小説
- ナノ -




 これ以上本丸にいたら皆様に迷惑をかけてしまう。そう判断した私は夜半、神様たちが身を休めているであろう間にゲートを起動させ、現世に戻った。
 ただまっすぐ家に帰ることはしなかった。そんな気分ではなかったからだ。
 スマホの電源は既に切れており、鞄の中で無用の長物となっていた。だから誰かに連絡を取ることもなく、ゲートを出た後は宛てもなく夜の街を歩いた。右に、左に。フラフラ、フラフラと。歩いて、歩いて、歩いて、歩いた。そうして不意に目に留まった漫画喫茶に足を踏み入れ、そのままじっと椅子に座って夜を明かした。

 眠ることは出来なかった。ただじっと汚れた衣服を入れた紙袋を抱え込み、周りの音を遮断するためにイヤホンをした。音楽はかけなかった。ただほんの僅かな隔たりを得た向こう側の音を、聞くともなしに聞いていた。

 夜が明けたら店を出た。外では朝から雨が降っていたけれど、傘を買う気にはなれなかった。だからそのまま歩いた。濡れて帰れば両親は何も聞いて来ないだろうと思って。
 実際それは当たった。
 母はドアフォンを鳴らした私を見て目を見開き、泣きそうな顔で「早く入りなさい」と言って家の中に入れた。その頃には全身ずぶ濡れだった。朝食を食べていた父もリビングから出てきて、黙ってバスタオルを掛けて髪を拭いてくれた。

「お風呂、入りなさい。ご飯は? 食べられる?」

 丸一日何も食べていなかったけど、不思議と食欲は湧かなかった。だから首を横に振れば、両親は揃って「そう」と頷いた。父は仕事があるからと、食事を終えると私に「行って来るな」と優しく声をかけた。
 頷いて答えた気がしたけど、実際に頷けたのかどうかは自信がない。それぐらい、心も体も疲弊していた。

 湯船に浸かっている間、母が絶えず声をかけてきた。浴槽に沈んで溺死しないか心配なのだろう。どこまでも過保護な母にいつもなら笑うか怒っただろうが、その日は「うん」か「ううん」しか言えなくて、母は私を寝かせると「仕事に行ってくるわね」と泣きそうな顔で、寂しそうに告げた。

 その後の数日間は、ずっと部屋に籠りきりだった。
 本丸に行くことは出来なかった。どんな顔をすればいいのか、どんな言葉を神様たちにかけたらいいのか分からなかったから。それにずっと頭が痛くて、じわじわと底なし沼に沈むかのように全身も重たかった。
 鏡に映った顔は死相でも出ているのかと突っ込みたくなるほど酷いもので、こんな顔で神様たちの前に立つことなんて絶対に出来なかった。

――怖かったのだ。向ける顔も、合わせる顔もなかったから。だから逃げた。
 やっちゃんやそーくんから何度も連絡が来ていたけど、見ることすらしなかった。というか、それに気付いたのも同窓会の朝にようやく電源が切れていたスマホを充電してからだった。だから仕方のないことだったと自分に言い聞かせて、スマホを枕元に投げた。
 返事はやっぱりしなかった。

「由佳。あんた、本当に今日同窓会行くの? 無理に行く必要なんてないのよ」

 ここ数日、まともに食事が喉を通らなくてお茶だけを飲んでいた。一度母が「少しでもいいから」とお粥を作ってくれたけど、喉を通らないどころか戻してしまい、それが引き金になったのか暫く吐気が収まらず頭痛が酷くなった。
 その後は延々とベッドの中で横になっていた。音楽も聞かず、本も読まず、ただぼうっと窓から見える曇天を眺め続けていた。気付いたら夜が来て、朝が来て、静かな家の中で泥のように停滞した時間を過ごしていた。

 ――食欲は、終ぞ湧かなかった。

 いつもの“私”なら、お調子者の私なら、今の状況に「プチ断食どころの話じゃねえなぁ」なんて言って笑っただろう。「断食ダイエットなんか成功するわけないぜ」と言って好きなものを食べていたのかもしれない。
 だけど今は生気のない顔をした醜い女が一人、母の問いかけに言葉を返しあぐねている。

 同窓会。行くか、行かないか。
 本音を言えば『行きたくない』。でも、行かなかったら、何を言われるか分からない。

 どうせ私に会いたい人なんていない。分かってる。分かっているのに何で行くのか。自問自答しながらゆっくりと瞬き、それからぬるくなったお茶に淀んだ目をした自分を映す。
 ――まるで動く死体のようだ。辛うじて息をしているだけの、死にかけの女。それがじっと濁った瞳でこちらを見ている。それが酷く気持ち悪くて、吐き気がした。

「……行く」

 行っても笑われる。だけど行かなくても嗤われる。だったら直接顔を見て笑われた方がずっといい。『相変わらず醜いな』と声に出して、面と向かって、指をさして笑われた方が、陰でコソコソ言われるよりも楽だから。

「……由佳。お母さんが、あんたを追い詰めたの?」

 気付けば母が真横に立っていた。だけど見上げる力がなくてそのままぼーっと湯呑を眺めていたら、母の両腕が労わるように抱きしめてきた。

「ごめんね、由佳……」

 どうして母が謝るんだろう。
 分からなくて、聞きたくて、どうにか唇を開いたけど、結局音にはならず、かさついた唇からは吐息しか出て来なかった。だから、全部諦めて目を閉じた。
 ――このまま死んでしまえたらいいのに。そう、考えながら。


 ◇ ◇ ◇


 同窓会の時間になった。
 母が代わりに服を選び、化粧をし、近くまで送ってくれた。この数日お茶しか飲んでいなかったせいか、一番ウエストが細いズボンもすんなりと履くことが出来た。むしろベルトを締めないと落ちそうなほどで、本来ならば喜ばしいことなのに、何故か母は泣いた。だけどその涙の理由を聞きたくても言葉が出て来ず、結局無視するような形になってしまい、心から申し訳なく思った。

「無理せずすぐに帰ってきなさい」

 この数日間で両親の愛を強く感じた。二人は、何も話さず、何も食べられなくなった私を黙って支えてくれた。時折母が泣くことはあったけど、その涙を拭う資格が自分にはなかった。 
 だって、こんなにも親を泣かせ、心労を掛けている“親不孝者”に何が出来るだろうか。いっそ死んで詫びることしか出来ないのではないのか。そう考えれば考えるほど、ドロリとした気持ち悪い何かに足元を捕られた気がして気持ち悪かった。

「由佳ーー! おっひさーーーっ!!」
「ッ!」

 常に笑われる対象だった私にとって、唯一仲良くしてくれた同性の友達――。私と同じ音の名前を持つ、雪の花と書いて“ゆか”と読む友人が勢いよく背中に抱き着いて来る。

「ゆきちゃん……」
「おーっすおっす! ってどした?! あんたやつれて、って顔色悪くない?! ファンデでうまく隠してるつもり?!」

 周りから嘲笑われる中、一人だけ「バッカじゃないの?」と呆れた顔をして周囲の声を無視し、話しかけてくれた。格好よくて優しい、友達思いの強い女の子。漢字は違うけど、同じ読み方だから「私のことは“ゆき”でいいよ!」と明るく笑ってくれた。真冬産まれの、夏空のように眩しい友達。
 そんな彼女も高校時代に両親が離婚して一時期荒れたけど、今では一児の母だ。忙しい中いつも気にかけてくれる。こんな街中でも私を見つけてくれる。名前を呼んで、笑いかけてくれる。そして両親と同じように心配してくれる。それが嬉しくて――それ以上に、申し訳なく思った。

「大丈夫……」
「いやいやいや! 全然大丈夫じゃないじゃん! 今にも死にそうじゃん! え? なに? どこか悪いの? お腹痛い? 頭痛い? 病院行く?」

 ペタペタと頬に彼女の細い指が触れる。額にあたたかい手の平が当てられる。伸ばしっぱなしのまま、心血注いで手入れをしているわけでもない髪を整えるように指先が頭を撫で、それから不安げに揺れる茶色い瞳が私をまっすぐに捕えてくる。
 ああ……。いっそのこと、このまま眠るように死んでしまえたらなぁ……。ゆきちゃんに抱きしめられたまま死ねたら、一番幸せかもしれない。

 そんなことを考えていると、通りの向こうから「ユカ!」と一際大きな声が飛んでくる。

「お前っ……! バカヤロー! 心配したんだぞ! ずっと連絡返さねえで、どこ行ってたんだよ!」
「ちょっと八神ィ! 今の由佳が見えてないの?! こんなフラッフラな子に大きな声出してんじゃねーわよ! ぶっ飛ばすわよ!」
「……朝霧、お前、ホントはまだヤンキーだろ」
「朝霧は旧姓だっつの。時代遅れのモンキー野郎」

 何故か二人が睨み合っている。……本当になんでだろう。分からないけど、私が小さく「ゆきちゃん」と呼べば、すぐに振り返って抱きしめてくれた。

「大丈夫よ、由佳。今日のあんたは私が守るから」
「俺もいるんだけど」
「アンタはむしろ邪魔なんだよ。大体アンタ目当てで声かけて来た女ばっかりなんだから、由佳の周りチョロチョロしないで、盛った雌犬共を適当にあしらってろ」
「ヤンキーじゃねえか……」

 シッシッ、と野良犬を追い払うように手を振るゆきちゃんと、苦い顔をするやっちゃんを交互に見遣る。だけどすぐにゆきちゃんから「とりあえずお店に入るけど、あんたは無理しないようにね」と額を軽く突かれたので頷いた。

「おーっす。おひさー」
「お。颯斗じゃーん! 相変わらずイケメンだなー!」
「おひさー! 颯斗ー! こっち来いよー!」

 相変わらず人気者のやっちゃんに、すぐさま先にお店に入っていた男たちが声を上げる。
 あー……。何となく面影があるから分かったけど、中学卒業してから会ってない人もいるから一瞬分かんなかったな。みんなおじさんになったなぁ。
 それに、普段綺麗で格好いい神様たちばかり見ているせいか、姿勢を崩して椅子に座る姿を見ると余計に薄汚く見える。何というか……。ドロドロしてる? 体の周りに黒い、靄みたいなものが纏わりついているようにも見える。一人は蛇のように肩から首に掛けて巻き付き、一人は覆い被さるように全身を覆っている。
 ……あれは、何なのだろう。『よくないもの』だということは分かるけど、その中身がよく分からない。ただ何となく『近寄りたくないな』というか、『触りたくないな』と思った。

「由佳、あっち。端っこの方座ろ」
「うん」

 ゆきちゃんに手を引かれ歩き始めると、真っ先にやっちゃんに気付いた男性が「お」とこちらに意識を向けて来る。

「朝霧と冬千? 久しぶりだなー!」
「おう。ていうか、もう朝霧じゃないから」
「ははっ! 悪い悪い。そう言えばそうだったな。つーか、相変わらず美人だなぁ」
「うっせ。旦那意外に褒められても嬉しくねえんだよ。あと普通にキモイ」
「ヒデエ! 相変わらずヒデエ!」

 この男は、ああ、そう。ムードメーカーというよりトラブルメーカーみたいな男子で、私のこともよく揶揄ってきた。だから一瞬血の気が引いたけど、当時私を『プーさん』と呼んでいた男は意外なことに苗字を呼んできた。

「それにしてもさぁ、冬千? 痩せたなあ!」
「うっぜえなあ! このクソハゲ! もう喋りかけてくんな!」

 ――冬千(とうせん)。当時殆どの人からまともに呼ばれることのなかった私の苗字。審神者になってからはすっかり呼ばれることのなくなった名前は、正しく私の名前であるはずなのに、まるで他人のモノのように聞こえた。
 現に当事者なのにどこか他人事のようにやりとりを聞き流していると、他の男たちも私に気付いたらしい。次々と声をかけて来る。

「マジ?! 冬千?!」
「全然気づかんかったわー。もはや別人じゃん!」
「いや、俺昔から言ってたべ? 冬千は“痩せたらいける”って」
「おいテメエ! ぶっ殺すぞ!!」

 ゆきちゃんが元ヤンらしく威嚇してくれるけど、私にとっては全部どうでもよかった。いや、実際どうでもいいっていうか、こんなの可愛い方というか。むしろ「え? 何、今更」っていう感じでいっぱいだ。

「由佳は昔から可愛かったっつーの! これ以上アタシのダチ傷つけたら、マジで吊るすからな!」

 もはや狂犬一歩手前というレベルでキレるゆきちゃんだけど、これ以上やると周りに何を言われるか分かったものじゃない。皆も社会人だから多少は常識を学んだはずだが、もう既に酒を入れている人もいる。私だけが嘲笑の的になるならともかく、ゆきちゃんが笑われるのはイヤだ。
 だから小さく、もう一度「ゆきちゃん」と名前を呼ぼうとすれば、タイミングよく後続が現れた。

「遅れたー! ごめーん!」
「え?! 颯斗くん?! 久しぶりー! 相変わらずかっこいーね! 元気してたー?」
「やっば! みんな変わり過ぎなんだけど! おじさんになったねー」

「うっわ。うるせえのが来た」

 死ぬほど嫌そうな顔をしたゆきちゃんに両肩を掴まれ、そっと奥の席に促される。だからそのままそこに座れば、上座付近に座っているやっちゃんに次々と気合を入れた格好をした女性達が群がる姿がよく見えた。

「ほら、絶対近くに行かなくてよかったって。あそこにいたらマジで由佳が死んじゃう」
「ありがと、ゆきちゃん」
「いいよ。ってか、ホントに私の方が泣きそうなんだけど。ねえ、由佳。もういいよ。顔出したんだし、もう帰ろ? 帰るのがイヤならうちに来な?」

 ギュッと手を繋いでくれるゆきちゃんの心配が嬉しい。でも、どうしてこんなに優しくしてくれるのかが分からなくて涙が出そうになる。でも、泣いたら化粧をしてくれた母に悪いから、ぐっと唇を噛みしめて我慢した。

「――大丈夫だよ」

 まだ、まだ大丈夫。まだ、笑える。声が出せる。話が出来る。だから、まだ大丈夫。

 だけど無理矢理笑顔を作ったせいか、ゆきちゃんが怒っているようにも、泣きそうなのを我慢しているようにも見える顔をした。だけどその彩られた唇が動く前に、また現れた他のメンバーに対する黄色い歓声が辺りを支配する。

「あ、相馬! こっちこっち!」
「え?! 若宮?! マジで?!」
「やっば! 全然違うじゃん!」
「え?! 若宮くん?!」
「マジで?!」
「ど、どうも」

 どうやら今度はそーくんが来たみたいだ。その変わりように一同唖然としている。……ま、私も似たような反応したから、気持ちはよく分かる。
 ――でも、

「え〜? 相馬くん、こんなにカッコよかったんだ〜」
「ねえー、私の事覚えてる?」
「前一緒に調べものしたよねー」
「え……えっと……」

 当時そーくんのことを『陰キャ』だの『モサメガネ』だの言ってバカにしていた女性たちが、手のひらを返したように猫なで声ですり寄る姿が気持ち悪かった。
 ゆきちゃんも同じことを思ったのだろう。長い舌を伸ばして「おえっ」と臆面もなく顔を顰めている。

「あいつらマジでどーいう神経してんの? 当時コソコソ陰口叩いてたクセにさぁ、八神と並んでるだけでキャーキャー言ってんだけど! サカりすぎだろ!」
「ゆ、ゆきちゃん……」

 あんまりにもあんまりな言いように苦笑いするが、ゆきちゃんの口は止まらない。

「つーか思い出したわ。ほら、アイツ。あのピンクババア」
「ピンクババア」
「そ。全身ピンクの、頭の中もまっピンクの妖怪化粧盛り盛りババアだよ」
「属性増えてない?」

 どこまでも嫌いな相手には容赦ないゆきちゃんは、上から下までピンクで揃えた、当時『ぶりっ子』と陰で呼ばれていた女子を顎で示した。

「アイツ、二年前に出来婚して、去年離婚してんの」
「スピード離婚過ぎない?!」
「あったりまえじゃん。どーせ酒に酔った勢いで一発ヤったら出来ちゃったんでしょ。ほんっと、頭も緩けりゃ下も緩いからこうなるんだよ」
「ゆきちゃん、そろそろやめよう? ほんとにやめよう?」

 お母さんになったからか、ゆきちゃんから恥じらいというか思いやりというか、周囲の目を気にするというアレソレがなくなっている気がする。いや、でも割と前からなかった気もしなくはないんだけど、ちょっと今日はすごいぞ?!
 半ば狼狽えていると、コソコソと耳打ちし合う私たちの姿が見えていたらしい。妖怪ピンクと一緒にいた別の女性の目がこちらを向く。こっちも服にピンクが入っていたけど、宗三の方が圧倒的に綺麗だと思った。まあ、神様相手じゃ誰も敵わないよね。私なんてもっとやばいし。

「あーら! 誰かと思ったら元ヤンじゃなーい! 元気してた〜?」

 男の前ではあんなにニコニコしていたのに、こっちにはどこまでも勝気な笑みを向けて来る。彼女のことも覚えてる。唯一面と向かって『デブス』と呼んできた子だ。で、ゆきちゃんに殴られて鼻血出した人だ。

「いや、マジで誰だか分かんないんだけど。誰? この厚化粧ババア」
「はあ?! あたしがババアならアンタもババアなんだけど!?」
「否定しないってことは、自分の年齢がギリギリだってことは理解してるんだ?」
「うっざ!」

 ……何だかんだ言ってゆきちゃんのこと好きなんじゃないかな、この人。
 私の代わりに怒ってくれたゆきちゃんとは事ある毎に衝突していたけど、結局一度もゆきちゃんから名前を呼ばれなかった可哀想な人でもある。実際、用があっても「おい」って頭叩いて無理矢理振り向かせてたからな、ゆきちゃん。
 そんな彼女は眉を吊り上げながらも、ゆきちゃんの背中に守られるようにして座っていた私に目を向け――何故かキョトンとした。

「え? 誰?」
「……冬千ですけど」
「はあ?! あのデ、う゛うん、あの冬千さん?」

 ゆきちゃんが拳を握った途端言い直すあたりトラウマになってるのかな。でも言い返すのも面倒くさいし、笑いかける気力もないから黙って頷けば、彼女は何とも形容しがたい顔を向けて来る。

「ふーん……。まあ、巨からぽちゃになった。って感じかしらね? 女としてはまだまだだけど」
「よし。表に出ろ。テメエの顔面ハチの巣にしてやるよ」
「ゆ、ゆきちゃん!」

 何気にヤンキー時代、めちゃくちゃ喧嘩が強いと有名になったゆきちゃんだ。例え今はその力が衰えていようとも、同じだけ衰えたはずの彼女にとっては恐ろしいはずだ。だから後ろから必死に服を引っ張って止めれば、ゆきちゃんは不服そうな顔で振り向いた。

「由佳。コイツ今あんたのことバカにしたんだよ? ムカつくじゃん」
「平気だよ。慣れてるし」
「慣れんな、ばか」
「あいて」

 コツン。と優しく頭を小突かれる。彼女のことは容赦なく殴ったゆきちゃんだけど、私を叱る時はいつも優しい。それでも思わずすりすりと小突かれた頭を撫でれば、ゆきちゃんから「え? 痛かった?」と心配されて笑ってしまう。

「ううん。なんか、ゆきちゃんに小突かれたのも久しぶりだな、と思ったら、懐かしくなっちゃって」
「あーもー……。心配するからそういうのやめて。いや、つついた私が悪かった。ごめんね」
「いいよ。大丈夫」

 お母さんになったからかな。前よりもっと母性溢れるというか、優しくなったゆきちゃんがそっと労わるように小突いたところを撫でて来る。その手が本当に優しくて、なんだか安心してしまった。だから今度は自然と頬が緩んで、ちゃんと笑うことが出来た。
 ゆきちゃんはそんな私を見てほっと息をついたけど、彼女は逆に不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。

「相変わらずいい子ぶってんのね。ま、私の邪魔をしないならそれでいいわ。じゃあね」
「おー。話しかけてくんなよ、クソババア」
「クソババア?! 余計な一言を増やした挙句に“厚化粧”を取るんじゃないわよ! せめてババアの方を取りなさいよ、このメスゴリラ!」

 ……うん。何だかんだ言ってこの二人、うまく噛み合っている気がする。なんて考えている間にも彼女は賑やかな輪の中に戻って行った。
 その後も人が集まり、既に酒を入れていた自由人が例の如く騒いでいたが幹事が改めて乾杯の音頭を取るとようやく『同窓会』が始まった。だけど騒がしい周囲に混ざることはなく、乾杯の時もグラスを掲げただけで一向に手を付けていない。

「由佳。マジで大丈夫?」
「うん。平気」

 ゆきちゃんに名前を呼ばれるのは大丈夫なんだけど、周りの人に呼ばれても一瞬反応が遅れてしまう。心ここにあらず、というより、違和感がすごいのだ。実際、周囲の人にちゃんと名前を呼んでもらえるようになったのは高校からだったし。それにここ最近はずっと『水野さん』って呼ばれていたせいか、自分が呼ばれている気がしない。
 ああ、でも夢前さんからは『センパイ』って呼ばれてるし、百花さんからは『お姉さん』って呼ばれてるから、必ずしも『水野』と呼ばれているわけじゃないのか。だけどそれはそれ。これはこれ、だ。
 現にこの場所で私を『水野』と呼ぶ人は一人もいない。

「由佳、お腹空いてない? さっきから水しか飲んでないじゃん」
「大丈夫。お腹、すいてなくて」

 本当は、水すら飲んでいない。ただグラスを握っているだけだ。だって、ここには沢山の匂いが漂っている。
 体臭、香水、食べ物、アルコール。汗や制汗剤の匂いまで。それがあの日からずっと続く頭痛を刺激して胃を絞めつけている。だから水ですら吐いてしまいそうで、何も口に入れることが出来なかった。

 そんな中、幾つもの人と席を挟んだ向こう側では私の初恋相手と私に初恋を捧げた男が並んで座っている。時折チラチラと心配するような視線が二人から飛んでくるけど、目を合わさないよう瞼を伏せていた。
 その間も私たちに話しかけて来る人は何人かいたけど、私はただ愛想笑いを浮かべて受け流すだけで、受け答えはすべてゆきちゃんが担ってくれた。

 ――甘えている。分かっているのに、頼らざるを得ない。そんな自分がますますイヤになって来る。

「由佳、ごめん。私、ちょっと……」
「あ、うん。大丈夫。行ってきて」

 ゆきちゃんに小声でお花を摘みに行くことを告げられ、頷き返せば何故か心配そうな顔で見返される。だから申し訳ないと思いながらも愛想笑いを浮かべれば、ゆきちゃんは「秒で戻ってくるから!」と大変頼もしい一言を残して席を立った。が、

「とーせーん!」
「ッ!」

 ゆきちゃんが席を立ってすぐだった。まるでゆきちゃんがいなくなるのを待っていたかのように、赤ら顔をした男がさっきまでゆきちゃんが座っていた席に座って来る。その手にはしっかりとビールジョッキが握られており、男の口からドロリ、とした黒い靄がアルコールの匂いと共に垂れてきた。
 それがあまりにも気持ち悪くて咄嗟に握っていたハンカチで口元を覆うが、放置した残飯のような酷い悪臭が漂ってきて元々痛かった頭が更に痛む。

「うっ……」
「お? もしかして酒苦手? それともつわりとか?」

 ――こんな歳にもなって、まだ人の容姿をバカにして笑いを取ろうとしているらしい。
 いつもなら、審神者の『水野』ならこんな奴気にしないのに。ただの『冬千由佳』である自分では何も言えず、言い返せず、俯くことしか出来ない。

 それが酷く悔しい。
 悔しいのに、何故だか涙が浮かびそうになってきて余計惨めな気持ちになる。それがイヤで、だからせめて気持ちだけでは『負けたくない』とハンカチの下で唇を噛んだのに、男は何が楽しいのか。ヘラヘラ笑いながら私の髪に手を伸ばしてきた。

「とーせ、うわっ?! いっでっ!」

 ガタンッ! と椅子が倒れる音と同時に、男のくぐもった悲鳴が上がる。途端に賑やかだった周囲は水を打ったように静まり返り、私は閉じていた瞼をそっと押し上げた。
 てっきり、ゆきちゃんが戻って来て男の襟首を掴んだのかと思った。だけど、実際に聞こえてきた声はゆきちゃんのものではなかった。

「おんしゃあ、誰に向かって手ェ出しゆう」

 普段聞くものより、ずっと低い――。それでも聞き覚えのある声に顔を上げれば、そこに立っていたのはこの場には絶対に現れるはずのない人物だった。

「だきな手で触りな。ぞうくそが悪い」
「……むっちゃん?」

 いつもの戦装束でもなく、内番着でもない。軽装でもない。光沢のある上質な反物で織られているのが一目で分かる黒い着物に体躯を包んでいたのは、私の初期刀――陸奥守吉行だった。

「おん。遅うなってすまざった。けんど、もう大丈夫じゃ。わしが来たき、安心しとうせ」

 さっきまでの地を這うような声はどこにもなく、今度はいつもの、私を――『水野』を支えてくれる陸奥守の声と笑みに、強張っていた全身の力が抜けていく。

「い、ってて。誰だ? 知り合い?」

 陸奥守が椅子ごと床に引き倒した男が腰を擦りながら起き上がるけど、陸奥守は完全に無視してするりと、着物と同色の羽織を肩から下ろし、それを私の体に掛けてくる。
 ……大きくて、あたたかい。陸奥守の体温が移った羽織りを指先で触れば、ほろりとまた一粒、我慢していた涙がこぼれてしまった。
 ああ、やだな。泣いたら、優しい神様に心配をかけてしまうのに。分かっていても止めることが出来ず、ギュッと唇を噛んだらそっと手の平が頬に当てられる。そうして溢れる涙を拭うように、指の腹が肌の上を優しく滑った。

「こがぁに泣き腫らして……。また一人で背負い込んだがやろう? 赤うなっちゅうよ」

 陸奥守の手の平が、指が。労わるように、慰めるように触れて熱を与えてくる。私の涙なんて汚いのに、嫌がることなく触れて来る。優しく包んでくれる。

「なんで……」
「なんでち、今言うた通りじゃ。おまさんを迎えに来たがよ」

 そうじゃない。そういう意味で聞いたんじゃない。陸奥守は、分かっているのに敢えて違う言葉を口にした。
 困惑しつつも琥珀色の、宝石のように柔らかい光を称える瞳を見上げていると「しょうがない」とでも言うようにその口元が優しく言葉を紡ぐ。

「おまさんは、まっこと頑張り屋さんじゃ。それは分かっちゅう。けんど、今はのうが悪いろ? 無理はいかんぜよ。わしまで悲しゅうなる」
「むっちゃん……」

 ――……あたたかい、な。
 ぽつりと零れた音は彼の名前を象っていて、だけどいつもよりずっと小さく、掠れた音にしかならなかった。それでも陸奥守は拾い上げてくれた。私の目を見ながら、いつもよりうんと優しい声で「おん。なんじゃ?」と聞き返してくる。

 ……ああ、どうしてだろう。どうしてかな。皮膚が硬くて厚いはずなのに、陸奥守の手はどこか柔らかさも感じられる。私の大して小さくもない顔を、それでも簡単に包んでしまえるほど手の平は大きいのに、ちっとも怖くない。むしろ安心してしまう。見たくもない、汚くてドロドロしたものから守ってくれているみたいだ。

「大丈夫じゃ。何の心配もいらん。わしのことだけ見とうせ」
「ん……」

 泣きたくなんかないのに、泣いたらダメだと分かっているのに、それでも陸奥守の指に撫でられたらダメだった。次から次へと涙が溢れて、その手を濡らしてしまう。

「むっちゃ、ごめ……」
「えいえい。大丈夫じゃ。わしが全部受け止めちゃるき、我慢も無理もせんでえい。大丈夫じゃ。安心しとうせ」
「ぅん……うん……」

 一回、二回。コクリ、コクリと頷けば、むっちゃんの手がぽんぽんと背中を優しく叩いてから抱き寄せて来る。

「わしと一緒に戻るぜよ」
「うん……」

 どこまでも甘やかすような優しい声に、着物が汚れると分かっているのに胸板に額を押し付け頷き返す。だけどむっちゃんは怒ることなく私の鞄を代わりに掴んで肩に下げると、そのまま私を連れて出て行こうとする。正直言って周囲の人たちを気に掛ける余裕なんて、少しもなかった。
 だけどここでタイミング悪く、お手洗いから戻って来たゆきちゃんと鉢合わせしてしまう。

「由佳、だいじょ――」
「おん?」

 咄嗟に身を引いた陸奥守と、その腕に抱かれている私。(涙のオプション付き)
 それを見たゆきちゃんは一瞬呆けた顔をしていたのが錯覚だったのかと思うほど鋭い眼差しを陸奥守に向けると、なんとそのまま握った拳を振りかざそうとした。

「ゆきちゃん!」

 慌てて止めようとしたけど、それよりも早く陸奥守の手がゆきちゃんの拳を片手で掴み、そのままグルリと私たちと立ち位置を入れ替えるように体を捌くと、驚くゆきちゃんを私が座っていた椅子にあっさりと座らせた。

「なんじゃあ? おんしの友達かえ?」
「う、うん。私を守ってくれてた……大事な人なの」

 だから傷つけないで欲しい。
 ゆきちゃんの手を包んだままの腕に手を添えれば、陸奥守は陽だまりのような優しい笑みを浮かべて「ほにほに。それは大事にせんといかんにゃあ」と頷いてくれた。
 それに安心して肩の力を抜けば、ゆきちゃんも陸奥守が危害を与えに来た人ではないと分かったらしい。焼けつくような敵意を収めた。

「あんた誰? この子の知り合い?」
「おん。わしはこいとを迎えに来ただけじゃ。悪いことはせん」
「……信じていいわけ?」

 敵意はなくなったけど、それでもムッとした空気は醸し出している。そんなゆきちゃんの視線を真っ向から受け止めながら、陸奥守は頷いた。

「信じとうせ。こいとはわしにとって一番大事な人じゃ。命賭けちゅうきに」
「むっちゃん?!」
「ふーん……」

 一瞬周りからも「おお……!」と感嘆の声が聞こえて来たけど、ゆきちゃんは相変わらず品定めするような目を向けている。
 す、すごいなゆきちゃん……。こんな整いまくった顔をよく真正面から……。

「その子泣かせたら、その顎かち割るから」
「おう。よろしゅう頼む」
「むっちゃんもゆきちゃんも何言ってんの?!」

 あまりにも物々しいというか、物騒なやり取りにただでさえふらつく体から血の気が引きそうになる。だけど陸奥守は「頼もしい女子じゃ」と笑うだけだった。

「ほいたら行くぜよ」
「あ、ゆ、ゆきちゃんっ」
「だーいじょうぶ。また会って話そうぜ」

 ぱちんっ。とウインクを飛ばされ、思わず頬が緩んだ。そんな私にゆきちゃんも笑みを浮かべ、手を振ってくれる。だからそっと手を振り返せば、陸奥守も「邪魔したぜよ」と皆に一言告げ、私を片腕で支えるように抱きしめながら店を出た。





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