してくれてるんだよなぁ。というのが分かって、こんな状況だけど地味に喜んでもいるのだ。バカな私は。

「泣かないでよ、むっちゃん。むっちゃんがいてくれたから昨日は助かったし、今日だってアイツを追い払ってくれた。だからちゃんと生きてるでしょ? つまりは今回も私たちの勝利、ってことですよ」

 陸奥守は、元の主を助けることが出来なかった。抜かれないまま元主を失った刀。それでも、一説によると襲撃を受けた時坂本龍馬が刃を鏡代わりにして傷の状態を見たとも言われている。
 それはつまり、陸奥守は目の前で大事な主の傷口を見たと言うことだ。それは、ある種トラウマになってもおかしくない。

「ねえ。私生きてるよ。ちゃんと生きてるから……」

 どこも痛くない。血も流れていない。眼球だって、実際にはちゃんとこの眼窩に収まっている。奪われたのは“視覚”だけで、眼球そのものはここにある。だから大丈夫だと言ったのに、陸奥守は震える声で「このべこのか」と罵って来る。
 心外な。わしのどこがバカじゃい。

「わしは、おまさんを守るち言うた」
「うん」
「けんど、おまさんは……!」
「生きてるじゃん。死んでない。どこも痛くない。血も流れてない。だから、あなたは約束を破ってなんかない」

 むしろ本当に夢の中にまで来て助けてくれた。いつも誰にも助けてもらえなかった夢で、たった一人。助けに来てくれたのが陸奥守だ。あの時どれだけ安心したか――。本当に分かっていないのだろうか。この神様は。

「ねえ。信じてよ」
「ッ」
「嘘つかないって、知ってるでしょ?」

 嘘じゃない。全部嘘じゃない。あなたと一緒に“焼け死ぬ”と言ったことも、自分の奪われた“視覚”ごと焼いていいと言ったことも。全部、百パーセント本心だから。
 陸奥守が“慰め”に感じている言葉の数々だって、私の“まことの言葉”だって、どうか気付いて。

「疑わないで。むっちゃんに信じてもらえなかったら、一体誰に信じて貰えばいいの?」
「……ある、じ」

 見えないから、手探りで探すしかない。太い首筋、ピンと外側に跳ねた癖毛。……可哀想なほどに、濡れた頬。
 刀なのに、優しいんだから。全く、困った神様だ。

「私は、体のどこかが欠けても命があるだけで“勝ち”だと思ってる。それに、むっちゃん、結局“焼かなかった”でしょ?」

 私は“焼いて”と言ったのに。陸奥守は牽制するだけで焼き払わなかった。“傲慢”はあっという間に退治しちゃったのに、私の“一部”があるからと手が出せなかったのだ。この優しすぎる神様は。

「……ありがとう。私のこと、大事にしてくれて」

 私が“捨ててもいい”と判断したものを、あなたは捨てようとはしなかった。どうにか手元に戻せないかと足掻く姿が、どうしようもなく愛おしい。

「ん〜。でもこのままだと恋人泣かせの悪女になっちゃうかぁ〜。それは流石にイヤだなぁ〜」

 別に『聖女』でも『いい子ちゃん』でも『ぶりっ子』でもないけれど、大切な人を平気で泣かせる女と思われるのは流石にイヤだ。
 だったら、“取り返し”に行きますか。

「むっちゃん。陸奥守吉行」
「……おん」

 私の神様。
 本当は、私にとって最初の神様は産まれた時から傍にいる竜神様なんだろうけど、私が自分の意思で、この手で選んだ“最初の神様”はあなただから。

「一緒に戦って。最期まで。この先に、何があっても。何が、起きたとしても」

 疑わないで。私の言葉を信じて。一緒に生きて、戦って欲しい。

 陸奥守が初陣でボロボロになって帰って来た日の翌朝。泣きながら同じ言葉を口にした。すぐに泣いてしまう自分が不甲斐なくて悔しくて、それでも審神者に選ばれたからには大切な人のためにも戦わなくちゃいけないって両頬を叩いて気合を入れた。
 それでも優しい顔で「おはよう」と言ってくれた陸奥守が眩しくて、優しすぎて、私は絶対に、もう二度とこの神様を、“私の神様”を言葉でも態度でも裏切らない。そう決めたから。

「私と一緒に駆け抜けてください。陸奥守吉行様」

 あの時とは、泣いている側と笑っている側が反対になってしまったけれど。きっとあなたになら伝わると思うから。

 ――私の神様。最初の神様。

 悔し泣きしながら「これからも時々アホみたいに泣くとは思いますけど! それでも絶対心は負けないので!」と叫ぶように言い切った私に、お日さまみたいな笑顔で「おう!」と応えてくれた時のように。どうか応えて。私の変わらない“願い”に。

「……おう。何があっても、わしはおまさんと最期まで一緒じゃ」

 触れた肌から感じる。いつもみたいに笑ってくれた、って。例え見えなくても、分かるよ。そして、見えないと分かっていても笑ってくれてありがとう。
 私は、あなたの笑顔で元気になれる。力を貰える。それを、覚えてくれて、本当にありがとう。

「ん! よろしくお願いします!」

 例えお日さまが見えなくても、私にはもう一つのお日さまがいるから。大して怖くはないんだよなぁ。なんて言えば笑われるのか怒られるのか。分からないけれど、それでも私の手を引いてくれるこのあたたかくて大きな手がある限り、負ける気なんて微塵もしないから。

「とりあえず、本丸に帰って皆に怒られようか」
「ほうやのぉ……。わし今度こそ殺されはせんやろうか」
「あははっ。だったら私が守ってあげる」
「主に守られる刀なんて聞いたことないぜよ」

 どこか呆れたような声音で、それでも笑ってくれる陸奥守に笑みを返す。

「本当だよ。物理攻撃では一回きりの盾にしかなれないけど、言葉での攻撃なら幾らでも受けて立つからね」

 自分に言われた言葉だったらアレだけど、陸奥守相手に言われた言葉なら誰が相手であろうと負けない自信がある。竜神様だろうが鳳凰様だろうがこれだけは絶対に譲らない。
 一個悪いところを上げて責めてきたら、十個良いところ言って言い返してやる。そんな気持ちで胸を張って「誰が相手でも負ける気しないぜ!」と伝えれば、またもや陸奥守に抱きしめられた。だけど今度は、縋りつくようなものでも怖がる子供のようなものでもない。
 いつもと同じ、私を優しく包んでくれる腕だった。

「だぁってさあ、この腕があればすぐ幸せになれるからね。私」
「……嬉しゅうなること言うてくれる」
「ふっふっふー」

 でも、口にしていないけど心配事が一つだけある。それは、陸奥守が“無理”をしないかどうか。それだけ。
 この神様は優しすぎるから他人に弱さを見せない。自分の本心を、上手に包んで隠してしまう。本当なら見せて欲しいけれど、隠したい気持ちを無理に暴きたいわけでもないから――。

「むっちゃん」
「おん?」
「無理したら助走つけてでも殴りに行くから、そのつもりでね」
「……しょう怖い人ちゃ……」

 どこか呆然としたような、吐息に混ぜて零された返答にクスリと笑い、陸奥守に手を引かれながら本丸へと帰る。その時反対からも手を握られてハッとしたけど、結局何も言わなかった。
 力強く握られた手を、彼の心を、傷つけたくなかったから。だから同じだけ力を込めて握り返した。「まだ負けてないよ」と伝えるために。

「皆ただいまー!」
「おう、おかえり。ある、じ……?」
「なんだ?」
「え? なに? どうしたんだい?」
「どうしたの?」

 今日は内番も遠征もせずに私の帰りを待ち続けていた刀たちの困惑する声が広がっていく。そりゃそうだよね。だって陸奥守と小夜と手を繋いでの御帰還なんですもの。驚いて当然ですわよね。おっほっほっ。
 近くにいたのだろう。和泉守が「何やってんだ?」と声をかけてくるが、一人一人に説明するなんてまどろっこしいことはしない。
 だから一旦二人から手を離すと、パンパン! と音を立てて手を打ち鳴らす。

「集〜〜合〜〜〜!! はい! 皆会議するよ! 集まれ集まれ〜!!」

 和泉守が外に出ていたということは、だ。鍛錬組が道場にいるかもしれない。他にも部屋に戻っている刀もいるだろうから声を上げれば、すぐさま皆が廊下に出て来る気配がする。

「主! お戻りになったのですね!」
「おかえり、主。休憩せずに会議に入るのかい?」
「忙しいお人ですねぇ……」
「ホワイトボード用意しますね〜!」

 流石に御簾をしているからぱっと見では分からないみたいだ。それに安堵したものの、すぐさま「あ」と声を上げる。

「やばい。二人共どこ?」
「ここじゃ」
「ここだよ」
「あ。ありがとう。いやー、自分から手を離しておきながら超焦ったわ。いざ一人になると心細さ半端ないね?」

 厳密に言えば一人ではないんだけどさ、視界がまったくない中棒立ちになるってのはだいぶ怖いのだと初めて知った。何だかんだ言って暗闇の中に放り込まれたことはあるけど、視界を奪われたわけじゃないからなぁ。
 視力ならまだこう、光の加減とかでこっちかなー、とかあっちかなー、とか。朝かなー、夜かなー。ぐらいは分かるんだろうけど、視覚だから全部見えないんだよね。もう完全な真っ暗闇。だから声の位置で大体の場所を把握するしかないんだけど、視覚を失ってからまだ一時間も経ってないからぶっちゃけ和泉守の正確な位置もよく分からない。

「あ。そだ。和泉守」
「お? おお。なんだ」
「この前羽織りありがとね。助かった」
「おー。そりゃいいんだけどよ……」

 ざりっ、と土を踏む音がしたかと思うと、突然誰かに頬を掴まれる。それに驚く暇もなくグイッ、と顔の位置を上げられたかと思うと、めっちゃ怖い声が降ってきた。

「あんた、オレのこと見えてねえな?」
「ヒエッ」

 バレるの早すぎませんかね?

 最速RTAでも約四分だぞ。ゲート潜ってから四分経ったか? 経ってないよな? え? 経ってる? ぶっちゃけ分からん。

「そ、そんなことあるようないような〜……」
「主」
「はい。すんません。見えてないッス」

 ぴしゃり。と叱りつける声音で、確信を持っている声で呼びかけられたら嘘などつけるはずがない。しかも離れていたはずなのに、広間にいる皆にも聞こえていたのか、一瞬で本丸に沈黙が満ちた。
 イヤだよー!! 誰か喋ってーーー!!

「テメエ……! 陸奥守!! どこで何してやがった!!」
「待って和泉守!」

 咄嗟に目の前から移動しようとした和泉守の着物を掴めば、途端にその体が動きを止める。だけど燃えるような怒りはヒシヒシと感じられ、正直『怖い』とすら思う。
 でも、和泉守は私のために怒ってくれているのだ。だから、恐れてはいけない。

「陸奥守を怒らないで」
「主! 甘やかすんじゃねえ!」
「甘やかしてなんかない!! 陸奥守を悪いと言うなら、自分から“いらない”って言った私の方がずっと悪い!!」
「――な、に、言って……」

 燃え盛る炎が下火になっていくように、和泉守の怒りが困惑へと変わっていく。
 目が見えないとこういうのを肌で感じることになるんだな。聞いてはいたけど、こんなにも分かりやすいのは相手が和泉守だからだろうか。だとしたら、三日月や鶴丸、鶯丸相手には無理かもしれない。
 だってあのおじいちゃん太刀、めっちゃくちゃ長生きだからさ。自分の感情を押し隠して私のこと手の平の上で転がすのなんて簡単でしょ。本当、どうしようか。

「お願い。和泉守。私の話を聞いて」
「……そりゃあ、聞くけどよ」
「ありがとう。皆も、まずは話を聞いて欲しい。色々ぶつけるのは、それからにして」

 そしてその時は、私も一緒に聞く。陸奥守だけに背負わせたりしない。だって、私が“いらない”って言って捨てようとしたものを、陸奥守は捨てなかったんだから。

「あー……。とりあえずさ、広間までの距離が分かんないから、助けてくれる?」

 誰でもいいから。と両手をヒラヒラと振れば、すぐさま陸奥守と小夜の手が両側から掴んできた。おおう。思ったより近くにいたのね? やっぱり気配読むとか無理だわ、私。

「なんかさー、あれだよね。あんよが上手、あんよが上手、みたいな」
「何言ってんだあんた……」
「あはは〜。ないならないでいっそ新しい楽しみ方でも見つけようかと思ってさっ」

 取り戻せても、取り戻せなくても、嘆くだけなんてまっぴらごめんだ。だったら“見えない世界”を見えないなりに楽しむ方が新たな発見もあって面白いと思うのだ。

「主、三歩先に踏み石があるから気を付けて」
「マジ? 意外と近かった。一、二、三、ここだ! あった!」
「はあ……。マジで見えてねえんだな……」
「うん。マジマジ。あれ? ちょ、ま? 意外と縁側って低い位置にあんのね?」
「主。膝ぶつけたら痛かろうが」
「平気平気。痣になってもどうせ見えないしね!」
「主……」

 靴を脱ごうとしたけど床の位置が分からず膝をぶつけて確認する。いつも当たり前のように通ってたから分からなかったけど、意外と低い位置にあってビックリしてしまった。
 頭上から呆れた声を投げかけられながら縁側に腰かけ靴を脱いでいると、もすっ。とした柔らかい感触が背中に当たって来る。

「ん? もしかして虎ちゃん?」
「あ、は、はいっ! あるじさまが心配みたいで……」
「マジか〜。ありがとね〜。でも待って。頭どこ」
「ここじゃここ」
「あら〜。頭の位置すら分からんて思ったよりふべ〜ん」
「グルルル……」

 大きな虎ちゃんの頭を撫でて感謝の気持ちを伝え、陸奥守に手を引かれながら立ち上がり、桟で躓かないよう注意しながら広間へと進む。
 うわあ……。今日は一段と視線がイッテエや……。

「えー……。といわけで、視界を失いました」
「何がどういうわけかキッチリ説明しろ、このアホ」
「あいた」

 コツン。と優しく小突いてきたのは恐らく和泉守だろう。だから「先にワンクッション挟んでおこうかと思って」と言えば、再び顔を捕まれ上げさせられる。

「オレと目を合わせたかったらこの角度だ。覚えとけ」
「あれ? 兼さんそんなにおっきかったっけ?」
「あんたがちっせーのぉ〜〜」
「腹立つぅ〜〜〜」

 わしゃわしゃと頭を撫でて来る手の平に力は込められていない。……心配してくれてるんだろうな。だからこそ嘘や誤魔化しはいけない。
 どうやら和泉守も定位置――堀川の隣に座ったらしい。「ったく……」と呟きながらも衣擦れの音がする。だから「皆揃ってる?」と声をかければ、あちこちから応える声が聞こえてきた。

「それじゃあ昨日の夜何があったのか。そして、どうして私が“こんな状態”になったのかを説明します」

 頭の片隅で『最近会議開いてばっかりだなぁ』なんてどうでもいいことを考えながら、陸奥守と小夜のサポートを受けながら一連の流れについて説明を始めたのだった。





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