小説
- ナノ -




「……なに言ってんの?」

 当時を思い出したからだろうか。口をついて出た言葉は、当時と全く同じものだった。

「ッ、だから、僕はッ」
「――なんで? なんで私なの?」

 ドンッ! パラパラっ。
 絶えず聞こえてくる人の声の波間から、夜空に浮かぶ花が咲いては散っていく音がする。鼓膜を彩るその音は、今は互いの目には映らず、肌だけを照らしている。
 赤、青、橙、緑、白。光も時に強く、時に弱く。街灯とは別の明かりが周囲を染めていく。

 だけど、浮つく周囲とは違い、私の心は酷く冷めていた。

「確かに、あの頃に比べたら痩せたよね。化粧もしてるから、綺麗にも見えるでしょ」
「ユカちゃんっ」
「でも、普通に考えて釣り合わなくない? 医療業界トップの親戚筋と、平々凡々な私。引く手数多のエリートと、一端の公務員。肩書だけ見ても魅力なんてないのに、あんた、私の一体どこを見て好きになったって言うの?」
「ゆ……ユカちゃん……?」

 ――ああ、やだな。もしこれが、ここにいたのが私の刀たちで、もし私に気持ちを伝えてきたのが刀だったら、ここまで酷い言葉を投げかけることもなかったのに。
 でも、相手がそーくんだったから。私の幼い頃を知っている、勝手に『気心が知れている』と思っている『友達』だったから。自分勝手だって分かってるけど、何だか無性に“裏切られた”気持ちになって、どんどん嫌な言葉が溢れて来る。

「――知らないじゃん。あんた、私との思い出、中学時代で止まったままじゃん。それで何をどう感じて『好き』になるわけ? あの頃から私が変わってないとでも?」

 むしろ逆だ。変わった。変わり過ぎた。変わりすぎてしまった。体は人間でも、心は違う。この体に流れる血とは別に流れる、普通に生きていれば縁のなかった力が、存在が、今の私を作っている。

「ねえ。あんた、過去の私が好きなのは構わないけど、今の私を塗りつぶすようなこと言うの、やめてくれる?」

 中学卒業と同時にバラバラになった私たち。その最後の思い出も決していいものではなかった。傷つけた。傷ついた。きっとそーくんは、あの後やっちゃんに見つかり、慰められたのだろう。じゃないとそーくんがやっちゃんに話すわけがない。だけどやっちゃんは何も言わなかった。この間会う時まで、そっと心に仕舞ってくれていたのだ。私たちのために。

「何も知らないくせに、知ったような顔して、軽々しく『好き』なんて言わないで」

 分かってる。そーくんが“軽々しく”告白するような子じゃないって。でも、もう、私は『普通』の人間ではいられないから。今日も見えないように隠しているけど、溢れる神気を誤魔化すためのお守りを下げている。
 神々に庇護され、同時に『魔のモノ』たちから狙われている。厄介極まりない存在なのだ。付喪神である彼らでさえも「何で主ばっかりこんな目に」と頭を抱えるような存在が私なのだ。そんな私を『好き』になったら、あまつさえ付き合ってしまったら――。

 そーくんは、どうなるの?

「……イヤなんだよ……」

 大切な人が傷つくのは、イヤだ。私はもう、自分の刀たちが目の前で折れた時のような、あんな酷い胸の痛みを覚えたくはない。大切な人を傷つけたくない。友達を、危ない目に合わせたくなんかない。
 なのに、私が顔を背けてその場を離れようと歩き出すと、すかさずそーくんが追ってくる。

「ま、待って! ユカちゃん!」
「待てって言われて素直に待つような可愛げのある女じゃないから」
「どうして、ねえ! どうしてよ、ユカちゃん!」

 未だに咲き続ける華々しい夜空に背を向けて、ひたすら人波に逆らって歩く。走ったところで追いつかれるし、ひしめく人の間を縫って走るのは困難だ。だから出来る限りの速度で人の間を歩き続けていると、図体が大きい分追いかけるのに苦労しているのだろう。そーくんが必死に声をかけて来るが、まだその声は遠い。それでも最終的には捕まってしまった。元より振り切れるとは思っていなかったし、捕まることも分かっていた。だけどやっぱり腹立たしい。

「ユカちゃん!」
「なに」
「ユカちゃんは……まだ、颯斗くんのことが好きなの?」
「――ッ!」

 バレてない、と思っていたわけじゃない。やっちゃんは気付いてなかったけど、私を『好きだ』と言っていたそーくんが私のことを見ていない訳がない。だって、実際そーくんは私のことをよく見ていた。昔から私が何をして欲しいのか、何がしたいのか。私の代わりに言葉にしてくれたことが何度もあった。
 だけど今回のは流石にムカついた。咄嗟に振り上げた腕はあっけなく捕らわれてしまったけど、睨むことは止められなかった。

「私の気持ちを、勝手に決めないで」
「じゃあ、どうして僕を見てくれないの? どうして僕を選んでくれないの?」

 デカイ図体して、何を子供みたいなことを言っているんだこの男は。
 余りの女々しさに目の前がクラクラしてくる。いっそのことこの子が中学生の時のままならよかったのに。それならまだ、心のどこかで許せたかもしれない。
 私よりずっといい大学に出て、学年一位をキープして、努力していい会社に入社したはずのこの男は、一体今まで何を学んで来たのか。
 悲しさと腹立たしさとで感情がグチャグチャになり、掴まれた腕を勢いよく振りほどく。

「子供みたいなこと言わないで! あんた幾つだと思ってんの?!」
「ユカちゃんが答えてくれないから追いかけて来たんだよ! どうしていつも僕のこと見てくれないの?! ちゃんと僕の気持ちに答えてよ! 逃げないでよ!」

 ――逃げてる? 私が?

 言われた言葉に脳が追い付かなくて、一瞬フリーズする。それを好機と思ったのか、かつてオドオドしていた引っ込み思案の少年は、クマみたいに育った体を使って抱きしめてきた。

「な、何してんの?! 離してよ!」
「イヤだ! 離したら逃げるじゃん!」
「だからってこんな――」

 こんなことしていいと思ってんの?! と抗議しようとした口は、塞がれた。それも、ずっと『友達』だと思っていた人の唇で、強引に。

「――――――ッ!!!」

 ゾゾゾッ、と悪寒が全身に駆け抜けていく。足先から頭のてっぺんまで、切りに行くのが面倒で伸ばしっぱなしになっていた髪の毛の先まで。鳳凰様の『神の息吹』とも『祝福』とも違う。明確な『欲』を感じさせる口付けは、ひたすらに気持ち悪かった。
 しかも、あろうことか舌まで入れてきたのだ。この男は。

 ――バチン!!

「ッ!」
「はあ……はあ……はあ……」

 振り抜いた手の平がジンジンと痺れて痛い。皆に買ったお土産は地面に落ち、鞄も肩からずれ落ちそうになっている。舌を入れられる前に舐められた唇が濡れて気持ち悪い。そこに更に風が吹きつけて、ひんやりとした温度差を感じるのが更に気持ち悪かった。

「最ッッッ低!!!」

 ありったけの声で叫んだ言葉は、きっと彼の心を傷つけた。
 でも、構っている余裕なんてなかった。

 私は落ちたお土産を拾い上げることすらせず、フリーパスを回収する箱に引き千切ったソレを投げ入れ出口のゲートを潜り抜ける。その時肌がピリッと痛んだ気がしたけど、すぐに頭から抜け落ちた。
 もつれそうになる足を必死に動かして近場のタクシー乗り場まで走り、ドアを開けてくれた一台のタクシーに飛び乗った。
 ――行先は、特になかった。ただ「走ってくれ。ここから離れてくれ」と告げ、そのまま混乱する頭で最も近くにある政府の管理するゲートがある場所を探した。だからそこに止めてもらうよう指示を出し、「おつりはいらないから」と言って一万円札を置いてタクシーを降りてゲートに走った。

 無我夢中だった。

 逃げたくて、追いかけられるのが怖くて、家に帰るなんて出来なかった。
 もうこの世のどこにも私の安心できる場所はないって、そんな気持ちでいっぱいだった。
 だからそーくんが、やっちゃんが、母が、誰も来れない場所に行かなければいけなかった。

 本丸は“職場”であって“安息の土地”ではないと、分かっているのに。

「はあ……はあ……」

 瘴気に包まれた本丸に一人残った時よりも全身が震えて、酸素が足りないのか頭がぼーっとする。目の前が霞んで、よく見えない。
 それでも勝手に動く指先がゲートを起動させて繋がった本丸に向かって飛び込めば、地面に着いた両手足が「グチャッ」っとぬかるんだ音を立てる。
 出かける前は晴れていたのに、辿り着いた本丸内には大量の雨が降っていた。

 ザアザアと、音を立てて降りしきる雨の中。重たく暗い曇天の中から花火の代わりに雷が落ちる前の恐ろしい音がする。
 それでもゲートが起動したことに気付いたのだろう。大広間に明かりはついておらず、代わりに各々の部屋に引っ込んでいたらしい刀たちが閉めていた襖を開けて「なんだ」「どうした」「誰が来たんだ?」と首を傾けながら顔を覗かせて来る。
 その姿を見た瞬間私は『安心』して――そしてそんな自分が心底『情けない存在』に思えて、ぬかるんだ地面にすっかり座り込み、そのまま込み上げてくる涙を堪えきれずに泣きだした。

「主!?」
「どうしたんですか、主!」
「お小夜! 傘を!」
「はい!」

 最もゲートに近い部屋にいたのは、打刀の長谷部と歌仙だった。そこに宗三と小夜が遊びに来ていたらしい。靴も履かずに走って来た長谷部が、濡れないよう上着を脱いで被せてくる。
 その間に小夜に番傘を頼んだ歌仙がタオルを取りに行き、宗三は急いで周囲に声をかけ、大広間に明かりを灯した。

「主!」
「主、立てますか? 主?」

 バシャバシャと音を立てて小夜が走って来る。肩を抱く長谷部の力強い手の平の感触は分かるのに、長谷部が何を言っているのか全く聞き取れない。
 代わりに出て来る言葉は「ううぅぅ」と獣の唸り声のようなものだけで、自覚はなかったけど、震える全身を丸めてひたすら顔を覆う手の平の奥で涙を流すしか出来なかった。

「主!」

 震えているせいか、それとも腰が抜けているのか。立てない私を抱えたのはゲートから最も遠く、私の私室から最も近い部屋にいる初期刀の陸奥守だった。

「うっ、ひっ、うぅっ、うぐっ、ふう゛ぅっ」

 誰かに何か話しかけられた気がするけど、頭が真っ白で何も答えることが出来なかった。ただ何度も頭を横に振っていると、いつの間にか私室に着いたらしい。
 大きめのバスタオルを掛けられ、髪や触れた体を労わるように撫でられる。だけどどうしても顔を上げられなくて両手を顔に貼り付けたまま泣きじゃくっていると、陸奥守の代わりに小夜が声をかけてきた。

「主。僕たちは外にいるから、必要になったら名前を呼んで。僕たちは、ずっとここにいるから」

 小夜の手が、労わるようにバスタオルの中にうずくまる私の肩に触れる。その手はさっきの長谷部とは違ってどこまでも優しくて、私は頷くことも謝ることも出来ないまま、グズグズと一人泣き続けることしか出来なかった。


 ◇ ◇ ◇


 ……いつの間にか寝落ちしていたらしい。
 フワフワとしたバスタオルを全身に巻き付けたまま床で寝落ちしていた体を起こせば、途端にあちこちが痛んで顔を顰めた。

「かばん……」

 肩に下げていたはずの鞄を探せば、執務室の机の上に置かれていた。中を開けてスマホを取り出せば、花火前にマナーモードにしていたおかげだろう。幾つもメッセージやら着信やらが来ていたが、私の睡眠を妨げることはなかった。

「………………帰るわけないじゃん……」

 母親から来ていた『どこにいるの』『連絡を寄こしなさい』『いつ帰ってくるの』というメッセージの数々。留守電にも父親から『無事なのか? 怪我は?』と心配するものが入っていた。
 でも、返事をするのが面倒くさい。イヤだ。声を出したくない。聞かせたくない。私がどこにいるのか、知られたくない。心配、されたくない。探されたくない。

 もう、放っておいてほしい。

「……帰りたくない……」

 締め切った襖の向こうでは未だに雨が降り続く音がする。そのせいなのか、それとも泣き過ぎたせいなのか。酷く頭が重く、同時に痛かった。

「…………やだな…………」

 分かってる。早く起きて、皆に謝らないと。迷惑かけてごめんね、って。いつもありがとう。って、言わないといけないのに。竜神様に、日課の挨拶、しないといけないのに。

「………………動きたく、ない」

 頭が重くて、痛くて、全身が怠くて痛くて、訳が分からないのに悲しくて、勝手に涙が出て来る。もう十分泣いたと思ったのに、この体にはまだ水分が沢山残っているらしい。それらをすべて出し切ろうとするみたいに、一つ二つと雫が落ちて畳を濡らす。だけど、それを拭い取る力すら湧いてこない。

「…………グスッ」

 壁に寄り掛かり、鼻を啜れば何だか余計に惨めな存在になった気がして虚しくなってくる。本当に何やってるんだろう。私は。
 ここは家じゃない。“本丸”だ。職場で、付喪神が戦いに行くために体を休めるための場所なのだ。私の家じゃない。安息地なんかでもない。私みたいな人間が足を踏み入れて、我が物顔で生活していい場所ではないのだ。
 分かっている。分かっているのに逃げてきた。皆に迷惑をかけるって分かっていて、むしろただでさえ迷惑ばかりかけているのに、こんな風に逃げてきたら余計に迷惑をかけるって分かっていたのに、それでもここを選んだ。避難場所として選び、今尚匿ってもらっている。本当に最低だ。何をやっているんだ、私は。
 彼らは、戦うために呼ばれた神様なのに。

「……主、目が覚めた?」
「ッ!」

 締め切った襖の向こうから、小夜の控えめな声がする。だけど咄嗟に声を上げようとした喉は逆に空気を吸い込んでしまい、乾いた音を立てて喉を刺激した。だから無様にも咳込めば、小夜は「お水、持って来たよ」と慌てることなく襖の奥から告げて来る。

「ここに置いておくね。朝ご飯は、食べられそう?」
「…………ごめん、なさい……」

 震える唇で、どうにか紡いだ言葉は消えそうなものだった。きっと聞こえていないだろう。外は土砂降りで、その音は大きい。だからいつもみたいに襖を開けて向き合って話さなきゃいけないのに、今の私は壁に体をくっつけて震えるばかり。
 ああ、なんて無様なんだろう。
 あまりの情けなさに唇を噛むが、驚いたことに小夜には聞こえていたらしい。こんな雨音の中本当に聞き取れていたのかは分からなかったけれど、小夜は「分かった」と、確かに答えてくれた。

「主。無理しないで。大丈夫だから、今は、休んでください」

 激しい音を立てて振り続ける雨の中、小夜の声が真っ暗な部屋の中に染みこむようにして響く。
 本当はちゃんと部屋を出て、顔を上げて、返事をして、お礼を言わなきゃいけないのに。結局声が出せなくて、震える指先はバスタオルを掴むことしか出来なくて。締め切った襖の向こう側にいる小夜が静かに立ち去るまで、グズグズと泣き続けることしか出来なかった。


 ◇ ◇ ◇


 その後は、寝て起きてを繰り返した。不思議なことに寝ている間も泣いていたらしい。頬が濡れているし、目の周りが痛い。瞼が重く、腫れている気がする。冷やした方がいいのは分かっているんだけど、体が重く、頭が痛くて指先一つとして動かしたくない。

「うッ……」

 小夜が届けてくれたペットボトルの水は、もう半分は無くなっている。でも今日は薬研から教えられた「一日に摂取すべき水分量」より出ていく水分の方が圧倒的に多い。
 体温が移って生ぬるくなったバスタオルが肩からずり落ちるが、それを肩にかけ直す力すらなかった。

「今何時だろ……」

 床に転がしたままだったスマホを手に取れば、充電が三十パーセントを切っていた。それでもまだ充電しなくていいか。と時刻だけ確認すれば、既に正午を過ぎていた。

「……お風呂、入りたいな……」

 全身が浸かれる、大きな浴槽に沈んでしまいたい。そうしてそのまま眠るように息を引き取ることが出来たら、どれほど幸せだろうか。
 考えながらぼんやりと涙を流していると、キシキシと小さく廊下を歩いて来る音がする。毎日のように聞いている音の主は案の定部屋の前で立ち止まると、控えめに声をかけてきた。

「主。何か欲しいものは、ある?」
「……お風呂、入りたい」

 神様に何を頼んでいるんだ。そういうことは、本来人間である私がやって、神様である彼らがそれを享受すべき立場なのに。
 本当に何をやっているんだか。傲慢にもほどがある。
 自分で自分を責めるけど、悔しいことに体は動いてくれない。それなのに小夜は嫌がることもなく、静かに「分かりました」と言って下がっていく。

 ……ああ。なんてバカな命令を下してしまったんだろうか、私は。

「さいていだ……」

 覆った両手の奥から涙が溢れてくる。指の隙間に雫が流れ、落ちていく。泣いても意味がないと分かっているのに、泣いてもしょうがないと分かっているのに、どうしてだか止まってくれない。収まってくれない。
 この虚しさは何なのだろう。この無力感は何なのだろう。どうして、

 こんなにも“死にたい”気持ちになっているんだろう――。

 おぞましい考えが頭を過った途端、まるで叱るみたいに大きな音を立てて雷が落ちる。一体どこに落ちたのかは分からないけれど、うっかりすると地面から浮きそうになるぐらい大きな音だった。

「竜神さま……?」

 雨音が強くなる。もはや台風のようだ。屋根や地面を叩きつける雨音は激しく、雷は依然ゴロゴロと激しい音を立てて存在を主張している。
 お怒りになっているのだろうか。いや、怒っているのだ。竜神様は。こんな不甲斐ない人間を守らなければいけないことに、憤りを感じていらっしゃるんだ。本当なら、こんなちっぽけで汚い人間なんか、守る必要なんてないのに。

 ――ドンッ! と地面が揺れるほど大きな雷がまた落ちる。

 ああ、どうしよう。どうしたらいい。どうしたら竜神様の心は鎮まるんだろう。私のせいだ。私がこんなだから、こんなにも不甲斐なくて、弱くて、情けないから――竜神様が守って下さる価値なんて、私にはないのに――。

「主っ!」

 襖を開けることはなかったけど、それでも大きな声で小夜が呼びかけてくる。その声に蹲り、痛む頭を抱えていた腕の中からハッと顔を上げれば、雷鳴の音が少しだけ遠ざかった気がした。

「主。お風呂、沸いたよ。皆には廊下に出ないよう言い付けているから、部屋を出ても大丈夫だよ」
「……小夜、左文字……さま」
「……大丈夫。大丈夫だよ、主。大丈夫だから……」

 優しく寄り添うような声で、労わるように何度も繰り返される「大丈夫」の声に救われるように、ずっと重たかった体を動かし、立ち上がる。たった半日眠っていただけなのに妙にふらつくが、それでも地面に足をつけたら不思議と「生きてる」心地がした。

「振り向かないから、安心して。僕の後ろを真っすぐついてきて」

 しんと静まり返った本丸の中。灯りは落ち、人の気配らしきものはない。ただ私と小夜左文字様の歩く音だけが雨音に混じって響いている。
 皆は? そう尋ねようとして、やめた。声を出せる気がしなかったし、何より、答えを聞いたところで何か出来るとは思わなかった。何をしたいのか、何をするべきなのか。それすらもまともに、何一つとして考えられなかった。
 だからただ歩いた。風呂場までの距離を、知っているはずなのにどこか見知らぬ場所に感じる廊下を不可思議に思いながら。一歩一歩、ふらつく足で、それでも自分の力で歩けば、先を歩いていた小夜左文字様が立ち止まった。

「僕はここにいるから。安心して。ゆっくり入って来て」

 こちらを振り返ることなく、穏やかに紡がれる声はどこまでも優しい。
 だけどその背にかけるこちらの声は今にも消えそうな酷いもので、あまりの情けなさにまた涙が滲んだ。

「ごめんなさい……」
「主……」

 振り向かない背中に小さく謝って、壁にぶつかりながら脱衣所へと逃げるように足を進める。予め灯されていた電気をその際にオフにしてしまったけど、再度つける気はおきなかった。
 むしろこれでいい。この真っ暗闇の中じゃないと、私は裸になることすら出来そうになかったから。

 濛々と湯気が立つ大きな浴槽に桶を入れ、湯を掬い上げ体に掛ける。周りの友人たちのように水着を着て遊びに行くことのない裸は酷く白く、不健康に見える。少しは落ちたと思った肉も所詮は錯覚で、本当は一ミリも減っていない気がしてきた。
 いっそのことスライムみたいに触り心地がよさそうであれば救いもあっただろうに、この体は、そんな可愛らしいものじゃない。

「……醜い、な」

 この体も、垢抜けない野暮ったい顔つきも、相手を幻滅させてしまうがさつな性格も。何もかも。私は――醜い。汚い人間だ。

 綺麗な彼らの『主』がこんな、どうしようもない豚だなんて、ほんっと、笑えもなしない。

『由佳ちゃんってさ、なんで颯斗くんと仲良しなの?』『意味わかんないよね、だって釣り合わないじゃん』『てかまた大きくなってない? どこまで行くんだっつーの』
『胸より腹出てんのマジでやばいよな』『着る服なさそう』『早く痩せたらいいのに。じゃないと絶対彼氏出来ないって』
『結局颯斗くんとは幼馴染ってだけでしょ? だったら別に気にしなくてもいいよね』『ていうかあの性格マジ無理なんだけど』『芸人目指せば? 彼氏出来るかもよ』
『芸名考えてやるよ。デラックス、とか付けたらそれっぽくね?』『何それウケる』『でもこのままいくとマジで“デラックス”になるよな。な!』

 クスクス、ゲラゲラと、頭の中で複数の男女が笑う。かごめかごめみたいに、頭の中で声が、言葉が、木霊する。

 ――ああ、懐かしいな。この感じ。中学の時、いつもこんな感じだった。教室に入るだけでジロジロ見られて、やっちゃんと話すだけでヒソヒソと陰口を叩かれる。
 だけどそれをやっちゃんが嫌ったから、声を上げて「テメエ、今何て言った!」と怒ってくれたから大々的に苛められなかっただけだ。だけど、私は、いつだって、嘲笑の対象だった。

「わかってるよ……。私は、誰かに好かれるような人間じゃない」

 ちゃんと分かってるから……。

 ザアザアと雨が降る。広い浴槽の中で膝を抱え、濡れた髪を肌に張り付かせながらじっと蹲る。
 頭の中で皆が笑う。こちらを指さして楽しそうに笑う。真っ白い肌の、人の姿をしただけの醜い豚だと手を叩いて笑う。
 そうして常に一挙手一投足を監視するかのように視線が飛んできて、少しでも何か間違えば一斉に非難され、バカにされ、笑われた。

 だから、いっそのこと“笑われる”ように過ごせばいい――。
 そう考えてからは努めて明るく振舞った。

 自分の容姿を“ネタ”にした。性格の悪さを“ネタ”にした。
 元々なかった“女らしさ”を、なけなしの恥じらいも全部ゴミ箱に捨てて、陽気に振舞った。

 そうしたら嘲笑が減って、敵意も減って、私は、やっと一人の“人間”として認識された気がした。“邪魔者”でも“白豚”でもなく、ただ一人の“クラスメイト”として。

「………………死にたい」

 遠く、遠い場所で雷が落ちる。何度も何度も、大地を焼くかのように。誰かを、叱るように。
 それでも私の心はどこか遠くに行ってしまったみたいに動くことがなく、そのままお湯が冷めきるまでじっと浴槽の中に座り込んでいた。
 小夜左文字様の呼びかけがなければそのまま呼吸すら止めていたかもしれない時間を、ただただ無為に過ごしていた。





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