小説
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「……?」

 何者かの気配を感じた気がした。

 だが誰のものかは分からない。先日の客人たちの霊力がまだ残っていたのだろうか。それとも、時々現れては消える、見知らぬ誰かのものだろうか。

 分からないまま、俺は今日も本丸の中を練り歩く。

 誰もいなくなった、無人の本丸。
 美しい庭は誰かが手入れをしているわけではない。“勝手に美しくなる”のだ。
 あの客人たちは褒めてくれた。と燭台切が嬉し気に語っていたが、事実を知っていて何故喜べるのか。俺には分からない。

 美しいものは美しい。

 その心は分かる。言いたいことも、勿論。
 だがここは“生きとし生ける者”が存在出来る場所ではない。現世から切り離された“異境の地”。“神域”とは名ばかりの、動く監獄だ。どこにも行き場はなく、逃げ場もない。この『本丸』の先に続く森の先に何があるか、誰にも分からない。無限に森が続くのか。それともある地点から道が繋がり、またこの本丸へと戻ってくるのか。分からないまま、時折迷い込む“人”を待っている。

 いや。今の言葉では語弊があるな。

 俺が待っているのは“我々の”主だ。見知らぬ客人ではない。
 だが、そうは言っても……いつの間にかこの本丸に残っている刀は俺と燭台切の二振りだけになってしまった。

 気づけばそうだった。一振り、また一振りと刀たちが消えて行った。何を言うでもなく、本当に“唐突に”姿を消したのだ。
 初めは狼狽えたものだ。俺だけでなく、他の者たちも。だがどれだけ議論しようにも答えはどこにもなく、またどんなに警戒しても事態は好転しなかった。俺と燭台切だけになる前、最後まで残っていたのは『へし切長谷部』であった。苛烈な男は『何かが狂っている。誰かが狂っている。分かっているのに、自分は何もできないのか――』と、泣きそうな顔で怒っていた。
 そして、その翌日に長谷部は消えた。

 皆がいなくなってからどれ程経ったのだろう。
 時間の概念がない。進んでいる時間がどれほどかも分からないまま、俺は日々を過ごしている。

 黙々と歩いていれば、当然幾つもの部屋の前を通り過ぎる。普段は気に留めないが、今日は何となく立ち止まり、試しに閉められていた襖を一つ開けてみる。だが当然ながら、俺と燭台切以外いなくなった本丸に“誰か”がいるわけがない。
 広がる冷たく無人の部屋。“誰かの部屋であった”跡はあっても、存在していたはずの“当人”がいない。机の上に置かれた本も、引き出しに仕舞われた香や文も、そのままだ。

「……ここは、日本号の部屋か」

 いつの間にか姿を消してしまった美しい槍。一見ずさんでいい加減な男に見えるが、実際は品位も教養もある器の大きな男だった。何度か酒を飲み交わしたこともある。話ていて気持ちのいい男だった。そんな彼も、早いうちに姿を消してしまった。

「……主……」

 俺は、主の顔を知らない。

 いや、厳密に言えば会ったことはあるのだ。顕現した時に、確かに対峙した。だが主は“面”を付けていて、素顔は分からなかった。
 声も、直接交わしたわけではない。俺が呼ばれた意味を話したのは、主の傍に常に立っていた『初期刀』と呼ばれる刀だった。
 男は『山姥切国広』と名乗った。白い布で顔を隠した、無愛想な男だった。
 それでも実力は折り紙付きで、決して弱い男ではなかった。数多の刀剣をまとめ上げる主の片腕として、確かに働いていたのだ。

 だがそんな彼も、ある時戦場で“折れてしまった”。

 俺はその出陣部隊に組み込まれていなかったから詳細は知らないが、共に出陣していた刀たちによると仲間を庇って『検非違使』に折られてしまったらしい。
 折れた刀身を持ち帰った皆の前で、主は無言で“彼”を見つめていた。無表情な面の向こうでどんな顔をしていたのか。それは誰にもわからない。

 主は初期刀以外の刀とは決して言葉を交わさなかった。部屋を出る時も山姥切が鈴を鳴らし、それが聞こえたら俺達は部屋へと下がらなければならなかった。
 決して主の姿を目にしてはいけなかった。
 皆が皆不思議に思いながらも、それが『この本丸に定められた絶対厳守の掟なのだ』と説明されたら従わないわけにはいかなかった。

 初期刀だけが姿を見ることが許され、初期刀だけが言葉を交わすことが許された。
 だがそんな初期刀が“折れてしまった”ら、主はどうなる――?

 主は狂った。それは静かに。とてもとても、静かに。狂っていった。

 鈴は自分で鳴らすようになった。
 言葉の代わりに掲示板で命令を下すようになった。
 あらかじめ用意していた書類で、新しく顕現した刀剣男士に『何故自分が呼ばれた』のかを詳細に説明した。

 誰もが主の声を聴きたがった。誰もが主の姿を見たがった。
 けれどそれは許されなかった。

 一度、主の姿を見た者がいた。その者は主の怒りを買い、“破壊”された。
 ああ、いや。厳密に言えば『刀解』だったかな。とにかく、その者は殺されてしまったのだ。他の誰でもない、主の手によって。

 それが知らされていたから、俺達は誰も無理に主の姿を見に行くことはなかった。知りたくとも一歩を踏み出すことが出来なかった。別に『殺されたくなかった』からではない。主に『手放される』『必要とされなくなる』そういうことを皆は嫌がったのだ。我らは刀。主人に使われてこそ初めて心の底から歓びを感じられる存在。だから『不必要』とされることは多くの者にとって恐怖だった。
 だがもしその一歩を踏み出すことが出来ていれば、あるいは止められたのかもしれない。静かに狂い征く主を。今となってはもう遅い話ではあるけれど。

 日本号の部屋を出て、とある場所へと足を向ける。そこには姿を消した刀剣男士たちの本体――肉の器を失った彼らの“墓場”だ。
 実際、ある者は『我々の墓場だ』と言い、別の者は『永久的な安息地だ』と揶揄した。そこには俺と燭台切を除いた五十七振りの刀が眠っている。本当に、寂しいものだ。

「我々は……いや、俺は、どうなってしまうのだろうな」

 以前は返事をしてくれた、話し相手だった刀たち。今ではすっかり独り言になってしまった。以前の主たちも、こんな気分で我々に話しかけていたのだろうか。分からないが、とても寂しかった。
 本当に、何故、どうして。こうなってしまったのか。何故主は、何も言わずに狂ってしまったのか。

 止める術はない。知る術も。あったとしても、今の俺には分からない。

 嘆くばかりの情けない身にほとほと嫌気がさす。けれど本当に何も分からないのだ。見知らぬ土地で迷子になったかのように、今の自分は無力だ。
 突然現れるようになった“少女・ももか”のことも――。

 あの子は、本当は、まだ生きているのに。

 つくづく情けない話だ。
 願わくば、心優しい、そして芯の強い誰かが、彼女を救ってくれることを。

「ももか、せめてそなただけは……」

 どうか、無事でいて欲しい。
 もう何日も姿を見ていない一人の少女の安全を、俺はひたすら祈るばかりだった。


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