小説
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 本丸中が瘴気に支配されている――。

「はあ……はあ……」

 吐息が震える。それでも両手で持った結界札のおかげで見つからずに済んでいるようだった。

「ふぅー……」

 落ち着け。落ち着け。
 掌に滲む汗や血で汚れないよう、細心の注意を払いながら結界札を胸ポケットへと一旦仕舞う。手に持っていていざと言う時に破れたり、汗や血で印字された文字が滲んで効力がなくなってしまえば一巻の終わりだからだ。
 結界についてお師匠から教わったことは、この札が守れる範囲は私が収まる程度の――つまりは身長分と両腕を伸ばした範囲内であること。そして慌てず焦らず、心を落ち着けていれば余程の怪異でなければ防げるということだった。
 だからまずは呼吸を落ち着けることから始める。吸ってー、吐いてー。もう一度。吸ってー、吐く。もう一度。深く長く、腹式呼吸を意識する。

「ふぅ……」

 周囲は既に暗闇に包まれている。瘴気が濃すぎてもはや闇だ。生き物の気配はなく、というより瘴気が濃すぎて生命の気を感じられない。どうすればここまで“穢れる”のか。膝を抱えながらぼんやりと考える。

 そもそも“瘴気”というものはそう簡単に発生しないものだ。全ての本丸には必ず『浄化装置』というものが設置されており、それはどんな事態に見舞われようと常に稼働している。本丸内の神気を正常に保つために。というか審神者がキチンと活動していればそうお目にかかるものではないのだ。瘴気だなんて。
 だけど例えば――刀剣男士が主である審神者を呪えば。人を祟る『祟り神』に堕ちてしまったら。
 本丸内の空気は正常なものから汚染された“瘴気”へと転ずる。この場合は前者かと思われそうだが、何だか違う気がする。そりゃあハッキリと断言出来るほど経験豊富なわけじゃない。それでも、何ていうのかな。刀剣男士が作り出した瘴気というのは、言い方は悪いがもう少し澄んでいたように思う。悪堕ちしても神は神。瘴気の質も高いのだろう。でも今この本丸を包み私を閉じ込める瘴気は何と言うか……あまりにも『悪意』に満ち溢れすぎている。幾ら傷つき、汚染された刀剣男士がいようとここまで『濁り』はしないだろう。だけどこの結界を包む瘴気は黒く濁り切っている。

 ――まるで、あの審神者室から覗いていた瞳のように。

「……ッ……」

 あれは、この本丸の審神者の“成れの果て”なのだろうか。
 ミイラのように細く、水分が根こそぎなくなったかのような土気色をした指。その癖目だけは爛々と輝いて、こちらを呪い殺しそうだった。
 アイツは私を取り込もうとしているのだろうか。この瘴気に包まれた本丸と竜神様とでは相性最悪なはずだが……。正気か? いや。正気じゃないからこんな風に本丸が変わってしまったのだったか。はあ……。何ともついていない。

 っていうか、これまた皆に怒られる奴じゃん。それに薬研には悪いことしたな。
 でもここは薬研ではなく私が残るべきだと思った。いや。私がいるから“本丸ごと”閉じ込められているんだ。もし私が薬研と骨喰を置いて逃げていたら今頃どうなっていたか。昏睡状態だという刀剣男士共々喰い潰されていたかもしれない。でも現状はまだ“瘴気に包まれている”だけだ。閉じ込められただけに過ぎない。だから解決の糸口はあるはずなんだけど……どうしたもんかなぁ。いつまでこの結界が持つか分からないのに、じっと膝を抱えているだけなんてあまりにも無能だ。せめて何か出来たらいいんだけど……。
 うあー、と頭を悩ませている時だった。結界の向こう側から何者かが近づいてくる気配がする。

「……?」

 ズリ、ズリ、と、何かが這いずってくるような音がする。

 目を凝らすが、目には見えない何か――きっと瘴気を身に纏っているのだろう。蛇が這うような音を立てながら結界の周囲を探るように徘徊している。ズリズリ、ズリズリと。まるでここにいるのは分っているのだ。と言わんばかりに周囲を這い回っている。けれどはっきりとは見つけられないのだろう。
 ソイツは一通り辺りを這いずり回ったかと思うと、徐々に遠ざかっていった。今度は別の場所を探すのか、それとも“巣”に戻るのか。

 ……ふぅ。今のは、やっぱりこの本丸の審神者なのだろうか。でも、そうだとしたらアレは何なんだ? 這いずり回る音からして全長は二メートル以上あった。明らかに人間じゃない。まさか人間を捨てたのか? 見た目だけでも蛇になったとか……。
 カーッ! ダメだ。理解出来ん。何で自ら人間を辞めるんだ。私は辞めたくもないのに『人外』になってきているというのに。

「…………はあ」

 溜息をついても仕方ないとは分かっている。それでもつかずにはいられない。膝を抱えてそこに額を当て、目を閉じていると今度は別の音が聞こえてくる。
 ザリザリと、何だか足を引きずって歩いているような音だ。そしてそれは次第に大きくなり、また数も増えてくる。何が来ているのかと恐る恐る顔を上げると、瘴気の向こう。虚ろな瞳をした刀剣男士たちがフラフラと徘徊していた。
 ……操られている、のだろうか? それとも無意識に誰かを探し回っているのか?
 結界越しでは何を考えているのかが分からない。かといって丸腰な状態で近付くのは危険だ。どうしたものかと乾いた唇を舐めていると、突如目の前に一振りの刀剣男士が立ち塞がる。かと思えば、そのままゆっくりとしゃがみこんできた。

 まさか、バレた?!

 御簾越しとはいえ目を合わせるとどうなるか分からない。ハッとして視線を反らそうとすると、コンコンと指先で結界を叩いてくる。不味い不味い! 結界がバレた!
 どうにかして逃げなければ、と思うのだが、相手はかなり大きい。大太刀か、薙刀か。それとも槍か? 緊張で全身が心臓になったような心地で相手の足元に視線をやれば、キラリと何かが輝く。……こんな真っ暗な瘴気の中で……?
 疑問のあまり無意識にその光を追いかければ、抜き身の刀身と、その隣にゴーグルをつけた日本号がニッと口角を上げて笑ったのが分かった。
 ……どうしてだろう。嫌な感じはしない。
 思わず呆ければ、日本号は口元に人差し指を立てると「着いて来い」と言わんばかりに手招きしてくる。着いて行くか、行くまいか。悩んだのは一瞬だ。

 目の前に立つ日本号からは嫌な気がしない。だからふらつく体で立ち上がると、日本号はブンと自身の刀身を回して肩に担ぐ。そして再度「来い来い」と手招きしてきた。
 不思議だ。周りは瘴気に包まれて殆ど何も見えないと言うのに――実際徘徊する刀剣男士はすれ違うほど傍に来ないと存在が分からない――日本号の刀身はこの暗闇の中でも輝いて見える。
 何だか百鬼夜行みたいだ。
 そんな不可思議な光景にぼんやりと考えながら後を着いて行くと、ぼんやりと発光する何かが見える。もしやと思い近づけば、それは“浄化用護符”を張り付けたゲートだった。

 これ、と咄嗟に声を上げようと振り仰げば、すぐさま「静かに」という動作をされ慌てて口を塞ぐ。そうしてそっとゲートのパネルに触れれば、真っ暗だった画面が起動する。
 よかった! これなら帰れる!
 再度日本号を見上げれば、ゴーグルをした偉丈夫が得意げに笑う。起動したパネルに自身の本丸IDを打ち込めば、何の問題もなくゲートが発光し始める。だがそれと同時に何かが近づいてくる気配もする。日本号が背に庇うように槍を構えるが、私は胸ポケットに入れていた最後の結界札をゲートに貼りつけ、日本号のつなぎを全力で引っ張った。

「一緒に行こう!」
「は?! おまッ……!!」

 声を出したせいだろう。バカお前、と言わんばかりの顔で振り返った日本号だが、起動したゲートに足を踏み入れていたおかげだろう。近づいてきた何かに捕まるより早く、私たちはゲートの中へと吸い込まれていった。


***


 大将を置き去りにしたままゲートを潜った俺たちは、すぐさま待ち構えていた仲間たちに支えられるようにして抱き込まれた。

「薬研! 主は?! 主はどこだ!」
「しっかりせえ!」
「骨喰藤四郎? それに、うちにいない刀まで……」
「どういうこと? 薬研くん」
「薬研、戻ってばかりで悪いが、状況説明を頼む」

 長谷部や陸奥守、宗三に燭台切、そして大将の担当官である武田。勿論短刀たちも勢ぞろいしているところを見ると、出陣していた奴らも戻って来ているらしい。そして皆の背後には百花嬢の刀たちも立っており、険しい顔つきでこちらを見つめている。きっと大将がおらず、瘴気を身に纏った刀剣男士が来たことで警戒しているのだろう。
 だが彼らに戦闘の意思はない。だからこの場で唯一手当てが出来る武田に傷つき、瘴気に当てられている奴らの介抱を頼むと告げる。

「分かりました。瘴気は私たちが払いましょう」
「水野さんは毎度のことながらどうしてこうもロクでもない事件に巻き込まれるんだろうね」

 武田と共に立っていた太郎太刀と石切丸が前に出てくる。二人であればこの瘴気も祓えるだろう。だが問題は兄弟――骨喰藤四郎だ。彼は意識を失ったまま今もぐったりとしている。他の、自力でゲートを抜けた刀はあの大広間にいた奴らだけだ。それでも襲い掛かってきた瘴気と疲労で動けないのか、倒れたまま荒く息をしているだけだった。

「薬研」

 背を支えてくれていた陸奥守に名を呼ばれ、頷く。そして皆に向かい、頭を下げた。

「すまん。大将を守れなかった」
「! 薬研、貴様ッ……!」
「落ち着いて長谷部くん。連れて来た刀剣男士の状況を見てみなよ。薬研くんだって主を置いて逃げるような刀じゃない。それは僕たちが一番よく知っているじゃないか」

 掴みかかろうとした長谷部を燭台切が押し止め、フォローしてくれる。それでも頭を上げられずにいると、隣に立っていた陸奥守が力強い手で肩を掴んできた。

「薬研。顔をあげえ。燭台切の言う通りじゃ。それに主のことじゃ。薬研を逃がして自分が残ったんじゃろ」
「ああ。陸奥守の言う通りだ。大将は、俺達を逃がすためにあの本丸に残った。“必ず助けに来て”って言ってな」

 陸奥守の手の動きに合わせて顔をあげれば、皆悔しそうに顔を歪めている。そんな皆から目を背けるように、俺は大将が助けた少年を視界に入れた。

「大将が最優先で助けるべきだと判断したのはコイツだ。行方知れずとなっていた新人審神者――狭間だ」
「ひっ!」

 ビクリ、と肩を揺らした少年の目には涙が浮かんでいる。その顔は青白いというよりも土気色をしており、まずはコイツを休ませなければならないだろう。
 武田も腰を抜かしたように縮こまっている彼に気付いたらしく、ゆっくりと近づくと腰をかがめる。

「俺は水野さんの担当役員、武田だ。スレッドにも書き込んでたから分かるだろ?」
「は、はい……」
「あんたからも詳しい話を聞きたい。が、まずは休息が必要だな。すまんがコイツを一度現世に連れて行く。そこで俺も話を聞くからよ。お前たちはお前たちで話し合いをしていてくれ。だが勝手な行動はするなよ? いいな?」

 何だかんだとこの担当官との付き合いは長い。男の本丸に世話になった事も一度や二度ではないからだ。
 指揮を執ることになれた男は私情を挟んで狼狽えることも、声を上げることもない。俺達の『主』ではないが、こんな状況だ。政府役員の言葉に一先ずは頷く。

「よし。立てるか? あ? 腰抜かしただぁ? しょーがねぇな……。おい太郎! お前たちはここに残って話を聞いててくれ!」

 太郎太刀が視線だけで返事をすれば、武田は少年を背負ってゲートを潜って出ていった。

「薬研。私たちも広間に移動しましょう。ここで話すのは無粋です」
「そうだね。皆も一旦落ち着いて、百花さんの所の皆も、彼女に心配をかけたくないから口外しないで欲しいな」

 それぞれが頷く中、太郎太刀と石切丸の補佐を買って出てくれた百花嬢たちの短剣たちにこの場を任せて広場に移動する。そしてあの本丸で見たもの、感じたことを話せば多くの刀が頭を抱えた。

「あの人は全くもう……どうして単騎突入するんですかね……」
「やっぱり僕も着いて行けばよかった……主……」
「何で自分が戦う術を持たねえと分かっていながらオレたちを呼ばねえんだ、あの人は!!」
「落ち着いて、兼さん。主さんのことだからきっと『みんな忙しそうだなぁ』とか思ってただけだと思うよ」
「本当質悪ぃな。あの人」

 皆の言うことはごもっともだ。俺自身そう思ったから護衛に着いて行ったが、結果はこの様だ。皆に向ける顔がない。だがそんな中であっても陸奥守だけは主に対する文句も、俺を糾弾することもなく全員の意識を一つに纏めるように両手を叩く。

「今はそがなん言いゆー場合やない。武田からの連絡と、太郎太刀たちのお祓いが終わるのを待つべきじゃ」
「ああ。話を聞こうにもあっちの刀たちが意識を取り戻すか、あの本丸に行っていた少年が武田に話をした後じゃないと正確な情報は手に入らないからな」

 あの本丸に辿り着いた時、ずっと嫌な感じはしていた。姿の見えない誰かに見られているような、品定めでもするような……。そして、俺達の大将を『視』ようとしたあの視線。アレは、よくないものだった。
 大将の『魂』そのものを『視』ようとしていた。竜神が気づけば対処したかもしれないが、あんな濃い瘴気の中にいた大将を守るので精一杯だったはずだ。竜神が気付いているかどうか、俺達には確認のしようがない。

「それにしても……瘴気の残り香、とでもいうのでしょうか。彼らが纏うアレ、随分と酷いものですね」
「うん。鼻が曲がりそうだったよ。人間で言う所の肺が腐るというか……」
「主と一緒に見た『風の谷』みたいだよな。あの見習い審神者も、政府から配布されていた清めの塩がなけりゃあとっくの昔に死んでたぞ」
「九死に一生を得たわけだな、あの坊主は。だが引き換えに我らの主があの本丸に置いてけぼりにされてしまった。由々しき事態だ。呑気に茶も飲んでいられんな」

 宗三と燭台切が言うように、あの瘴気は肺を侵すような酷いものだ。それこそ何も持っていなければあの見習いは数分で死んでいた。そしてもう一つ、少年は首からお守りを下げていた。アレのおかげだろう。大将とはまた違った清めの力をそこから感じた。幾ら清めていようと塩だけではやり過ごすことは出来なかっただろう。それを考えるとあの見習いは強運だ。ま、巻き込まれた時点でアレではあるが。

「ともかく、お祓いが終わるまで僕たちは出撃に備えておこう」
「僕は武田さんから連絡が来てもいいように執務室にいるね」
「分かりました。小夜、気を付けるんですよ」
「うん」

 徐々に日が暮れる中、庭では未だにお祓いが続いている。幾ら大将の血を混ぜたお神酒を口にしたとはいえ、汚染はかなり進行している。亀甲と後藤、五虎退だけは直接大将の血を摂取したから他の奴らよりはマシだが、それにしても……何故兄弟だけ目が覚めないんだ? 骨喰藤四郎には何か特別な術が施されているのか? かつての三日月宗近のように。

「薬研」
「お、陸奥守」

 皆から少し休んでいろ。と指示され、俺は一人縁側に座っていた。そこに来たのは大将の代わりに小夜と一緒に書類を捌いていたはずの陸奥守だった。

「仕事はいいのか?」
「おん。後は小夜がやる言うき、任せてきた」
「そうか」

 二人並んで沈みゆく夕日と、終わらないお祓いを見つめる。陸奥守は言いたいことがあるのかないのか。よく分からない凪いだ表情で夕日を見つめている。

「……悪かった」
「過度な謝罪は必要ないぜよ」
「そうかもな。……だがそれでも、俺は――」

 ――掌から零れていく命を、今度こそ掴みたかったのに。取りこぼしたくなどなかったのに。俺は――

「薬研。気に病む必要はないぜよ。主はやりたいことをやっただけやき。おまさんらを逃すことを優先した。それだけじゃ」
「分かっちゃいるんだがな……。どうにも……ああいうのは、もう……」

 ギュッと目を閉じた時だった。お祓いが終わったのだろう。太郎太刀と石切丸の朗々と紡がれ続けてきた声が止まり、連れて来た奴らの呻き声が聞こえてくる。

「薬研、行くぜよ」
「ああ」

 連れて来たのは俺だ。彼らの話を聞く責任がある。厨にいた連中も、その手伝いをしていた奴らも気づいたのだろう。すぐに顔を出してきた。だがそれよりも――

「おい。百花嬢の刀共はそろそろ帰れ。彼女が心配するぞ」
「そうは言ってもだな、我らも彼女には世話になった身。のこのこと帰るなど……」

 返事をしたのはうちにはいない槍、蜻蛉切だ。彼は百花嬢を捜索していた時からこの本丸に顔を出している古参であり、主とも時折楽し気に話をしている一振りだった。

「うむ! 蜻蛉切殿の言う通りである! 拙僧たちの主殿を救い出し、今も尚世話になり続けている身でありながら見て見ぬ振りは出来ぬ! それこそ、我らが主に顔向け出来ぬというものよ!」

 続いて返事をしたのは山伏国広だ。彼もまた、うちとは長く付き合いのある刀だ。……これは帰れと言っても素直に帰らねえな。

「う……ぼくたちは……」
「あるじ……さま……?」

 ゲートを潜ってすぐに気を失っていた亀甲と五虎退の声がする。そして徐々に他の面子も体を起こし、不思議そうに俺たちの本丸を見回し始める。

「よぉ。気分はどうだ?」
「薬研……そうか。ぼくたちは、君たちに助けられたんだったね」

 亀甲がどこか泣きそうな顔で微笑む。そして大広間で匿っていた連中を見遣るようにして背後を振り返り、すぐに「あれ?」と声を上げた。

「日本号、日本号はどこだ?」
「え……? あれ……? 本当ですね。日本号さん、どこに行ったんでしょう……?」
「あいてて……なんだ……? 体が軽い……って、アレ? どこだここ?」

 続いて後藤が起き上がり、キョロキョロと首を巡らせる。そして俺と目が合ったかと思うと、すぐさま「あーっ!」と声を上げた。

「薬研藤四郎!」
「おう。元気だなぁ、お前は」

 起き抜け早々元気いっぱいな後藤に苦笑いするが、亀甲達の発言が気になる。言われてみれば確かに呑み取りの槍――三名槍に名を連ね、我が国の名を背負う槍の姿がどこにもない。一体どこに行ったのか。確かあの時、ゲート前には大広間で蹲っていた殆どの刀たちが避難していた。部屋に横たえていると言っていた奴らの避難は間に合わなかったのだろう。
 無理もない。自分が歩くだけで精いっぱいだった奴らが他の刀を助けに行く余裕などあるわけがない。それに本丸中が揺れていた。あれではまともに歩くことすら出来ない。彼らにとっては逃げるだけで力を使い果たしたことだろう。
 だが今は瘴気も祓われ、怪我はあるが皆軽傷だ。起き上がることも会話も出来る。それぞれが体を起こすと、改めてこちらを見つめてきた。

「君が……そうだ。君たちが、僕たちを助けてくれたんだよね?」
「……竜の気配がない……あの女は……?」
「そうだよ。僕たちを助けてくれたあの人は? どこにいるんだ?」

 燭台切に続いて大倶利伽羅と大和守が大将を探すように首を巡らせる。それに続いたのは目覚めた物吉と蛍丸だった。

「あ、れ……? ボクたちは、確か……?」
「うえ……いたたた……あれ? 俺達の本丸じゃ、ない……?」
「皆目が覚めてよかった。太郎太刀さん、石切丸さん、ありがとうございます」
「いえ。これも務めですから」
「それじゃあ私は主に報告しようかな。えーと、けいたいはどこに……」

 ぱたぱたと自分の衣服を探り出す石切丸に苦笑いする。その間にも夕日は完全に沈み、辺りは暗くなる。本丸に灯った明かりと月光だけが庭先を照らす中、突如ゲートが発光し始めた。

「おや。主が来たのでしょうか」

 だが太郎太刀がゲートに近づいた瞬間、俺達の小さな“主”と、つなぎ姿の日本号が転がるようにして飛び出してきた。

「うをああああ?!」
「おっ前なあ!!」
「主!」
「大将!!」

 大将が地面に叩きつけられるよりも早く、駆けだした俺と陸奥守が抱き留める。日本号を無視してしまったのは申し訳ないが、大将とは体の造りが違うのだ。転んだところで大した怪我にはならないだろう。

「主!」
「大将! 大丈夫か?!」
「お、おお……むっちゃん……それに薬研も……よかったぁ。帰れたぁ」

 ほにゃりと、大将を包む空気が和らぐ。それだけで、それだけで俺たちは自分の“主”が無事に帰ってきたのだと分かり、衝動のままに抱きしめる。

「よかった……! 大将……!!」
「はあ……おんしは心配かけすぎじゃあ……」
「あはは……ごめんごめん」

 前から俺が、後ろから陸奥守が抱き留める中、大将は相変わらずほんわかとした空気を纏っている。あの瘴気に満ちた本丸に取り残され不安だったはずだろうに。どうしてこの人はいつも……。

「主! 大丈夫?!」
「ちょっとあなたたち! 主の安否を確認するのが先でしょうが!」
「主! 大丈夫?! 怪我はない?!」
「主君、まずは御身の無事を確認させてください!」
「主様、お怪我はございませんか?!」

 わらわらとすぐさま集まってくる仲間たちに、主もいつもと変わらない声で「ただいまー。大丈夫だよー」と呑気に返事をしている。なんだってこう、この人はこうなんだろうな。
 そっと抱きしめていた体を離すと、倒れていた日本号も起き上がってくる。

「ったく……この嬢ちゃんは……」
「おう。日本号の旦那。あんたが俺たちの大将を助けてくれたのか?」
「助けられたのはオレたちの方だろうがよ。それに、厳密にいえばオレ達の本丸から逃げられたのはあの嬢ちゃんが持ってきた札のおかげだ。結局のところ、オレは何もしちゃいねえよ」
「そうか……。だが詳しい話を聞きたい。大将! 今話せるか?」

 本当ならば今すぐにでも休息を取ってもらいたいが、事が事だ。後回しにして問題が起きてからでは遅い。日本号の体に残る瘴気は太郎太刀が祓ってくれると言うので、俺たちは改めて帰ってきた大将と共に大広間で話をすることになった。



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