小説
- ナノ -






ガラガラと音を立てて移動する馬車の中、ぼんやりと去りゆく景色を眺める。
時折車輪が小石の上を滑り車体が揺れれば、自然と体も跳ねる。
そしてその都度飛ばしかけていた意識を取り戻す。

サクラは暫くの間、休暇を取って避暑地で有名な宿屋へと向かっていた。


サクラが休暇を取ることは珍しい。今や優秀な医療忍者として認知されているサクラは実に多忙で忙しない日々を送っている。
部下を育て、新薬を開発し、時に病院で院内を走り回る。そしてカカシ班として任務をこなす日も多い。
そんなサクラに休暇を取れと言ったのは、他でもない火影であり師である綱手であった。
サクラの生真面目さも勤勉さも評価している綱手だが、あまりに多忙なサクラには息抜きが必要だと常々思っていた。
そして夏も終わりに差しかかろうとしている時、ちょうどサクラの仕事がひと段落したので綱手はここぞとばかりに休暇を取れと諭したのだった。

二十を半ばすぎたというのに男の影はなく、毎日職場と自宅を行き来する日々だ。
そんなサクラを綱手は己の二の舞になるのではないかと心配しているらしい。
らしいというのはサクラが綱手本人から聞いた話ではなく、人づてに聞いたからだ。
別にそんな心配をせずともどうにかなるだろうと気楽に思っているわけではないが、別段そう焦らずとも。と思っているのは事実だ。

勿論周りではそろそろ結婚を、と進めてくる者は多い。
事実友人知人も身を固めた者が多い中、サクラは未だ仕事に没頭している。
先に結婚をした知人たちに今いい人はいないのかと聞かれることも多いが、今は恋愛よりも仕事の方が大事なだけで興味がないわけではない。
けれどどうにも“恋愛”や“見合い”というものをする気になれないのは、心にひっかるものがあるせいだった。



サクラの恋と言えば、思い出すのは花が綻び始める十代の頃の話だ。
アカデミー生から下忍に上がったあの頃、恋をしていた。誰もが経験する淡く、甘酸っぱい初恋というものだ。
その頃は恋愛至上主義といっても過言ではなく、毎日頭の中で初恋の彼とデートをしたり手を繋いだり、あわよくばキスしたりなどの妄想を繰り広げていた。
しかしそれも束の間。あっという間に満たされていた日々は崩れ去ってしまった。

思えば幼いあの日、サクラは彼の背だけを生きてきた。
見渡せば他にも沢山のものが見えたはずなのに、それができなかったのはやはり幼さゆえか。
それでも淡く懐かしい、そして少し胸が痛い恋であった。

そんな恋も年を経て形が変わり、今では初恋の彼に対する思いは恋ではなく愛に昇華した。
ぶっきらぼうで乱暴で、不器用が空回りしている男と、いつまでたっても子供のような、誰より信頼できる男二人をサクラは愛している。
恋は愛に変わり、情もまた愛にかわった。
どちらがどれほど愛しいというものではなく、どちらも同じだけ尊く愛しい男たちだ。
だからサクラはどちらも選ばず、またどちらからも受け入れる気はない。
サクラにとって本当の幸せはどちらか一方と共に居ることではなく、三人揃っていることだった。

それからのサクラは随分と変わった。
小狡く彼に愛想を振りまいていた少女は大人になり、猫なで声で甘えていたかつての男に対しもう甘えるということはしない。
不器用なだけで愛情深く、それゆえに性格が歪んでしまった事を知っているからこそ、余計なことはせず自然体でいることを選んだ。
だからこそ今では、里の英雄である男と国際指名手配犯である男をしばけるのはサクラだけだ。

だがそれが祟ったのか、サクラは少々近寄りがたいというか、高嶺の花として見られるようになってしまった。
伝説の三忍であり現火影の弟子。更に里どころか世界の英雄になった男と指名手配犯とのスリーマンセルを組んでいたのだから仰々しく思われるのも仕方ない。
加えてサクラ自身悪気はないのだが、その二人の男に容赦なく拳を振る姿に、己は釣り合わないと戦々恐々としている男たちも少なくない。

自分から恋愛をダメにしている。
彼女と旧知のくノ一はよく言うが、サクラからしてみれば女に臆する男など鼻から興味ないと言いたかった。
何せ十代のうちからS級の犯罪者たちと相対し、戦争まで体験したのだ。そんじょそこらの男が自分を相手にできるとは思っていない。
どうせ男はプライドが高い生き物だ。自分より名前が知れてる女と付き合いたいなどと思わないだろう。
だからこそサクラは知名度だけで近寄ってくる男や、サクラの立場を美味しく思っている男たちに袖を振ることはありえなかった。


そんなサクラでもくノ一としての任務はある。
それが“色”の任務だった。

色の任務、と言うと彼女を知る男たちは嘘だと顔を青く染めるだろうが、サクラとて立派なくノ一だ。
色の任務をこなした回数は意外にも多い。
事実サクラが初めて色の任務をこなしたのは、二十になってからだった。

当時、二十になったばかりのサクラは色の任務というものを具体的に分かっていなかった。
勿論行為がどういったものであるかや、性感帯、作法や流れ、男を誘う術や色のいろはなどは医療忍者になってからも日々学んでいた。
色の任務はくノ一として通らねばならぬ道であり、誰もが体験するものだ。
だからサクラからしてみれば色について勉強することも、色の任務を与えられることも、くノ一として当然のことだと認識している。
だが任務に修行に戦争にと、めまぐるしく過ぎる日々に勉強をする暇はあってもそれを体験する暇が無かったのだ。
人づてや書物から学ぶことはできても事実はそれと異なる。百聞は一見にしかず。先人はよくこの言葉を残したと常々思う。

されどサクラとてくノ一である前に一人の人間であり、女であった。
どうせ処女を捧げるなら任務でそれを散らすより、心から愛していなくてもそこそこ好いている男に捧げたいと思ってはいた。

とはいえそう簡単にいく話ではない。
適当に『はいあなた私の相手してね』などと言えればいいが、そんなことできるはずもない。
結局どうすることもできぬまま色の任務を請け負ってしまい、ああ、初めての体験が任務相手とは、と落胆していたがここで好機と言うべきか。
急遽砂隠との合同任務が言い渡された。
それが風影である我愛羅との、数奇な関係の始まりでもあった。


砂隠での任務は密かに出回っている違法の薬物ルートを見つけ、売人を逮捕することだった。
初めはAランク任務の扱いであったが、砂隠だけでなく木の葉やその他の隠れ里で被害が度々見られるようになり、それが素人ではなく手慣れたものの犯行だと判断されたためSランク任務扱いになったものだ。
情報を集めていくうちに犯人と思わしき者は抜け忍で、医療従事者と手を組んでいることも判明した。医療技術を持つ者は毒物も扱える。
そこで医療忍者として名を轟かせるているサクラがチームの一人として抜擢され、被害のあった他里から数名集まった。
そしてそのチームの指揮を執ったのが風影である我愛羅だ。

何故風影である我愛羅が直々に任務に参加したかと言うと、犯人と思しき者が砂隠出身だったからだ。
流石に己の里の出であれば出ないわけにもいかない。我愛羅は生真面目な男だから、長としてけじめをつけようと思ったのだろうと検討付けている。

任務が開始してすぐに我愛羅のことを流石忍連合軍を率いただけあると見直した。

元々彼の認知度は高かったが、かの戦争で更にその名を轟かせた。
今では他里でも彼の名を知らぬ者はいないだろう。
だからこそ直接相対したことのない忍でも彼が出てくれば皆一概に気を引き締めたし、不思議と彼について行こうという気にさせられた。

正直に言うと、今まで我愛羅のことをそれほど意識したことはない。
かつて暁から彼を奪還した時でさえ、彼のことよりもサスケやナルトの方にばかり意識が向いていた。
だからこそ改めて采配を取り威風堂々と佇む我愛羅を見た時、思いがけない衝撃を受けたものだ。

サクラと我愛羅の接点は少なく、時折木の葉に来ても淡々と任務をこなし、試験をこなし、かの戦争で言葉を交わしたのもほんの僅かで記憶に残るものではなかった。
勿論実力があることも、彼独特の砂を使って戦う戦法も凄いと思っているし、味方になれば心強いことも知っていたが、結局その程度のものだった。

しかし波乱の人生にある種区切りがつき一皮むけたサクラから見た我愛羅は、不思議と目が離せない妙な魅力を持った男に見えた。

忍たちの前に立ち、任務内容と諜報活動について説明している時の我愛羅は淡々とし、記憶と寸分違わぬ姿であった。
だがそんな認識をガラッと変えたのは、任務遂行した夜からだった。

その日の夜、サクラは砂隠の里で与えられた部屋で休んでいた。
任務での負傷者はおらず、我愛羅の采配は実に見事だったと報告書を作成していた。
普段から冷静沈着という字を体現している我愛羅は戦闘時でもそれは変わらず、敵の出方をよく観察し、分析し、小隊を上手く誘導し犯人たちをあっさりと砂で捕えた。
あまりの手際の良さに他里の忍もさすが風影だと感嘆していたが、我愛羅は決して自分の力をおごらず皆の働きのおかげだと頭を下げた。
中忍試験で会い見えた時と比べ随分変わった我愛羅の姿勢に、不思議と暖かな気持ちになった。

そんなことを何となしに思い出しながらカーテンを閉めようと窓辺に近寄った時、ふと月に重なる影に気づいた。

敵襲だろうか。
目を凝らせば、それは砂に乗り上空を浮遊する我愛羅だった。
あの人は一体何をしているのだろう。
気付けば窓の金具を外し、そこから身を乗り出し我愛羅の名を呼んだ。

その行動はほぼ衝動と呼べるものに相応しく、何故その時我愛羅を呼び止めたのか未だに理由は分からない。
けれど運命とはそういうものなのだろう。あるいは、天啓か。今ではそう思っている。
そうしてその声に気づいた我愛羅は砂を移動し近づいてきた。
きっとここから全てが始まったのだと、サクラは思う。



サクラの前まで来た我愛羅は、こんな夜更けに何をしている。と自分のことは棚に上げ問いかけてきた。
そんな我愛羅に特に怒るわけでもなく、ただ眠れなくて。と端的に答える。それに対し我愛羅もそうかと相槌を打つだけで、そこから続く会話はない。
代わりに何をしていたのかと問えば、散歩。とサクラ以上に端的に答えられ少々面食らう。
散歩と形容するには難しくないか。
そう思わないでもなかったが、それを指摘するのも面倒だと思いそう。とだけ言い返す。
そこで自分の相槌が我愛羅と違わず短いことに気づき、妙に可笑しな気分になった。
酒を一杯夕食時にひっかけていたせいか、余計に愉快な気分になった。

そしてどうせ互いに眠れぬのなら、とサクラは未だ外にいる我愛羅に少し話さない?と部屋に誘った。
少し逡巡した我愛羅であったが、特に異論はなかったようで、分かった。と頷くと、開け放った窓に足をかけするりと部屋に忍び込む。
その姿がまるで猫のようだと、くすりと笑った。

それから二人は特に意図せずベッドに並んで座る。
思い返すに、二人きりでゆっくり話すということは今まで一度もなく、またこうして近しい距離に身を置くことも無かった。
だから我愛羅の顔が整っていることは知っていても、彼の睫毛の量が多いことも、白く見える肌も近くで見れば存外焼けていることも知らなかった。
知り合ってから随分と長いのに、意識しなければ相手のことをこれほどまでに知らない。
我愛羅との関係はそれほどまでに遠かった。だがそれでも互いに見慣れた人物だ。特に気兼ねすることも無く話し出す。

初めは近況報告のような会話をし、里の話をし、ナルトの話に移り、そして適度にそれらに関する無駄話とも無駄知識ともいえるものを披露し笑いあう。
サクラは我愛羅の笑う姿など見たことが無かったが、彼は存外穏やかに表情を緩めて笑う。
そうするといつもの近寄りがたい凛とした空気が緩み、ふわりとたおやかな風があたりを包みこむようなやわらかさになる。

不思議な人。
我愛羅の少し柔らかくなった横顔を眺め、蝶が羽をたたむように緩やかに上下する瞼を眺める。
思わず翡翠の眼を縁取る隈に手を馳せれば、我愛羅の肩がピクリと跳ね目は驚きに見開かれる。

「何だ」
「ん?我愛羅くんの隈、酷いなと思って」

まるで墨を引いたような色濃い隈を指でなぞれば、我愛羅はくすぐったそうに目を閉じる。
だが手は払いのけられることはなく甘んじて受け入れられている。
気を許してくれているのかしら。
そんなことを思いながら今度は両の手で彼の目の周りをマッサージするように撫でてやる。

「こうすると目の疲れがとれるし血流がよくなるのよ」

サクラの説明に我愛羅はそうか。とだけ返し、すぐに心地いいな。と吐息交じりに告げる。

「我愛羅くんは忙しいから仕方ないだろうけど、ちゃんと休まなきゃだめよ」
「…そうだな」

暫くマッサージしてやっていると、こくりこくりと我愛羅の頭が揺れだす。
その姿がまるで居眠りを我慢する子供のようで、妙に微笑ましい気持ちになる。
普段の我愛羅からは想像できないほどに気の緩んだ姿だ。
何だか楽しくなり、我愛羅の顔に馳せていた手を頭に回し、髪を梳きつつ撫でてみた。

「ん…」

眠たいのか心地いいのか。
我愛羅はぼんやりとした声で反応し、うっすらと目を開けしばし緩慢な動作で瞬きを繰り返す。
眠い?と問えば、少し。と答える。

「サクラの手はすごいな…」
「え?」

ふと見上げた我愛羅の瞳は、いつものように目が合えば体の中に一陣の風が吹き抜けていくような涼やかなものではなく、まろみを帯びた宝石のように穏やかに瞬いている。
思わず見惚れたサクラに気づいたのか、気づかないのか。
我愛羅はサクラの手を取るとそっと握りしめる。

「こんな風に誰かに触られて、心地いいと思えることが無かったから…正直驚いている」

お前は不思議な女だな。
そう言って穏やかに伏せられた瞼を眺めながら、そう、かな。と途切れ途切れに言葉を返す。

何故か喉の奥で、言葉が詰まって出てこない。
それなのにトクトクと少し音をたてはじめた心臓の音はやけに鮮明に聞こえ、内心狼狽える。
俺にとってはな。と続ける我愛羅にぎゅっと胸を掴まれたような感覚を覚え、どういうわけだか無意識に我愛羅の頭を抱き寄せた。

(…しまった…)

無意識だったとはいえ、何の脈絡もなく我愛羅を抱きしめたことにサクラ自身が一番驚いた。
だが、我愛羅もまた動揺していた。
我愛羅からしてみれば特に口説いたわけでもなく、そういう雰囲気だったわけでもないのに何がどうしてこうなったのか。

この先どうすればいいのだろう、と互いに固まったまま暫く時が過ぎた。

「…あの」

とにかくこの状況を何とかせねば、と先に動いたのだから先に何とかせねば、とサクラは言葉を絞り出す。
その声に我愛羅の体がピクリと跳ねれば、慌ててごめんね、と呟く。

「…何故謝る?」
「いや、その…なんか、突然抱きしめちゃって…」

そこで我愛羅はサクラが意図的にこうしたわけではないと分かり僅かに張っていた肩の緊張を解く。

我愛羅は女性遍歴が多くない。色の任務で多少その手のことに身を乗じたことはあっても、所詮は任務だ。
他者と言葉を交わすことも少なければ、互いの胸の内を吐露する相手も少ない我愛羅にこの展開は唐突すぎて処理に困っていたのだ。
これが任務であれば抱き返すなりなんなりしていただろうが、今の我愛羅は完全に気を抜いていた。
いくら同盟を組んでいる木の葉のくノ一相手とはいえ、そこまで気を許していたことに我愛羅は内心かなり動揺し、驚愕した。
そして再びサクラに対し不思議な女だと認識し直したところで、サクラがおずおずと体を離していく。
我愛羅は何となく、それが惜しいと思った。

「さすがにその…嫌…だったよね…」

しょんぼりと肩を落とし、気まずそうに言葉を紡ぐサクラに我愛羅はことりと首を傾ける。

「嫌ではなかったぞ」
「え?」

むしろどこか心地いい、甘い女の香りと柔くあたたかな感触を思い返し、どちらかといえば抱き返せばよかったと思う。
だが流石にそれを口にするのは憚られ、かわりにサクラの顔をじっくり眺めた後ふと思ったことを口にする。

「…何か、不安なことでもあるのか?」

いくらサクラと綿密な付き合いが無くとも、普段のサクラをある程度知っていれば彼女が何の脈絡もなくこんな大胆な行動に出るとは思わない。
だから我愛羅は何か思うことでもあるのか。とそう問いかけた。

「不安…私、不安なのかな…」

我愛羅の問いに考え込むように視線を外した頬に、我愛羅は無意識に手を伸ばし両の手でその顔を包み込む。
その手に己の手をゆっくりと重ねると、意を決したように我愛羅をまっすぐ見つめる。

「…ねぇ我愛羅くん」
「何だ」
「少し、聞いてくれるかな」

いつもとは違う、少し硬い雰囲気のサクラに我愛羅は何も言わず一つ頷いた。




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