小説
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 ポタポタと雫が落ちる。切り裂かれた傷口は深く、歩いてきた道筋には点々とそれが散っている。全く、損な役割だ。

「はあ、ぐッ! ツぅ……」

 どうにか逃げおおせた部屋の隅。自らの刀身を抱いて一息つく。扉の前では幼い主が立っている。手に毬を持ち、美しい着物を着た幼子は、人形のような目でこちらを見つめている。

「……やはり、俺ではこれが限界か……」

 ゴン。と後頭部を壁に押し当てる。所詮は刀。俺が創造出来るものなどたかが知れている。過去に己が見たものを再現するのが精々だ。人間のように、この手で新しく何かを創り出すことは出来ない。何故なら俺も彼らの手によって作り上げられた創造物だからだ。幾らこの鋼の身に魂が宿ろうとも、長く残って神格化されようとも、人の手から生み出された俺達には限界がある。それが、よく分かった。

「主よ……俺の声がまだ届くなら、こちらに来てはくれんか」

 幼女はただそこに立っている。ガラス玉のような瞳を動かさず、瞬き一つせず。ぜんまい仕掛けのからくり人形のように、もはや彼女は動かない。

「……そうか……そなたも、もう無理か……」

 その言葉を待っていたかのように、幼女の姿をした泥は原型を残さず崩れ落ちる。
 分かっていた。どうせこの“理想郷”も長くはもたないと。どれほど強がっても所詮は紛い物。主が本当に作り上げようとした理想郷には遠く、何もかもが足りなかった。力も、養分も。
 持って精々二、三日。その程度の“理想郷”だったのだ。それでも永遠と続く世界だと思い込もうとした。思い込ませようとした。この世界に取り込んだ審神者を全て溶かして養分にすれば、あと数日でも、ほんの数日でも、俺と主との蜜月が延ばせると思って。だが、それももう泡沫の夢。狂ったように見せかけても所詮は『付喪神』。どれほど人を愛せど真の永遠には遠いように、心の底から狂うには理性が残りすぎた。だからせめて、主を救いたかった。主にとってこの世は文字通り『地獄』だった。主の心臓を貫き、この幼い姿を作り上げる時。垣間見た主の記憶や思考は人の身が背負うにはあまりにもつらいものだと感じた。

 だから、殺したことに関して罪の意識はない。むしろこれで少しは解放されたのではないかとすら考えている。

 ……いや。そう思いたいだけなのだ。自分がこの手で殺した主人を、彼女の気持ちを、都合よく改変しようとしている。

「うっ、ふ、う……はあ……ああ……“母”よ。我が呪われし“妻”よ。そなたの体も既に朽ち滅びようとしている。腐った臓物が崩れ落ちるように、この世界が壊れようとしている。痛いか? 痛いであろうな。話すことは出来ずとも、そなたにも意思はある。正常に戻ったか、それともまだ怒り狂っているのか……。怒り狂うとすれば、きっと今は俺に怒っていることだろう。我が子を奪い、自らの体を内側から破壊する要因となったこの俺を。怨むなら怨め。その気持ちごと抱えて地獄に堕ちよう」

 痛みが全身を支配する。呼吸をすることすら辛い。それでもまだ、俺にはやらねばならぬことがある。

「ッ、せめて、主の、体だけでも……!」

 傷ついた刀身で体を支え、転がるようにして前へと進む。そうして奥へ奥へと進めば、この手で刺した主の体を横たえている部屋へと辿り着いた。

「“母”よ。そなたが真に“母”ならば、どうか我が子を助けたまえ。そなたの“子”はここにいる。ここで“夢”を見ている。目覚めの時はすぐそこだ。共に堕ちるならば、“父”であり“夫”である俺とだけにしろ」

 冷たくなった彼女の体を両腕で抱き上げ、それからぎゅっと抱きしめる。冷たい体だ。もっと、生きている内にこの身に触れることが出来ていたなら――俺たちの結末は、少しは変わったのだろうか。

「なあ? 燭台切よ」

 部屋の前に立っていたのは、あの母体の中で血の海に溶かされたはずの“燭台切光忠”だった。彼の全身は穢れた血に塗れ酷い汚臭を放っている。それでも、今の復讐鬼になり果てた燭台切には関係ないのだろう。生前の、というのもおかしな話だが、俺の知る綺麗好きだった燭台切からでは考えられないほどその姿は酷いものだった。

「オマエ……オマエノセイデ……アルジ、アルジハ……」
「ああ、そうだ。俺のせいだ。全て俺が悪い。だが、お前も悪だ。主の手足となり、他所の本丸を穢したそなたも同等の罰を受けねばなるまい。俺とお前は同じ穴の狢だ」
「オマエ、オマエ、オマエノセイデェエエエエ!!!」

 もはや心も体も壊れてしまった、穢されてしまった燭台切に言葉が届いたかどうかは分からない。それでも振り下ろされた刀は相も変わらず美しく、全く因果なものよな。と、思わず笑ってしまった。


***


 長谷部に彼女を任せた後、私は今剣と一緒にあの部屋へと訪れていた。

「みずのさま……」
「大丈夫。行くよ」

 今回は誰も連れてきていない。だって誰が相手でも彼女は動かない。動かされない。だから、怖いけど。私は、私が、真正面から向き合って勝負するしかないのだ。
 以前開けた時とは違い、今度は堂々と障子に手をかける。彼女はやはり中にいた。相変わらず何も纏っていない姿だったけど、その体には泥のようなものが纏わりついている。

「あら。来たの」
「はい。来ました」
「そう。てっきりこのまま帰るのかと思っていたわ」
「それは、流石に出来ませんから」

 今剣は表で待ってもらっている。だから私だけが中に入った。彼女の、完成された世界の中に。

「彼らね、溶けちゃったの。見て。ドロドロ。これじゃあ抱き合えないわ」
「……怖くは、なかったんですか?」
「あら、どうして? 刀を向けられたのならともかく、彼らは“溶けた”だけ。何も怖がることなんてないわ」

 彼女は、きっと失うことに慣れている。だから心が動かされない。動かされるほどその心を傾けてはいないから。

「この世界から出たいと思いますか?」
「うーん……。どうかしら。前のままだったら出たくなかったけど、誰とも抱き合えない世界に興味はないわ」
「……あなたにとって、世界とは何ですか?」

 振り返る姿は美しい。だけど、その美しさは『虚ろ』から出来ている。壊れた心を満たすものが何なのか。彼女にとって“世界”とは何なのか。私は、知らなければいけない。

「うーん……そうねぇ……。世界、ねぇ……。現実的な話、ではないのよね?」
「はい。心、のようなものでしょうか」
「そう。そうよね。私にとっての世界……。あまり考えたことはないけれど、そうね。あなた、ご家族はいらっしゃる?」
「え? はい。いますが……」

 私の家族に何か関係があるのだろうか? 分からないけど素直に頷けば、彼女は「そう」と言って微笑む。

「お父さんはどんな方? お母さんは?」
「父は、穏やかな人で、母はたまに口うるさいですし、時に心配性ですけど、愛情深い人です」
「そう……。じゃあ愛されて育てられてきたのね」
「はい。自分でもそう思います」

 両親だけじゃない。亡くなった祖父母も兄夫婦も、皆いい人だ。私が以前事件に巻き込まれた時には心から心配してくれた。励ましてくれた。数少ない友人だって長年付き合いがあるから気心が知れている。審神者になってから面倒な事件に巻き込まれることもあったけど、基本的に順風満帆な、平々凡々とした人生を歩んできていると思う。
 彼女はそれを聞くと暫し呆っとした様子で虚空を見つめ、それから口元にうっすらと笑みを曳いてこちらへと視線を戻す。

「そう。うらやましいわ。私はね、父親に虐待されていたの」
「! そ、れは……」
「ぶたれるのは日常茶飯事。母もそうだった。毎日酔っ払った父親に殴られ、蹴られ、髪をつかまれて投げ飛ばされた。今思うとよく生きていたものだと思うわ」

 彼女は体ごと振り返ると、その美しい裸体を惜しげもなく晒す。目のやり場に困るけど、あえて顔を逸らさなかった。内心、かなりドキドキはしているけれど。

「母は病院送りになり、最終的には行方が分からなくなった。父親もそう。どこに行ったのか……。未だに分からない」
「……捜索願は」
「出してないわ。別に、今更会ったところで話すことなんて何もないもの。どうせ父親からは“売女”だの何だのと罵られて押し倒されて犯されるか、貯金していたお金を全部出せ。って脅されるか。どちらかよ。まぁ、両方の可能性もあるけど」
「そんな……!」

 実の娘にそこまで、と思うけど、彼女はただ笑う。何も知らない、愛されて育った私には分からない世界を生きてきた彼女からしてみると、私の考えは“白馬に乗った王子様”を夢見る少女のように見えたらしかった。驚く私を見て心底おかしそうに笑う。

「うらやましい。本当にうらやましいわ。あなた、私にないものをたくさん持っている」
「そんなこと、」
「あるわ。あるわよ。帰る家があって、そこにはご両親もいて。夜には晩御飯が出てくるんでしょう? 朝には朝ごはんが出てくるんでしょう? お昼は一緒にランチに行くの? 夢みたいだわ。私にもそんな過去があればよかったのに」

 彼女の指が伸ばされる。そのほっそりとした美しい指先には真っ赤なネイルが施されている。彼女は私の胸に触れると、そのままその細い指で鷲掴んできた。

「ねえ、あなたはこの中に何を持っているの? どうしてそんなに恵まれているの? 私はよく容姿を褒められるけど、中身は空っぽなの。何を入れても底から抜けていくのよ。誰と抱き合っても一緒。体は気持ちよくても終われば全部泡のように流れて消えていくの。ああ、そう。泡といえばお風呂もそうよ。子供のときはまともにお風呂が入れなかったから雑巾で顔を拭かれたわ。夏は汗臭いと言われて頭から水をかけられたわ。養護施設に預けられてからはお風呂にも入れるようになったけど、寄ってくるのは体目当ての男ばかり。女の子には嫌われ続けたわ。ねえ、あなた友達はいる? 女の子のお友達。私にはいなかったわ。キャバクラで働いていたときもそう。表ではキラキラしていても裏ではろくなものじゃなかった。こんな私はかわいそう?」

 彼女の手が私の体をまさぐる。服の上から遠慮なく。だけど、何でだろう。その手を跳ねのけることは出来なかった。むしろその逆で、寂しい人だと、思ってしまった。

「こんな風にふくよかな女性を好む人も多かったわ。私たちが必死にご飯を食べるのを我慢する横で、彼女たちはおいしそうにたくさん食べてた。ねえ。あなた好きな食べ物はなに? 彼女たちはよくピザを食べていたわ。おいしいわよね。ピザ。私も好きよ。でも月に一回が限度。それ以上は太るのが怖くて食べられなかった」

 彼女は私の体にもたれるようにしてしな垂れかかってくる。その目も体も、本当によく出来た人形のように虚ろだった。

「デザートにはプリンを食べて、おやつにはケーキを食べて。ドーナツもおかしも、たくさん食べてニコニコ笑っていたわ。入る服がないって悲しいことなのに、彼女たち笑っていたわ。ねえ、あれ、ムリして笑っていたの? それとも本当に単なる笑い話だったの? 私わからないの。だってお友達なんて一人もいなかったから」

 それは、人によって違うと思う。確かに可愛い服はMサイズが多いから私みたいなドスコイ体型では着ることが出来ない。でも最近では大きいサイズも増えてきたし、それ専用のお店もある。嘆いていたわけじゃなく、単なる笑い話だったのかもしれない。だけど中には本当に、痩せたくても痩せられなくて、本当は苦しいけど敢えて笑い話にして心の安寧を図っている人もいたのかもしれない。私自身まだ着られるサイズの服があるからそこまで嘆いているわけじゃないけど、やっぱり細い手足やくびれた腰は羨ましいな。と思う。思うというか、まぁ、自業自得なんだけどさ。劣等感みたいなものを抱くのは、しょうがないだろう。だったら努力しろよ。って話なんだけどさ。

「ねえ、愛されるってどんな感じ? どんな気持ち? 抱き合っているときの幸せがずっと続くの? 抱き合っているときは幸せよ。私しか見ていないもの。でもそれ以外の時間は? ねえ、あなた誰かを愛したことがある? 恋ってどんなものかしら。私分からないの。ねえ、教えて? あなたの中身、私に教えて?」

 何だろう。この人は。まるで心だけ子供のまま体だけが成長してしまったみたいだ。彼女は私の体をまさぐっていた手を止めると、そのまま腰に回して抱き着いてくる。
 ……本当に子供みたいだ。

「……逆に聞きますけど、今こうして私に抱き着いて、何か感じるものはありますか?」
「感じる……? いいえ。特に気持ちよくはないけど」
「あ、いえ、そういう意味じゃなくて。こう、心がぽかぽかしたり、安心したり、なんかそういう、あったかい気持ちです」

 自分的にはこの表現で合ってると思ったんだけど、彼女には全然響いていないみたいだった。きょとんとした顔を向けられる。

「あったかいって、どういう風にそう感じるの?」
「え?」
「あたたかい食べ物は知っているわ。飲み物を飲んだ時、おなかの中が熱くなるでしょ? でも、“心”ってここにあるの? 本当に?」

 彼女は自分の胸と、私の胸、両方に手を当てる。うーん。その問いに答えるのは少し難しいな……。

「そうですねぇ……。“心”がどこにあるのか、と聞かれたら、これは結構難しいですね」
「あら、そうなの?」
「はい。昔から心は“心臓”にあるとか“脳みそ”にあるとか、人によって解釈は色々なんです」
「まあ。脳、頭の中に心があるの? おもしろいわね」

 人間のあらゆる情報を司るのが“脳”だから、一説にはそういう話もある。だけど未だ正確な定義はない。だからこれも個人によって異なる。

「じゃああなたは? あなたはどこに心があると思っているの?」
「私は普通にここですかね。心臓。ここにあると思います」

 辛いこと、悲しいことがあると掴まれたように痛くなる。嬉しいこと、楽しいことがあるとあたたかなものが溢れてくるような気持になる。それを伝えれば、彼女は「ふぅん」と興味があるのかないのかよくわからない声で頷く。

「そう。でもやっぱりよく分からないわ。愛って何なのかしら。体の相性がいいことは愛ではないのかしら」
「それも一つは愛のカタチだとは思いますよ。だって、数字や文字と違って愛に形はありませんから」

 人によっては丸いだろうし、人によっては四角いかもしれない。あるいはその人の形なのかもしれない。ハート形かもしれない。じゃあ私は? と聞かれたら困るけど、きっと、愛はたくさん形があっていいんだと思う。その時その時で形が変わって、ずっと変化し続けるものでいいんだと思う。
 私は彼女の人形のような、それでいてしっかりと生きている人間だとわかる肌に触れると、泥で汚れていない衣服を手繰り寄せ、彼女の肩にかける。

「分からないならこれから知っていけばいいんじゃないですかね。最初はうまくいかなくても、十年後ぐらいには『愛とは何か』が分かっているかもしれませんよ?」
「十年もかかるの?」
「さあ。それはあなたの努力次第です。理解しようと努力すればもっと早く理解できるかもしれないし、努力しても難しいかもしれない。周りに誰を置いて、どんな風に過ごすか。大事なのはそこだと思いますよ」
「……そう。でも、ムリよ。私、お友達いないもの。私のそばにいてくれる人なんて、誰もいないわ」

 俯く彼女の白い頬に、まつ毛の影が出来る。……この人は、体だけが先に行ってしまったんだな。心を置いて。だったら、迎えに行けばいい。心がない体の手は、私が引けばいい。

「じゃあ、うちに来ます? 私実家暮らしじゃないんで本丸での生活になりますけど。この間まで研修生預かってたから、あなた一人増えたところでどうってことないですよ」
「え。でも……いいの?」

 こちらを見上げる瞳は子供みたいだ。それに、その顔はこの世界で見た中で一番人間らしい、戸惑いだとか、ほんの少しの期待だとか、そんなのが滲んだ、まさに“人そのものだ”と言えるような顔だった。

「いいですよ。だからまずはここから出ないと。さ、立てますか?」

 腕を伸ばせば、先ほどまで散々人の体を弄ってきた人とは思えないほどゆっくりとした動作で手を伸ばしてくる。怖いのかな。別に噛みついたり乱暴にするつもりはないんだけど。だから自分から掴みに行った。だってほら、もうあんまり時間も残されてないし。だから彼女の腕をしっかり掴んで、そのままもう片方の手も使って彼女を引き上げれば、とても驚いた顔をされた。

「さ! 早く服を着て! さっさとこんなとこ出ますよ!」
「え、ええ……」

 脱ぎ散らかしていた服は皺が寄っていたけど、アイロンをかければこんなのすぐに元通りになる。彼女の肌に纏わりついていた泥は乾いていたから手や服の袖を使って落とした。

「あ、そうだ。お名前。聞いてなかったですね」

 すごい今更なことに気づいて問いかければ、彼女は戸惑ったように口を動かす。どうやら本名を名乗るか審神者名を名乗るか迷っているようだった。

「私は“水野”です。審神者名ですけど。本名も言いましょうか?」

 私にとって本名を教えることはさして重要なことではない。勿論刀剣男士に聞かれるとちょっと規則違反的な扱いになって不味いのだが、彼女は首を横に振ると、驚くことを口にした。

「その、覚えてないの。私、名前なんて考えずにつけたから……」
「あらー……まさかのパターン。うーん……。そうですねぇ。じゃあ、もう今からは自分が名乗りたい名前を名乗っちゃえばいいんじゃないですか?」
「なのりたい、名前?」
「はい。例えば理想の自分にちょっとでも近づくために、憧れの有名人の名前と一緒にするとか、同じ読み方だけど字だけは違うとか」

 それでも彼女は戸惑っているようだった。もしかしたらそういう“希望”とか“理想”とかも抱いたことがないのかもしれない。でも名前がないと困る。それにもうそろそろ出ないとまずい。だったらもういっそのこと私がつけるか。

「じゃあ、私がつけていいですか?」
「え?」
「名前。だって名前がないとあなたのこと呼べないじゃないですか。折角お友達になれたのに」

 名前を呼び合わない友達なんて変だ。勿論愛称とかならまた別だけど、愛称をつけるにしてもまだ私たちはお互いのことを全く知らない。だからまずは名前からだろう。

「つけてくれるの……?」
「はい! いいですよ!」

 彼女の手を引き、薄暗い部屋の中から出る。彼女は裸足だったけど、外に出た瞬間綺麗な赤いヒールの靴が彼女の足を彩った。

「じゃあ、“日向陽(ひなた)”で! 日に向かう、太陽に向かって進む、今度から明るい世界で生きていく、そんな意味を込めて!」

 人生は、辛いこと半分、嬉しいことが半分だというのなら、今までの彼女はきっと『辛いこと』の連続だったはずだから――。

「これからは陰ばかりじゃなくて、あったかくて明るい日向を歩きましょう。そうしたらきっと、もっとたくさん色んなことに気づけますよ」

 例えば雲一つとっても色んな名前があることとか。きっと彼女は知らないだろう。例えば台風が来る前兆だとか、雨が降る前とか。雲の形だけでわかると知ったらどんな顔をするだろうか。雨にも名前がたくさんついている。時期や降り方によっても名前が変わること、その名前が幾つもあること。きっと知らないと思うから。

「ひなた……」
「はい。あったかくて、いい名前でしょう? お布団とか干したら気持ちよさそうで、きっとぐっすり眠れますよ」

 まぁそれは半分冗談なんだけど。今剣も私たちの会話を外で聞いていたのだろう。呆然としたように瞬く彼女を見上げ、笑顔を向けた。

「はじめまして、ひなたさま! ぼくは今剣! さあ、ここからでましょう!」

 私が握っていた方の手とは反対の手を今剣が握ってくれる。彼女はぼんやりと交互に握られた手を見た後、私の顔をじっと見つめた。

「あなた、変な子ね」
「よく言われます」
「……そう。じゃあ、あなた、今度から私の“変な子”を判定する基準になるわね」
「んー、それはやめておいた方がいいような……」

 どっちかって言うと私は“変な子”枠より“テンションおかしい”枠なんだけど……。それに“子”って言われるほど若くもないんだけど……まぁいいか。
 彼女は呆っとこちらを見ていたが、歩き出すと次第に意識を取り戻したかのように握った手を揺らしだす。

「……水野、さん?」
「はい」
「私ね、小さいとき、こうして両親に手を握ってもらうことが夢だったの。今、どうしてかはわからないけど、突然思い出したの」

 私と今剣は視線を合わせると、彼女が驚くほど大きくその手を揺らした。

「じゃあ今からすればいいじゃないですか。生憎ご両親ではないですけど。出来なかったことはこれから叶えていけばいいんです」
「で、でも、」
「許可証なんていらないですよ。犯罪じゃなければやりたいことはやっていきましょう。ランチに行きたいなら行けばいいんです。一緒に行きましょう。旅行に行きたかったら行けばいいんです。ただしご利用は計画的に。プランと金額と日時をしっかり検討したうえで楽しめば、それでいいんです」
「……してもいいの?」

 彼女は子供だ。心を置いてきぼりにしてきてしまった、体だけが育ってしまった大人。だから、一緒に迎えに行こう。彼女が“そうして欲しい”と口にするのなら、拒む理由なんてどこにもないんだから。

「当り前じゃないですか。日向陽さんの人生は日向陽さんのものなんだから」

 食べたいものがあれば食べたらいいし、行きたい場所があるなら行けばいい。お金と時間が許す限りで、にはなるけど。心配なら相談すればいい。私でも、専用の窓口でも。今はそれが許されるんだから。

「……そう。じゃあ、私――……」

 日向陽さんはゆらゆらと揺れる手を見下ろし、それから今度は自分の意志で、強く大きく、その両手を振るった。
 自分がずっとしたかったことを、口にしながら。




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