小説
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『――、――――』

 歌が聞こえる。まだ幼い、少女の柔らかな声。トン、テンと何かが弾む音もする。
 音の出所を探ろうとして全身がずっしりと重たいことに気付く。というより、手足の感覚をスイッチでオフにしたかのように動かない。
 
 そもそもここはどこなんだろう? あの後一体どうなったんだっけ。

 グルグルと考えているうちに指先がピクリ、と反応する。
 そうか。聴覚が戻ってきたから感覚も戻りつつあるのか。うん。そうだな。いい加減起きなきゃ。私にはまだやることがあるのだから。

 自分に強く言い聞かせ、重い瞼を持ち上げた。




『それぞれの想い』




「ッ、」

 定まらない視界に数度瞬く。一回、二回。三回、四回。回数を重ねて行くうちに瞼も上がり、ぼやけた視界はくっきりと視点を定め始める。

「ここは……」

 目に入ったのは木目が美しい天井だった。しかし随分と高い位置にある。大きな建物なんだろうか。状況を探ろうと頭を動かせば、髪が布地と擦れる音がする。布団に寝かされているのだろう。
 そのまま右へと頭を動かせば、畳と、その奥に侘しくもどこか厳かな空気を感じる山水が描かれた襖が見える。立派な山水画だ。連なった山間の中から霧立つ様に、朝露に塗れた木々の葉が自然と思い浮かべられそうだ。暫くの間ぼうっと眺めていたが、ハッと意識を取り戻し左へと視線を動す。そこには見慣れた後姿が縁側に座していた。

「目覚めたようだな」
「あなたは……」

 振り返ったのは『三日月宗近』だった。その顔は随分と穏やかで、どこか楽しげな空気も漂わせている。思わず『幸福そうだ』という感想が胸の内に沸いた。ただそんな彼は私の刀ではない。彼の主は――

「随分と長い間寝入っていたな。よほど疲れていたのであろう」
「あの、ここは一体……」

 重い体を何とか動かし、上半身を起こす。やはり布団に寝かされていたらしい。有難いような、申し訳ないような。ちょっと複雑な気持ちになる。

「おや? 分からぬか? ここは“神域”よ。そして我が主が望んだ“理想郷”とやらでもある」
「そんな……!」

 ということは、水無さんの計画を止められなかったのか? あの時繭から全員救いだしたはずなのに……。間に合わなかったのだろうか。
 項垂れる私に三日月は相も変わらずのほほんとした声を上げる。

「何、そう落ち込むことはない。そなたと俺は同じ景色を見てはいるが、違う場所にいる」
「は? それはどういう、」

 意味ですか。と聞こうとしたところで、三日月の奥。庭の奥から誰かが駆けてくる。

「みかづきさまー! とって〜!」
「おお、よしよし。爺が取ってやるでな。暫し待て」

 駆けてきたのは小さな女の子だった。まだ六歳か七歳ぐらいだろう。少し癖のある黒髪に、目を引くような真っ赤な生地に白や黄色の菊模様があしらわれた着物を着ている。少女は三日月が拾い上げた毬を受け取ると、弾けるような笑みを浮かべた。

「ありがとう!」

 薄紅色の糸で編まれた手毬を、少女は小さな手で弾ませる。

「まーるたーけえーびすーにおーしおいけー」

 テン、テン、と地面と少女の掌の間で毬が弾む。どことなく、薄らとだが白んで見える景色の中、少女は無邪気に毬をついている。その姿を三日月は愛おしげに眺めながら話を続ける。

「俺はここから動けぬ。いや、動く気がない、と言うべきか。だがお主は違う。お主は少し特殊だからな。いかようにもこの世界を練り歩くことが出来るだろう」
「この世界? 神域、のことですか?」

 “同じ景色を見てはいるけど、違う場所にいる。”
 先程三日月はそう言った。『彼岸』の入口にいた時はあの部屋から別の部屋に移動することはできなかったけど、今なら出来る。ということだろうか。でも、何で? もしかして、私はもう――。

「自分の目で確かめてくるといい。そうすれば自ずと答えも出よう」

 三日月は振り返らない。彼の視線はひたすらに少女へと向けられている。
 テン、テン、と毬をつく少女と、それを穏やかな空気で見守る三日月。

 あの少女は、もしかしたら――。

 いや、そんな馬鹿な。そんなはずはない。だって彼女は私と同じ成人した女性だった。でもここが『神域』でかつ『理想郷』ならば可能性はあるのか……?
 答えが出ない問題は他にもある。ここは最初に訪れた“神域”とは別物なのか。山姥切や今剣はどこへ行ったのか。他の審神者たちは生きているのか。それとも――私共々死んでしまったのか。

 確かめるためにもここから動くべきだろう。

 三日月が言うには『私だけが』自由にこの“神域”――もとい“理想郷”とやらの中を動けるらしい。ならば自分の足で歩いて、見て、考え、答えを出すしかないだろう。

「三日月さん、ありがとうございました」

 布団を畳み、隅に置く。三日月は未だこちらを振り返らず、毬を付く少女を見続けている。私はそんな彼の背に一礼した後、襖を開いた。

「さて。どっちへ行こうかな」

 襖を開けた先には長い廊下が左右に伸びていた。しかし建物自体が大きい割に廊下は狭い。精々二人しか並んで通れないだろう。それに妙に薄暗いし。不思議に思って天井を見上げれば、やはりというか何というか。とても高い場所に照明がついている。おかげで廊下に明かりがちゃんと届いておらず、かなり薄暗くなっている。まるで幽霊屋敷だ。
 それにしても、木造建築にしては珍しい造りだ。普通はもっと天井が低く作られているのに。これなら槍の皆も頭上に気をつけずに済むだろう。だけどもう少し照明はどうにかならなかったのか。折角綺麗に磨かれた美しい廊下なのに、薄暗いせいで不気味というか、少々怖い。
 だが今はそんなことを考えている場合ではない。右に進むか左に進むか。迷っていると右側の通路から物音が聞こえてくる。誰かいるのだろうか。もしかしてあの時繭の中から助けた審神者の誰かがいるかもしれない。とにかく行ってみるしかないか。と足を進める。

「どの辺かなぁ」

 薄暗いせいか廊下の先は一向に見えてこない。
 通り過ぎる部屋は廊下を挟んで左右に広がっており、規模は基本的に同じらしくそこそこ広さがある。襖の柄は複数枚繋がって一つの絵になっているものもあれば、一部屋で完結しているものもあったりと意外と統一感がない。それでも下品な印象はなく、少し煩雑としているなぁ。ぐらいの感想だ。むしろ注意してみなければあまり気づかないだろう。そんな中歩き続けていると、突如「フフッ」と小さな笑い声が聞こえてくる。朗らかで、柔らかい声。おそらく女性だ。しかもまだ若い。

「ここ、かな?」

 辿り着いたのは先程の部屋から歩いて数分の場所にある部屋だった。襖の柄は扇で、淡い色合いは随分と可愛らしい。しかし洋室と違ってノックするわけにもいかない。少し迷ってから「すみません」と声を掛けてみるが返事はない。だけど中では相変わらず誰かの話し声が聞こえる。
 もしかして無視されてる? 幾らか心に無駄なダメージを負いつつ、もう一度、今度は先程よりも大きな声を出して「すみません」と声を掛ける。だけどやっぱり返事はない。このまま素通りするか、失礼を承知で襖を開けるか。うんうんと悩んだ結果、何か言われたら全力で謝ろう。と開き直って襖の引手に手を掛けた。

「すみません! 失礼します!」

 つい目を瞑ってしまったが、襖を開けても「キャア!」だとか「誰だ!」とか予想していた言葉は飛んでは来なかった。不思議に思って目を開けると、そこには制服姿の少女と『燭台切光忠』が楽しそうに話をしていた。

「もー、やだ燭台切さんったら。私もう十八だよ? あんまり子ども扱いしないでください」
「ごめんごめん。でも撲から見れば主はすっごく可愛いよ」
「え! も、もう! 燭台切さんってば!」

 何だコレ。

 思わず真顔になってしまったのはしょうがないと思う。え? いや、でもだってさ? 襖開けたら審神者と刀がイチャイチャしてた。って事実に直面したら誰だって真顔にならない? 私だけ?
 つい頭の中で愚痴ってしまうが許されるはず。しかし今はそんなことを考えている場合ではない。意を決して二人に近づく。

「あのー、もしもーし?」

 制服姿の女性に話しかけてみるが、当人は勿論、燭台切でさえ気づいていない。むしろお互い『あなたのことしか見えていません』と言わんばかりの蕩けた表情で見つめ合っている。
 えー……ナニコレ……。これもしかしてアレか? エンダアアアアイヤアアアア!!! って音楽を流すべきなのか? それとも何かこう、いい感じのジャズソングの方がいい?
 あまりにもアレな光景に半ば現実逃避しかけていると、制服姿の女性が赤らんだ顔を隠すかのように俯きながら「あのね、」と話し出す。

「その、燭台切さんからしてみれば私はまだ子供かもしれないけど、わ、私はもっと大人な付き合いがしたいな、って思うの!」

 ヒエーーーッ! コレ多分、いや絶対他人が一番聞いたらアカン奴ーーーーッ!!
 もしかしたら初恋かもしれない少女の、精一杯の『お願い』をこんな十代の少女から見てみれば“おばさん”一歩手前の人間が聞いていいはずがない。
 アカン。これはアカンぞ。ばれたら軽蔑ものや。
 内心狼狽える私とは裏腹に、当の燭台切はその整った顔とイケてるボイスをフル活用するかのように少女に微笑みかける。

「うーん……それはちょっと……難しいなぁ……」
「え。や、やっぱり私って魅力がないのかな……」
「ああ、違う違う。そうじゃないよ」
「?」
「その……恥ずかしながら撲の理性が保つかどうか……それが“難しい”って言っているんだよ」
「しょ、燭台切さん……!」

 はーーーーーーーー!! エンダアアアアアア!!! って待て待て。わたしゃ一体何を見せられとるんだ。いや、勝手に入ったのは私なんだけどさ。こりゃあないぜ。完全に出歯亀と化してしまった。溜息を吐きつつイチャイチャする二人の部屋を後にする。

「一体何だったんだ……。あんな甘酸っぱい少女漫画みたいなやり取り、今時の高校生ってするのか?」

 中学、高校と恋愛とは無縁だっただけに違いなんて分からないんだけどね。しかし部屋を出てから気づく。あの制服姿の女の子、繭から助け出した五人のうちの一人じゃないか?
 ということは、だ。

「他の四人もここにいるんじゃ……?」

 どの部屋に誰がいるのかは分からない。しかもこちらの声は聞こえず、私だけが一方的に彼女たちを認識している。いや、もしかしたら意思疎通が出来る人がいるかもしれないが。何はともあれ探索だ。すぐさま気合を入れなおし、次なる部屋へと向かう。

「次は、っと……」

 来た道を戻ることはせず、とりあえずこのまま長い廊下を進んでいく。しかし歩けど歩けど先程のように声が聞こえることはない。一体どこにいるというのか。それともここにいるのはあの制服姿の彼女だけだったのだろうか。悶々と悩んでいると、ついに突き当りまで来てしまう。これはもしや来た道を戻らねばならないのか? 少々げんなりしていると、どこかの部屋から『ガタン、』と何かが倒れるような音がする。
 廊下は左右の部屋に挟まれているため、どちらから聞こえたのか耳を澄まさなければ正確には分からない。暫く立ち止まっていると再び何か――ゴソゴソとした衣擦れのような音がする。

「えー、っと……」

 思うに、音がしたのはもう少し手前からだった。すり足で廊下を進みつつ、一つ一つ部屋を確認していく。するとある部屋の廊下に、部屋の中から零れているのだろう。ぼんやりとした明かりが漏れていることに気付く。

「ここか」

 その部屋の襖には竜が描かれていた。随分と立派な竜だ。私の魂に住むという竜神様よりかは、大倶利伽羅の体に刻まれた倶利伽羅竜に近い。今回も先程同様「すみません」と声を掛けてみたが、案の定反応はない。仕方なく心の中で手を合わせてから引手に手を掛ける。

「失礼しまー……ん?」

 廊下よりも更に薄暗い部屋の中。中で何がどうなっているのか理解した瞬間、私は即座に襖を閉めた。

 いやいやいや。だって、その。ねえ? ナニを致していたらやっぱり直視なんて出来ないじゃない?


「――じゃねえわ!!!!! 何でヤってんの?!?!」


 いや、ヤるのはいいんだ。愛の確認だよな。そうだよな。うん。知ってる。いや、実体験はないけれども。知識として知っているわけで、ってそこはどーでもいいんだけど。

「えー……えーーーー…………」

 どうしよう。入るのやだ。っていうか見るのも嫌だ。だって、だってさあ。そんなね? 他人のアレソレなんて見たいだなんて思わないじゃない? 映画やポルノじゃないんだし。
 しかし困ったな。せめて誰と誰が致しているのかは確認しないと。この空間の謎が解けない。いやいやいや。でももう一回入るの? 入るっていうか見るの? マジで?

 締め切った襖の前で蹲って呟いていたら、部屋の中から「アッ」と甲高い声が漏れてくる。あーーーーーアカンアカンアカンアカン! これアカンやつーーーー!!!!

「ええい! ままよ!!」

 このまま挿入からフィニッシュまで部屋の前で蹲るわけにもいかんし!! ちょっとだけ! 隙間からこう、ちょっとだけ覗いて誰と誰がいるのか確認してさっさと退散すればよろし!!
 意を決し、けれど限界まで目を細めて隙間から中を確認すれば、浅黒い肌と白い肌が蛇のようにうねり、混ざり合っている姿が目に入り鳥肌が立つ。

「うへぇ……多分あの黒さは大倶利伽羅だな……女性の方は……」

 はっきりとは見えないが、ふと女性の腕が上がった時に見覚えのあるタトゥーが目に入る。この人もあの繭に閉じ込められていた人だ。それを確信するとさっと立ち上がり、襖を再度締め切ってから廊下を滑るようにして進む。

「はー……何で他人のあっはんでうっふんな情事な風景を見なあかんねん……」

 何だかだんだん切なくなってきた。そりゃあ私は経験ないですけどぉ? 知識としては知っているわけだしぃ? でも何というか、改めて他人の『情事』というものをちらっと見て思ったのだが、

「……自分には出来る気がしねぇ……」

 キスとか、ハグとか。いや、ハグはまだいい。しょっちゅう加州や三日月、乱に抱き着かれてるし。でもキスとか……それ以上のこととか。考えただけで荷が重い。

「って、別に自分が今すぐするわけじゃないんだけどさ」

 というか、そもそも相手がいないし。

 そう考えたところでふと陸奥守の笑顔が脳裏に過る。

 いやいやいや。アカン。アカンて。むっちゃんは、ほら。そういうアレじゃないし。そりゃあ勿論『好き』だけど、そういう『好き』かどうかは分かんないし。

 再び悶々と考えていると、いつの間にかかなりの距離を進んでいたらしい。今度は反対側の突き当りにぶち当たってしまう。だけどこちら側には階段が続いており、上にも下にも行けるようだった。

「うーん……とりあえず上行くか」

 だって地下とか何があるか分かんないじゃんね。だから安全牌として二階を先に攻略することにする。いざとなったら飛び降り……れるかどうかは分からないけど、地下に閉じ込められて死ぬより骨折する方がマシだろう。

「よしっ! 行くか!」

 一度深く深呼吸し、二階へと続く階段に足を掛けた。


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