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 陸奥守と危なく一線超えかけ――結局未遂で終わり、眠れない夜を過ごした翌朝。寝不足と初めて体験したすげー出来事に身も心もフラフラになりながらも部屋を出ると、珍しく朝餉の準備が出来たことを告げるために和泉守が迎えに来てくれた。

「おはようさん、主。って、どうした。何で朝からフラフラしてんだぁ?」
「あー……おはよう、和泉守。いやぁ……ちょっと……色々消化しきれない出来事があってね……」
「はあ?」

 器用に片眉をあげつつも、和泉守は「大丈夫か?」と労わるように声をかけて来る。確かに精神的ダメージは負ったが、体は横になっていたから怠いわけではない。熱が出ているわけでもなければ頭痛もない。至って健康体だ。
 だから「大丈夫大丈夫」と苦笑いを浮かべながらも片手を振り、一緒に広間に向かって歩く。

「そういえば、和泉守が迎えに来てくれるのって久しぶりだね」
「あー……まあ、な」

 何故か言葉を濁す和泉守に首を傾けていると、次第に皆の声が聞こえ始める。何だかんだ言って私が女なもんだから、私室と広間に距離があるのだ。だからマイクでも使わない限り私室まで広間で騒ぐ声は聞こえてこない。だから普段皆が宴会や酒盛りでどんな話をしているのかは知らなかった。
 ……まあ、流石にね。彼らにもプライベートがあるから。もしどこそこの付喪神に惚れてるだの何だの話してたら気まずいじゃないか。勝手に聞いちゃうのもあれだし。相談されたら乗りたいとは思うけど、案外そういう話は出て来ないんだよなぁ。皆やっぱり戦う方が好きなのかな?
 何て考えつつも「皆おはよー」といつも通り挨拶をするために口を開いた瞬間、

「よう、主! おはよう!」
「ぎゃああ?!」

 後ろから突然声をかけられ、いつも通り情けない悲鳴を上げてしまう。ちっくしょう! こんなことする奴は一人しかいねえ!!
 だから人を“驚かせ”に来た鶴丸に文句を言おうと振りむこうとしたのだが。

 ――ツウ、と。鶴丸の指先だろう。人差し指だか中指だかで人の背中を下から上にくすぐるように撫でてきた。
 これも、いつもなら単に「ひぎゃあ!」と情けない悲鳴を上げた後に「人の背中で遊ぶな!」と切れて終わりだった。だって、今までだって不意打ちのようにされてきたことだったから。その度に似たようなセリフを口にして、鶴丸の背中をバシッ! と一発叩いて終わっていた。
 そもそも鶴丸がこんなことをするようになったのは、あんまりにもコヤツが悪戯を仕掛けてくるので切れた私が仕返ししたからだった。

『ぬおっ?! 人の背中というものは随分とむず痒く感じるものなのだなぁ。いやぁ、驚いた!』

 と本人も初めてされた時に口にしていたから、時折こうして、私だけでなく皆にも同じ悪戯を仕掛けるようになった。それこそ迎えに来てくれた和泉守だって、普段怒られている光忠にだってしている。目の前で見たことがあるから間違いない。
 だから今日もいつも通り、色気の“い”の字もない声と態度で迎え出ればよかったのに。昨夜“あんなこと”があったせいか――陸奥守の手に、何度も背中やうなじを撫でられ、その感覚が残っていたのだろう。私の可愛げのない喉からはいつもとは全く違う、“情けない悲鳴”と呼ぶにはあまりにも甘ったるい声が出てしまった。

「ぅあっ!」

 バシッ! と咄嗟に両手で口元を覆ったものの、確実にヤバイ声が出てしまった。
 ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ! 今絶対変に思われた!! だって、だっていつもなら「おぎゃあ!」とか「うぅわあっ!」とか、そういう、芸人みたいなリアクションしかしてこなかったから、自分でもこんな声が出るとは思わなかったのだ。

 あまりの衝撃に御簾をしていることも忘れて俯く。
 どうしよう。どうしようどうしようどうしよう。絶対変に思われた。絶対『気持ち悪い』って思われた。

 困惑と羞恥で体が震え、俯かせた顔をあげることが出来ない。口元を覆う両手の平には汗が滲み、言葉に出来ないほどの羞恥心で体温も息も上がっている気がする。どうしよう。早く、いつもみたいに「何すんのさ、鶴丸!」って言わなきゃいけないのに。

 ――声が、出ない。

「小夜!!」
「はいっ!」

 バサッ、と顔を隠すかのようにあたたかい布が掛けられると同時に、和泉守が小夜を呼ぶ声が鼓膜を揺らす。そういえば、隣には和泉守がいたんだった。
 それすら忘れていた自分に愕然としたものの、すぐさま被せられた布の隙間から細く、また傷だらけの手が私の手を握って駆けだした。

「主、こっち!」
「さよく……」

 ヒクッ、と喉が震えて、いつの間にか滲んでいた視界から生暖かいものが零れ落ちていく。
 やだな。最近泣いてばっかりだ。もうあれだけ泣いたから、一生分泣いたって思うぐらい泣いたから、当分涙なんて出ないと思っていたのに。

 半分ほど足の感覚がないままに廊下を走り、出て来たばかりの私室へと戻れば小夜がそっと襖を閉めて片膝をつく。

「主」
「う゛っ……う゛ぅ〜〜〜……! 小夜ぐんどうじよ〜〜〜〜! 絶対『気持ち悪い』って思われだ〜〜〜〜!!」

 だって、こんな、色気もなにもないクソ主がだよ? あんな声出しちゃったら気持ち悪いじゃん。今までずっとそうやって接して来たのに、いきなりあんな声出したら絶対変に思われるじゃん。
 折角皆と仲良くなれたと思ってたのに、うまくやれてるんじゃないのか。って思ってたのに。皆に嫌われちゃったらどうしよう。

 そんな思いでいっぱいで、無様にも泣き出せば小夜は思ったよりもしっかりとした声で「それはないから」と否定して来る。それでも不安で、和泉守がかけてくれた上着を引っ掴んでベソベソと泣いていたら、小夜の手が優しく頭に触れて撫でて来る。

「大丈夫だよ、主。誰もそんなこと思わないから。もし誰かがそんなことを言ったとしても、僕が復讐してあげる」
「う゛ッ、うぅ、小夜ぐん゛……」
「だから泣かないで。本当に大丈夫だから」

 よしよし。と何度も頭を撫でられ宥められ、涙は止まる。それでもやっぱり不安が拭えなくて、ギュウッ。と和泉守の上着を握って体に巻き付けていると襖の奥から「小夜」と江雪が弟を呼ぶ声が聞こえてくる。

「なに? 兄様」
「主の朝餉を持ってきました」
「あ……」

 わざわざ持ってきてくれたんだ。ありがたい以上に申し訳なさが勝って俯けば、すぐに小夜から「大丈夫だよ」と声をかけられる。そうしてすぐに立ち上がると、小夜は襖を開けて膳を受け取った。

「ありがとう、兄様」
「江雪さん……すみません……」
「謝罪は必要ありませんよ。それに、今はあなたの“心”の方が心配です」

 江雪はいつも以上に優しい声音でそう返してくると、廊下の先で膝をついたのだろう。無断で部屋に入らず、こうして泣いてばっかりのダメ審神者にも敬意を払ってくれる。その気高さと優しさに改めて頭が下がる。
 そんな私が鼻を啜りつつも頭を下げ、それから顔を上げれば江雪は一瞬痛ましそうな表情を見せた。が、すぐにこちらを安心させるような微笑を浮かべる。

「大丈夫ですよ。ご安心ください。あなたを厭う者は、この本丸には誰一人としていません」
「でも……さっき、めっちゃ変な声出た……」

 それに、混乱してたけど確かに皆の声が止んだのは分かった。元々何を話していたのかまでは聞いていなかったけど、多分配膳の指示だとか朝の挨拶だとか、今日の出陣や遠征についてだとか、とにかくそういう、いつも通りの会話を各々がしていたはずだ。
 それがピタリと止んだのだから、絶対あの場にいた刀たち全員に不審に思われた。それがイヤで、悲しくて、情けなくて、上げた顔をすぐさま俯けると江雪が「失礼します」と一言告げてから中に入って来る。

「主」
「……はい」
「御身に触れてもよろしいですか?」
「……はい」

 江雪は、みだりに人の体に触れてこない。人を驚かすためにちょくちょく触れて来る鶴丸や、しょっちゅう抱き着いて来る乱とは違う。別に先の二人の行動がイヤなわけではない。むしろ私を好きでいてくれてるんだ。というのが分かって嬉しく思っていたぐらいだ。
 だからこそ余計にあんな反応を取ってしまった自分が信じられなくて、情けなくてへこんでいたら、江雪から優しく抱きしめられた。

「大丈夫ですよ。あなたは何も悪くありません。鶴丸も、今は皆から叱られています」
「へ?」

 何で鶴丸が叱られているんだろう。意味が分からず江雪の肩につけていた顔をあげれば、小夜の数倍大きな手の平が私の頭をそっと撫でてきた。

「あなたは女性であることを、もう少し自覚した方がよろしいかと」
「……それ、よく言われる」
「でしょうね。今後は、鶴丸もあなたに触れることはないでしょう」

 それは、やっぱり嫌われてしまったからなのかな。イヤだな。寂しいな。でも、あんな反応をした自分が悪い。だからこれは自業自得だ。そう考えながら俯けば、江雪の隣に座していた小夜から「主」と呼ばれる。だから今度はそちらに顔を向ければ、小夜は思ったよりも力強い瞳で、真っすぐとこちらを見つめていた。

「あなたは、何も悪くない。さっきのは、鶴丸さんが悪いよ。だって、今はもう、主は陸奥守さんの“恋人”なんだから」
「ヴァッ!」

 別に忘れていたわけじゃないけど、小夜から言われるとまたダメージがデカい。思わず涙も情けなさも引っ込み、羞恥だけが残って全身を硬直させれば、江雪はクスクスと笑い、小夜は「しょうがない」とでも言わんばかりに息を吐き出す。

「あのね、主。今までは主が誰の恋人でもなかったことと、主自身が皆に触られることを気にしていなかったから鶴丸さんの行動も大目に見られてたんだ。だけど、今は違う」
「はい。あなたが選んだのは鶴丸ではなく陸奥守です。つまり、御身に触れられるのは陸奥守だけとなります」
「勿論、時と場合にもよるけど……。例えば、さっきみたいに危険から遠ざける必要がある時は、誰でもそうするよ」
「はい。ですが、緊急時以外では許されることではありません。だから和泉守もあなたには触れなかったのです」
「あ」

 言われて初めて気付く。確かにそうだ。今までの和泉守だったら、まず私の手首か肩を掴んで自分の後ろに追いやってから鶴丸を締め上げたはずだ。だけど今回は羽織を掛けて皆の目から隠すだけだった。その時でさえ和泉守は私の体には指一本触れていない。
 てっきり『触れることすらイヤだったんだ』と勝手にショックを受けていたんだけど、違ったんだ。
 半ば呆然として二人の話に耳を傾けていると、二人も私が落ち着いたと分かったのだろう。ほっとしたように空気を和らげる。

「本来ならば、私もこうして御身に触れることは出来ません」
「でも、私が許可したから……」
「はい。あなたが許可をくだされば、私共も触れることは出来ます」

 そう言って微笑む江雪だけど、逆を言えば許可がなければ触れることすら出来ないのが『主従』という関係なのだと今更ながらに思い知る。

「今までは主が許してくれていたから、皆も気兼ねなく触れていたけど……」
「今はもう、あなたが選び、火の神がお認めになった陸奥守だけに許された行為です」
「じゃないと本丸の風紀も乱れるからね」
「ぁ……。そっか……」

 やっぱり、私はダメだなぁ……。こういうところに頭が回らないから皆に苦労ばかりかけるんだ。
 反省すると同時に落ち込んでもいると、廊下が軋む音がする。その音と言うか、歩くテンポで誰が来たのかが分かり、無意識に顔をあげれば案の定陸奥守が襖に手を掛けた格好でこちらを見下ろしていた。

「二人共すまんかったのぉ。朝の準備が終わっちゅうち言われて行ったら、あがなことになっちょってびっくりしたぜよ」
「陸奥守さん。どこに行ってたんですか?」
「花の剪定をしに、庭園にの。それが裏目に出るとは思わんやったが」

 陸奥守が苦笑いを浮かべながら小夜と会話する中、江雪がそっと体を離し、横にずれる。それを横目で見届けている間にも陸奥守が部屋へと入り、目の前で膝をついた。

「すまんかったの。一人にして。心細かったがやろ」
「……うん」

 ここ数日情けない姿ばかり見せている気がしてならないが、今更だ。だって陸奥守には出陣させたその日にも迷惑と心配をかけたのだ。私がすぐに泣くダメ審神者であることはこの本丸内で一番分かっているはず。
 だから「ん」と伸ばされた腕に抵抗することなく体を預ければ、いつものように優しく背を叩かれた。

「もう大丈夫じゃ。わしがおるき、泣かんでえい」
「ん……。でも、皆に変に思われてそうで……」
「だーい丈夫じゃ。そがなこと言うやつがおったら、わしと小夜が成敗しちゃるき」
「はい。僕が主に代わって復讐するよ」

 しっかりと頷いてくれる小夜と、その隣で「ならば私も。お付き合い致しましょう」と珍しく江雪が乗ってくれたので思わず吹き出してしまった。

「ふふっ。江雪さんまで参加したら、皆ビックリするだろうね」
「ほにほに。鶴丸も反省しちゅうみたいやけんど、今回ばかりは皆に叱られんといかんちゃ」
「……私はいいの?」

 皆を混乱させたのは間違いなく私と鶴丸の二人なのだけど、鶴丸一人が叱られるのは流石に理不尽な気もする。そう思って陸奥守の腕の中で顔をあげれば、当の本人から「なーんでおまさんが叱られるち思うんじゃ」と笑われてしまった。

「おまさんは被害者じゃ。なーんも悪うないき、気にしな」
「そう、かな」
「そうだよ」
「ええ。そうですよ、主」

 甘やかすように陸奥守に頭を撫でられる。そのうえ更に、御簾をつけているのに何故か泣いているとバレていたらしい。目尻に残っていた涙まで指の腹で拭われてちょっと恥ずかしくなる。
 ……っていうか、今更だけど小夜と江雪の前で抱き合ってたわ!!! どうしよう!!!!

「なんじゃ。あこうなって。どうしたが」
「い、今更だけど、小夜くんと江雪さんがいたのにこんな格好晒しちゃって……どうすればいいのかと……」

 もう恥ずかしくて顔が上げられない。
 だけど両手で顔を隠すよりも陸奥守の胸板に額を押し付けてしまうあたり私はもうダメなのかもしれない。

 そんな内省と羞恥を順繰りに行っていると、陸奥守がいつも通り「がはははっ!」と笑いだし、小夜と江雪もクスリと笑った。

「気にしないで、主。陸奥守さんだから、主を任せられるんだ」
「そうですよ。大切なのは、あなたの心が落ち着くことなのですから」
「うっ! えっと、それって、むっちゃんの腕の中が一番落ち着く場所と認定されていると言われているも同然な気が……」

 とはいえ未だに離れられないというか、優しくもしっかりと抱き込まれているので身動きが取れないのだが、それでももぞもぞと蠢けば陸奥守の手が和泉守の羽織へと伸ばされた。

「けんど、他の男のもんをお守りのように持っちゅうのはおもしろうないのぉ」
「あ」
「どうせ着るなら、わしのにしとうせ」
「……うっちゅ……」

 恥ずかしすぎてもう舌すらうまく回らない。
 ここに来る前に持って来たのだろう。陸奥守が掛けてくれた上着にぐるりと包まり、再度あたたかい胸板に額を押し当てればそのままギュッと抱きしめられる。

「……それでは小夜、私たちは戻りましょうか」
「はい。兄様。陸奥守さん、後はよろしくお願いします」
「おん。任せちょけ」
「あ……。小夜くん、江雪さん、ありがとうございました」

 和泉守にはまた後程、落ち着いてからお礼を言おう。……今はまだ、無理そうだけど。
 今後のことを考えつつ二人に礼を言えば、左文字兄弟はそれぞれ笑みを浮かべて部屋を出て行った。
 そんな中陸奥守は和泉守の羽織をサッと畳むと床に置き、それから江雪が運んでくれた膳を引き寄せる。

「今日はここで食べるとえい」
「むっちゃんは?」
「おまさんが食べ終わったらわしも広間に行くき、そん時に鶴丸と話しをしてくるぜよ」
「……そう」

 一人で食べるのはどうかと思ったけど、今陸奥守が広間に行けば確実に騒動に巻き込まれる。それを待っている間にご飯冷めちゃうしな。折角厨番が早起きして作ってくれたご飯だ。あたたかいうちに食べたい。
 だから陸奥守に断りを入れてから手を合わせ、箸を手に取る。
 流石にお味噌汁は冷めていたけど、ご飯はまだ硬くなっていなかった。だから出来るだけ早く、それでも行儀が悪く見えないよう必死に顎を動かしていると、すぐさま陸奥守から「急がんでえい」と言われてしまう。

「むっちゃんはすぐ私のことを甘やかす……」
「がははは! おまさんが自分に厳しすぎるんじゃ。ちったーわしに甘えとうせ」

 これ以上甘えたら増々ダメ人間になる気しかしないのだが、陸奥守の笑顔を見ていたらなんだか悩んでいたこと自体が馬鹿らしくなってくる。だから「もう十分甘えてます」と返せば、陸奥守は存外柔らかな笑みを浮かべて「わしは欲張りやきの」と意味深な一言を零すだけだった。



 ◇ ◇ ◇



 陸奥守が主の部屋から膳を持って戻って来たのは、鶴丸への説教が大方終わった頃だった。

「おう。戻ったか」
「おん。和泉守も、すまんかったな。主も落ち着いたき、安心しとうせ」

 恋人に手を出されたと言うのに、存外落ち着いた様子の男に溜息が出そうになる。
 確かに本人に悪気がなかったとはいえ、流石に今日のアレは不味かった。

 先日うっかり墓穴を掘ってしまった主から露見した二人の関係だが、言ってしまえば「まあそうなるだろう」と思ってはいた。
 陸奥守は早々に自身の気持ちを伝えていたし、主もコイツのことを憎からず思っていたことは全員が知っている。というか、本人が気づいていなかっただけで陸奥守にかなり心を傾けていたのは周知の事実だ。
 何かあればまずは陸奥守に相談していたし、最近では現世で行われる会議にも万事屋にも陸奥守を連れて行っていた。時には任務の関係で他の奴らを連れて行くこともあったが、やはりコイツを一番に頼っていたのは間違いない。
 それを「面白くない」と思うほどこちらも狭量ではないが、まだ誰のものでもないなら。とちょっかいをかけていた奴らにとっては寂しいことだろう。だからと言って恋仲がいる相手に手を出すのはご法度だが。

 鶴丸もそこはちゃんと分かっていた。全員から説教を受けている間に何度も「いや、すまん。これで最後にしようと思っていただけなんだ。悪気はなかった」と両手を上げて白旗を振った。
 それで許されるのか。と聞かれたら答えは「否」ではあるが、男としてその気持ちがまったく分からない訳でもない。何せ鶴丸なりに気持ちを傾けていた相手だ。元から分かっていたとはいえ、そう簡単に納得できる結末ではなかったのだろう。
 だからこそ吹っ切るためにも「今日で最後にしよう」と考えたらしいのだが、どうして「どうせなら派手にやるか!」に発展するのか。まったく、困った爺さんである。

 確かに主は負けん気が強いうえ短気なところもあり、驚かせた時の反応がいいから揶揄いたくなる気持ちはよく分かる。だが強気な面に隠された心根というか、一番大事なところはどうしようもなく優しくて柔らかい。だからこそ傷つきやすく、また素直であるが故に無色透明な涙を流す。
 それが見ている方にとって心臓に悪いレベルのダメージを与えてくるのだが、それ以上に本人が傷ついているのだ。そこにズカズカと土足で踏み入ることは出来ない。かと言って放置するなど論外だ。
 だからせめてあの場所から避難させてやろうと、主の懐刀であり、陸奥守の次に信頼されている小夜を呼んだ。まあ、オレが呼ぶ前から小夜は既に駆けだしていたのだが。

 結果として主は無事あの場から逃げ出すことができ、オレもほっとした。

 とはいえ、だ。言ってしまえばアレが初めてだったわけじゃない。今までも何度か主が泣いたり落ち込んだり、照れる姿は見たことがある。それこそ数日前には酷い精神状態で本丸に逃げ帰って来たのだ。あの時も痛ましい姿ではあったが、今日のは流石に居たたまれなさが段違いだった。

 サラサラとした髪の隙間から見えるうなじまで真っ赤にして、今にも泣き出しそうな程に全身を震わせ俯いていた。
 恥ずかしさで人が死ねるのだとしたら、あの時の主は既に心臓が止まっていただろう。
 それほどまでに――いっそ「憐れだ」と思う程に自身の反応が信じられず、衝撃を受けていた。

 ……だが、正直に言うとオレもかなり驚いた。
 何せ陸奥守は主の気持ちを最優先に考えて動く男だ。初心で鈍感な主に合わせて付き合いを進めていくのだろうと考えていた。だから精々が手を握ったぐらいか、二人で万事屋以外の場所に出かけたことがあるぐらいだろう。と思い込んでいたのだ。
 それがまさか、あんな色っぽい声を出させるまでの関係に進展していたとは。

 あの時の広間の様子を一言で表すならまさに「驚天動地」だろう。

 何せオレだけでなく、本丸にいる全員が『陸奥守はまだ主に手を出していない』と思っていたのだから。
 それがまさかの展開である。
 幾ら御簾で表情を隠そうと、常に心を偽ることなくオレたちと接し続けた主だ。どんな表情を浮かべているか、何を考えているかなんて手に取るように分かる。
 そんな主が、だ。初めて“女”の顔を見せた。俯く顔は確かに見えなかったが、それでも驚いたように両手で塞いだ唇から零れた声は全員の耳に行き届いていた。

 息を吸い込む音に混ざった、引き攣ったような甘い声。
 思い出すだけでちょっと居たたまれなくなる気持ちにさせられるあの声に無意識に後頭部を掻けば、陸奥守が膳を持っている手とは逆の手で持っていた羽織を差し出してきた。

「主が落ち着いたら礼を言いたいち言いよったけんど、今はまだ怖がっちゅうき。わしが代わりに持って来たぜよ」
「そうか……。悪かったな。爺さんの暴挙を止められなくてよ」

 ちらりと見下ろした陸奥守の表情からはその心情を読み取ることが出来ない。演練先や他所の本丸で見かけるコイツは割と分かりやすい面をしているというのに、うちの初期刀はどうしてこうも自身の感情を隠すのが上手いのか。主は全然隠せねえのにな。刀は主に似るんじゃなかったのかよ。と全く似ていない、腹の底が読めない男から羽織を受け取る。
 それをいつも通り肩にかければ、ほんの少しだけ主の残り香が漂った気がした。

「で? お前は何か言うことはねえのかよ」
「ん? あるにはあるけんど……もう皆が言うてしもうたみたいやきなぁ」

 未だに正座をして項垂れている鶴丸の首には、誰が作ったのか。『私が主を泣かせました』と書かれた看板が下げられている。全く。無様といったらない。
 その正面には仁王立ちしている之定と国広がいる。二人の口からはやはり「幾ら何でも恋人がいる女性に対して失礼だ」だの「ちゃんと主さんに謝ってくださいね」だのとお小言が連発されている。そんな姿を呆れた目で見ている奴は多いが、陸奥守は何を考えているのかサッパリ分からない。

「お前さぁ……」
「ん?」
「人に腹の中読まさせねえんだから、主のこと不安にさせんじゃねーぞ」
「がはははっ。ご忠告感謝じゃ」

 本当にそう思っているのか。ヘラリと笑った男はいつもと変わらぬ足取りで広間へと入り、空になった膳を運んでいく。その時周囲の目がアイツの背を追ったが、少しも気にする素振りは見せなかった。

「怖ェ奴」

 維新だなんだというのを抜きにしても、あの男を本当の意味で理解出来る日は来そうにない。
 まったく、主はなんだってあんな奴を好きになってしまったのか。

「もう逃げられねえぞ、主」

 元々付喪神ってのは持ち主に対し依存したり愛情を注ぐ傾向が強いが、うちの陸奥守は聊か『異常』とも言える領域に足を突っ込んでいる。
 日頃の行いからもある程度読み取ることは出来るが、最たるものはやはり上位神である火神に刃を向けたことだろう。しかも武神でもある、あの恐ろしいまでの神相手に存在を認められるほどの勇を示してみせた。あの『戦嫌いの刀』が、だ。それがどんな意味を持っているのか。本当にあの鈍感な主は分かっているのだろうか。

「はあー……。まあ、主にだけは甘い顔するからな。あいつ」

 まるで我が子を慈しむ親のような顔で、その奥に抱えた計り知れない思いを上手く包んで隠して接する男。だからこそ絶対的に主に危害は加えないだろう。とも言えるのだが、敵にしたくないのは間違いない。
 その辺、うちの古刀共はどう考えているのだろうか。あっちはあっちで戻って来た理由がアレだから、陸奥守に負けず劣らずの想いを抱いているはずなんだが。
 やれやれ。うちの主はとことん“引き”が強くて困る。

「さて、と。おーい、鶴丸の爺さん。陸奥守が戻って来たから、ちゃんと頭下げておけよ」
「ああ……。流石に今回は反省してるぞ」
「今回に限らず毎回反省しろよ」
「ははは」
「笑いごとじゃないんだがね、鶴丸」

 軽口を叩く鶴丸に之定が眉を吊り上げるものの、陸奥守が自分の膳を持って戻ってくるとすぐにその場を退いた。
 さて。どう出ることやら。

「陸奥守」
「おう」
「すまなかった」

 謝ると決めたなら潔く謝る。幾ら自分の方が年上だろうが威張ったり、屁理屈をこねないところが鶴丸の長所だろう。そんな鶴丸の謝罪に対し、陸奥守は暫く黙した後――。

「謝る相手は、わしじゃのうて主じゃ。わしに頭下げられても困る」
「え?」
「は?」

 激昂することもなければ謝罪を受け入れるでもない。むしろ「謝る相手が違うだろう」と諭してきた。それに驚いたのはオレだけでなく、広間に残っていた面子も同じようだった。

「い、いや……。それは勿論、主にも謝るさ。だが先にお前にも謝罪すべきだろうと――」
「わしは、主が「えい」ち言うたらそれまでじゃち思っちゅう。やき、今は何も言わん」

 関心がないわけではないだろう。腹だって、立っていても可笑しくない。それでも陸奥守の声音はどこまでも淡々としており、却ってそれがあいつの本音を分からなくさせていた。
 だから鶴丸も困惑したように眉を寄せたが、すぐさま「分かった」と頷いた。だが今すぐにでも謝罪に行こうとした鶴丸に対し、陸奥守は「けんど」と制するような声を上げる。

「今は行かせん。主には時間が必要じゃ。それまでは大人しゅう待っちょけ」
「……分かった。きみがそう言うなら、従おう」

 有無を言わさぬ声音に乗せられた感情は、怒りなのか、それともそれを抑えようとするものなのか。掴み取ることは出来なかったが、陸奥守自身は鶴丸の行動を“許していない”のだということは読み取ることが出来た。
 だがこの男の恐ろしいところは、それを感じさせても行動に移さないところだ。誰よりも主の気質を分かっているからなのか、それとも元の気質故か。力による圧制や脅し、睨み合いは絶対にしない。どこまでも言葉と視線だけでねじ伏せて来る姿は畏怖すら感じさせ、オレですらブルリと体を震わせてしまった。
 それはオレ以外も同じようで、現に近くに座っていた加州はボソリと、小さな声で「こっわ……」と呟く。全くもって同意しかない。
 周囲に座っていた短刀たちも数名がこそりと頷き合い、また預かっていた刀たちも何人か青い顔をしていた。
 だが陸奥守はそれ以上何かを語ることはせず、淡々と朝餉を消化するだけだ。

 ――まるで嵐の前の静けさだな。

 そう思わずにはいられないほど、今日の広間は重苦しい空気に包まれていた。





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