6
どうにかして助けを求めなければ。僕は部屋を飛び出した後一階へと向かって階段を駆け降りた。この世界に残る僅かな破片を、水野様に繋がる可能性を探すために。だけど階段を下りた僕の前に、一人の刀が立ち塞がった。
「どこへ行くつもりだ? 今剣」
「三日月、宗近……!」
この男はこの『誤った理想郷』の主人だ。この世界が『母』の体ならば、彼は『父』に当たる。そんな男に対し、既に死した僕には対抗する術がない。
「そこをどいてください。みずのさまを、おたすけせねばならないのです」
「ふむ……。そうか。やはりあの女子は何も出来ずに終わったか」
「そんなことはありません! みずのさまをぶじょくしないでください!」
僕を見つけてくれた。どんなに大変でも、決して歩みを止めなかった。そんな水野様に報いるためにも、僕が立ち止まるわけにはいかない。
だけど敵対心を露にする僕に対し、三日月はどこまでも余裕のある笑みを浮かべる。
「ははっ。子犬のように吠えるでない。何、俺は決しってアレをバカにしたわけではない。よくやった方だ。人間の女にしては」
「……どうきいてもぶじょくしているようにしかきこえませんが」
「ふふ、そうだな。それでも確かに、認めてもいるし、腹に据えかねているのも事実だ。俺と主を結んでくれたことには感謝しているがな。だがアレは厄介な女だ。これ以上野放しにしておくと大きなしっぺ返しを食らう。分かるだろう? あの女の体に巣食う、竜の姿をした神だ。アレには勝てぬ。だからアレが目覚めるより早く、あの女を始末する必要があった」
「まさか、あの“ち”は……」
僕たちを飲み込んだ、あの大量の血潮。あれに呑まれて以来僕たちは竜神の姿を見ていない。もしもあの“血”が穢れによって出来たものであったとしたら、竜神様とてただでは済まない。
「そのまさか、だ。アレは、あの血は“穢れ”そのものよ。人の醜い欲に浸かり、母の怒りと憎しみに染まりに染まった高純度の“穢れた血”だ。上位神とはいえ、あれだけの穢れを一身に受ければ被害は膨大なものとなろう」
「あなたは、わかっていてあなたはあえて“はは”をおこらせ、そのからだをみずからのてで“さいた”というのですか?!」
あの時突如として流れ出した大量の血潮。アレは単に『理想郷』を作り上げるために生じたものではない。単に“母”から怒りを買うために三日月は敢えて“母”を斬りつけ、痛めつけたのだ。
「正常な“母”にとっての“子”は我が主であった。主のために、我が子の願いを叶えるために母は存在した。だが母は狂い、贄となった女たちも“子供”とみなした。だから余計に母は狂い、膨大な量の穢れを、高密度の穢れで己自身を満たした」
聖なる竜を穢し、地に落とす。異様なまでの執念、そして怨念だ。竜はその穢れを一身に引き受け、負傷した。
「今はその竜でさえ回復するために眠っておる。目覚めるまでにはまだ時間が掛かるであろうが、念には念を、だ。早めに弑しておくのは当然のことだろう?」
「このげどう! あなたにはとうけんだんしとしてのほこりがないのですか!」
僕たちは主をお守りする守り刀だ。だけどこの男は自らの欲を満たすだけの化生に成り果ててしまった。こうなってはもはや付喪神ではない。ただの祟り神だ。
だけどどれだけ罵ろうと三日月の笑みは変わらない。むしろ一層楽し気に高笑いする。
「はっはっは! 誇り、か。誇りなど犬にでも食わせておけばよかろう。そんなもので我が欲が満たされるほど、俺の欲は浅くも潔くもない」
「あなたは、あなたのもくてきはなんだったのですか。なにがしたかったのですか。こんなにおおくのさにわをまきこんで」
僕たちの主を連れ去ったのは紛れもなく彼の主だろう。だけどそれを止めなかったのは彼女の刀たちだ。いや、山姥切は確かに止めようとした。だけど、それは叶わなかった。
「何、俺が欲しいのは“主”だけよ。他はいらぬ。ここにいる残りの女もどうなろうと知ったことではない。だがそれは“母”が許さぬでな。好きに過ごせばいい」
「そんな……!」
「男を喰らおうと、ままごとの延長を楽しもうと、俺にはどうでもいい。俺には主がいればそれでいい。あの小さくて可愛らしい、大人としての汚れも知識もない、あの年端もいかぬ主がいれば、それで……」
歪んでいる。この男は“主”を欲していながらも自分が相対した姿の主ではなく、何の知識もない、無知で無垢な頃の主人でなければならぬというのだ。何て傲慢な男なのだろう。呆れと嫌悪で吐き気がこみあげてくる。
「我が主は酷く心を痛めていた。自分たち人間が如何に醜いか。如何に浅ましいか。嘆き、苦しみ、自らを痛めつけ、罰した。だがそれでも解放されなかった。ならばそんな悩みから解放されればいい。無垢な頃に戻ればいい。何も知らず、何も覚えさせられず。ただ我が愛を受け、それのみを糧に育てばよい。いや、育たずともよい。あの姿で、これより先もずっと俺の隣にいればよい。それだけで俺も彼女も幸せになれる。これ以上の結末はどこにも存在しない。そうであろう?」
ダメだ。この男は既に狂っている。歪んでいる。何を言っても通じる気がしない。何故ならこの男の中でこの話は既に完結しているからだ。議論をする隙などない。例えどれほどこちらが正論を掲げようとも、持論と言う名の暴論で無理やりにでも押し通してくるだけだ。そんな男をまともに相手にする方が狂ってしまう。
「ぼくにはわかりません。ぼくののぞむ“しあわせ”は、あなたののぞむものとはちがいますから」
「……そうか。それは残念だ。ならば、死ぬがよい」
抜刀した刀を避けるのはそう難しいものではなかった。
「っ! 待て!!」
足の速さには自信がある。いや、むしろ今はそれしか残っていない。僕の体に残るのは、僅かな霊力と前に進もうとする意志だけだ。そのどちらかを失っても、どちらかが残っている限り僕の足は止まらない。止めてはならない。
「はっ、はっ……はっ!」
走って、走って、走り続ける。行先など分からない。目についた部屋は全て空っぽなのは感覚で分かる。
どこだ。どこに行けばいい。どこに行けば、誰かに、彼女に、水野様に、届く?
「待て! 今剣!」
「まてといわれてまつばかがどこにいますか!」
一階にはない。二階も当然。地下は分からない。もし地下に進んで間違いだったら? この機会を逃せばもう二度と彼女の手に僕の手は届かない。
考えろ。間違えるな。立ち止まるな。どうすれば、どうすれば……!
アレ? そういえば。どうして水野様の中に山姥切はいたのだろう。
分かっている。今はそんなことを考えている場合ではないことぐらい。でも何故か唐突に疑問が湧いて出てきたのだ。
何故実体を失くしたはずの山姥切は水野殿の中にいて、僕を掴むことが出来たのか。僕だって実体はなかった。でも水野様は確かに僕を“掴み”、“引き上げ”、一振りの刀に戻した。竜神様の力があったから、と言えばそれだけなのかもしれない。でも、もしもそこに何らかの理由があったのなら――。僕の手は、水野様を通して山姥切に届くかもしれない。
「今剣、覚悟!!」
「しまった……!」
考えている間に速度が落ちていた。自らの迂闊さに辟易する間もなく、三日月の憎らしいほどに美しい刀身は僕目掛けて振り下ろされていた。
***
暗闇の中にいる。光のない、本当に真っ暗な世界だ。カーテンを閉め切った部屋で照明を落とした時よりも更に暗く感じる。それぐらい深い闇の中に私はいた。
「うーん……弱ったな。どうしよう」
体は宙に漂っている。声はどこにも届いている様子はない。反響もしない。むしろ重力がないからここが上なのか下なのかさえ分からない。本当にどこなんだ、ここ。
ふよふよと浮かびながら考える。何か……今の自分『うる〇い〇ら』のラ〇ちゃんみたいだな。プロポーションとか性格は真逆だけど。正直この状態は一度経験してみたかった。
「いやいや。楽しんでいたらアカンでしょ」
でも分かっていても楽しいものは楽しい。何かこう、ほら。宇宙飛行士の無重力を体験できる機械があるじゃん? あんな感じ。
いや〜。それにしてもどうしたものか。入口は閉じてしまった。アレを入口と呼んでいいのかは甚だ疑問だけれども。どうにかして出口を探さなければならないが、どこまで漂っても壁やそれらしきものにぶち当たる気配がないのだ。本当に宇宙に投げ出されたかのようにどこまでも暗闇が続いている。もしかしたら終わりはあるのかもしれないが、ここよりずっと遠くなのかもしれない。もしくは反対側なのかも。あるいは上、あるいは下なのかも。それすら分からないのだ。
「アカン。眠くなってきた」
普段真っ暗な中で眠っているせいだろうか。長い間暗闇の中に身を浸していると何だかリラックスしちゃって眠くなってくる。
どんなメンタルしてるんだろうな。私。今この状況で眠くなるとか。
いや、待てよ? むしろ私が眠くなっているのは単に意識が消えかかっているということなのでは? おおおおお!! いかんいかん! この瞼は絶対に閉じさせんぞー!!!
「つってもなー。何か手掛かりとかないのかよぉお〜」
手元に残っているのは最後に百花さんが投げて寄越した一凛の花だけだ。それも暗くて何の花かは皆目見当がつかない。不思議と匂いもしないし。もしかして造花なのか? それに今回は『竜神様の爪の欠片』的なお助けアイテムもないし。完全にお手上げ状態だ。
「……それにしても、さっきのアレ……結構堪えたな……」
先程見せられた幻覚。水無さん曰く『訪れても可笑しくはない、一つの未来』の形。陸奥守や宗三、長谷部や燭台切、大倶利伽羅や山姥切、三日月や鶴丸、大典太に鶯丸。他にも多くの刀と私は手を繋いでいたり、身を寄せ合ったりしていた。でもあれは単なる幻覚にすぎない。私自身あんな妄想なんてしたことないし、そもそも皆もどこか可笑しかった。
「いや、単に知らないだけか。私が」
好きな人と付き合ったら彼らの対応がどう変わるのか。そんなもの分かるはずがないのに。むきになって否定して、目を瞑って耳を塞いで。私は、やっぱり逃げたいのだろうか。彼らから。
「ていうか、何でむっちゃん以外の刀も出てきたわけ? 告白されたの陸奥守だけだよね?」
ハッキリと『私が好きだ』と明言したのは陸奥守一人だけだ。勿論他の刀たちからも大事にされているとは思っている。彼らが向けてくる好意は分かっているつもりだ。大体において皆過保護だし。でも、
「皆が本当はどう思っているかなんて、言葉にされなきゃ分かんないしなぁ〜」
もしも本当に私が陸奥守以外の刀にも好かれていたのだとしたら。私はあの複数人の刀と関係を持っていた人のようになってしまうのだろうか。刀たちを食い物にし、『堪らないわ』と笑う女になってしまうのだろうか。それだけは……彼女には悪いが『嫌だな』と思う。
「どうしよう……どうしたいのかな。私は」
陸奥守と手を繋げるか? と聞かれたら答えは『Yes』だ。手を繋ぐなんて造作もない。
ではキスは出来るのか? これはちょっと返答に困る。だって経験したことないし。どんなものかも分からない。キスはセックスよりも軽く考えるべきなのだろうか。いや、でも割と大事なことな気もする。でもダメだ。考えても分からない。想像が出来ない。だって刀のどの部分と口づけてることになるんだ? その場合。ものすごいシュールだ。となると、だ。セックスなんてもっての外だろう。刀とどうやって致すというのか。所詮あの肉体は紛い物なのに。本当の、彼らの体じゃないのに。
「ああ……何だ。そっか。だから嫌なんだ。ありのままの彼らじゃない体を、偽りの肉体を、私はまだ受け入れられてないんだ」
私は自分が思っていた以上に不器用な人間らしい。刀剣男士が幾ら人の器を持っても、私からしてみれば『刀』であることに変わりはない。例え『神様』であったとしても、大前提となる『刀』の部分がどうしても引っかかるから、だから考えられないんだ。本当の彼らを、本来の彼らの姿を、知っているから。
「ごめん、むっちゃん……私は……やっぱり……」
――あなたを愛したいけど、愛せない。
自覚した途端、途方もない空しさが心に巣食う。何でだろう。何でこんなに辛いんだろう。ようやく答えを出せたはずなのに。ようやく返事が出来るのに。
「…………泣くなよ、バカっ」
どうしてだかじわじわと涙が浮かんでくる。何でだ。何でだよ。これでいいじゃないか。誰だって失恋の一つや二つするものだ。好きでもない人に好かれ、愛して欲しい人からは見向きもされない。そんな人は沢山いる。私だけじゃない。悲劇のヒロインぶりたいわけじゃない。だのにどうしてだか涙が溢れて止まらない。
「あ゛ーーーーッ! クソッ! 泣いてる暇なんかないんじゃい!! ここから脱出しないといけないのにー!!」
ズルリ、と鼻が垂れそうになって慌てて啜る。あーやだやだ! こんなことで泣いちゃってみっともない! 振られるのは私じゃない。私は“振る”方なのだ。これ以上待たせるのも酷だ。腹を決めて、きっぱりと言い切るべきなのだ。『私はあなたを愛せない』と。
――本当に?――
「……え?」
幻聴、だろうか。私以外誰にもいない空間に、突如として高い声が割り込んでくる。
――本当に『愛せない』の? 本当に、彼のことを『愛していない』の?――
「何? 一体どこから……?」
辺りを見回すが、当然真っ暗だから何も見えない。だけど確かに声が聞こえる。これは、一体どうなってるんだ?
――嘘つき。あなたは嘘をついているわ。本当は『好き』なのに。どうして嘘をつくの?――
「待って! 誰?! マジで誰?!?!」
おいおいおいおいおい! こんなどうしようもない、素っ裸みたいに無防備な状態で敵襲なんて冗談じゃないぞ?! 死んでまうわ! いや、もう死んでるのか?!
だけど狼狽える私など完全に無視し、謎の声はクスクスと笑う。
――お姉さんは嘘つきなのね。どうして人には嘘をつけないのに、自分には嘘をつくの?――
「ど、どうして、って……別に嘘なんか……」
――嘘よ。嘘嘘。お姉さんは嘘つき。だって、もう自分で認めてるじゃない。彼を“愛してる”って――
「そ、それは、だから! 私は彼らの肉の器が好きなんじゃなくて、彼らそのものを――――あっ」
――フフッ。ほら、やっぱり『愛してる』んじゃない。お姉さん、気づいてなかったの?――
「だって……普通そうは思わないじゃん……」
あれだけ見た目が整ってるんだ。誰だって初めはその顔の良さに目が行くはずだ。絶対に。だって恋愛するってなると、その対象はやっぱり有機物になるじゃん? それに多くの審神者が彼らの『刀』の部分ではなく、肉の器の方を見ているような気がしてならなかったのだ。だから認めたくなかったんだ。私だけはあんな紛い物に負けて堪るもんか、って。彼ら自身を大切にするんだ。って、意地になってたんだ。
――お姉さんは『本当の姿』をずっと知っていたのに、ずっと『気づかぬふり』をしていたのね――
「いや、すんません。マジで気づいていなかったと言いますか、普通にスルーしてました……」
そうだ。とっくの昔に私は彼らを愛していた。彼ら自身を、ずっと苦手だと思っていたはずなのに。あの鋼の体を、大事に思っていた。
――彼らは彼らよ、お姉さん。難しく考えてはダメよ。心には素直にならなきゃ――
「そ、う……ですね……」
クスクスと謎の声は笑う。それは一体どこから響いているのか。冷静になった今なら分かる。彼女はずっとココにいた。
「ありがとう。百花さん。私を助けてくれて」
――いいの。わたしもこんなやりかたしか知らなくてごめんなさい。昔おばあちゃんに教えてもらったの。“式神”って言うんだって――
手にしていた花は幾重にも折られた紙で出来た造花だった。だから何の香りもしなかったのだ。そしてこの花には、この花が“式神”ならば、紙面のどこかに文字が描かれているはずだ。
――お姉さん。聞いて。わたしね、今剣くんとデートがしてみたかったの――
「うん」
――でもね、結局できなかった。おさそい出来なかったの。はずかしくて――
「……うん」
――だからね、この『夢の中』でデート出来た時は、すごくうれしかった――
「そう」
――うん。でもね、――
百花さんはそこで言葉を区切ると、一番大事なところに秘めた想いを、大切に仕舞っていた宝箱の蓋を開けるかのように、そっと呟いた。
――うれしかったけど、すごく……悲しかったの。だって、もう『夢の中』でしか今剣くんとは会えないんだもの――
「……うん」
彼女の愛した“今剣”はもう現実世界にはいない。いるのは“二振り目”の、何も知らない、彼女との思い出が殆どない“今剣”だけだ。
――だからね、お姉さん。お姉さんがわたしと同じ、悲しい気持ちになってほしくないの。嘘の今剣くんとデートした時みたいに、嬉しいのに泣きたくなるような気持になってほしくないの――
「うん」
――だからね、お願いよ。お姉さん。もどってきて。わたしの式神、きっとここにつながっているはずだから。お願い。わたし、もう今剣くんが苦しむところ、見たくないの――
「……うん」
百花さんの作り出した式神が淡く光り出す。赤い花は徐々に徐々に白く、つぼみが綻ぶようにして花開いていく。
――お姉さんの中にいる神様にそのお花をあげて。きっと元気になるから――
「……ありがとう。百花さん。必ず、一緒に帰ろう」
助けに来たのに助けられてしまった。まだ小学生だとは思えない、小さくとも勇敢な彼女に心から励まされる。だけど当の本人はくすぐったそうに笑うと、それじゃあね。と言うだけだった。
(どうか、百花さんや、今剣の元に戻れますように……)
渡された花を強く胸に抱く。淡い光は徐々に強い光を伴い、暗い世界を一気に白く染め上げた。
続く
prev / next