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今回は初の【鳴狐→審神者(水野)】です。珍しく矢印成分強めです。
よろしくお願いします。m(_ _)m
本丸内に雨が降る。
審神者に就任してから早二年。再びやってきた梅雨に、我が本丸も僅かばかり景観が変わっていた。
「おー、咲いてる咲いてる」
生け花も出来ない。花言葉も知らない。そんな適当人間ではあるが、これでも花そのものは好きだったりする。
どのくらい好きかというと、実家では多肉植物を複数育て、パソコンの壁紙は常に季節に合わせた花を選ぶほどだ。だけどそれを直接刀剣男士たちに伝えたわけではない。ないのだが、察しのいい神様たちだ。気付けば本丸の庭には沢山の花が植えられていた。
最初はマリーゴールドだけだったんだけど、徐々にヒマワリやシャクヤク、椿やボタン、パンジーやコスモスと種類が増えていき、最近では多肉植物も数を増やしている。
現在我が本丸には私が顕現させた刀以外にも刀剣男士たちがいる。百花さんの刀しかり、政府の仕事関連で一時的に預かっている刀しかり。結果本丸が手狭になり、少し前に拡張した。おかげで人手も増えたのだが、当然敷地が広がれば自然と花々も増えていく。そうしていつの間にか本丸の一画には花畑が出来ていた。
それらの面倒を見ているのは勿論私――であるはずがなく。うちの刀と、預かっている刀たちだ。私自身は相変わらず「何もしていない」という体たらく。でもこれには少しだけ訳がある。
うちの刀はともかくとして、預かっている刀の大半は審神者が本丸を放置して行き場をなくした刀たちだ。あるいは“ブラック本丸”と呼ばれる劣悪な状況に身を置いていたか。そんな環境にいたからか、預かってきた刀の多くは精神面に支障をきたしている。
例えば出陣しすぎて戦闘狂になってしまい本来の性格より気性が荒くなったとか、審神者との関係が上手くいかず情緒不安定になってしまったとか。理由は様々だけど、大体こんな感じだ。
だから人と触れるよりも自然、しかも癒し効果のある花に触れていくうちに自ずと落ち着くかな。と考えてのことだった。
結果としてはそれなりに効果を発揮している。例え雅が分からずとも愛でるべき命は分かる刀たちである。花の世話を通して少しずつ荒んだ心を元に戻し、本来の彼らに戻ってもらおう。そういう魂胆である。
そしてそれこそが「言い訳」と書いて「建前」と呼ばせるアレである。どっちもロクな意味を持っていない。
では「本音」はどこにあるのかと言うと、どこにもない。私には何が「正しく」て、何が「正解」なのかが分からないからだ。だから彼らの心のケアも、正直手探りで進めていくしかなかった。
そのせいか心の中にはいつも「これでいいのだろうか」という悩みというか、葛藤のようなものが影のように付き纏ってくる。だがやらねばならないのだ。武田さんや柊さんも手伝ってくれるけど、自分が関わった刀たちには最後まで責任を持って接したい。例えこれが後から「間違い」だと判断されようとも、辞めるわけにはいかなかった。
さて。そんな重苦しい話は抜きにして、現在庭園に咲き誇っている花と言えば――そう。紫陽花だ。
母親曰く紫陽花を育てるのは難しいらしいのだが、そこは神聖な空気が流れる本丸だからだろう。目の前では立派に育った色とりどりの紫陽花が目を楽しませてくれる。
「やっぱり紫陽花はかーわいいなぁ〜」
降りしきる雨を遮るのは本丸内に置いてあった赤い番傘だ。色合い的にも大きさ的にもめちゃくちゃ目立つが、元々横にはデカいが縦には短い人間だ。しゃがんでしまえば茂る草木に紛れて見つかりにくくなるはず。
あ。別にさぼってるわけじゃないよ? 今はれっきとした休憩時間です。
今日の近侍である江雪さんとお茶当番である歌仙からしっかり休むよう言い包められている。だからこうして一人で息抜きをしに来ていた。
「皆綺麗に咲いてるなぁ」
本丸内の清掃も花のお世話も、気づけば全部刀任せになっている。これで自分が『主だ』と言うのだから変な話だ。神様に雑用を任せ、何もできない人間が何もせずふんぞり返っている。改めてどんな状況だよ。と突っ込まずにはいられない。本当、相も変わらず理解のできない体制である。
なんて、癒されに来たのに無意識に自己嫌悪に陥っていると、ガサリ、と背後で葉が擦れる音がする。
「おや? これはこれは! 主殿ではありませんか!」
「あら。鳴狐とお供の狐じゃん。やっほー」
私と同じように赤い番傘を差し、庭園に来ていたのは鳴狐だった。彼は私の本丸に早い段階で来た打刀だ。そしてロクでもない事件に巻き込まれた際非常に心労をかけた相手でもある。
そんな鳴狐は肩にお供の狐を乗せたままこちらに近づくと、視線を合わせるようにして隣にしゃがみ込んできた。
「なにしてるの?」
「紫陽花見てたんだ。皆が綺麗に育ててくれたから、見惚れてた」
珍しく本体が話しかけてきた。でもそれを茶化す気はない。元々口数の少ない刀ではあったけど、修行に出てからは少しだけ話しかけてくれるようになった。とはいえ以前からも割とお供の狐を通して話しかけてくれてはいたんだけどね。
そんな私たちをぐるりと囲うように紫陽花は咲いている。それらを視線で示しながら改めて鳴狐と視線を合わせた。
「綺麗に育ててくれてありがとね。鳴狐」
「いえいえ! 元はと言えば主殿の霊力が本丸内に行き渡っているからこそたわわに実ったのでございます! 我々がしていることといえば水やりぐらいですぞ」
「でも水やりすらしてないのが私だよ? 皆の好意を“当たり前”って受け入れてふんぞり返るのは流石に失礼が過ぎるよ」
パタパタと番傘が雨粒を跳ね返す音を聞きながら、そっと目の前にある紫陽花に指先だけで触れてみる。
葉は瑞々しい緑色だ。肉厚で、虫に喰われてもいない。雨に濡れても腐ることなく咲き誇る花々は本当に綺麗だ。
他の花だってそうだ。私一人ではここまで育てきることなんて出来ない。陸奥守や小夜だけでなく、沢山の刀が勉強し、協力してくれたからここまで綺麗に咲いてくれた。種類も増やすことが出来た。見目を楽しませてくれるだけでなく心も和やかにさせてくれる。
そんな時間と場所を提供してくれたことに感謝するのは当然のことだ。彼らの好意に胡坐を掻いてふんぞり返るなど出来るわけがない。
「だから皆にも言いたいけど、まだ人と触れ合うには危ない刀もいるしね」
「そうだね……」
本丸内の敷地から少し離れた場所にある離れ――これも拡張した際建てたものだ――へと二人で視線を移す。そこには只の人間である私と顔を合わせることはまだ危険だと判断された刀たちが住んでいる。
寝ても覚めても戦ばかり。敵か友か、それとも己か。分からなくなる程血に塗れた刀たちは、人の血を求めてはいけないからとあそこに離されている。それでもうちの刀たちと共に食事を作ったり手合わせをしたりと刀同士でのコミュニケーションは取っている。といっても皆から報告された話を聞いているだけでこの目で見たことはないのだけれど。そしてそこには“鳴狐”という刀も存在している。
「……鳴狐には、あるじがいる」
「ん?」
お供の狐ではない、本体が漏らした言葉に首を傾ける。鳴狐は離れから視線を外し、何を考えているのか分からない――けれど不思議と嫌な気持ちにはならない澄んだ瞳を向けてくる。
「あるじがいるから、鳴狐は平気だ」
「……うん? なんか……よく分からんけどありがとう……?」
多分、鳴狐なりに慰めてくれようとしているのだろう。彼らは不思議と心の動きを悟る。だからここでひっそり自己嫌悪していた私に気付いたのかもしれない。
まぁ、何百年と存在し続けてきた彼らからしてみれば自分はまだまだ子供だ。主と言えど未熟者。だからこそ彼らは惜しみなく道を示し、支えてくれる。ただ存在するだけじゃない。自らの意思と決断を持って私に『主』であるよう奮い立たせてくれるのだ。
「ふふっ。改めてありがとう。鳴狐。私も、鳴狐がいてくれて嬉しいよ」
自分の力で顕現させることの出来た数少ない刀。もしかしたら、本当は違うのかもしれないけれど。それでも、彼は“私の刀”だから。
「あ。そういえば昔聞いたことがあるんだけどさ、人の声が一番綺麗に聞こえるのって“傘の中”らしいよ」
傘の中っていうか傘の下っていうか。なんでも傘の中で声が反響して? いや、共鳴してだったか? とにかく、そういうアレがソレで綺麗に聞こえるんだとか。
特に何かを意図して口にしたわけじゃないけど、鳴狐は首を傾けると己の傘を畳んで私の傘の中に潜り込んでくる。
「ぅおう?! どうした?!」
「実験」
「な、なるほど……?」
今日は随分とおしゃべりだ。そんな鳴狐の心情を察してか、肩に載せているお供は静かに口を噤んでいる。その黒い瞳を見つめれば楽しそうに尻尾を振ったので、お喋りなお供もこの状況を悪くは思っていないらしい。
――パタパタと雨音が傘の中に響く。触れそうで触れない位置にある肩の上にはお供の狐。そして視線の先にあるのは青や紫、ピンクの紫陽花――。
……何だか不思議な空間だなぁ。
折り畳んだ膝の上で傘の取っ手を握り直していると、鳴狐から「あるじ」と呼ばれる。だから「ん?」と顔をそちらに向ければ、いつもより視線が近い彼が子供のようにあどけない瞳で語りかけてくる。
「鳴狐の声は、好きか?」
声。問われて考える。そういや皆いい声してるよな。
むっちゃんたちのように大人の姿をした刀たちだけじゃない。子供の姿をしている短刀だって見た目にそぐわずいい声をしている。可愛らしいだけじゃない。キチンとした“男の子”の声だ。
でも気付いたところで答えは変わらない。それに例え“声”に限らずとも、私は彼らが大好きなのだから。
「勿論! 大好きだよ」
相手からは御簾で見えないことは百も承知だ。それでも自然と浮かんだ笑みをそのまま声に乗せて伝えれば、鳴狐は数度瞬いてから「そう」とだけ返して頷いた。
「あるじ」
「なに?」
「なにか話して」
「突然の無茶振り! まぁいいけど。そうだなぁ。何から話そうか」
取るに足らない、戦の役にも立たない話ならごまんとある。多分鳴狐が望んでいるのはそういう“何でもない”“取るに足らない”話なのだろう。私が私として暮らしている、そんな時間の話。彼からしてみれば何も面白くないはずだ。それでも滅多にお願いごとをしてこない鳴狐からの珍しいリクエストだから、他の誰かに聞かれないよう赤い番傘の中でぽつぽつと話を紡ぐ。
それは雨粒のように美しく、ささやかな音ではなかったかもしれない。だけど鳴狐は黙って耳を傾けてくれた。
――じー! あるじー……?
「あ。歌仙が呼んでる。休み時間終わっちゃったのかな」
少し前に無茶をして倒れてからというもの、ただでさえ過保護だった刀たちに拍車がかかってしまった。だからこうして休憩時間までキッチリ監視されるようになったのだが、自業自得なので何も言えない。名残惜しいけど立ち上がろうとすれば、すぐに鳴狐に腕を取られて再びしゃがみ込む。
「んえ? どうしたの?」
パタパタと相変わらず雨が傘を叩く中、鳴狐はじっとこちらを見つめながら薄い唇を開いた。
「あるじ」
「うん」
「鳴狐も――あるじが、“好き”だ」
え。それって――……あ。いや、そうか。違うわ。今のは私の“声”が“好き”ってことか。一瞬『告白』されたのかと思ってビックリしちゃったよ。
「ふふっ、そっか。ありがとう。鳴狐」
自分の声なんて彼らに比べれば全然特徴なんてないし、平々凡々もいいとこなんだけど、そんな声でも好きになってくれたのであればやっぱり嬉しい。だから再度お礼を言ってから立ち上がれば、すぐさま歌仙と江雪に見つかってしまった。
「主! そんな所にいたのかい?」
「探しましたよ」
「ごめーん! 紫陽花が綺麗だったからさぁ〜」
ぬかるんだ地面に気を付けつつ庭園を抜け、縁側へと近づけば呆れた顔の歌仙と穏やかに目を細める江雪の顔がはっきりしてくる。そんな彼らに「紫陽花綺麗だったよ」と話しつつ鳴狐にも伝えたように「育ててくれてありがとう」とお礼を言えば、歌仙は誇らしげに胸を張り、江雪さんは穏やかに目元を緩めて微笑んでくれた。
「さ、主。残りの仕事を片付けてしまおう。僕も夕餉の支度まで時間があるから、手伝うよ」
「ありがとう。助かるよ」
「では三人で頑張りましょう」
傘と靴を片付けてくれるという歌仙にそれらを頼み、江雪と並んで執務室へと歩いてく。庭園にはまだ鳴狐が残っていたけど、軽く手を振れば振り返してくれた。
きっとまだあそこにいるつもりなのだろう。鳴狐も花が好きだったんだなぁ。
新たな発見にニコニコしていると、気づいたらしい。江雪から「ご機嫌ですね」と話しかけられる。
「うん。さっき鳴狐と話してたんだ〜。鳴狐も花が好きみたい。一緒に紫陽花見てたんだよ」
「そうでしたか。貴女の楽しそうな様子が見られて、彼も喜んだことでしょう」
「だといいんだけどなぁ。あ。でも今日は珍しく本体が沢山話してくれてね」
つらつらと、先程までの穏やかな時間を思い出して語れば江雪は穏やかな声音で「そうですか」と相槌を打ってくる。
「うん。あとはねぇ、鳴狐の“声”が好きだよって話したりね」
「……声、ですか?」
「うん。あのね、人の声が一番綺麗に聞こえるのは傘の中なんだって。それで二人で一緒の傘に入って、話してたの」
十分にも満たないささやかな時間。ぽつりぽつりと話した言葉の多くは無意味なものだった。それでも黙って聞いてくれた鳴狐が尋ねてきた「自分の声は好きか?」という問いに「勿論!」と答えたことを口にすれば、江雪は少し考える素振りをしてから困ったように眉尻を下げてこちらを見下した。
「――貴女は、本当に罪なお方ですね」
「はえ? なんで?」
前後の脈略を考えても何故そう返されたのか理解出来ない。ぽかんとして見上げれば、江雪は宗三のように袖で口元を隠しながらクスリと笑った。
「彼も宗三も、前途多難ですねぇ……」
「待って待って! 話が見えない! 江雪さんカムバーック!!」
全く話が見えないのに、何故か江雪の中では繋がっているらしい。クスクスと笑う彼に追い縋っていると、片付けが終わったのだろう。お茶を持って歩いてきた歌仙に「何を騒いでいるんだい」と嗜められてしまった。
正直腑に落ちなかったけど執務室に着いてしまったし、片づけなければいけない仕事は残っている。だから若干不服ではあったけれど一旦飲み込むことにし、スリープモードにしていたパソコンの前に座った。
***
「鳴狐、よかったですな」
お供の狐に話しかけられ、鳴狐はコクリと頷く。
普段は賑やかな本丸も、梅雨時期となれば多少は静けさに満たされる。そんな中ふと思い立ち散策に出た鳴狐は皆で手入れをしている庭園へと赴き、そこで主の姿を見つけた。
鳴狐にとって当代の主は破天荒な女主人であった。負けん気が強く大雑把で、豪快で大胆。その癖無防備で隙だらけ。“女”と言うより“女武将”とも呼べる心の強さを持つ割に、花に埋もれて蹲る姿は消えてしまいそうな心許なさを感じさせた。
咄嗟に近づき狐が声を掛ければ、鳴狐の懸念とは裏腹に呑気な声が返ってくる。
それでも主が審神者として活動し始めてからすぐに顕現した鳴狐だ。自身の主がいつもより気落ちしていることにはすぐ分かった。
鳴狐にとって主とは摩訶不思議な存在であった。
いつも元気でおおらかで、その癖負けん気が強くて守るよりも攻めの姿勢を取る。けれどその心根は春の日差しの如くあたたかく、いつも鳴狐たちを包んでくれる。
――神に愛された存在。
彼女の心に住まう古き神がその身を守るように、鳴狐たちも彼女を慈しみ、守りたいと思っている。穏やかな声音は常に鳴狐たちにとって住みやすい環境を作ろうと心掛け、戦に出ても極力怪我人が出ないよう頭を悩ませている。ただの『武器』として扱っているように見えて、血の流れる『肉体』のことも考えている。そうして『刀の付喪神』であることも頭に入れている彼女の傍は流れる霊力の質から考えてみても居心地がよく、いつも誰かしらが傍にいた。
だが今日は珍しく誰もいなかった。
そんな中自分が傍にいてもいいものか一瞬悩んだ鳴狐ではあったが、すぐさまその考えを打ち消し彼女の隣に腰を下ろした。そうして数度言葉を交わすうちに、何時しか政府の“お使い”もするようになったため増えた刀剣男士たちのことも気に掛けていることを知った。
いや、元々知ってはいたのだ。勝気であっても根は優しい人だ。他人が顕現させた刀であっても常に気に掛け、『少しでも心を休ませてほしい』『幸せであって欲しい』と願っている。そのために奔走することは厭わず、結果として本来の容量を超えるような無茶をする。
それが見ていられず、けれどそこが愛おしく、矛盾した気持ちに刀たちはいつも悩まされる。
それでも、やはり目が離せないのだ。闇雲に走りだす後姿を追いかけたくてたまらない。じっとしていることなど出来やしない。
小さな体一つで敵地に飛び込む無防備な命を、鳴狐たちは全身全霊で守らねばならない。
それが、鳴狐にとっては不思議な程心躍らせる。
自らの手でこの小さな命を守る。
本来は人の命を奪うために存在する刀が、人の命を守る。当然それに伴うのは血生臭いやり取りなのだが、鳴狐は己を振るうことを厭うたりしない。むしろ「あるじのためならば」と一層心に炎が灯るのだ。
戦場で感じる高揚とはまた別の、胸の奥が熱く鼓動するこの想いは一体何なのか。鳴狐は主人と肩が触れそうな傘の中で暫し考える。
けれど答えはすぐに出ず、代わりにと言ってはアレだが珍しく主人に「なにか話して欲しい」と願い出る。そんな鳴狐の唐突な我儘に嫌な顔一つせず、穏やかな声はゆっくりと、時には早く、己の素直な気持ちを乗せて言葉を紡ぐ。
朗々と紡ぐ祝詞とも、経とも違う。
何気ない一日を過ごす、主の目線から語られる小さな世界は鳴狐の心を穏やかに、けれど満ちる潮の如くとっぷりと包んでいく。
だが穏やかな時間は長くは続かず、休憩時間を終えた主は執務室へと戻ろうとする。それを“名残惜しい”と自覚するより先に体が動き、鳴狐は彼女の腕を取っていた。
「んえ? どうしたの?」
裏表どころか駆け引きですらない。キョトンとした顔と声音に鳴狐が零した言葉は、本人が頭の中で反芻するよりも早く、先程の腕同様口から零れ落ちていた。
「鳴狐も――あるじが、“好き”だ」
好き。その言葉にどんな意味が込められているのか。
鳴狐自身もまだハッキリと自覚したわけではない。それでも自身の主が、いつも明るく活気に溢れている主が、少女のように「ありがとう」と零すものだから、鳴狐の胸は途端にトクトクと音を立て始めた。
「…………鳴狐は、もっと強くなるぞ。あるじ」
グッと胸の前で握った拳の下では、今も小さな心臓が熱い音を立てていた。
終わり
まだ無自覚な感じがする鳴狐と、本当は間違ってないのにいつものように勘違いして好意スルーしてしまう水野でした。
初めて鳴さにに挑戦してみたんですが、楽しんで頂けたら嬉しいです。
ここまでお付き合いくださりありがとうございました!m(_ _)m
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