小説
- ナノ -





 水の音が聞こえる。水面や硬い岩に当たって弾けている時の音だ。その音に急かされる様にして瞼を持ち上げれば、かつて竜神様が姿を現した滝つぼの中に浮かんでいた。


『これから』


「……ここは……」

 全身の力が抜けている。澄んだ水は美しく、程よい冷たさだ。滝は轟々と音を立てているが、不思議と恐ろしさはない。アレに飲まれたら大変だろうに。浮かぶ体がそちらに近づく様子はない。まるでボートに乗って揺蕩っているかのようにぼーっと空を見上げていると、またもやいつかのように竜神様が姿を現し、こちらを見下ろしていた。

「…………」
「…………」

 互いに言葉はない。ついに食べられる時が来たのだろうか。それはつまり――実質私の『死』を意味している。だけど思い残すことは何もな――

 ――くはねえわ!! やっべえ!! 陸奥守にまだ返事してねえ!!!

 そんな未練がましい思いが脳裏に過った瞬間、竜神様が笑ったような気配を感じる。だけど「え?」と思ったのも一瞬。瞬いた次の瞬間、いつかのように見知らぬ天井を見上げていた。

「……どこだ、ここ……」

 寝そべっていた体を起こそうとして気づく。
 病衣を着ている。ということは、だ。ここはもしかしなくても……。

「病院、ですよねー……」

 周囲を見回せば一目瞭然だ。白い内壁に簡素な設備。サイドテーブルの上には花が生けられた花瓶がある。鈍い痛みを感じて視線を動かせば、腕には点滴が繋がっていた。
 うん! これは完全に病院ですね! はあ……。しっかしこれで何度目の入院だよ……。
 項垂れるが、以前のように枕元に大典太が置かれている様子はない。点滴スタンドを片手で掴み、完全に体を起こしてから床に足を下す。スリッパは出入口のところにあるみたいだ。ちょっと遠い。それに病室だから掃除も行き届いているだろう。人目もないし、いっか。と物臭な自分らしく冷たい床の上を裸足で歩き、窓辺へと近づく。レースのカーテンが引かれていたので開け放てば、目に痛いほどの晴天が広がった。

「あー……いい天気〜……」

 鍵を外し、カラカラと独特の音を立てながら窓を全開にすると風が入ってくる。少し強いが、それでもいい風だ。
 そういえば喉乾いたな。声を出した瞬間のどが引きつったのを思い出し、軽くせき込みつつ傍に置いてあったコップに冷蔵庫から取り出した水を注いで飲み干す。
 ふう。生き返った。だけどこれからどうするか。とりあえずナースコールでも押すか。そう判断してナースコールに指を掛ければ、タイミングよくドアが開いた。

「あ」

 驚くことに入ってきたのは母親だった。母はこちらを見ると見る見るうちに顔を真っ赤に染めながら眉を吊り上げ、目に涙を浮かべながら大股で近づいてくる。

「あんた! 起きたなら何で呼ばんの!!」
「ええ?! 今呼ぼうとしてたじゃん!! 見てこれナースコール!!」
「じゃあ何で立ってんの! 本当はちょっと前から起きてたでしょうが!!」
「いやいやいや! マジで数秒前! 数秒前だって!! 喉乾いたから先に水飲んでただけじゃん!!」

 起きて早々言い合いである。それでもしっかりナースコールを押せば数分もしないうちに看護婦さんが来る。心配が度を越して怒りだしていた母を二人で宥めていると、少し遅れて医者もやってきた。だけどその人は以前お世話になった杉下先生ではなかった。

「えー、私は阿刀といいます。水野さん。あなたはね、杉下先生から紹介があってこの福岡の病院に緊急搬送されたんだよ」
「へえー。福岡。……福岡?!」

 祖父母の故郷やんけ!! と驚いていると、沈静化に成功したらしい母が「そうよ」と相槌を打つ。

「武田さんから連絡が来たのよ。またあんたが“やばいことになってるから福岡の病院に搬送します”って。もうあんた本当、審神者なんて辞めなさい。命がいくつあっても足りないわよ」
「いや、流石にそういうわけにも……」

 審神者がどれだけ大変な仕事かはわかってはいても、どれほど重要な仕事であるかは未だに理解はしてくれない。そんな母に苦笑いしつつ、阿刀先生の話を聞けばどうやら榊さんからの進言があったらしい。

「何でもあなたの体を休めるには福岡が一番いい、って言うんでね。私にはよくわかりませんけど、杉下先生は有名な先生ですから。その先生がおっしゃるなら、とうちも了承した次第でね」
「はあ、そうですか」
「一時は危なかったけどね、もう数値の方は殆ど安定してますから。この後少し検査しますけど、結果がよければ退院となりますので」
「分かりました」

 どうやら点滴が終わり次第検査に入るということだった。その間に母は武田さんに連絡を取ったらしく、私が目覚めたことを喜んでいた。と伝えてきた。

「母さん。今回どれだけ寝てた?」
「一週間よ。一週間。そのうちの五日間はICUに入ってたのよ? あんた、呼吸止まってたんだから」

 ああ、やっぱり死にかけてたのか。それにしても本当、よく戻ってこられたものだ。ICUに五日間って。相当やばかったんだなぁ。

「呼吸は止まってるし心肺も停止してたし、本当にあんた、死ぬんじゃないかと思って、お母さんねえ……!」

 あ。あかん。また泣かせてしまった。折角看護婦さんが治めてくれたというのに。ぐずぐずと泣き出す母を「ごめんごめん」と謝りながら慰める。でも、私以外の審神者はどうなったんだろうか。百花さんや日向陽さん、名前を聞きそびれてしまったけど他の三人も。みんな無事だといいんだが。
 母の背を摩りつつ、愚痴のような心配のようなお小言のような話をひたすらに拝聴する。すると様子を見に看護婦さんが来たので母を任せ、点滴が終わった後検査を受けに病室を出た。

 そして数日の入院を経て数値も安定し、何の問題がないことが分かると退院となった。

「はあー……外最高ーーーーッ!!!」

 イエーイ!! と両手を挙げて万歳のポーズを取れば、私たちが心配でわざわざ迎えに来てくれた父が呆れた顔をする。

「お前なぁ。どれだけ父さんと母さんが心配したか、本当に分かってるか?」
「分かってるって。あ。あのさぁ、帰る前にじいちゃんとばあちゃんの墓参りに行きたいんだけど」
「ああ、そうか。ついでだし行くか。それじゃあ父さんたちも行くから、ちょっと待ってなさい」
「はーい」

 この病院は生憎と政府管轄ではない。だから刀剣男士である刀たちを連れてくることは出来なかった。それでも武田さんにメールを飛ばせば彼の本丸で元気にやっているそうなので、一先ずは安心だ。武田さんには退院することを告げている。ただすぐには戻れないから、詳しい日時はまた後日連絡することにしていた。

「おーい。行くぞー」
「はーい」

 レンタルした車に乗り込み、家族揃ってお墓へと向かう。道中近所の花屋でお供え用の花を購入し、スーパーで線香やお菓子なども買っておく。そうして辿り着いた山の麓にある駐車場に車を止め、約半年ぶりに祖父母の墓の前へと立った。

「じいちゃん、ばあちゃん。久しぶり」
「本当久しぶりねぇ。半年前にあんたが来たっきりだっけ」
「そうそう」

 あの時は一人だったけど、今日は両親も一緒だ。改めて三人で墓を掃除し、水をかけ、花を供え、線香に火をつけて手を合わす。
 今回も竜神様にはかなりお世話になった。そして改めて命を捧げた祖母のことを思う。それからそんな祖母を受け入れ、私を愛してくれた祖父のことも。
 気づけばずいぶんと長い間手を合わせていたらしい。両親はずっとそんな私を不思議そうに見下ろしていた。

「あんたおばあちゃんのこと覚えてないでしょ」
「覚えてないけど、だからって適当に手を合わせるつもりはないよ。あ、待って。帰る前にもう一ケ所行きたいところがあるんだけど」

 どこかと聞かれたら答えは一つ。竜神様の祠だ。宝玉が祀られているという、祖父母が、ご先祖様たちが守り続けてきた竜神様のお家。お礼参りに行かなければ罰が当たるというものだ。
 だけど両親は山の中に用があるとは思っていなかったらしい。さっさと歩きだした私に「どこへ行くの!」と慌てて声を掛けながら着いてきた。いっけね。そういえば両親は私の中に竜神様がいることを知らないんだった。だけど話したところで信じては貰えないだろう。だから細かいことは端折りつつも説明しながら歩く。

「ふぅーん。祠ねぇ……」
「知らない? 小さい時兄ちゃんと一緒によくお参りに行ってたんだよ」
「あー、そういえば。お母さんも小さい時おばあちゃんに連れて行かれたわ」
「ほらー」
「中学卒業したぐらいから行かなくなったけど」
「おいー! 罰当たりめーッ!!」

 くだらない会話をしていたが、いざ祠の前に着くと母は「あれ?」と声を上げる。

「祠、こんなに小さかったかしら」
「ずいぶんボロボロだなぁ。今にも壊れそうだ」
「古いから壊さないよう気を付けてね」

 先ほどと同じように、そして半年前と同じように。祠の周りを綺麗にしていく。邪魔な雑草は父が刈り取ってくれたので、母と二人で祠の屋根や扉を拭いた。それからお菓子をお供えし、三人で手を合わせる。

 今回は本当、前回に引き続き本ッッッ当にありがとうございました。竜神様がいなければ今頃とっくに死んでいました。あと百花さんの浄化する能力がなければやっぱり死んでいました。沢山のご縁と幸運に感謝しております。今後とも何卒、よろしくお願いいたします。
 改めて深々と頭を下げていると、母親が「そういえば」と手を打つ。

「この先に滝があったのよ。お父さん覚えてる?」
「え? 滝?」
「そうよ。滝よぉ。一緒に見に行ったじゃない」
「えー……そうだっけ?」

 割とぼんやりしている父のことだ。母とのデートもあまり覚えていないのだろう。案の定首を傾ける父に母は「もう!」と肩を怒らせたが、すぐに古い記憶を掘り起こすようにして視線を上げる。

「えーと、確かこの奥に細い道があったような……ああ、あった。こっちよこっち! ほら! 来んね!」
「母さん福岡の言葉が出てきてるなぁ」
「生まれ故郷だからしょうがないよ」
「だなぁ」

 母に手招きされるがまま山道を進んでいると、徐々に水の音が聞こえてくる。……あれ? この音、もしかして……。

「あ! あった! ほらアレ!」
「あー。思い出した。そうだそうだ。お前あそこに一回落ちたんだよ」
「え?! 私?! 落ちたの?! あそこに?!」

 父親が指さしたのはなんと滝つぼだ。だけどそこを覗いてハッとする。これ、竜神様が出てきた滝と同じ場所だ……!

「今は立ち入り禁止になってるけど、あんたが小さい時はまだロープが張られてなかったのよ。それでも危ないから、って近づけさせなかったんだけど、被ってた帽子が風に飛ばされちゃってね。あ! って思った時にはもうあんたが飛び出しててさ。“はあ〜! もうやめて〜! 流されたらどうすると〜!”って思ってたら案の定水にドボンよ。昔っから本当、目が離せんかったわ」
「でも不思議なことに怪我はなくてね。割と岩もゴツゴツしてたのに、水に浮いて笑ってたよ」

 あー……多分それ、アレじゃないかな。当時から竜神様が守ってくれてたってことじゃないかな。うーわー……そんな物心つく前から迷惑かけてたとか……本当笑えんわ……。
 片手で顔を覆って間にも両親は「懐かしい」と笑いながら当時のことを話している。いや、いいんだけどね? 夫婦仲がいいってことは。別に。ええ。
 そんな二人を隅に置きつつ、改めて滝を見上げる。うん。どう見ても竜神様が出てきた滝と同じ場所だ。滝つぼも全く同じ。そういえば、目が覚めた時もあそこに浮かんでいた。覚えていなかっただけで竜神様と私にとっては縁が深い場所なんだろうな。
 轟々と鳴り響く水の音を聞いているとなんだか体が清められていく気がする。改めてほーっ。と息をついていると、背後から勢いよく風が吹き上げた。

「ひゃあ?!」
「うわっ!」
「危なッ!」

 思わず足元がふらつくほどの強い風だった。驚く両親と共に近場のロープと木に手をかけてバランスを保つが、なんということでしょう。私のポケットからハンカチが落ちてしまったではありませんか。
 何ッッッでやねん!!!!

「あー! あんたもうしっかりしなさいよ! 幾つだと思ってんの?!」
「うわー。まるであの日の再現だ」
「ごめんって!! でも悪気があったわけじゃないから!」
「当たり前ったい!!!」

 母に激怒されつつ、どうしようかと悩む。現在はロープが張られている場所だ。入るのは憚られる。でもあのハンカチをそのままにしておくのはもっと忍びない。不法投棄みたいじゃない? それに割と気に入ってるからこのまま見送るのも辛いし……。

「あーあ。どうすんの。アレあんたのお気に入りじゃなかった?」
「諦めて新しいの買えばいいだろ。ほら、もう帰るぞ」

 父はそう言うけど、やっぱりこのままにして帰るのは嫌だ。どうせ後悔するなら管理の人に怒られて後悔する方がいい。私は両親の言葉を無視してとロープを潜り、石で出来た階段を下りる。
 よい子は絶対にマネしないでね!!

「コラ! 戻って来なさい!」
「ちょっと! 本当にあの日と同じじゃない! お父さん早く迎えに行って!」
「大丈夫だって! そこで待っててー!」

 二人をこちらに来させる方が危ない。それにハンカチだってまだ浅瀬にある。このまま中心部まで流されたら諦めるが、あそこならまだ手を伸ばせば、あるいは木の枝でも使えば引き寄せることが出来る。濡れた岩で滑らないよう注意しながらゆっくりと進み、そっとしゃがんで腕を伸ばす。

「気を付けて! 本当に気を付けろよ?!」
「ああぁあぁぁぁあ〜……!」

 両親の心配する声をBGMに腕を伸ばし、必死に指を上下させる。あと少し、もうちょい……!! ええい! 伸びろ私の腕! ほら、ゴムゴムのー! って感じで!!

「よしっ! 取れた!! って、うわあ?!」

 限界まで水辺に近づき、ぶんぶんと腕を振っていたのが仇になったのか。ものの見事に濡れた岩で足を滑らせ、滝つぼにダイブする。

 ――でも、おかしい。ここは浅瀬で岩場だった。だから本来なら体を打ち付けて終わりなのに、何故か水の中にいる。

「ごばぼぶべっ」

 あ、ダメだ。息できない。慌てて口元を塞げば、クツクツと笑う声がする。いや、空気の振動――か? 瞬けば、白い靄掛かった世界が広がっていた。この光景は――。

「竜神、様」

 ちゃぷん。と水の揺れる音がする。それから思い出したようにゴボゴボと水中に深く潜っていく音も。空を仰ぐようにして首を上げれば、水面がキラキラと輝いているのが分かった。そこで気づく。さっきは息が出来なかったのに、今は出来る。それに気づけば私の手には濡れたハンカチが握られていた。
 どこかぼんやりとした気持ちで竜神様が泳いでいるのを感じていると、その立派な体躯は私を飲み込んだまま滝を昇っていく。

「うわっ、うわわわっ!」

 ものすごい勢いで水飛沫が上がる。竜神様の体を激しく水が叩いていく。だけど竜神様はそれが心地よいかのように機嫌よさげに滝を昇り、それから天へと駆け上がった。

「うわぁ……!」

 ほんの僅かな浮遊感を感じながら、竜神様と共に空へと駆け上がっていく。驚いている間にも竜神様はそのまま長い体をゆらゆらと揺らしながら、散歩を楽しむようにして空を飛ぶ。

「すごい……山を見下ろしてる」

 目下に広がるのは山々だ。木々が風にざわめく姿もよく見える。でも、どうして竜神様は私を連れだしたのだろうか。分からずに見上げるが、相変わらず私の耳は竜神様の言葉を拾うことはない。だけどなんだか楽しんでいることだけはなんとなくだけど伝わってきた。それなら、もうこれでいいのかもしれない。竜神様が楽しんでいるのであればこれは楽しむことで、喜ばしいことなのだ。だから私も楽しむことにした。もう二度と見られないであろう、祖父母が愛し、かつてのご先祖様たちが愛し、守ってきたこの土地を。

「…………あ」

 気が付けばあの滝つぼに戻っていた。見下ろせば服は濡れていない。ハンカチも、少ししっとりとしているがほとんど乾いているような状態だった。周囲を見回しても竜神様の姿はどこにもない。だけど両親は相変わらず上にいて、こちらを心配そうに見下ろしていた。

「大丈夫ー?! とれたー?!」
「うん! とれたー!」

 ハンカチを振ればほっとしたように二人が息を吐く。その姿に苦笑いしつつ、しゃがんでいた体を起こす。

「――ありがとうございます。竜神様。楽しかったです」

 竜神様のお腹の中から山を見下ろすなんて、きっとこれから先訪れないだろうし。他の誰をもが体験できるようなことじゃない。それに、きっとあの空中散歩中は時が止まっていたのだろう。でないと両親がこんな風にケロリとしているわけがないのだから。

「もー、小さい頃みたいに落ちたらどうしようかと思ったわよ」
「病院帰りだから着替えはあるけど、今度からは気を付けるように」
「はーい」

 だから、これは秘密にしておこう。私と竜神様だけの、二人だけの秘密だ。
 そう心中で決めると、再び風が吹く。今度は優しく、まるで頭を撫でるようにそれは前髪を揺らし、再び空へと昇って行った。




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