小説
- ナノ -



 ――夢を見る。と言っても怖い夢でも楽しい夢でもない。ただ延々と、暗い、深海に落ちるような夢だ。いつものようにもがくこともなく、ただぼんやりと意識を保ったままゆっくりと水の中へと沈んでいる。
 コポリ。コポリ。と口の端から気泡が抜けていくが苦しくはない。むしろどこか穏やかですらある。
 陽の光が差し込んでいるわけでもないのに、何故か淡く輝いているようにも見える自身の体がひたすらに沈んでいくなど普通なら恐怖を感じるだろうに。本当に不思議な夢だ。

 だけどこの水中で私一人が沈んでいるわけではない。時折、ゴオオオと音を立てながら竜神様が周囲を泳ぐ時がある。
 いつものように滝壺で向かい合うこともなければ語り掛けて来るわけでもない。ただ悠々と、暗い、底の見えない海のような世界を泳いでいる。

 この夢が一体何を指しているのか――。

 分からないまま意識は深いところまで落ちていく。

「………………?」

 いつもならこのまま自然と意識が薄れて覚醒するなり深く寝入るところなのだが、今日は珍しく硬い感触を感じて目を開ける。
 ぼんやりと滲む視界から焦点が定まっていないことを感じ、数度瞬きながら自分がどこにいるのかを確かめる。

 まず目に入ったのは美しい木目と浅い溝――本丸内の床だった。いや、本丸内かどうかは分からない。鳳凰様の居城かもしれないし。
 どこか重怠い体を唸りながらも起き上がらせれば、ぽたぽたと毛先から水が滴り落ちてくる。よくよく見てみれば全身ずぶ濡れだ。しかもまた巫女服を身に纏っている。
 ずっしりと重たい衣服に呻きつつ起き上がると、自分の一歩先しかまともに見えない真っ暗な場所に立っていることが分かる。

 ……いや。どこやねん、ここ。

 訳が分からず周囲を探るように数歩歩くが、壁にぶつかる気配はない。つまり、数歩歩いただけでは壁に辿り着けない程広い廊下か、板張りの部屋と言うことだ。
 その後も適当に歩み進むが何かにぶつかることも、何かを見つけることもなく距離だけが伸びていく。
 濡れた巫女服が乾く様子もない。誰かがいる気配もない。それでもひたすら気の向くままに進んでいくと、ふと目の前にぼんやりとした光が見えてきた。

 ……誰かいるのだろうか。

 何となく人の声を感じながら歩を進めていると、そのぼんやりとした光の中で顔を認識できない一組の男女が何事かを言い合っている姿が見えてきた。

『どうして……! 何でこうなるんだよ!』
『ごめんね、――くん。私、もう行かなきゃ』
『嫌だ、待ってくれ! お願いだ、行かないでくれ、――――!!』

 ………………?
 多分、お互いの名前だろうけど、聞き取れなかった。あの女性は、男性は、一体誰だったのだろう。
 首を傾けていく間にも光は消え、また別方向でぼんやりと光り始める。だから今度はそちらに向かえば、そこには先程女性に振られた男性が机に向かって何かを書き綴っているところだった。

『こう、か? いや、こっちかもしれない……。クソッ、なんでこんな……! いや、ダメだ。諦めるな。彼女には俺しかいないんだ。だから俺が頑張らなきゃ――』

 グシャグシャと、神経質そうな細い指先が髪を乱したところでモノクロ映画のような薄ぼけた映像は闇に溶けて消える。
 そうして次に現れた光に向かって歩けば、今度は男を振った女性が椅子に座りながら上機嫌にマニキュアを塗っている姿があった。

『フンフンフ〜ン♪ ん〜、やっぱりこの色いいかも! ――ちゃんが“あたしには似合わないかも〜”なんて言ってたけど、単なる嫉妬よね、アレ。今度会った時に見せてあげよ♪ 私にも似合うでしょ〜、って』

 相変わらず顔は見えない。見えない、っていうより認識出来ない。のっぺらぼうみたいで。だけどこの声は聞いたことがあるような気がする。
 ……誰だっけ? どこで聞いたんだっけ?
 考えている間にも映像は終わり、再び真っ暗な闇の中立ち尽くす。

 そうして長い間ぼうっとしていると、カツカツとヒールが硬い床の上を歩くような音と、ズルズルと何かが床を這うような音が聞こえてくる。
 距離は未だ遠い。だけどその二つの音はまっすぐとこちらに向かって進んできており、迷いがない。

 ――逃げるべきか、隠れるべきか。

 夢の世界でなければ焦って踵を返しただろう。だけど不思議とその場を動く気になれなくて、そのままそこに立って相手が来るのを待っていた。

『…………して…………たのに…………あんな…………』
『……しい……あ……を……して…………』

 女性の声はどこか苛立っているかのように不機嫌そうだが、もう一人の声はしわがれていて性別がよく分からない。『ひび割れている』とでもいうのだろうか。歪で、軋んだようにも聞こえる声は男性か女性か分からなかった。
 不思議に思っている間にも足音と這う音は近づき、遂に私の視界が捕らえられる範囲まで近付いてきた。

 そうして相手の顔が見えそうになった瞬間――



「…………んえ……?」

 リィン、リィン、と鈴虫の涼やかな、それでいてどこか物悲しくなるような音が耳を打つ中目が覚める。
 ……何か、今、結構危ないような惜しいような状況にいた気がしたんだけど…………何だったんだろう。

 くあっ、と欠伸を零しつつ起き上がれば、そこは本丸内ではありえない程にだだっ広い空間が広がっており、その中心に敷かれた布団の中にいたのが私だった。
 ……どういうことやねん。
 頭の中でツッコムが、何となくここがどこで、誰の仕業かも予想がついている。現に輝かんばかりの赤髪の持ち主が縁側に腰かけているからね!

「鳳凰様」
「ん? 起きたか、愛し子よ。夢の旅路はどうじゃった?」

 ――夢の旅路。さっきの不思議な夢の事だろうか。
 ガリガリと後頭部を掻きつつ先程まで見ていた夢を思い出し――「ううん?」と唸る。

「あれ、何だったんですかね?」

 のっぺらぼうの如く顔が見えない一組の男女のやり取りに、追われるように何かに打ち込む男性と上機嫌にマニキュアを塗る女性。そうしてこちらに近付いて来た二つの足音。
 抽象的でありつつもどこか引っかかる夢を思い出していると、縁側に座ったままの鳳凰様が楽し気に笑う。

「このような状況に置かれていて呑気に首を傾けるのは其方ぐらいよの」
「え? あ、すみません。ご挨拶を……」
「よい。それに、そのことではない。其の方は鈍いようで鋭く、鋭いようで鈍いから見ていて飽きはせんが……今宵ばかりはその鈍さが命取りになるところであったぞ」

 不穏な言葉を言い放ったかと思うと、鳳凰様は立ち上がり、相も変わらず豪奢な着物を引きずりながら近付いてくる。
 そうして未だに布団の中に下半身を突っ込んでいた私の傍まで来ると、そのまま横に腰かけ私の頬に大きな手の平を伸ばしてきた。

「アレは貴様を狙う“魔のモノ”たちぞ。どうやって其方の存在を掴んだかは知らぬが、存外やりよるの。もうすぐで其方を喪うところであったわ」
「え。そんなにやばかったんですか? アレ」

 自分では「何となくだけど大丈夫じゃね?」と思っていただけに余計に驚きを感じていれば、鳳凰様は呆れたように、あるいは怒ったように眉間に皺を寄せるとぐにっ、とこちらの頬を摘まみ上げる。

「この阿呆め。とはいえ夢の世界とは常に曖昧なもの。現世と彼岸、現在と過去、そして未来。あらゆるものを繋げ、あらゆるものの境が曖昧になる“魔の空間”でもある。故にアレらは契約者の“過去”と、僅かな縁を辿って其方の夢とを繋いだのであろうよ。ここ最近は友も力を取り戻し警戒していたというのに、一瞬の隙をついてきおったわ。何とも小賢しいものよ」
「ふぇぇぇ……」

 グニグニとこちらの頬を遠慮なく伸ばしたり引っ張ったりしている鳳凰様に若干涙目になっていると、ふとその動きを止めてから私の顔をマジマジと見つめてくる。

「ふむ。我と友の神気が流れていることは分かっておったが、こうしてみると異質なものよな」
「異質、ですか?」

 解放された頬を擦りつつ尋ねれば、鳳凰様は「うむ」と頷く。

「其方も分かっていようが、本来火と水は反対の性質を持つ。故に共生することは難しい」
「ですが、私は特に問題なく過ごせております」
「うむ。それが不思議でならん。本来ならば貴様と直接繋がりがある友の気質が強く出て、我のものは表には出らぬはずなのだが……。ふむ。興味深いな」

 しげしげとこちらを見遣る黄金色の瞳を正面から見返し、ふと気付く。

「あの、鳳凰様」
「なんじゃ?」
「どうして私の目は赤や橙にしか染まらないのでしょう。鳳凰様の瞳は黄金色なのに」

 実は目の色が変わるようになってから疑問を抱いていたのだが、鳳凰様の神気が多少なりとも流れているなら瞳も同じ色になるかと思っていたのだ。だがどうにも燃え盛る炎のような色にしかならない。
 それが不思議で問いかけてみれば、鳳凰様は「何を言っているんだ」と言わんばかりに麗しい表情を歪めてから吐息を零す。

「何を当たり前のことを。其方の器はただの人である。我の神気を受け入れられるだけでも異質だというのに、我と同等の力を得れば燃え尽きてしまう。炎も赤いところより青いところの方が熱いと知っておろう。我のこの瞳は火を司る者のみが持てる高貴な色である。故に其方が我と同じ色に染まることはない」

 ははあ、なるほど? ようはランク付け的な話だろう。
 ヒエラルキーのトップが鳳凰様。その瞳が黄金色なのは彼が頂点に君臨しているからだ。それ以下の者は同じ“黄金色”を持つ資格がない。そういう話なのだろう。

「ふむふむ。では、私は鳳凰様の“眷属”になった、ということでしょうか?」
「厳密に言えばそれも違う。其方と繋がりが深いのは我が友であることに変わりはない。我はあくまでも“一時的に”其方を守っているだけにすぎん。其方が死ねばその魂が向かう先は友の元である」

 うーん。ってことは、この現象はあくまでも一時的なもの、って考えていいのかな。
 今は二つの存在に命を狙われているからこんなイレギュラーな状態になっただけで、これが解決すれば私の目も元に戻るかもしれない。
 そう考えていると、鳳凰様は「それもちと違うがの」と言って私の顎を軽く掴んで再度瞳を覗き込んでくる。

「其方の魂が“人非ざる者”に変化したことは覆しようがない。これは純然たる事実である」
「うっ、そう、なんですか」
「うむ。加えて、其方がその“目”で見えるようになったものは以前よりも増えるであろう。見たくないものであっても視えるようになる。逆に相手が隠しているものも、視ようと思えば視えるようになる。其方の力はそういうものだ」
「うへえ……。あんまり嬉しくないです……」

 説明してくれた鳳凰様には悪いが、正直『見たくないもの』は見たくない。むしろ『見えないまま』の方がよかった。
 とはいえ今更元に戻せるものではないのだろう。鳳凰様はニヒルな笑みを口元に浮かべると顎から手を離す。

「さて、そろそろ戻るがよい。愛し子よ。我が友も迎えに来たでな」
「へ?」

 鳳凰様が顔を暗い庭に向けると、そこからぬっと――青白い、水に濡れたように淡く、それでいて鈍く輝く鱗を持つ竜神様が顔を出してくる。

「竜神様がどうしてここに……」
「うむ。先の話に戻るがの、我が友が“夢”で其方を襲ってきた一柱の相手をしている間に彼奴等の“領域”に其方を奪われてしまったのが原因じゃ。我と二人がかりで其方を取り戻したはいいが、我が友は其方を奪われたのが随分と業腹だったらしい。彼奴等の追跡を躱すだけでなく反撃もしてきたようじゃ。クククッ! 相変わらず怒らせたら怖い奴よのぉ。ま、我も人の事は言えんがな」

 待って待って。情報が多い。
 内心大慌ての私だけど、これ以上長居すれば不味いことも分かっている。それを鳳凰様は勿論のこと、竜神様も分かっているのだろう。庭先に立つ竜神様が急かすように喉を鳴らしたので、慌てて立ち上がり駆け出す。

「あの、鳳凰様、今回も助けてくださりありがとうございました」
「気にするでない。其方は我と友にとって愛し子である。とはいえ、もう少し危機感を持った方がいいがの」
「う……。すみません……」

 竜神様の元に駆け寄り、改めて鳳凰様にお礼を言えばしっかりと釘を刺される。だけど思った以上に柔らかな口調なので、注意と言うよりは『諭す』という方が近い。
 とにもかくにも自分自身もっと気を付けなければ! と意識を改めていると、ふと鳳凰様が何かを思いついたように手を叩いた。

「そうじゃ、愛し子よ。本丸に戻ればアヤツを火にくべよ」
「あやつ?」
「うむ。我に臆することなく刃を向けてきた九十九の一振りじゃ」
「むっちゃんのことですか?」

 鳳凰様に刃を向けたとなれば陸奥守しかいない。小夜や長谷部、三日月なんかも柄に手を掛けてはいたが、刃を抜いてはいなかった。だから鳳凰様が言っているのは陸奥守で間違いないだろう。
 現に鳳凰様は頷かれる。

「うむ。時間がない故仔細は省くが、忘れるでないぞ」
「あの、火にくべるって――」
「どこでもよい。が、其方の本丸で最も力を持つ火事場が好ましいかの。何はともあれ今は帰るがよい」
「え、あ、鳳凰さ――」

 最後まで言い切る前に大きく口を開けた竜神様の体内に取り込まれる。そこは相変わらず澄んだ水に満たされており、ゴボゴボと口から気泡を漏らしながら体制を整えている間にも竜神様は鳳凰様の居城から飛び立っていた。
 そうして右に左にと、洗濯機よろしく竜神様の体内でシェイクされているうちに気が遠くなり――気付けば今度こそ本丸内の、私室に敷いた布団の中で目を覚ますことになった。

「…………ゆめ」

 一体どこまでが夢でどこまでが現実だったのか。不思議に思いつつも上体を起こせば、襖の奥から声が掛けられる。

「主。起きちゅうか?」
「むっちゃん? うん。起きてるよ。ちょっと待ってて」

 起き上がってから電気をつけ、枕元に置いていた御簾をしっかりつけてから閉めていた襖を開ける。そうしてそこに座していた陸奥守と顔を合わせれば――何故か陸奥守は目を丸く開いてから私の肩を勢いよく掴んできた。

「いっ?! な、に、むっちゃ――」
「おんし、何があったがじゃ?!」
「へ?」
「どうしたの? 陸奥守さん、主」

 寝室には護衛の代わりに大量のお札を持ち込んでいるから忘れていた。『事件が解決するまでは』という約束の元、執務室前の廊下には当番制で護衛兼見張りがいるし、夜中であっても時間を守って刀たちが巡回してくれている。
 今夜の廊下前の見張りは陸奥守で、寝ずの番は小夜が担当だったはずだ。おそらく陸奥守と交代したばかりなのだろう。となれば陸奥守はこれから床に就く時間だろうに、何があったのか。
 というかこの剣幕は何事かと目を白黒させていると、顔を出してきた小夜もぎょっとしたように猫のような釣り上がった目を丸くし、こちらに駆け寄ってくる。

「主! 大丈夫?!」
「だから何が?!」
「呑気なことを言いゆう場合じゃないぜよ! おんしの神気が……!」

 あ。

 血相を変えた二人の様子を見て察した。というか気付いた。ギギギ、と錆びついたブリキのおもちゃのように首を後ろに回せば、枕元に置かれたお守りが一つ。確かに存在している。

 カーーーーーッ!!!! 私の阿呆!!! 完全に寝ぼけてた!! 隠さなきゃいけなかったのに、うっかりしてたーーー!!
 お師匠様から『寝る時に気になるようなら外しても構いませんが、必ず枕元に置き、部屋は閉め切ってくださいね。窓や襖をあければそこから神気が漏れますから』って言われてたのに!!!

 焦りながらもここからどうすればいいのかを考える。えーと、そう。皆が起きてきたら困る。非常に困る。
 だから一先ず二人を部屋へと引きずり込み、勢いよく襖を閉めてからお守りを掴んで息をつく。

「お? なんじゃあ? 神気が……」
「いつもと同じに……?」

 訝しむ声にひやひやしつつもお守りを握りしめたまま二人の前に座す。気付いた二人も居住まいを正して向き合うが、明らかに『また何か隠してるだろう』と言わんばかりの目つきだ。
 うぅ……。見逃してくれたりとかは…………。はい。ダメですよね。そうですよね。分かってた。

「あの……出来れば内密にして欲しいというか、まだ皆には言わないで欲しいというか……」
「内容にもよるけど、主の命に関わっていることなら秘密には出来ないよ」
「おん。おんしは自分の事を後回しにする悪癖があるきに」

 ぐぅ……! 悪癖って酷くない?! まあ、散々迷惑かけておいて言える立場じゃないんだけどさ……。

「ま、まあ、いつかは話さなきゃいけないとは思ってたし、話すならまずは二人からだと思ってたから、丁度いいと思うことにするよ」

 初期刀である陸奥守と、初鍛刀で顕現した小夜は私にとって思い入れの強い刀だ。正直このことについて相談、報告をするならこの二振りが先だと決めていた。
 だからここは諦めて話した方がいいだろう。
 覚悟を決め、手にしていたお守りを傍に置く。そうして御簾を外して二人へと視線を向ければ、陸奥守と小夜は同時に息を呑んだ。

「主、それは――」
「……そがぁに進んじゅうとは思わんかったちゃ。おんし、のうが悪くないが?」
「あー、うん。別に体調面は大丈夫なんだけど……」

 心配してくれる二人に鳳凰様から教えられた『今まで見えなかったものが視えるようになる』という話をすれば、途端に二人は顔を顰めた。

「いつかはこうなるかも、と考えはしてたけど……」
「それについても考えにゃあいかんが、主。鳳凰様はわしを火にくべろ言うたがか?」
「うん。一番力の強い火事場で、って言ってた」

 本丸で最も火力がある場所と言えば、やはり鍛刀場だろう。どうするつもりなのかは分からないけど、陸奥守は「神様の言う事じゃ。まずは言う通りにするぜよ」と言って立ち上がる。
 陸奥守を先頭に鍛刀場へと三人で向かい、月明かりが僅かに差し込んでいるだけの薄暗い空間に明かりを灯す。
 炉は全部で四つあるが、そのうちの一つには強い思い入れがある。思い入れっていうかなんて言うか、折れたはずの三日月を再び打ち直した炉だから記憶に強く残っているのだ。あれから特に鍛刀場で何かが起きることはなかったけど、何となく縁がある気がしてそこに火をおこす。

「火はつけたけど……これからどうすればいいんだろう?」

 鳳凰様は「火にくべろ」と言っていたけど、陸奥守は三日月みたいに自分の意思でただの刀に戻ることは出来ない。だからどうすればいいのか分からず悩んでいると、当の本人がおもむろに鞘から自身を引き抜き、何の躊躇もなく炉の中へと突っ込む。

「でええ?! む、むっちゃん、大丈夫なの?!」
「まあ、ちっくとは熱いと思うけんど、そがぁに心配するほどではないぜよ」
「ええ……マジで?」

 和泉守は厨でフライパンにうっかり触ってしまった時に「どわっちいい!!」って大袈裟なぐらいに叫んでたのに。鍛刀する時の火と厨の火とでは何かが違うのだろうか?
 そんなバカみたいなことを考えた時だった。突然炉の中の炎が勢いよく、それこそ陸奥守を喰らわんとする獣のように大きく燃え上がる。

「むっちゃん!」
「陸奥守さん!」

 一瞬のことだった。
 舞い上がった炎が瞬きの一瞬で陸奥守を飲み込んだかと思うと、そのまま黒い人影を残してぬらぬらと揺れ光る。炎を消そうと小夜と共に消火器を掴んだが、燃え盛る炎の中から陸奥守の「ちっくと待ちとうせ!」と制止する声が飛んでくる。
 思わず小夜と顔を見合わせれば、炎の中からヒラヒラと陸奥守が手を振ってきた。

「心配せんでもえい。むしろえい気分ちや」
「え。そ、そうなの?」
「おん。力が湧いてきゆう感じぜよ」

 陸奥守を飲み込んだ炎は最初こそ勢いがよかったが、話している間にもゆらゆらと穏やかに色味を変え、勢いも衰えていく。そうして陸奥守から離れるように炎は小さくなっていき、こちらが何もせぬままそっと炉の火は落ちた。

「むっちゃん、大丈夫?」
「陸奥守さん、大丈夫ですか?」

 こちらを庇う様に前に出ていた小夜と共に近付いて尋ねれば、陸奥守はしげしげと鈍色に輝く自身を眺めてからニカッと眩しい笑みを浮かべた。

「こりゃあえいぜよ! 鳳凰様がわしにも加護をくれたみたいやのう」
「そうなの?」
「おん。おんしなら見えろう」

 そう言って渡された柄を受け取り、陸奥守同様マジマジとその美しい刃を見つめる。すると徐々に焼き印されたかのように赤黒い文字が見え始めた。
 とはいえ何と書いているのかは分からない。それでも感じられる力は間違いなく鳳凰様のものだった。

「もしかしたら、鳳凰様はご自身に刃を向けられた陸奥守さんを見込んで力を貸し与えたのかもしれませんね」
「ほにほに。あん時は無我夢中やったきに、こがなことになるとは思わんかったぜよ」
「怪我の功名、というやつですかね」
「ほうやにゃあ」

 うんうん。と頷き合う刀たちだけど、これ……いいのかな?
 だって幾ら刀剣男士は個々の本丸が管理しているとはいえ、大本は政府のものだ。厳密にいえば国家の所有物扱いなんだろうけど、個人が持つ分霊に武神が力を与えるのはありなのか。
 内心どころか背中に冷や汗びっしょびしょな私ではあるが、もはやこの本丸自体もイレギュラーだし、私自身がイレギュラーな存在なのだ。自ずと刀剣男士たちも変わってくるのかもしれない。
 そう無理やり言い聞かせ、刃を陸奥守に返し、一度深呼吸をする。

「とりあえず、鳳凰様との約束はこれで済んだ、ってことでいいのかな?」
「だと思います。主の体にこれ以上神気が募らぬよう、敢えて鳳凰様は陸奥守さんにご自身の力を貸したのではないでしょうか?」
「おん。わしも小夜と同じ意見ぜよ。今のおんしには神気が溢れすぎゆう。これ以上は危険ちや」

 ――危険。
 それが一体何を指しているのか。思わず狼狽え、ギュッと首から下げていたお守りを握れば陸奥守の手が肩に置かれる。

「大丈夫じゃ。わしらがおるきに」
「そうだよ、主。僕たちが不甲斐ないばかりにいつも主にばかり無理をさせてるけど、これ以上負担はかけさせないから」
「……うん。ありがとう。二人共」

 お師匠様からは『何故現世にいられるのか分からない』と言われ、鳳凰様からは『水だけでなく火の性質まで見て取れるのが不思議だ』と言われた。
 自分の体のことなのに自分が一番理解出来ていない。
 そんな不安を抱えながらも、促されるまま自室へと戻る。

「それじゃあ主、今はしっかり休んで」
「今夜は眠れそうにないきの。わしもここにおるきに、心配せんでしっかり休みとうせ」
「分かった。おやすみ、むっちゃん。小夜くん」

 私室兼寝室と執務室は襖一枚隔てただけで繋がっている。とはいえ女性の寝室に入るのは彼らでも憚られるのか、緊急の場合を除いては立ち入ってくることはない。
 お師匠様と百花さんに貰ったお札やお守りもあるため、本丸で最も安全な場所とも言えるからだ。
 だからこそ見張り番は執務室前の廊下で行われる。

 私は再び寝転がった布団の中で御簾を外し、未だに首に掛けたままのお守りを両手で握る。

「…………これ以上神気が増えると、現世にも戻れなくなるのかなぁ」

 並の“器”では耐えられない量の神気が私の中には流れているという。
 肉体は人のままでも、魂がもうそうではなくなってしまった。

 鬼崎との一件以来変わってしまった自身の体。このまま進めばどうなってしまうのだろうか。

 不安に思いつつも目を閉じれば、意識は徐々に深い闇へと呑まれていった。





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