小説
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 ジリジリと、弾かれた指先は焦げ付き黒く爛れている。そうしてポロポロと灰のように崩れていき、思わず舌打ちした。

「何なのよ、アイツ……! 絶対に許さない……!」

 ちょろそうだと思ったのに。
 見た目も性格も好みではないけれど、たまにはああいう手合いから『奪う』のも悪くはない。そう思って気安く手を伸ばしたら却って酷い目に合った。
 イライラとした気持ちが抑えられずに無意識に爪先を噛めば、いつものように“声”が囁いてくる。

『そう感情的になるな、契約者よ』
「感情的になるなですって?! 適当言ってくれるわね! あんたは指一本傷ついてない癖に!!」

 弾かれた指先は痛みすら感じない程に完全に焼かれている。ほんの少し触れようとしただけなのに、アイツから感じた潤沢な霊力を少しだけ『奪う』つもりで手を伸ばしただけなのに。どうして私がこんな目に合わなきゃいけないわけ?!

『仕方あるまい。我々は実態を持てぬ故な』
「嘘つき。私知ってるんだからね。アンタたちがやろうと思えばどんな存在にでも憑依出来るって」

 私が小さい頃から頭の中にいる『ソイツ』は、いつも私の心を嫌な風に煽ってくる。


 ――お前の姉は優秀だ。頭もよく気立てもいい。お前もあのくらい可愛げがあれば両親からも愛されたであろうに。

 ――お前の弟は念願叶って授かった男児だからさぞ可愛かろう。“男じゃなかった”と落胆されたお前とは違う。さぞ羨ましかろう。

 ――お前の両親はお前より姉や弟の方が可愛いようだな。いつも写真を撮ってもらえるのは二人だけじゃないか。おお、可哀想に。


 うるさいうるさいうるさいうるさい!!!

 姉よりも優秀であれば、弟よりも可愛げがあれば、私だって愛される。愛してくれる。

 勉強が出来なくて、初対面の人とうまく話が出来なくて、怖がりで愚図で鈍間な私を両親が溜息交じりに見ていることなんて自分が一番よく分かってる。
 だからといって諦められるわけないじゃない。

 私だって愛される資格はある。私だってちやほやされる資格がある。
 姉のように美しくなくても、弟のように“男だから”という理由がなくても、私は愛されていいんだ。愛されるべきなんだ。そうでないと――


 ――ならば“奪って”やろう。

 “声”は言った。

 ――姉から“美しさ”を奪ってやろう。

 ――弟からは“両親の愛情”を奪ってやろう。

 ――そうしてお前が“一番”愛された時、お前と私の“契約”は完全になる。

 言っている意味は半分も理解出来なかったけど、両親に愛されるなら何でもよかった。
 私を労わるように撫でる姉の手も、ひたむきに慕うように見せて影ではバカにしている弟も、全部全部大っ嫌いだったから。

 だから私は願った。

 本当に“一番”にしてくれるなら、姉も弟も“消して”くれ、って。

 “声”はそれを聞くと大きな声で笑った。『そうかそうか』と心底楽しそうな声で頷いて、それから『任せておけ』と言って静かになった。

 ――その日の夜、姉と弟はいなくなった。

 文字通り“消えた”のだ。自殺したわけでも、事故死したわけでも、病死したわけでもなく。ただ忽然と姿を消した。

 まるで初めから“存在していなかった”かのように。


 ――これで晴れて私とお前との契約が成立した。“契約者”よ。お前の欲望が私を強くする。お前の欲望が私を喜ばせる。これからも“欲望のままに”生きるがよい。その“手助け”を、私は喜んでしよう。

 “声”は一方的にそう言って、私の事を“契約者”と呼ぶようになった。
 初めは気味が悪かったその声も、私が願う通りに物事を運んでくれると分かってから“利用してやろう”と思えた。

 実際願えばどんなことでも叶った。

 人気者の男子も、格好いい先輩も、仲の良かった友達の彼氏も、皆々私を『好き』になった。
 私の事を悪く言う人は皆“消した”。
 消しゴムで不必要な部分を消すように、跡形もなく消し去った。

 その度に“声”は上機嫌に笑った。『いいぞいいぞ』と手を叩いているかのような上機嫌さで笑い、私の願いを叶え続けた。

 “審神者”になったのもその延長だ。

 大学時代の知り合いが審神者に選ばれ、その中の一振りに心を奪われた。だけど私は霊力がなかったから、審神者になることは出来ない。
 だから彼女が語る“彼ら”の良さが分からなくて嫉妬した。

 だって、何の取柄もないモブみたいな彼女が選ばれて、私が選ばれないなんて許されないでしょう?

 だから願った。彼女から“霊力を奪って”と願った。

 案の定霊力を失った彼女は審神者を辞めることになり、数ヶ月落ち込んだ末に何の面白みもない、大して顔も収入もよくない普通の男と結婚した。

 その間も色んな人間から霊力を奪い、人並み以上に霊力を貯めた私は政府からスカウトを受けた。
 彼女が言っていた通り、刀剣男士は皆美しかった。そして私を“主”と呼び、ひたむきに慕ってくれた。愛してくれた。献身的に支えてくれた。


 “ここが私の居場所なんだ!!”


 生まれて初めて心からそう思えた。
 刀種に関係なく、あらゆる刀剣男士から懸想されるのは楽しかった。自尊心が満たされた。代わる代わるもたらされる愛の言葉に酔いしれた。

 でも――。

 ――お前はそれでいいのか? お前の“欲望”はこの程度だったのか?

 “声”に唆され周囲を見渡し――私以外の“審神者”という存在を“主”と仰ぎ、愛を囁く全ての刀剣男士に燃えるような憎悪を抱いた。

 “私以外の女を視界にいれないで!” “私以外の存在を『主』と呼んで慕わないで!”

 その気持ちがむくむくと膨れ上がり、私はある日一人の審神者から『刀剣男士』を奪った。
 とはいえ本体を奪ったわけではない。刀剣男士の『心』を奪ったのだ。

『ああ、――様。あなたこそが僕の求める人だった』
『――様。あなたをお慕いしております』
『――様、俺の想い、受け取ってくれるよね……?』

『――様』
『――様』
『――様』

 次から次へと、特に女審神者たちから優先的に刀たちの心を奪っていった。だけど悦に浸る私とは裏腹に、私の行いを嫌った本丸の刀たちからは『もうやめてくれ』と言われてしまった。

『何で?』
『何でって……!』

 私は愛されるべき存在だ。
 私は皆から求められる存在だ。

 私を愛さない存在なんていらない。私を咎める存在なんていらない。だったら初めから消えてしまえばいい。

 そう願った瞬間、私の本丸から刀たちが一斉に消えてしまった。


 虚しくはなかった。ただ「ふぅん。あっそう」という冷めた感情しか抱けなかった。

 それ以前にも、最初に私を担当していた女役員を消した。『私の行動が目に余る』なんて言ってきたからだ。消えて当然よね。
 後任の男役員は私の虜にした。私が『やりたくない』と言えば『やらなくていい』と受け入れてくれたし、『あの刀が欲しい』と言えば譲渡してくれた。

 私はまさしく『女王様』だった。
 欲しいものは奪う。いらないものは消す。

 指先一つで他人を好きに出来る。正真正銘“神様”にでもなったような気分。

 そんな私に“声”は囁き続ける。

 ――もっと欲しがれ。もっと嫌いになれ――と。

 だからもっと欲しがったし、色んな存在を嫌った。憎んだ。

 私の周りには美しいものしかいらない。私の周りには私を愛する人しかいらない。

 だけど美しいものばかりに囲まれていたから、時々新鮮なものを求めて面白みのない人間にも手を出した。

 平凡な男。醜い男。傲慢な男。バカな女。プライドが高い女。自信のない女。
 体型も見た目も好みじゃないけれど、彼ら・彼女らが私に対して骨抜きになったり、顔を真っ赤にして悔しそうに歯噛みする姿が愉快で仕方なかった。

 ――ああ! なんて楽しいの! なんて素敵なの! これこそが“生きている”という感情だわ!!

 順風満帆な人生に愉悦すら覚えていた。

 だけどそんな時、ふと冷やかしのつもりで参加した婚活会場にアイツはいた。

 体型も顔立ちも私とは比べ物にならない、下の中みたいな女。
 服装も態度も話し方もやる気がなくて適当で、ガサツで雑で心が籠っていない。

 だけどこの女にもきっと大切なものはあるはず。
 だからそれを奪ってやろうと思ったのに――。

 ――ああ、こりゃあいかん。見誤ったな。

『え?』

 珍しく――いや。むしろ初めてだった。“声”がそんな後ろ向きな言葉を発したのは。
 そうして気付けば私は全身を襲う痛みに身悶えていた。

『あああああ! 痛い! 痛い!! なにこれ……?!』

 全身に浮かび上がる鱗のような模様。かと思えば弾かれてビリビリと痺れていた指先が燃え初め、私の指は真っ黒に焼け始めた。

『いやああああ!!! なんで、どうして……! なんとかして、なんとかしてよお!!』

 初めて“声”に縋った。だけど“声”は頭のどこかで唸るだけで痛みを取り除いてはくれなかった。今までなら願えばどんな痛みもたちまち“消して”くれたのに。『これは不味い』と弱気な声を零し、身悶える私を助けてはくれなかった。
 そうして痛みが落ち着いた頃に鏡を覗き込めば、私の全身――それこそ顔にも、だ。蛇のような鱗模様がうっすらと滲み、弾かれた指は真っ黒の、ただの炭のような脆い灰になっていた。

『いやっ……! いやっ……! どうして、どうしてっ……!』

 頭を抱えて蹲る私に、傍観していた“声”が語り掛けてくる。『厄介な相手に目をつけてしまった』と。

『どうして?! どうしてよ! あんな何も持ってなさそうなブスに、どうして私が負けるのよ!!』

 私は願った。“声”に『あの女が一番大切にしているものを“奪って”きて』と。そうしたらこんな目にあったのだ。“声”が失敗したに違いないと思った。
 だけど“声”は面白くなさそうな声で『相手が悪い』と後ろ向きな回答を投げて来るだけだった。

『あいつも審神者なんでしょ?! だったら刀剣男士の一人でも奪ってきなさいよ!!』

 ――それこそ無理な話だ。あの女の本丸は今まで相手して来たどの審神者とも違う。私のような存在では近付くことすら出来ない。

『はあ?! じゃあ現実世界でもいいじゃない! 何かあるでしょ?! 恋人でも家族でも、誰でもいいから一人ぐらい“消して”来なさいよ!』

 ――それも無理だ。あの女を取り巻く環境は神聖なもの。“穢れた”我々では手も足も出ん。

『はあ? 誰が“穢れてる”ですって? 私は美しいわ! あんたが消した姉よりも! 可愛がられた弟よりも!! 今では両親の愛情は私だけのものよ! 同級生たちの彼氏だって旦那だって、皆私の事が好きなんだから!!』

 そうだ。私はあらゆる存在に“愛される”存在だ。“愛されなければならない”存在なのだ。
 例え他人から“奪ってきた”感情であろうと、私は“愛されている”んだ。

 それなのに“声”は呆れたように繰り返す。『あの女からは何も奪えはしない』と。

『どうしてよ!』

 ――ではお前が自ら動くが良い。その見目で外に出られるのであれば、な。

『ッ!!』

 “声”の言う通りだった。今の私は全身に蛇のような鱗模様が浮かび、片手は真っ黒に焦げている。指の形を保ってはいても神経すら焼かれたのか、ピクリとも動かない。むしろ軽く触れただけでポロポロと崩れていく。
 それが恐ろしくてグッと奥歯を噛み締めれば、“声”は『ふむ』と含みのある声をだした。

 ――とはいえ、我々もこの十数年で力を蓄えることが出来た。我が同胞にも声を掛けてやろう。成功するかは分からんがな。

『いいわ。あんたの好きにしなさい』

 “あの女”さえいなければ、“あの女”から奪えれば――私は、今度こそ“頂点”に立てる気がする。誰も辿り着けない場所に、誰も真似できない存在になれる。そう感じられた。

 いつの間にか聞こえなくなった“声”の存在すら忘れ、憎しみを込めて“あの女”を脳裏に描く。
 この私に一ミリも好意も悪意も抱かなかった、私が最も嫌う“無関心”さを突き付けて私の前から去って行った憎たらしい女――“水野”のことを――。



 ◇ ◇ ◇



 俺は彼女が好きだ。一目惚れだった。演練会場で見かけた彼女はまるで妖精のように――あるいは女神のように輝いて見えた。
 本来なら彼女のような美しい人に声を掛ける度胸もなければ度量もない。一目見れただけでも幸せだと、今までの自分なら思えただろう。
 だけどその日の自分は違った。転げるようにして彼女の前へと飛び出ると、勢いに任せて告白した。

 ――好きです。と、ただその一言を伝えただけなのに、喉がカラカラに乾いて、目の奥がジクジクと痛んで、無様にも泣き出してしまいそうだった。

 だけどそんな俺を笑うことなく、むしろ聖母のような笑みを浮かべて彼女は受け入れてくれた。俺の気持ちに応えてくれた。

 ――天にも昇るとは、こういうことを言うんだと、心の底から理解した。

 それからの日々は楽しかった。
 彼女と些細な言葉を交わすだけで幸せだった。彼女のためなら文字通り“何でも出来る”。そう思った。

 だから何度も伝えた。

 “君のためなら命すら惜しくない”と――。誇張表現でも何でもなく、心の底からそう思えた。
 初めは彼女も遠慮していたけど、半年を過ぎたあたりから徐々に心を開いてくれた。

 彼女が両親に愛されていないこと。優秀な姉と見目麗しい弟に挟まれ比べられ、肩身の狭い思いをしていること。

 彼女を救ってあげたかった。両親の代わりに溢れんばかりの愛情を注いであげたかった。
 だから彼女が『占いが出来る人っていいよね。憧れちゃう』と言った時には東洋・西洋関係なく占いについて学んだし、政府の講習で習ったという『星読み』についても『難しくて分からない』と相談されたから『代わりに教えるよ』と言って猛勉強した。
 でも俺は優秀なタイプではなかったから、どちらも覚えることに苦労した。

 だけど苦ではなかった。
 自分の努力で彼女が喜んでくれるならと、寝食を削って勉強した。
 彼女が笑ってくれるならどんなに苦しくても乗り越えられた。あの無邪気な笑顔で『すごいね!』と言ってくれるのが嬉しかったから、辛くても耐えられた。頑張れた。

 ――それなのに――。

 万事屋で偶然見かけた彼女は別の男性審神者と一緒にいた。腕を組んで、楽しそうに話していた。大輪の花が咲き誇るような眩しい笑顔で、白い歯を見せて、誘い込むような淡い唇を楽しそうに動かして、沢山話しかけていた。


 ――俺だけじゃなかったのかよ。

 ――俺以外にも、男がいたのかよ。


 絶望しそうになる心を奮い立たせ、吐きそうになりながらもその場を後にした。
 気持ち的には今すぐにでもあの見知らぬ男に掴みかかって問い詰めたかった。だけど彼女の、あの可愛らしい笑顔を壊したくなかった。
 どんなに傷つけられても、どんなに裏切られても、どうしたって自分は彼女を傷つけることなんて出来ない。彼女が愛しくてしょうがないから、傷つくのは自分だけで言い。

 そんな自分が滑稽で、バカらしくて、胃液と共に込み上げた涙で俺の顔はドロドロになっていた。

 それでも彼女との関係は続いた。時には彼女から遊びに来てくれたし、刀剣男士や進軍について話し合ったこともあった。公私共に理解のある存在が出来たということが嬉しかった。
 占いも星読みも、その頃になれば人並みに出来るようになっていて、彼女は手放しに喜び、褒めてくれた。

 嬉しかった。
 やっぱり自分には“彼女しかいない”と、そう実感した。

 だけど彼女は魅力的な女性だから、すぐに男が寄ってくる。払っても払っても台所に集るコバエのように。
 
 見目が整った奴。背格好に恵まれた奴。金を持った奴。優秀な奴。

 様々な男が彼女に言い寄った。汚い手で触ろうとした。彼女と出歩く姿を見かけた。

 ――憎かった。

 嫉妬した。
 “彼女”の隣にいるのは、“いるべき”なのは『自分』だと、そう叫びたかった。

 今までもうっすらと感じていた感情が積もりに積もり、ついに爆発したのはそれから幾日もしなかった。

 彼女と会うことを約束していた演練会場の一角で、俺ははぐれていた刀と彼女が抱き合っている姿を見かけた。

 ――その瞬間、俺は雄叫びにも似た声を上げて彼女と刀とを引き離していた。その刀は俺が探していた、俺の刀ではなかった。それでも刀剣男士というのは個別の性格が若干違う程度で、見た目や言葉遣いは殆ど一緒だ。
 おかげで俺はそいつと同じ顔をした、同じ声をした刀とまともに向き合うことが出来ず、気付けば周囲の制止する声も聞かずに刀解していた。

 以来刀たちとコミュニケーションを取るのが嫌になった。どいつもこいつも『彼女と会わない方がいい』と、勝手なことを言うようになったからだ。

 彼女の何が悪いんだ。お前たちは人間じゃないんだから彼女の良さも苦しみも分からないんだ。

 そう言い返しては部屋に引き籠った。
 仕事を放り出さなかったのは金のためだ。歴史修正主義者とか戦争とかどうでもいい。彼女と暮らすために金は貯めないといけなかったから、仕方なく出陣させていた。
 だけど次第に指示を出すのも手入れをするのも面倒になった。

 だってコイツ等は人じゃないのに人の姿をしている。しかも普通の人間とは違って作られた肉体だから見目が整っているし、そもそものスペックが高いのだ。
 いつ彼女を奪われるかと、気が気でない日々を過ごすのはつらかった。

 そんな時偶然見つけたネット記事に『悪魔召喚の儀式』というものがあった。今までの自分なら眉唾どころか毛ほども信じなかっただろう。むしろ鼻で笑って流していた。だけど占術を学んでいた俺は何となく惹かれるものを感じ、それを試した。
 準備は面倒だったが、儀式を始める頃には頭の中がソレでいっぱいだった。

 ――彼女を独占したい。

 ――彼女を愛し、彼女から愛されたい。

 ――彼女にとって“俺”と言う存在が『特別』であって欲しい。

 徐々に大きくなる思いと比例し、彼女を俺から“奪う”全ての存在が憎くてしょうがなかった。

 そうして現れたのが『嫉妬』を司る“悪魔”だった。

 現れたソイツの姿は黒い霧のような、靄のようなものでハッキリとした姿形はなかった。それでも『声』はしっかりと聞こえた。

『オマエのノゾミをカナエてヤろう』

 男なのか女なのかも分からない。罅割れ、しわがれ、時々妙に甲高くなったり低くなったりする声は俺の“願い”を聞き届けた。
 彼女の周りに群がる蠅共を次々と不幸に陥れた。恋人と別れたり会社が倒産したり、浮気がバレたり事故にあったり。単位を落として留年する者もいれば、受験に失敗した奴もいた。
 他人の不幸が愉快で仕方なかった。

 だけど一つ願いが叶うごとに体が重くなり、食事が喉を通らなくなった。
 悪夢に魘され、眠ることすら困難になった。

 時が経てば経つほど骨が浮き、目は白く濁り、肌は土気色になった。

 その頃には本丸から出ることすら叶わず、気付けば彼女の声すら聞いていないことに気が付いた。

 ――彼女に会いたかった。一目でもいいから会いたかった。

 そんな時、彼女から連絡が来た。

 “水野”という女審神者が彼女の邪魔をしていると、泣きながら相談された。

 ――許せなかった。

 だから彼女からソイツの特徴を聞き、呪ってやろうと思った。幾ら食事が喉を通らなくなっても呪術は使える。だから今回も上手くいく――。そう、思っていたのに。

「うおえっ!」

 ボタボタと喉の奥から血が溢れてくる。ドクドクと心臓が熱く、力強く脈打っている。なのに呼吸すらままならない。
 一体何が、どうしてこんな目に?
 意味が分からず目を白黒させていると、契約していた『嫉妬』の悪魔が忌々しそうに囁いた。

 対象から“呪詛返し”にあった、と。

 しかもソイツ自身が何かしたわけじゃない。ソイツを守る“何者か”によって阻まれたのだと知り、俺は気が狂いそうになった。

 俺より優秀な術者など死んでしまえばいい。
 彼女に頼られない人間など生きる価値すらないのだ。だから自分は生き残らねばならない。成功させなければならない。

 何が何でも“水野”と名乗る悪人を、この手で排除しなければならない。

 そう決意し、機会を伺った。

 そうして誰が手を回したのかは知らないが、ソイツは俺の本丸へと足を踏み入れた。自分のやせ細った足では起き上がることすら出来なかったから這って行くしかなかったが、それでも襖の隙間から見た姿は憎らしい程に生き生きとしていた。

 だが女神のように神々しい彼女と違ってその姿は醜かった。
 豚のようにブクブクと肥え太った体。短い手足。
 彼女と比べるまでもない、生きる価値のない存在だ。

 だから簡単に“殺せる”――。そう思った矢先だった。油断した俺を戒めるかのように薬研藤四郎が『こっちを見るな!』と叫びながら一枚の札を叩きつけてきた。
 途端に俺の体は耐え切れないほどの苦痛に見舞われ、契約していた悪魔も『このままでは負けてしまう』と訴えてきた。

 俺は自分の、持てるもの全てを賭けてでも彼女を守らなければならない。

 だから悪魔と新たに契約を交わした。


 あの女を始末するまでは死んでも死にきれない。だからあの女を“始末する”ことを条件に、俺は自分の“存在”すべてを賭けた。


 肉体も家族も友人も、刀剣男士ですら捨てた。悪魔は『その意気や吉』と嗤い、俺との契約を上書きした。
 途端に全身が音を立てて変わっていった。やせ細ってミイラのようになっていた手足の感覚が鈍くなり、地面に倒れ込む。けれど今までと違い全身に力が漲っていた。だが立ち上がることも走ることも出来ず、仕方なくずるずると蛇のように地面を這いながら女の気配を追った。
 だけどどれほど探しても女はいなかった。見つけられなかった。

 俺はすべてを賭けたのに! 彼女を苦しめる憎き怨敵をむざむざ見逃してしまったのだ!

 俺は一体何のために全てを捨てたのか――。
 絶望する俺に、悪魔は囁いた。

『まだ諦めてはならない』と。

 どうにかして悪魔が見つけ出した女の本丸に呪いをかけたが、すぐさま弾かれてしまった。そのうえ周囲には強い結界が張られているらしく、乗り込むことは勿論接近することも出来なかった。

 だがここで死ぬわけにはいかない。何があってもあの女を殺さなければならない。愛する彼女のために――。

 そうだ。彼女のためならば、俺は悪魔にでも何にでもなってやる。

『ならば契約者よ。溢れる憎悪を捧げるがいい。絶望を胸に、憎しみを唄え。憎しみを糧に強さを求めよ。魂を賭けて女を呪えば、俺はそれに応えよう』

 再びもたらされた悪魔の囁きを、悩むことなく受け入れた。

 彼女のために見知らぬ女一人殺すことなど造作もない。だって彼女は“女神”だから。神の前では人間なんて虫のようなもの。生きるも死ぬも彼女の手の平の上なのだ。

 だから呪う。ただひたすらに、ひたむきに。俺たちの行く手を阻む“水野”と名乗る審神者を心の底から憎しみながら呪い続ける。
 俺の命が消え、魂が悪魔に消費される最期の瞬間まで。

 彼女を陥れた存在を許すことはない。




 ◇ ◇ ◇




 こうして二つの『悪しき存在』は互いに協力しながら、少しずつ少しずつ、水野たちに魔の手を伸ばし始めていた。



続く



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