小説
- ナノ -



――あたたかな場所にいる。包まれている。

 そう感じた時には、俺はあの『本丸』の中にいた。

「……ここは……」

 見覚えがありすぎるほどの赤い世界。誰もいない荒れた本丸。襖に飛び散った血痕。その中庭でぼうっと突っ立っていると、奥から一振りの刀が出てくる。
『前田藤四郎』だ。
 その体には幾つもの呪術が刻まれ、崩壊寸前だ。彼も俺同様、あの男――鬼崎に弄ばれ、傷つけられた身だ。それを哀れに思っていると、俺の横を見慣れた小さな影が勢いよく通り過ぎる。

「! 主!!」

 叫んだ声はしかし、彼女に届くことはなかった。彼女はボロボロになった前田の手を取ると俯き、何事かを呟いた後に顔を上げる。そして他の刀――何度か世話になった政府の男。武田の刀たちと一緒に本丸の中へと入っていく。

「待て、主。そっちはダメだ」

 本丸の奥に何があるのか。俺は知っている。俺自身が拷問を受けた部屋よりも更に禍々しく、酷い呪詛の念に満ち溢れている場所――彼女のような“生者”がまともに辿り着ける場所ではない。そう思い本丸に踏み込んだ瞬間、主の姿が見えなくなった。

「どういうことだ……? 主! 主!!」

 彼女を守らねば。あの禍々しい気に溢れた場所に連れて行ってはいけない。彼女が呪われてしまう。
 奥へと続く襖を開け、道なりに進んでいく。だが開けど開けど目的地には出ない。おかしい。“道”はあっているはず。あの呪詛の詰まった部屋に、この“道”で辿り着くはず。焦る気持ちをどうにか押し殺し、何度目かの襖を開けた先で息をのむ。

「……陸奥守……」

 そこにいたのは、床に張り付けられた血塗れの陸奥守だった。彼は『彼女の』陸奥守ではない。この本丸の、我々を顕現させた鬼崎の陸奥守だ。彼は自身の刀で両手を床に張り付けられ、あらゆる場所から血と臓腑を垂れ流しながら僅かに息をしていた。

「……これは、過去……か」

 呟いた瞬間、陸奥守の瞳がこちらを向く。息も絶え絶えだったはずの彼は、既に呼吸を止めていた。

「……陸奥守。ここは、黄泉の世界か?」

 張り付けられた彼の傍に膝を着けば、喉元を斬られた陸奥守が何事かを呟く。しかしその口からは大量の血が溢れるのみで、何を言いたいのかサッパリ読み解くことが出来なかった。

「彼女は……俺の主は、無事なのか?」

 水野、と名乗る我が主。俺が認め、俺が自身の『主』だと認識しているあの小さく丸い、愛しき人の子を探していることを伝えれば、陸奥守の体が横たわる向こう。閉じられていた襖が音もなく開いた。

「平野藤四郎、か……」

 彼の体も前田同様大量の呪詛に蝕まれている。肌の色は勿論、髪の色さえも変わり、その身には禍々しい気を纏っている。彼は無表情に俺と陸奥守を一瞥したかと思うと、黙って廊下の向こうへと歩き出す。

「すまん、陸奥守」

 床に張り付けられた彼をそのままに、俺は平野を追いかける。最後にちらりと振り返った先にあったのは、血に汚れた畳と、その上に折れた刀が一振り横たわっているだけだった。

 平野は振り返ることなく歩く。そして裏庭にある小さな門を抜けたかと思うと、先程とは違う場所に出た。

「ここは……あの時の……」

 出たのは鬱蒼と木々が茂る森であった。ここは主が最後の怪異にあった場所だ。前を歩いていた平野の姿は大きな黒い『蜘蛛』となり、増えた足を動かし森の中へと消えていく。

「待て、平野」

 ただでさえ足の速い平野が、多大な力を纏った『蜘蛛』となったことで一層早くなる。しかしどういうわけか、俺はどうにか着いて行くこと出来ている。この体が魂だけの存在だから出来るのか、それとも平野引っ張られているのか。それはよく分からないが、俺は平野が顔を出した茂みの向こうに『彼女』を見つけた。

「主!」

 彼女は俺には気づいていないようだった。ただ平野を見ている。呪詛によって姿形が変わり、様々な蟲たちの憎しみを纏った『蜘蛛』は、主に向かってその口を大きく開く。

「止めろ!」

 俺が叫ぶと同時に、見慣れた姿が主の前に立ちはだかる。
――鶴丸だ。彼は白い衣装を翻し、抜き去った自身で平野の腕を斬り飛ばした。蜘蛛の内側、呪詛に蝕まれた体の奥で平野が痛みに悲鳴を上げる。

「やめろ……待て、やめろ、やめてくれ、鶴丸!!」

 主の背後、もう一振り現れたのは鶯丸だ。そして彼もまた、主に近づこうとした『幽鬼』となった一期一振を斬る。きっと鶯丸たちの目に、彼らの本当の姿は見えていないのだろう。
 多くの幽鬼となった刀たちが『主』を逃がそうと探し回っている。それに対し警戒心を露にし、刀を構える二振りだが、違うのだ。その者たちは、皆『彼女』を助けようとしているだけなんだ。

「ギィィイイイ!!」
「平野!!」

 再び平野の体が傷つけられる。平野も抵抗したが故に鶴丸の体から血が滲むが、その大半は平野から流れ出る血だ。白い身体が赤く染まっていく。そして蠢く蜘蛛の中では、平野が痛みに呻き、体を丸めて泣いている。

『三日月、さま……どうか、どうか……“あの方”を……はやく……』
「ああ、ああ、分かっている、分かっているとも」

 助けなければ。助けたいのだ。皆がそう思っている。我らの主は皆の主だ。皆、鬼崎によって苦しめられ、無念でいっぱいだ。幽鬼となった燭台切と目が合う。彼はその青白い顔に泣き笑いとも呼べそうな弱々しい笑みを向けると、主の背後を指さした。

「……――すまん」

 鶯丸と主が駆け抜けるより早く、俺はそちらに向かって走り出す。あの時の俺は主を迎えに行くことが出来なかった。助けることが出来なかった。主が死なないよう、その魂が消えぬよう、鬼崎が彼女の魂に気付かぬよう、必死に自身の霊力で彼女の霊力を掻き消し、惑わせることで精一杯だった。
“道”を開かねば彼女は戻れない。俺はいつの間にか手にしていた自身を抜き去り、その“空間の裂けめ”に向かって刃を振り下ろした。

「鶴丸!! 私、帰る! ちゃんと帰るから!!」

 主の悲痛とも呼べる声が聞こえたかと思うと、鶯丸が主の手を引きこちらに向かって駆けてくる。そして、平野が最期の力を振り絞り、その腕を伸ばした。

「……ありがとう。あなたのこと、忘れない」

 主の手が、平野の手に触れる。『蜘蛛』となってしまった幼い手に、彼女のあたたかな手が確かに触れた。

「さよなら」

 直後、前田の腕が肩から切り離される。鶴丸の、渾身の一振りによって。
 血塗れになった鶴丸が“道”の向こうに消えていく。そして俺は、自身の流した血潮の中へと沈んでいく平野に近づいた。

『……みか……づき、さま……』
「ああ……もう大丈夫だぞ……何も心配することはない……彼女は、我らの主は、ちゃんと逃げおおせたぞ……」

 平野の斬られた四肢から、腹から。大量の蟲が湧き出てくる。ムカデ、蜘蛛、蛆、もっと他にも、沢山。それらは平野が流した血の海の中で一通り悶え、絶命した。
 そして平野も、虚ろな目を開けたまま息を引き取る。その瞼を、そっと下してやった。

「……皆もすまなかったな……主を探してくれたのだろう?」

 殆ど消えかかっている『幽鬼』となった皆に問えば、彼らは一様に頷き、ゆっくりと消え去った。本当は『声』を発するだけでも相当な力が必要だっただろうに、皆『彼女』を守るために命を懸けてくれた。その思いを、俺はしかと覚えていなければいけない。

「……主……」

 閉じた空間の裂け目に手を這わせれば、勢いよく引き込まれる。それに驚いたのも束の間、今度は暗い本丸の中庭に立っていた。

「……戻ってきた、のか……」

 あの静まり返っていた本丸とは思えないほどに活気に満ちた声が聞こえてくる。ふらふらと近寄れば、大広間には多くの刀が集まり、酒や料理を並べ笑いあっていた。

『おお! 三日月じゃないか! お前も遂にこっちへ来てしまったか』
「鶴丸か。これはどうしたんだ? この本丸では見ることの出来ない光景だと思っていたんだが」

 飲めや歌えやの大騒ぎ。大広間には鬼崎の手により折られた多くの刀が宴を楽しんでいた。

『水野様のおかげです』
「前田」

 背後に現れたのは『前田藤四郎』だ。前田は『主』のおかげで救われたのだと言う。

『水野様が蟲毒の元となるすべての壺と木箱を運び出し、浄化してくださいました』
『ああ。彼女のおかげで俺達はこうして宴を開くことが出来る。もうあの男に苦しめられることもない』

 厨から燭台切が晴れやかな顔で新しい料理を運んでくる。そしてこちらに気づいたかと思うと、先程見た時とは打って変わって明るい声をあげた。

『三日月さん! お疲れ様!』
「ああ……そなたも、よく頑張ったな」

 鶯丸によって斬られた腹は既に塞がっている。その近くでは江雪と大典太が酒を飲み交わしていた。

『これでようやく俺達も報われる』
『ええ……もう誰かを怨む必要がないのだと思うと、ほっとします』

 彼らの体からも呪詛は消えている。そして奥の襖を開け、入ってきたのは陸奥守だった。

『おお、三日月か』
「陸奥守……すまなかったな。見殺しにして」

 あの時、俺は陸奥守を置いて平野を追いかけた。そのことを謝罪するが、彼はあっけらかんと笑い飛ばす。

『えいえい。どうせ折れちょった身じゃ』

 そしてすぐさま「パンッ!」と両手を叩いて皆の意識を自分に集めさせた。

『ほいじゃあ本題に移るぜよ。わしらの主、ああ。あんべこのかやない方の主じゃ。あの子をここに招待したい思うがよ。どうじゃろうか?』
「主を、か?」

 陸奥守の言う『主』は鬼崎の方ではない。俺達が認め、主と呼ぶのはただ一人。『水野』と名乗る彼女だけだ。しかしここはどう見ても生者が来るべき場所ではない。困惑する俺に向かい、前田が微笑む。

『大丈夫です。主君の御霊は僕がお守りします。それに……』
「ああ、そういえば主の“魂”は既に守られていたな」

 俺達より遥かに強い、古より存在する“竜”の力を彼女はその身に宿している。いや、厳密に言うと“守られている”か。触れようとすれば手強く弾かれる、あの鋭利な視線を思い出す。

『そういえば、三日月様は一度かの竜神様に睨まれていましたね』
「ああ。我々と結んだ関係はそう簡単に覆せんと主に説明したらな、本当に無理なのか? と問うてきたので刀身を向けたんだ」

 すると柄に手を掛けた小夜だけでなく、彼女の魂を守っていた竜神にまで睨まれてしまった。それも今にも噛み殺さんとする、多大な殺気と共に。

「いやぁ、恐ろしかったぞ。我々も神とはいえ、所詮末席だ。土地神の足元にも及ばんよ」
『それは災難でしたね。主君は自らの魂が土地神に守られているとは知らないでしょうし……』
「あの時は“拒まれている感じがする”と濁したがな、正直生きた心地がしなかったぞ」

 小夜の殺気も勿論凄かったが。と続ければ、陸奥守の後ろから堀川と歌仙が出てくる。

『あ、三日月さん』
「おお。息災……とは言えんな」
『お気になさらずに』

 既に折れた身に『息災であったか』とは皮肉もいいところだ。苦笑いする俺に対し堀川は穏やかに笑い、その手に抱えていたものを見せてきた。

「それは?」
『水野さんの本丸で折れてしまった皆さんです。主さんが戻ってくる前に、僕たちで回収しようという話になりまして』

 聞けば主は現在本丸を空けているらしく、生き残った皆も政府の男の手により管理されているらしかった。そこで堀川たちは折れた鶴丸たちを回収し、こうして桐箱の中に収めてきたのだという。

『ほー。それが彼女の本丸に行った俺達か』
『彼らも悲惨な目に合ったものだ』
『ですが、穏やかな最期であったと聞きます』
『ああ。あんな晴れやかな気持ちで逝けたのは、顕現して初めてだろう』

 折れた刀――鶴丸、鶯丸、江雪、大典太が近づき、それぞれの砕けた刀身を見つめる。そして何を思ったのか、突如鶴丸はポンと手を叩いた。

『よし! では俺達も彼女に恩返しをするとしよう!』
『ほお。その名の通り“鶴の恩返し”か。一体何をする気だ?』

 楽し気な鶯丸に向かい、鶴丸は『フフン』と腕を組んで胸を張る。そして弾むような声で軽やかに言い放つ。

『俺達の手で彼らを彼女の元に返してやろう。何、ちょっと無理はするが、出来ないことでもない』
「だが、それは……」

 確かに、我々の力を持ってすれば『復元』することはそう難しいことではない。元より『生者』ではないからだ。故に『死者蘇生』と呼ばれる禁忌を犯すことにはならない。だがそれでも、刀身を『復元』することは出来ても『受肉』させることは難しい。それが出来れば彼らもずっと『霊魂』のまま残ったりはしないだろう。
 顔を顰める俺に鶴丸は笑う。

『確かに一筋縄ではいかないだろうな。だがこの身を捧げれば、そう難しいことではない』
「……待て、お主まさか……!」

 ハッとする俺に、鶴丸は悪戯が成功したような笑みを浮かべる。その手に握られていたのは、男が特殊な時間遡行をするために使った術札だった。

『俺達は文字通り“消滅”するが、その代わり“彼ら”を呼び戻すことが出来る。何、元より本科に戻るだけの命だ。どう使おうが俺達の自由だろう』
「だが……」

 自らのすべてと引き換えに、失った“彼ら”のすべてを取り戻す。同じ刀だからこそ出来る、ある意味でたらめな『等価交換』をしようとしているのだ。だがそれに鶴丸だけでなく、鶯丸たちも乗ってくる。

『ほお、いいじゃないか。折角だ。俺もその案に乗ろう』
『では私も。弟たちを大事にしてくださったお礼です』
『俺も参加しよう。我が主のために命を賭けるのは当然のこと。例え俺達が消滅しようとも、こいつらが彼女を守るさ』

 皆がそれぞれ術札を手に取る。そしてそれを黙って見ていた皆の中から、陸奥守が近づいてくる。

『おんしらの事はわしが最期まで面倒みちゃる。頼んだぜよ』
『ああ、任せてくれ。俺達を、例え折れていたとしても、だ。思ってくれた彼女に返せるものがあるとしたら、これぐらいだからな』
「……そう、か」

 心優しい主のことだ。折れた彼らを見てきっと涙し、深く心に刻んでくれたのだろう。彼らは互いに頷くと、それぞれ鍛刀場に向かって歩き出す。

『じゃあちょっと遡行してくるわ。皆、元気でな!』
『彼女が来たら手厚く歓迎してやってくれ。決して俺達のことは言うなよ?』
『宗三、小夜。今度こそお別れです。私は、主のためにこの身を捧げてきます』
『前田。主のことを頼む』
『はい。命に代えてでも、お守りいたします』

 それぞれがそれぞれに想いを託しながら広間を出て行く。陸奥守と前田、そして皆と揃って四人の背を見送れば、陸奥守から軽く背を叩かれた。

『あとはおんしだけじゃ』
「ああ。だが、俺は……」

 術札は、もうない。鶴丸が手にしていたのは四枚だけだ。そもそも俺はここにいる皆とは違う。完全に折れたはずなのに、何故か在り様が違う。

『おんしはちっくと特別やき』

 そう言って笑った陸奥守は、とある部屋へと俺を導く。

『おんしはここで待ちとうせ』
「ああ。分かった」

 その部屋は何の飾り気もない、普通の部屋だった。そこでじっと時が過ぎるのを待つ。一つ陽が上り、一つ月が落ちる。また一つ陽が上り、また一つ月が落ちる。それを何度繰り返し、どれほど月日が経った頃だろうか。ふと気が付けば俺の前にもう一人の『三日月宗近』が座っていた。

「…………」
『…………』

 驚いて瞬きをする俺の前で、もう一人の俺が艶やかに笑う。この男は……。

『悪いが何振り目の“俺”かは知らんぞ?』
「そうか……主は? もう戻ったのか?」

 きっと先程までは主がいたのだろう。障子の奥から差し込んでいた光も今はなく、ただ静寂と暗闇に包まれている。きっともうこの部屋以外、あの本丸は残っていないのだろう。

『長かった……ああ、長かったなぁ……』

 もう一人の俺はしみじみとそう呟いたかと思うと、傍らに置いていた刀を差し出してくる。それは折れていない『三日月宗近』だった。

「まさか、お前はあの時の……?!」
『ああ。鬼崎に振るわれていた“俺”だ。奴の“最高傑作”などというバカげた名前を付けられた、哀れな男の末路だ』

 鞘から抜かれた刀身は、既に清められているらしく呪詛の念は残っていない。封じられていたから受肉することすら叶わず、ただの刀として振るわれていた『三日月宗近』。そんな彼はどこか晴れやかな顔で自らの刀身を見つめると、俺に向かって差し出した。

『お前と違い“俺”は全て覚えている』
「……そうか」

 俺は全て忘れてしまった。この身に残っているのは、主である彼女との思い出と、あの男との忌々しい記憶だけだ。だが目の前にいる『三日月宗近』は全て覚えているという。呪いに身を浸したのは同じではあるが、結界を使わなかったから失わなかったのだろう。だがそれを特別羨ましいとは思わない。

『剣を取れ、三日月宗近。それが俺達の宿命だ』

 全てを知り、全てを見てきた『三日月宗近』がそう命令する。だが俺はもう、誰かに“命令”されるのはうんざりだった。

「すまんが、断る」
『――何? 正気か?』

 はっきりと断言する。俺はもう、誰の命令にも従ったりはしない。自らの主以外では。

「俺は“主”の刀だ。お前の分身でも弟分でもない。根幹が同じであれ、貴様と俺は別の存在だ。命令を聞く道理はない」
『愚かな。もっとよく考えるがいい。この剣を取れば、お前は全てを思い出す。強くなれる。今度こそ、守るべき者を己の手で守ることが出来るのだぞ?』

 三日月は淡々と、しかしこちらを急かすようにして言葉を放つ。だが俺の心が揺らぐことはない。俺の心を揺さぶるのは、いつだって彼女の言葉だけなのだから。

「当たり前だ。俺であって俺でない貴様の剣など、取ったところで意味がない。“俺自身”が強くあらねば、意味がないのだ」
『何を言う。俺とお前は同じ存在だ。一つになればいい。そうすれば、俺もお前も彼女を守れる』

 笑う三日月に、俺は嫌悪を示す。あの男と一時でも傍にいた身で、彼女に触れるなど許されることではない。そしてそれは、俺自身にも言えることだ。

「彼女に触れることは許さん。例えそれが己自身であっても、俺は許すことが出来ない」

 大事にしてくれた。最後の最期まで。俺を信じ、尊敬し、尊重してくれた。そんな彼女の手を汚す存在を近づけていいはずがない。
 もう一人の俺の提案を強く弾き返すと、何故か目の前の『三日月宗近』は声を上げて笑い出した。

『はっはっはっ! 何も覚えていない童のくせに、よく吠える』
「な、し、失礼な!」
『いや、何。すまんすまん。別にバカにしたわけではない』
「嘘をつけ。今明らかにバカにしていたであろう」

 思わず目の前にある楽し気な顔を睨めば、もう一人の俺は未だに喉の奥で笑いながら纏う空気を和らげる。

『はあ……全く、お前は俺であって俺でなし……とは、よく言ったものだな。まさに“別人”だ』
「何が言いたい」

 要領を得ない男を再度睨めば、男は刀を手元に戻し、それからもう一度差し出してきた。

『取れ。三日月宗近。今度こそ主を守るために』
「? 何をバカな。だから俺は貴様の手など取らぬと、」
『そうではない。俺の命を使い、もう一度彼女の元に戻れと言っているんだ』

 落とされた言葉に、思わず目を見開く。

『俺は当に主人を失った身だ。それに俺とてまたあの男の元に戻りたいとは思っておらんよ』
「では……」
『俺こそ主人を選べるのであれば、お前と同じように彼女を主人として選びたかった。だがそれは出来ない。俺はもうあの男と契約した身だからな』

 ピシリ、と頑なだった世界にヒビが入る。それにハッとして目を配らせる間にも、ドンドン壁や障子、畳にヒビが入っていく。

『受け取れ。三日月宗近。俺であって俺でない三日月よ。そなたが為すべきことは未だある』
「為すべき、こと」

 全てを失った。記憶も身体も何もかも。それでも、俺にまだ何か出来ることがあるのなら――。

『全身全霊で彼女を守れ。それが、俺達――この本丸で折れた“全ての三日月”の願いだ』

 世界が崩壊する。

 崩れ去る足元から暗闇を抱く奈落の底へと落ちていく。その寸前に握らされたのは、もう一人の俺の魂が宿る『三日月宗近』だった。

『もう折れるでないぞ』

 欠けた月を宿した瞳がやわらかな色に包まれる。そして暗闇だった世界が突如色を持ち、背後から熱を与えてくる。

「ここは……」

――火の中に落ちていく。赤々と燃え盛る炎の中に、落ちていく――。
思わず振り返れば、もう一人の俺は既に砕けて見えなくなっていた。

 呼ばれる。呼ばれている。

 燃え盛る業火の更に奥で、光るものがある。あそこに行けば彼女に会える。もう一度、主の元へ――。



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