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 陸奥守に促され、最初は大人しく本丸に戻るつもりだったけど、その前に一度実家に顔を出すことにした。だってこの数日間めちゃくちゃ、めっっっっっちゃくちゃ迷惑と心配をかけたからね! せめて謝罪の一つでもして行かないと後悔する。
 だから陸奥守と二人、並んで夜道を歩いていたのだが。

「死にそうな顔で出て行った娘が恋人作ってきた挙句、それが神様だって知ったら両親倒れそうだな……」
「おん? ほいたらわしは何も言わずに待っちょこうかえ? 上様の眷属になった以上、簡単に人と言葉を交わすわけにもいかんきにゃあ」
「あ、そっか」

 うっかり忘れそうになったけど、道中陸奥守に「鳳凰様の眷属」になったことについて詳しい話を聞いていたのだ。

 まずは『いつ』眷属になったのかと言うと、鳳凰様に言われて鍛刀場に行った時らしい。確かにあの時、炉に灯した火が陸奥守を包み込んだ。その時に鳳凰様から直々に声をかけられたそうだ。だけど私たちにとっては数秒間の出来事であっても、鳳凰様の御座に呼ばれ、一対一で対面することになった陸奥守はそれ以上の時間を過ごしていたと言う。

「上様と幾つか問答を交わしたんじゃ。わしに見込みがなければそれまで、ち言うてね」
「そうだったんだ……。でも、どんなこと聞かれたの?」
「色々じゃ。いんやー、しょうまっことおっとろしいお方やった。生きた心地がせんかったちゃ」

 私からしてみれば陸奥守も“神様”だけど、鳳凰様ほどのお立場からしてみれば『たかが付喪神』でしかない。しかも陸奥守は付喪神の中でも若い方に入るらしく、そんな陸奥守が鳳凰様直々に引き抜かれるなど滅多にないどころか可能性はほぼゼロに等しいそうだ。

「けんど、おまさんは上様の御盟友――竜神様の寵児じゃ。そんなおまさんがわしを信頼してくれちょったき、上様はお声をかけてくださったがよ」

 陸奥守はそう言って笑うけど、鳳凰様から信を勝ち取ったのは陸奥守自身だ。どんな問答をしたのか知らない私が威張れることではない。だけど卑屈になれば陸奥守のことも鳳凰様のことも傷つける。だから代わりに「ありがとう」と伝えれば、陸奥守はいつものように笑ってくれた。

 で、無事『眷属』になった陸奥守は新参者と言うこともあり、立場的には一番下――戦国で言うところの『足軽』レベルでしかないんだと。だけど鳳凰様が直々に声をかけ、引き抜いたということで同レベル帯にいる眷属たちの中では頭一つ抜きん出た存在になるらしい。でも考えてみればそうだよね。一国一城の主が足軽の顔と名前を覚えていたうえ、更には声まで掛けたとなれば注目もされるだろう。

 だけど変わったのはそこだけじゃない。刀剣男士としての仕事、ようは“使命”についても若干立場が変わったそうだ。

 めちゃくちゃザックリとした説明をすると、今までは『政府の小間使い』という弱い立場にいた。だけど鳳凰様――ガチの火の神様の眷属になったことで政府との縁は切れ、『政府の小間使い』ではなくなったんだと。だけど“刀剣男士”としての使命は果たさないといけない『約束事』になるから、雑な言い方をすると“火の眷属が人間界へ出張している”扱いになるらしい。ようは『火の神が自らの眷属を遣いとして出している』という形だ。
 いや〜。ガチ神様が介入してくるとか、いよいよ神話感が否めなくなってきたなぁ。

「上様は火の神様の中でも上から数えた方が早いお立場やき、眷属になった以上は口を慎まんといかんちゃ」
「あー……。余計なことを口走って鳳凰様の品格を落とすぐらいなら、初めから口を噤んでおけ、と」
「ほにほに。そういうことじゃ」

 神様たちの世界は人間の私では推し量れないけど、陸奥守曰く『鳳凰様は火神の中でも高位のお立場』らしく、そう簡単に眷属にもなれなければお目にかかることも出来ない、マジのガチで凄いお方なのだとか。
 ……あのぉー。私めっちゃ夢でお会いしているんですが。しかもサシで。これは一体どういうことなのでしょうか???

「ってことは、私とも立場の差があるんじゃないの?」

 ガチのやんごとなきお方であらせられる鳳凰様の眷属となれば、一端の人間相手に仕えるなど立場が逆転しているどころの話ではない。一国一城とはいかないまでも、藩主を顎で使う百姓がどこにいるってんだ。想像しただけでも血の気が引いていく。
 現に隣を歩く陸奥守からも「あるに決まっちゅーろう」と返され、ひぐっ、と喉が鳴った。ですよね!!!

「けんど、おまさんが考えちゅうこととはちっくと違うぜよ」
「へ? どゆこと?」

 意味が分からず陸奥守の整った顔を仰ぎ見れば、陸奥守は「えいか?」と指を一本立てながら丁寧に説明してくれる。

「今までのわしは『政府の小間使い』やったき、審神者に仕えちょった。これは分かろう?」
「うん」
「けんど、今は『火神の眷属』じゃ。“普通の審神者”が相手ならおまさんの言いゆう通り、わしと審神者の間に“立場の差”――“身分差”ができゆう」
「うん」
「だけんど、おまさんは特別じゃ。さっきも言うたけんど、おまさんは上様の御盟友、竜神様がお守りする寵児じゃ。一国の姫と藩主ち説明したら立場の違いがわかろう?」
「え?! そんな違うもんなの?!」

 正直言うとまだ『寵児』と称されることに違和感があるんだけど、それを言ったら話が進まないので今は飲み込んでおく。
 だけどまさかそんなに違うとは思わなかった。
 ……もしかして、竜神様もかなりすげえ神様なのでは? 内心ダラダラと冷や汗を掻いていると、陸奥守が「おん」と先の問いかけに頷いて返す。

「おまさんから見たらわしも“神様”になるけんど、わしからしてみたらおまさんの方が立場が上になるきね。それに、おまさんの魂は今神格化しゆう途中じゃ。元々竜神様が住めるほど特別な存在やき、結果的に同格かそれ以上になるんじゃ」
「ひ、ひえぇ……。マジか……」

 そりゃあ今まで散々、あちこちから『もう君の魂は人間じゃないよ! 残念ッ!』って感じで言われてきたけどさ! それがまさかそこまでヤベエ代物っていうか、立場っていうか、立ち位置にいるとか思うわけないじゃん! つーかマジで竜神様がすごいだけで、私は別に。って感じじゃない? もうよく分かんねえな……。神様の世界複雑すぎぃ!

「あー……。じゃあ、さ。私と、その……こ、恋人、になっても、むっちゃんの方が立場が下になる、ってこと?」
「おん。そういうことじゃ」
「ええ……。なにそれぇ……」

 次から次へともたらされる特大級の情報に頭がついて行かない。というか、むっちゃんは本当にそれでいいのだろうか。
 言うなれば彼は『父権社会』を生きた刀だ。男性が権力を持つ時代を生きて来た刀が、幾ら立場があるとはいえ公私共に女の下にいるなどストレスにならないだろうか。
 不安に思って「それでいいの?」と尋ねれば、このおおらかで広大な器を持つ刀はそんな不安をバッサリと断ち切ってくれた。

「おん。わしはかまんぜよ」
「でも、」
「そがに心配せんでえい。確かにわしは上様に仕えちゅうことになるけんど、元々はおまさんのものじゃ。好きにしとうせ」

 好きに、って……。幾ら何でもおおらかが過ぎないだろうか。
 陸奥守があまりにも献身的過ぎて心配になるが、当の本人は相変わらず『いい笑顔』を浮かべるばかりだ。

「例え“キズモノ”にされても、おまさんがくれた傷じゃ。大事にするぞね」
「果てしなく誤解を生む表現やめーや!」
「まっはっはっ! それにわしは今最高に気分がえいきにゃあ。惚れた女が自分を好いちょったがよ? 有頂天にもなるぜよ」
「もーやめてよーっ!」

 必死に意識の外にやっていたと言うのに、こうして思い出させてくる辺り意地が悪い。現にしっかりと握られた手の平に汗が滲んで恥ずかしいのに、何度「汚いから離して」と言っても「イヤじゃ」の一点張りで全然離してくれない。顔だってもうずっと赤い気がする。というか、実際公園でわたわたしていた時も「うなじまであこうなってかわえいの」と揶揄われたのだ。
 ほんッと、いい根性してるぜ! 一応私主なんだけどなー! と内心で罵ってはみるものの、陸奥守は本気で私が嫌がることはしないと分かっている。戦に関しては別だけど、こういうことで無体を働く刀ではない。それはちゃんと分かっている。
 ま、せめてもの救いは今が夜で人通りが少なく、通行人にこの赤らんだ酷い顔を見られずに済むことだけか。それ以外はぶっちゃけボロボロである。
 ……うん。まあ、顔色が悪いのは治ったかもしれないけどさ。
 なんて考えている間にも自宅が見えて来た。

「あ。あれが私の家だよ」
「ほにほに。立派な家じゃ」
「そんなことないよ」

 本丸に比べたら大したことない。どこにでもある、周囲の住宅と大して変わらないこじんまりとした一軒家だ。それでも今は遠く離れた土地で暮らしている兄と私、四人で暮らして来た思い出深い場所でもある。

「それじゃあ両親に挨拶した後着替えてくるから、ちょっと待って――」

 待ってて。と言おうとしたところで、何故か勢いよく玄関が開いた。

「ぬあ?! ビックリしたぁ」
「由佳! 帰って来たのね!」
「え? なに? 母さん? どうしたの?」

 こけそうな勢いで掛けてきた母に手を取られ、目を白黒させていると母がほっとしたように息をつく。

「さっきから何回も電話入れたけど出ないし、颯斗くんに連絡しても『どこかに行ったきりで見てない』って言うから、お母さん心配で心配で……!」
「あ。ごめん」

 そう言えばスマホマナーモードにしたままだったわ。バツが悪くて目を逸らせば、母は鼻を啜りながら浮かんだ涙を指先で拭い――ようやく私の後ろに立っていた陸奥守に気付いたらしい。ギョッとしたように硬直し、目を丸くした。

「ゆ、由佳……? こちらの方は?」
「ん? あー……その……」

 上質な黒い着物に身を包んだ、顔立ちも身なりも整った偉丈夫。しかも私の体には『同じ生地が使われている』とぱっと見で分かる程立派な羽織が掛けられている。
 元々“政府の小間使い”であった時から見目を引く容姿をしていたが、今は『鳳凰様の眷属』だ。陸奥守の所作の一つ一つが鳳凰様の評価にも繋がるため、無駄口を叩くことは許されない。粗雑な動作も厳禁だ。それに典雅を誇る鳳凰様のことだ。指先の所作にまで気を配るよう、陸奥守に言い付けた可能性は十分ある。だから陸奥守は多くを語らず、男らしく胸を張って顎を引き、私の半歩後ろに立っていた。

 ……うん。そりゃあ娘がこんな男を連れて帰ってきたら言葉失くすわな。
 どこか唖然とする母の前で苦笑いしていると、元々の性格故だろう。陸奥守は私の家臣として、また“水神”と“火神”の遣いとして、引き締めていた口元を優しく緩めると、そっと瞠目する母に会釈をした。

「紹介するね。この人は“陸奥守吉行”――。私の、大事な神様だよ」

 立場上、陸奥守は私の“刀”であり“家臣”だ。……まあ、その……数十分前には別の肩書も増えたわけだけれども。それはそれ。今は言うことじゃない。
 ただここでちょっとややこしい話になるのだが、陸奥守が『忠誠』を誓うのは“主”である私と鳳凰様に対してだけだ。私の親と言えど火神の眷属となった陸奥守にとって『最も立場が上』なのは私ではなく鳳凰様になる。だから幾ら私を“主”と呼び慕ってくれても、鳳凰様の方が圧倒的に立場が高いから、例え私の血縁者であっても竜神様の寵愛を受けていない両親に頭を下げることは出来ないのだ。

「か、神様って――」

 本当に驚いているのだろう。唖然とする母は完全に固まっている。
 まあ、無理もない。だって私が散々大変な目に遭い、その都度「審神者なんか辞めちまえ」と言って来たのだ。幾ら「みんな素敵な神様だよ」と説明しても「どうせ刀じゃない」と向き合ってこなかった。実際、霊力のない母には“刀剣男士”を見ることが叶わないから。だから好き放題言えた。
 だけど今ここに、目の前に『現実』として“神様”が立っている。
 母の心中を思うと涙が零れると同時に笑いそうになった。何故かって? わははは。だって私も鳳凰様や竜神様と初めて会った時こんな気持ちだったからね! 血は争えねえぜ! とりあえず母さんもこの居心地の悪さ味わいなあ!!

「とりあえず入っていい?」
「へ?! あ、ど、どうぞ?!」

 何故か私にまで丁寧な言葉を返して来た母に思わず吹き出す。途端に肩を軽く叩かれたが、気にせず陸奥守に「狭いところだけど、よかったら上がって」と促した。

 私は火神の眷属ではないけれど、『水神の寵児』として神様たちから認められている。だから人の身であっても陸奥守より立場が上と見なされるため、こうして気軽に話すことが出来るのだ。
 だけど両親はあくまでも“一般人”。冷たい言い方をすると、神々の領域から見れば完全に『部外者』という位置づけになる。
 つまりこの場では私の次に陸奥守の方が位が高いことになる。格式を重んじる神々の世界に置いてこれを無視することは出来ず、かと言って忠義を捧げた私の両親に不躾な態度を取ることも出来ない。だからせめてもの礼儀として陸奥守は多くを語ることなく、会釈だけで挨拶を済ませたのだろう。

 まあ、国のお偉いさんがいきなり訪問してきたようなものだからな。多少の無礼は許してもらおう。

 というわけで私が軽く袖を引けば、陸奥守は「ほいたらお邪魔するぜよ」と朗らかに笑みを浮かべた。
 母はそんな陸奥守の笑みに安心したらしい。ほっと息をつくと玄関扉を開けてくれた。

 何はともあれ、神様ってのは大変だ。立場とか礼儀とか格式とか、色々と、ね。

 ただ両親も我が家に神様がお越しになる日が来るとは思っていなかったからだろう。「ただいまー」と呑気な声を上げて帰って来た私にリビングにいた父が顔を出し――母と同じように陸奥守を見て硬直した。それを見て「やっぱり家族って似るんだなぁ」と苦笑いしたことは言うまでもない。
 そこ、現実逃避じゃね? とか分かってても言うんじゃない。約束だぞ!!


 ◇ ◇ ◇


 と、いう訳で。上座に位置するソファーに陸奥守を座らせ、下座側に両親が座る。その横に私は立っていた。

「えーっと、とりあえず着替えてくるから、むっちゃんはここで待ってて」
「おん。えいよ」
「マジですぐ戻ってくるから。お母さんとお父さんも、変なこと聞いたり失礼なこと言わないでよ? 聞くのもダメだからね? 居心地悪いだろうけど、そこは我慢して。すぐに戻ってくるから」
「わ、分かってるわよっ! いいから早く着替えてきなさいっ」

 神様が目の前にいることが信じられないのだろう。どこかソワソワする母だが、父は一周回って落ち着いたのか、静かな声で「お風呂、湧いてるよ」と話しかけてくる。

「は? お風呂?」
「本丸、というところに行くんだろう? せめて身綺麗にしてから行きなさい」

 父は『本丸』が神の御座だと思っているのだろう。その気遣いが嬉しくもあり、ありがたくもある。それに考えてみれば勝手に音信不通になったうえ、無断で数日不在にしたのだ。皆にも謝らなきゃいけないし、竜神様や鳳凰様へのご挨拶もある。禊、ではないけれど、身綺麗にして行くのは最低限の礼儀だ。
 でも入浴なんてしていたら余計に時間が掛かるよなぁ〜。さて、どうしたものか。悩みつつもチラリと陸奥守に視線を向ければ、私の心の声が読めたのだろう。あるいは顔に書いていたか。陸奥守は「大丈夫じゃ」と言って優しく笑う。

「わしはここで待っちゅうき、おんしもゆっくり入りとうせ。“お風呂は心の洗濯”やろう?」

 格好はいつもと違えど、浮かべる笑みはちっとも変わらない。そんな姿に少しだけ安堵し、今度は落ち着かない様子で私たちのやり取りを眺めていた母に顔を向けた。

「じゃあさ、母さん」
「な、なによ?」
「よければなんだけどさ。お粥か雑炊、作ってくれない? ここ数日ちゃんと食べてなかったから、今更だけどお腹空いちゃって」

 実のところ、食欲がわかなかったのも“自己嫌悪の浸食”から来たものだったらしい。
 家に向かって帰る道すがら、陸奥守が掻い摘んで説明してくれた。

『今回の『魔のモノ』は最初から人の心にある悪感情を増長させ、心身を犯していく“浸食”の力によるものやち、上様は言うちょった』

 だから“外”からの攻撃であれば鳳凰様の『退魔の陣』が発動されるけど、人の心に巣食う“悪感情”を使って心身の健康を脅かす“内側”からの侵害に対しては対処が出来なかったそうだ。
 とはいえ鳳凰様は加護を通じて私の考えや思っていることを読み取ることが出来るため、激しい自己嫌悪に飲まれ、次第に自我を失いかけていた私に焦り、怒った。で、遂には本丸に乗り込んできたらしい。

『いや〜、しょうまっっっこと怖かったぜよ! 上様が本丸に乗り込んで来た時ばあ、全員で“死”を覚悟したきに』
『そんなに?!』

 私としてはいつも朗らかで呵々大笑している御姿しか見て来なかったから想像出来なかったのだが、本丸に乗り込んできた時の鳳凰様はそれはもう、大層お怒りだったそうだ。

『竜神様にも「何故愛し子を放置しておる!」ち怒っちょったがよ』
『え?! 嘘! 鳳凰様が?!』
『おん。それだけおんしは上様に愛されちゅうちことじゃ。けんど、竜神様も言われっぱなしじゃなかったきに』

 燃え盛る炎を身に纏い、乗り込んできた鳳凰様になんと竜神様は頭から水を被せたらしい。

『びっっっくりしたちゃ〜。わしらは口を挟める立場じゃないき、じっとするしかなかったけんど、皆心の中では「鳳凰様に燃やされる」ち考えちょったきね。竜神様が上様を鎮めてくれざったら、わしもここにはおれんかったちゃ』

 特に一度火に巻かれたことがある刀たちは息をすることすら困難なほど、鳳凰様から放たれる神威に恐れおののき、震えながらも叩頭するしかなかったという。
 眷属になった陸奥守もそれは同じで、今回ばかりは本当に『焼死』を覚悟したんだとか。だけどそれを制したのは他でもない、竜神様ご本人だった。

『竜神様があがに怒っちゅーのは初めて見たちゃ。御姿をお見せになったかと思うたら、一瞬で、本丸が沈みそうなほどの水を空から落としたんじゃ』

 本丸が沈みそうなほどの水量って普通に考えなくてもやばくない?
 心の底からそう思ったのだが、それほどの量を落とさなければ鳳凰様が止まらないと判断されたのだろう。実際突然の水の暴力と水圧に全身ずぶ濡れになり、呆けた鳳凰様に向かって竜神様はご自身の考えを伝えたらしい。

『竜神様は、おまさんの“心の問題”に他人が踏み込むことを許さざった。それが上様であろうと譲れんち言うてな。凄かったぜよ。荒れ狂う天候に燃え盛る炎。神話を描いた絵巻が目の前に飛び出いて来たみたいで、生きた心地がせんかったちゃ』

 竜神様に関しても鳳凰様に関しても、穏やかな御姿しか拝見したことがないから荒れ狂う二柱の姿を想像することが出来ない。だけど怒り狂う火神とそれを止める水神がドンパチしたなら、それは確かにすごい光景だっただろう。
 ……でも、正直ちょっと見たかったな。妖怪大戦争とか、巨大怪獣VS巨大怪獣とかわくわくしない?

 なんてふざけたけど、正直竜神様がそこまで私を大事にしてくれているとは思ってもみなかった。いや、別に竜神様のこと疑ってたわけじゃないんだけどさ。実際今までに何度も助けてくださったし、そのご恩を忘れたわけじゃない。ただ心の問題にまで気を配ってくださっているとは思っていなかった。

 だけど驚く私に、陸奥守は優しくもしっかりと諭してくれた。

『おまさんは忘れちゅうかもしれんけんど、竜神様はおまさんが産まれた時から一緒に生きちゅう。どがな言葉に傷つき、喜び、心の糧にしたか。誰よりも知っちゅうから、他人が入り込むことを許さざったんやろう』

 そう言われて初めて竜神様が“私の中に住んでいる”ということがどういうことなのか、はっきりと理解出来た気がした。

 竜神様は今の今まで、私のすべてを見て来たのだ。今までどんな言葉に傷つき、苦しみ、涙したのか。そして誰に思いを寄せ、好ましく思い、交流を持ったのか。産まれてからずっと傍にいてくださったから、誰よりも近い場所にいたから、他人が入り込むことを拒否した。私自身が人に知られたくなかった、どうしてこうなったのか、という過去も、何に苦しみ、もがき、足掻き、そのうえで選んだ選択肢を『苦しい』と思っていたかも。
 それでも口を挟まなかったのはきっと、それが『私が自分で選び取った人生』だったからだろう。
 勿論竜神様のお声が聞けない、という理由もあるが、本当に不味ければ竜神様は啓示を出す。滝壺に呼んだりどこかに連れて行ったり。今までもそうしてきたのだから、出来ないはずがなかった。だけど竜神様は私の意思を最大限尊重し、見守ってくれた。それが竜神様なりの『愛』の示し方なのだろう。

『わしも竜神様と同じ考えやった。おまさんが心を閉ざしゆうのに、無理やり入ることは出来ん。逆に傷つけろう? やき、黙って待っちょたがよ』
『むっちゃん……』

 結局それが仇となり鳳凰様が乗り込んできたのだが、最終的に鳳凰様は竜神様のお言葉に「それもそうか」と納得し、自らの眷属となった陸奥守に『現世に行って忌々しきモノを焼き殺して来い』と命令したそうだ。で、それが数時間前の話だという。

『ただ、わしも戦装束と内番着、軽装しか持ってないろう? それを見た上様が「そんなみすぼらしい格好で行かせられるか!」ち言うて、お抱えの針子にへんしも作らしたんがこの着物ちゃ』

 新しいお着物をほんの一時間足らずで仕上げさせる鳳凰様も鳳凰様だけど、それを叶えるお針子さんたちも何者なんだ……。
 あまりの出来事に呆然としていたけれど、実際陸奥守の体躯に合わせて作られた着物はよく似合っている。鳳凰様ご自身は豪奢な刺繍が施された着物を好んでいらっしゃるようだけど、陸奥守に与えた着物は華美な装飾も刺繍もない。時間がないというのも理由だろうけど、多分、陸奥守の立場上分不相応な物は与えられないのだ。それでも位に合う中で、そして御盟友である竜神様の“寵児”である私を迎えに行くのに最も適した見栄えのいい生地を選んでくれたに違いない。だって一目見ただけで息をのんでしまうほど上質な反物が使われていることが分かるのだ。
 正直、現代で幾らになるのか怖くて聞けない。聞きたくない。でも今度聞いてみたいとも思う。一応、主として。

『ほんで、おまさんを無事もんてこさせたらこれをやる、ち言うて、お帰りになったぞね』
『うへあ……。そんなことが……』

 無事に戻ってきたら、と言っても元々陸奥守の躰に合わせて作られた着物だ。返品されたところで鳳凰様は着られないし、着用するはずもない。だから初めから陸奥守に下賜するつもりでお作りになったのだろう。

 で、陸奥守が私を迎えに行っている間、本丸に残った刀たちで後片付けをしているという話だった。まあ、鳳凰様が帰る時に水気を全部飛ばしてくれたらしいから本丸の中まで水浸し、というわけではないそうだけど。ありがたいような恐ろしいような。神様って本当、色んな意味で凄い存在だ。

『ほんでお針子さんらぁが仕事しゆう間に、上様から今回の『魔のモノ』について説明があったがよ』

 人の心に初めから存在していた“最も力の強いマイナスの感情”を増殖させる今回の“呪い”は、心身の健康を害する『内側から攻めて来る魔のモノ』に対し退魔の加護は発動しない。最初に鳳凰様が「過信するな」と言っていたけど、こういうパターンの敵もいるから注意しろ。という意味もあったんだろうなぁ。今更ながらに気付く。……うん。もう遅いんだけどさ。

『今回の“浸食”が恐ろしいがは、生きるために必要な力を削りゆうとこにあるがよ』

 人によって影響する順番は違うが、やはり『睡眠』と『食欲』に影響を及ぼし始めると命の危険が早まるらしい。

『あー……。じゃあ私結構やばい所まで行ってたかもしれない。食欲全くなかったもん』
『なんやと。何日食べちょらんか覚えちゅうか?』

 グッと眉間に皺を寄せた陸奥守に問われ、そっと片手を上げて見せる。途端に陸奥守は怪訝な顔をしたが、すぐさまその指の数全てが『食べていない日数』だと察したらしい。めちゃくちゃ心配された。

『おま……! 燭台切と堀川が聞いたら泣くぜよ?!』
『だってほんとに食欲がなかったんだもん! っていうか何食べても戻しちゃって……』
『……そこまで酷かったがか?』
『……結構やばかった』

 せめてもの救いは水分補給が出来ていたことだろう。それがダメだったら絶対に脱水症状を起こして倒れていた。まあ、おかげさまでお腹は多少へこんだけどね! だけどこの方法は絶対おすすめしないから、良い子は真似しちゃダメだぞ!

『ってことは、頭痛かったのも“浸食”のせいなのかなぁ』
『そこまではわしも分からんけんど、上様なら知っちゅうかもしれんにゃあ』

 という話をした。で、無事食欲が戻って来たから普通に「お腹空いたなぁ」と思ったのだ。だけどいきなり固形物は負担がすごい。だからお粥か雑炊を作って欲しいと頼むと、母はずっと何も食べなかった私が「腹減った」と言ったことに驚いて目を丸くしたが、すぐに「準備をする」と言って立ち上がり、台所に立った。

「じゃあお風呂入ってくるね」
「了解じゃ」

 頷く陸奥守に笑みを返し、着替えを持って脱衣所へと直行する。そうしていつも通り服を脱ぎ、全身にお湯を掛けて髪を洗い、洗顔をしようとしたところでふと思い出す。

「……私、むっちゃんとキス、したんだよ、な?」

 内側から攻撃していたらしい『魔のモノ』のせいで情緒がグッチャグチャに乱されていたとはいえ、ベソベソ泣きながらとんでもないことをお願いしてしまった。
 改めて陸奥守から送られたキスの嵐を思い出せば、忘れていた羞恥心が一気に襲いかかってくる。

 うわーーーーーっ!!! ギャーーーー―ッ!!!!

 叫べない代わりに内心で盛大に叫び、精神的にもんどりを打つ。そうして頭からシャワーを被って『心頭滅却!』と口の中だけで叫ぶが、全くもって意味がない。
 分かってる。こんなことしたって過去は消えないし、あの時の私は何度繰り返してもやっぱりどうしたって陸奥守に甘えまくると思う。
 いやでもお前、「キスして」ってお前……。バカじゃねえの……。

「うぅ〜〜〜〜」

 でも陸奥守は嫌がることなく応えてくれた。それは、素直に嬉しい。その後はちょっと、あの、アレだったけど。本人も「箍が外れた」って正直に申告してくれたけど。
 ていうかむっちゃん、ファンデーションとかアイシャドウとか気にならなかったのかな。いや、もうその頃には涙で全部流れてたかもしれない。え? だったら超汚かったよね? むっちゃんマジで心広すぎない? 神か? 神だったわ。

 そんなアホなことをグルグルと考えながらもガッシガッシと肌を擦って垢を落とし、浴槽の中で呼吸を整えてから脱衣所に出て着替え、身支度を整えた。
 そうしてリビング兼食卓へと戻ると、土鍋を用意していた母が「出来たわよ」と声をかけてくる。

「とりあえず、あんたの分だけ作ったけど……」
「うん。むっちゃんの分はいいから。ね?」
「おん。大丈夫じゃ」

 ていうか神様にお粥なんか食わせられるかっつーんだ。それにしても、両親は未だに陸奥守の存在感に当てられているらしい。まあ、今のむっちゃん“火神”に認められた付喪神だもんね。審神者と違ってただの一般人である二人には威圧感的なものが感じられるのかもしれない。よう分からんけど。

「あ! そう! あんたが帰ってくる前に颯斗くんから連絡が来たんだけど!」
「ふごっ?!」

 食べ始めてすぐ母に詰め寄られ、咄嗟に吹き出しそうになったが寸でのところで抑え込む。あっぶね! 危うく母の顔面米粒塗れにするところだったわ。

「相馬くんが突然倒れたらしいわよ」
「は?! そーくんが? 何で?」
「それは知らないわよ。でも同窓会の途中から顔色が悪くなったそうよ? 颯斗くんが送ろうと店を出たところで倒れたんですって」

 母は心底心配しているのだろう。頬に手を当てて「大丈夫かしらね……。心配だわ」と口にしているが、私としてはなーんか引っかかる。
 そもそも私が『自己嫌悪』を増長させる“浸食”の影響を受けたのは、恐らくそーくんに無理矢理キスされた日からだと思う。だってあの時すげー嫌な感じしたもん。それに本丸に逃げ込む時も、自分らしくない負の感情が大きくなっていくのを感じた。
 いや、実際本丸は“職場”であって“逃げ場所”ではないんだけれど、普段の私は本丸で生活しているのだから、そこまで自己嫌悪に陥る必要はなかったのだ。実際、あの日も花火を見終わったら本丸に帰るつもりだったのだから。
 だけど私は記憶が混濁するほどのショックを受けた。はっきり言うと、私自身そーくんにキスされたところであそこまで狼狽えるほど可愛い性格をしていない。精々「何してんだテメエ!」という一言と共にビンタ一発食らわせる程度だろう。あんな風に無様に逃げ帰ったりしない。
 ……ていうか、今思い出したんだけど、皆に買っていたお土産ってどうなったんだろう。そーくんが拾ったのかな……。それともスタッフが処分してくれたのだろうか。地味に気になる。まあ、それは後回しにするとして。

「で? やっちゃんからは何て?」
「今病院で検査を受けているそうよ。それより、あんた何でそんなケロっとしてんのよ。心配じゃないの?」

 訝る母には悪いが、今回の件にそーくんが無関係だとは思えないのだ。第一キスされる前から、それこそそーくんに告白された時から私の情緒はおかしくなり始めていた。あの時既に『魔のモノ』の影響を受けていたのだとしたら、あそこまで混乱し、取り乱した自身の行動も頷ける。
 確かに友達を疑うのはイヤだけど、これは“審神者”である“水野”が請け負った仕事に関わる案件だ。公私混同は出来ない。
 私は陸奥守に視線を向けると、彼もこちらを見ていたらしい。視線が合ったので同時に頷き合う。

「母さん。私、これからしばらくこっちに帰れないから」
「は?! 何で! 相馬くんが倒れたのよ?! 心配じゃないの?!」
「そりゃ心配は心配だけど、私にも仕事がある。それに、多分だけど今回の件、多少なりとも心当たりがあるんだよね」
「なッ……! またそんな危ない仕事を……!」

 テーブルに手を突き、身を乗り出す母をじっと見返す。いつもならここでお互いギャンギャンと言い合いが始まるのだが、今日は陸奥守がいる。普段容赦なくこちらに喰いついて来る母もそれを思い出したのだろう。咄嗟に言葉を飲み込んだ。

「私は行くよ。いつまでも立ち止まっていられないから」
「………………」

 本当ならば娘として母を安心させるべきなのだろう。そして母も陸奥守に謝罪すべきだった。何せ私に力を貸してくれている“刀の神様”を前にして『危ない仕事などさせられるか』と私と陸奥守を同時に否定したのだから。だが母は『娘を思う母親』としての矜持を取ったらしい。陸奥守から視線を逸らすだけで、謝罪することはなかった。

「はあ……。むっちゃん、ごめんね」
「かまんぜよ。むしろ、安心したちゃ」
「は? 何で?」

 少しばかり冷えつつあるお粥を口に含めば、陸奥守は柔らかい笑みを口元に浮かべながら「おまさんによう似ちゅう」とだけ零した。

「似てる……か? ああ、まあ、似てるか。母さんの娘だしな」
「何納得してんのよ」
「いや〜、母さんも私も“これだけは譲らねえ”と思った時は絶対譲らないじゃん。審神者の仕事に関してもさ」

 審神者を辞めさせたい母と、辞めたくない私。常に平行線を辿る押し問答に、母も心当たりがあるからだろう。ぐっ、と言葉に詰まる。
 それに、今のでも伝わっただろう。私が今回の件から“絶対に手を引かない”ということが。

「母さん」
「なに」
「私は、今の仕事に誇りを持ってる」

 そりゃあ確かに、母親からしてみれば娘が何度も死にそうになり、入退院を繰り返していれば「そんな仕事辞めちまえ!」と思うに決まっている。その気持ちは痛いほどに分かる。だけどここで私が逃げたらどこまで被害が及ぶか分からない。
 だからもし私に止められる力があるとするならば、やはり私がやらなければいけない“仕事”なのだ。これ以上、この件で被害者が出る前に。

「傍から見れば危険な仕事だと思う。ていうか、実際危険だし、いいことばかりじゃない。楽しいものでもない。だけど、途中で投げ出すことだけは、絶対に出来ない。したくない。それぐらい、大切な仕事なの」

 審神者だけじゃない。ライフラインを司る何らかの職場で働いている人たちは時に自身の健康や命を天秤にかけながら仕事に従事する。それはとても大切な仕事で、誇るべきものだ。彼ら、彼女らがいなければ、私たちはこうして穏やかに暮らすことは出来ない。それを、ちゃんと知っている。だから私も逃げたくなかった。

「……母さんにとっては、あんたは……大事な娘なのよ」
「うん。でも、他の人も同じだよ。今後被害に遭うかもしれない人たちも、誰かにとっては大切な、たった一人の家族で、喪えない人なんだよ。だから行かないと。私は罪のない人が苦しむ世界なんて見たくない。自分だけ安全な場所に逃げて見ない振りをするのも、ただ震えて蹲るだけなんてのも、絶対に嫌だ」

 この数日間、イヤというほど引きこもった。泣きまくった。食事もとれず、両親にも迷惑を掛けた。だからこそ、もう逃げたくない。ちゃんと自分の両足で立って、顔を上げて前を見て、前に進みたい。蹲って泣く時間は、もう終わったのだ。

「よしっ! ごちそうさま!」

 元々少なめに作るよう頼んでいたから、会話をしている間にも食べ終わった。パンッ! と勢いよく両手を合わせれば、母さんは怒りたいような、泣きたいような、何とも言えない顔をした。
 でもここで「ごめんね」と言ったら母が苦しむだけだ。だから、こちらをじっと見つめる父にも、俯く母にも、胸を張って言うしかない。

「私は“冬千由佳”としてではなく、審神者の“水野”としてこの一件を解決します! 政府と神々の名にかけて、これ以上の暴挙を許しません!」

 私を見守ってくれた竜神様の思いに応えるためにも、加護をくださり、気にかけてくださった鳳凰様のためにも。そして、今尚本丸に残っているであろう、大事な刀たちのためにも。私は、逃げも隠れもしない!

「むっちゃん! 行こう!」
「おう! 任せちょけ!」

 椅子の背もたれにかけていた鞄を掴み、肩に下げてから呆然とこちらを見つめる両親に笑みを向ける。

「行ってきます!」

 元はただの弱小本丸だった。だけど今は、太古から生きる二柱の神が見守る本丸の代表なのだ。ここで逃げたら一生太陽を拝めぬまま生きることになるだろう。そんな生き恥を晒すぐらいなら大の字になって死んだ方がマシだ。
 だから戦おう。相手がどんな搦手を使って来ようと、絶対に突破してねじ伏せてやる。それが『戦神』である鳳凰様に出来る最大の恩返しだから。

「やっちゃん! そーくんの容体は?!」
『は?! ゆ、ユカ?! お前、大丈夫なのか?!』
「私のことはあと! 今はそーくんのことを教えて!」

 家を出て、表通りに向かって走る道すがらやっちゃんに電話を掛ける。まさか同窓会を抜け出した私が電話をかけて来るとは思っていなかったのだろう。やっちゃんは驚いた声を上げたけど、今はとにかく情報が欲しい。だから「いいから早よ話せ」と急かせば、やっちゃんは分かる範囲のことを教えてくれた。

『俺もよく分かってねえんだ。ただ、お前がその……元彼なのか今彼なのかよく分かんねえ人と出て行った後、突然相馬が「胸が苦しい」って言いだしたんだよ』

 突っ込みたいところは一部あったけど、それを言うと話が進まないので「それで?」と先を促す。

『だから急いで病院に行こうって、店を出た瞬間相馬が呻きながら倒れたんだ』

 私が店を出てからそーくんが倒れるまでどれほどの時間が空いていたのかはよく分からない。やっちゃん自身が時計を見ていなかったことと、証言を取れる人間がこの場にいないことが悔やまれる。 それでも時間に大した差はないはずだ。多分、そーくんが苦しんだのはむっちゃんが私に憑いていた『魔のモノ』を焼き殺したからだろう。タイミング的に無関係とは思えないから、暫定的にそう判断することにする。
 実際私の体はかなり危ないところまで行っていた。“侵食”がその分力を得ていたのだとしたら、術者であるそーくんが“呪い返し”を受けて苦しむ可能性は十分ある。

『けど、病院についてからは関係者以外は帰ってくれ、って言われてさ。……もう訳分かんねえよ』

 本当に参っているのだろう。やっちゃんの声に苛立ちと困惑が滲んでいる。だけど今の私は『由佳』としてではなく、審神者の『水野』として職務を全うしている。私情は挟まないと決めているため、心を鬼にして「分かった」とだけ返す。

「情報ありがとう。これからもそーくんのことについて何か分かったら、すぐに教えて」
『え? あ、おい! ユカ?!』
「じゃあまたね!」

 どこか焦りを滲ませるやっちゃんには申し訳ないとは思いつつも、電話を切り、流れて来たタクシーを呼び止め陸奥守と共に乗り込む。

 確かに、そーくんとは色々あった。でも、そーくんのことだ。きっと私に『危害を与えよう』と思って敵側の思惑に乗ったとは思えない。もし本当に巻き込まれただけなのだとしたら、私は私の『友達』を巻き込んだ相手を絶対に許すことが出来ない。

 だって私めちゃくちゃ俗物だからな! 悪人にもいいところがあるんでちゅ〜。許してあげて〜。なんて乞い願う“いい子ちゃん”タイプではないのだ。むしろ悪いことしたやつには相応の天罰が下るというか、下りやがれコンチクショー。と思っている。罪はちゃんと自分の力が償いやがれ。と常日頃からそう思っているタイプなのだ。だから絶対に見逃したりしません。怪異に巻き込まれまくった人間の言葉だからな! 舐めんなよ! 絶対実行するからな!

「とにかく、今は本丸に帰ろう。皆にも説明しないと」
「おん。まずはそこからじゃ」

 近場のゲートに向かってタクシーに走ってもらう。私の家から最も近いゲートは市役所前だ。日中は人で賑わっているが、夜は用がないためそこまで人通りは多くない。とはいえ全くいないわけでもないのが玉に瑕だった。

「あれ? 冬千じゃん。帰ったんじゃなかったのか?」

 陸奥守と一緒にタクシーを降り、財布を鞄に仕舞っている時だった。そーくんが倒れたことであの居酒屋での時間はお開きになったのだろうが、その後何人かで集まって遊んでいたのだろう。市役所付近はオフィス街だが、居酒屋やコンビニもある。現に安酒を片手にたむろしていた男女数名に声をかけられ、思わず顔を顰めた。

「あんたら何やってんの?」
「え?」

 まさか居酒屋を出る時にガチ泣きしていた女がこんな口を利くと思っていなかったのだろう。声をかけて来た男が固まるが、こっちが気にしてやる必要はない。

「ああ、そうだ。暇ならちょっと調査に付き合ってよ」
「ちょ、調査?」
「若宮相馬が倒れたの。知ってるでしょ? その捜査だよ」
「お、お前、警官だったの?」

 何人かが困惑した様子で見てくるけど、それも全部無視してそれぞれの顔を見る。というか、警察官だと誤認しているならそれでも構わない。なんなら今回の件、本物の警察官であり、審神者でもある“田辺さん”と合同で仕事をする可能性もある。その時に少しでも情報を持って行った方がいいだろう。
 だから狼狽える元同級生たちを無視して話を切り出した。

「若宮さんに変化が見られたのは何時何分頃か、どなたか覚えていらっしゃいますか?」
「え? えっと……冬千がそこの……なんか、すげえ人と一緒に出て行ってからすぐだったと思う」

 黙って私の後ろに立っている陸奥守が気になるのだろう。鳳凰様の眷属となった以上、陸奥守は鳳凰様の神格を落とすような振る舞いは出来ない。勿論本丸内ではこれまで通り生活出来るが、現世や他本丸での立ち居振舞いはガラリと変わるだろう。高位の神の眷属になるということは、即ちそういうことなのだ。
 なんて考えていると、気まずそうに立っていた女性がそっと手を上げてくる。

「あー……私、時間覚えてる」
「お伺いしても?」

 公私共に仲良くさせて頂いている柊さんの真似をして問い掛ければ、声を上げた女性がおずおずと、尻込みしたような声音で「十九時半……」と答えた。その際後ろにいる陸奥守に視線を送れば、無言で頷く。
 あの居酒屋から最も近いゲートがあるのは繁華街を出た先にある商業施設の一画だ。以前その前を通ったことがあるから覚えている。あそこからあの居酒屋まで、私の足で歩いて十五分か二十分ほどだ。陸奥守ならもっと早いだろう。だとすると、陸奥守が本丸で用意を終えたのがおそらく十九時前後。そこからすぐにゲートを潜って現世に来ただろうから、嘘ではないだろう。

「ありがとうございます。若宮さんが倒れた時、近くにいた方はいらっしゃいますか?」
「いや……俺たちは颯斗が連れて行くのを見てただけだから……」

 チラチラと私と陸奥守に視線が飛んでくるが、気にしたら負けだと無視することにする。というか、聞かなくても分かる。
 どーせ私たちの関係を邪推して面白おかしく話していたんだろう。むっちゃんの言葉や覚悟、ゆきちゃんの思いやりが笑われたのかと思うと心底腹立たしいが、公私混同はしない。だから腹立たしく思いつつも質問を続けた。

「他の皆さんは? 何か他に気付いたことはありますか?」
「いや、特には……」
「ない、かな」
「そうですか。分かりました。ご協力感謝します」

 元より期待していなかった。だから大体の時刻が掴めただけでも十分だろう。
 控えていた陸奥守に視線をやれば再度頷かれる。だから私も「行こう」と返して走り出した。

「あ! と、冬千!」

 現世でしか呼ばれることのない、私の名前。だけど、今の私は『冬千』じゃない。“審神者の水野”だ!

「じゃあね!」

 どこか困惑している様子の元同級生たちに片手を軽く振り、陸奥守が起動させていたゲートに一緒に飛び込んだ。





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