小説
- ナノ -




 母が連絡を取ってくれた翌日、武田さんと柊さんは揃って顔を出してくれた。だがそこで驚愕の事実が露になる。

「……見えない、です」
「本当に見えないんだな?」
「はい……」

 そう。私は完全に“霊力”を失っていた。
 発覚したのはつい先程だ。いつものように「よう!」と気軽に挨拶をしながら入室してきた武田さんと、礼儀正しく「こんにちは」と挨拶してくれた柊さん。常ならばここで武田さんが連れている太郎太刀が挨拶してくるのだが、それがない。今日は珍しく連れてきてないのかな。と思い問いかければ、一瞬でその場の空気が凍った。

「まぁそんな気は薄々していたが……」
「え? 何でですか?」

 ショックのあまり頭を抱える私とは裏腹に、武田さんも柊さんも曇った表情でありながらもそこまで驚いた様子はない。むしろ『想定内だ』と言われ説明を求める。

「水野さんの刀たちは今俺の本丸で保護している。最初は大人しく過ごしていたんだが、数日前から突然刀に戻ってな。こちらがどれほど呼びかけても一向に応えないんだ」
「私たちの上司に見てもらったところ、どうやら“自らの意思で肉体を手放した”か、“審神者の霊力がなくなった”かのどちらかだろう。と……」

 聞けば審神者の霊力が尽きた瞬間、刀剣男士たちは肉体を維持することが出来ず刀に戻るらしい。元々少なかった霊力だ。いつまでも無限にあるものでもなく、こうして力尽きることもままあるらしい。

「だがやりようによっちゃあ刀剣男士たちを顕現し続けることも出来る」
「そうなんですか? でも、どうやって?」

 もし可能であれば自分もそうしたい。審神者を続けられないのだとしても、せめて一言ずつぐらいは話がしたいからだ。だがその対価はあまりにも大きかった。

「俺は断固として進めねえけどな」
「するしないは別として、教えるだけでも教えてくれませんか?」
「寿命です」
「……へ?」

 渋る武田さんの代わりに答えたのは柊さんだ。だがあまりにもアレな単語が聞こえ、思わず声がひっくり返る。固まる私に柊さんは聞こえていなかったと思ったのか、もう一度、今度はハッキリと。『寿命』が対価なのだと教えてくれた。

「人によって違いますが、平均として刀剣男士の肉体を一年保つのに必要な寿命はおよそ十年です」
「ファーーーッ?!?!?! じゅ、十年?!?!?!」

 十年って……生まれた子供が小学校に上がって元気にはしゃぎ回るぐらいの時間じゃないか……。呆然とする私に武田さんが渋い顔のまま続ける。

「元々霊力が少なかった審神者や、刀剣男士の数が多い審神者ほど消費される寿命が長い。だから無理に審神者を続けても精々が四、五年ぐらいだ」
「ま、マジですか……」
「はい。ですから私たち政府は審神者の霊力が尽きた時点で降りてもらうようにしています。命に関わることですから」

 それでも中には無理矢理続ける人がいる。その大概が身寄りのない人らしい。

「一人で老いぼれて死ぬより、本丸で刀剣男士に看取られたい。ってな。そういう時は俺達も無理に辞めさせられねえから、本人の意向に沿うようにしている」 
「ですが水野さんにはご家族がいます。無理に審神者を続けて頂く必要はありません」

 柊さんの言う通りだ。私も天涯孤独で、親しい友人も恋人もいなかったら本丸で死ぬことを選んだだろう。でも私には帰る場所がある。家族も友人もいる。そんな人たちと審神者業を天秤にかければどちらに傾くか。以前の私であれば即決していただろう。
 でも、今は。

「でも、どうしても行かなきゃいけないところがあるんです」

 せめてあの本丸の前田藤四郎だけでも救いたい。願いを込めて口にすれば、何故か二人は困ったように顔を見合わせた。

「本来なら俺達はそれを止めなきゃいけねえ。けどな、俺たちも水野さんに一つ頼らなきゃいけないことがある」
「え? 私に、ですか?」
「ああ。あんたにしか出来ないことだ」
「何でしょう?」

 てっきり私は『あの男と何を話したか教えてくれ』的なものかと思っていたが、実際はそうではなく、武田さんは予想外のことを口にした。

「水野さんの本丸だ。今あの本丸に、俺達はアクセスすることが出来ないんだ」
「へ? 本丸?」

 そういえば、襲撃事件があった後どうなったのか考えてもみなかった。刀たちは既に武田さんの本丸で保護されている。では何故今更本丸に向かう必要があるのか。疑問を抱く私に柊さんが説明してくれる。

「あのようなことがありましたから。今後の参考に、ということも含め、調べたいことや確認しなければいけないことがあったので……。ですが何度試してもゲートが繋がらないのです」

 結界は壊れたはずだ。それなのに本丸に繋がらないという。だけど政府が使うゲートでも繋がらなければ私がいたところで無意味では? と首を傾ければ、武田さんが「それは違う」と否定する。

「上司の所の石切丸が言うには、“本丸自体が主人の帰りを待っているから他者を拒否している”らしい」
「本丸自体が、ですか……?」
「ああ。俺も初めて聞いたが、本丸にも僅かながら意識があるらしい。主張はしてこないがな。だが今水野さんの本丸は無人だ。守る者は誰もいない。それで本丸自身が蓄えていた霊力を解放し、部外者が立ち入り出来ないよう結界を張っているんじゃないか、ってことだ」
「で、でも私の霊力は……」
「そうなんだよなぁ……それが問題なんだよなぁ……」

 そうなのだ。幾ら本丸が忠犬ハチ公の如く私の帰りを待っているのだとしても、私自身が霊力を失ってしまった。基本的に本丸と言うのは霊力を持たない人間は入ることが出来ない。それは本丸自体が異空間にあるからだ。言わばゲートは霊道のようなもの。霊力の持たない私では入ることは勿論、見ることすらもう出来ないだろう。

「まあ、これについては何か対策を練ろう。でもあんたなら霊力無くてもどうにかなりそうなもんだけどなぁ」
「いやいやいや……流石に人外になった覚えはないですから……」
「そうですね。水野さんが言う“もう一つの本丸”についても調べなければいけませんし……今日は詳しい話を聞くだけにしましょう」

 様々な問題が山積みになる中、それでも柊さんが上手く仕切って流れを変えてくれる。私は自身が今までに体験した怪異について、そして男が話したこと、もう一つの本丸。そこで見た『前田藤四郎』に関しての全ての事を話し、その日はお開きとなった。

「でもまさか霊力が無くなっているとは……どこに行ったんだろうなぁ。私の霊力」

 というか霊力って何があれば枯渇するんだろう。よく分からないな。武田さんたちに聞いても詳しいことは未だに分かっていないそうだ。これと言って心当たりはないが、ないものはない。寿命を対価にすればいいらしいが、それもどうすればいいのかは教えてくれなかった。きっと二人は私がそうすることを拒んでいるのだ。優しい人たちだ。本当に。
 でもそんな人たちの思いを裏切ってでも、私はあの『前田藤四郎』を助けたい。そのためならば一年か二年ぐらい寿命を対価にしても問題ない。しかしそんな思いを抱えていても方法が分からないのだからどうしようもない。すっかり夜も更けてしまったし、もう今日は寝てしまおう。今はとにかく体力を回復させなければ。明日からリハビリも始まるし、頑張らなきゃ。
 気持ちを新たに深呼吸を一つし、横になって目を閉じる。そんなに疲れていたとは思わなかったが、私の意識はあっさりと落ちて行った。

 が、どれほど眠ったのだろうか。ふと気が付けば私は真っ暗な闇の中にいた。またどこかに飛ばされたのか? それとも怪異か? 右も左も上も下も分からない中突っ立っていると、あの罅割れた声がどこからともなく聞こえてくる。

『ァルジ、』
『アルジサマ』
『コッチ、コッチダヨォー』
『アルジサマー』

 今度の声は今まで以上に歪だ。かろうじて何を言っているのか予想はつくが、もう殆ど異音と言っても差し障りがない。ただ恐ろしいことにそれは徐々に近づいてきているらしく、声がだんだん大きくなってくる。
 これは不味い。早く逃げなければ。
 そう思うのにどちらに行けばいいのか分からない。むしろ今立っている地点から先に道はあるのか。一歩踏み出した瞬間奈落に落ちるのではないか。迫りくる声に焦りつつも立ち往生していると、突然誰かが私の手を握った。

「え?!」

 だが暗闇の中ではその手が見えない。サイズは然程違わないが、しっかりとした造りをしているからきっと男性だろう。しかし肝心の相手の姿は全く見えず、体中からどっと嫌な汗が噴き出してくる。
 捕まったのか。ついに私は捕まってしまったのか。慄く私の手を、掴んだ手が勢いよく引っ張り出す。

「や、ヤダ! 連れて行かないで!!」

 必死に抵抗するが、その手は構わず私を引っ張っていく。相当力が強い。だけど私はすぐに抵抗することを止めた。何故なら追いかけてくる声が遠ざかりつつあったからだ。

――逃がしてくれている。

 そう理解した瞬間、私はその手に引かれるままに走った。暗い、本当に真っ暗な闇の中を掴まれた手を頼りに走る。息が切れるが胸は苦しくない。夢の中だからだろうか。声は遠ざかったがまだ追っているらしく、背後から『アルジサマー』『マッテョー』などと聞こえてくる。あの声に捕まれば今度こそ私は終わりだろう。この手が誰のものかは分からないが、今は信じて身を任せるだけだ。戦えない私に出来ることはたった一つ。素直に言うことを聞いて走り続けることだけ。
 追い続けてくる声にどれほど走っただろうか。マラソン大会よりも更に長い間走った頃、ようやく私の意識が切り替わった。

「…………朝……」

 チュンチュン、と雀の鳴く声がする。窓の外からは昇りつつある太陽が明るい日差しを部屋に送り込んでいる。体を起こそうと上半身を片手で支えると、手の平に違和感がある。そこを開くと、いつの間に握っていたのだろう。小さな紙切れがクシャクシャになっていた。訝しみながらも開けば、歪な文字で数字が書かれている。それは一見すると暗号のようであったが、私は直感で理解した。
 これはあの本丸が存在する座標値だ。ではあの夢の中で私の手を引いてくれたのは……。霊力を失ったことで姿が見えなかったのだろう。けれどまたもや私を助けてくれたのは、あの『前田藤四郎』だ。それを思うと自然と涙が浮かんでくる。だけど今度はそれが流れる前に袖で乱雑に拭い、私は携帯を手に取った。

 私は今日、あの本丸へ行く。
 いや、行かねばならないのだ。きっともう、あの子の命は長くはない。だから早く会いに行かなければ。あの子が本当に、心の底から呪術に侵されてしまう前に。

 早朝であったにも関わらず、武田さんは迷惑がらずに話を聞いてくれた。結果、武田さんと柊さんは今日の予定を急遽変更して付き合ってくれることになった。それに感謝の意を伝えて通話を切った後、私は一つの事実に気づき愕然とする。

「傷が……治ってる……?」

 負った傷は酷く深かった。右腕と左足。両方とも数年のリハビリを得てようやく動くだろう。ということだったのに、何故か私の傷はどこにも見当たらず、綺麗サッパリ無くなっていた。それこそ、初めからそんなものなどなかったかのように。しかし幾ら疑問に思っても私の中に答えはない。もしかしたらその答えがあの本丸にあるのかもしれない。
 だからこそ早急に行くべきなのだ。

 数時間後、待ち合わせ時間が来たのでベッドを抜け出し二人を迎えに行った。当然歩けるはずのない私が病院前で待っていたのだから、二人は心底驚いた顔をした。

「み、水野さん、怪我は……」
「それが朝起きたら無くなってまして……」
「もう何が起きても驚かねえとは思っていたが……本当、あんたといると驚かされてばっかりだぜ」
「我ながら不思議ですが、今はやらなければいけないことがあります」

 何であれ、歩けるようになったのは好都合だ。
 病院前に設置されたゲートを操作し、紙切れに書かれていた座標値を打ち込む。そして繋がったゲートを潜れば、やはりあの本丸の中庭に出た。

「話には聞いていたが……」
「これはかなり……」
「異様ですね」

 聞こえてきた声にハッと振り返れば、武田さんのすぐ傍には太郎太刀さんが立っていた。他にも石切丸、にっかり青江、髭切、膝丸等々、怪異に強い刀が立っており、柊さんの傍にも大典太や堀川がいた。どうやら二人共連れてこられるだけの刀を連れてきてくれたらしい。もうこの本丸で争いが起きることはないだろうけど、心強いのは確かだ。そして私たちが来たことに気づいたのだろう。本丸の中から一振りの短刀が下りてくる。

「アレは……!」

 前に出ていた膝丸が柄に手を掛ける。だけど彼が走り出すよりも早く、私は「待ってください!」と声を上げた。

「彼は敵ではありません」
「何をバカなことを。アレは遡行軍の短刀ではないか」
「いいえ、違います。彼は『前田藤四郎』です」

 そう。本丸の中から降りてきた一振りの短刀は、遠目からでは“敵”にしか見えない姿でも傍に来ればいつものように――。

「……嘘……」

 以前よりも時間をかけて近づいてきた前田の手足が、鶴丸たちのように崩壊し始めている。

「どうして!」

 前田に駆け寄り無事な方の手を取れば、すぐに気が付いた。彼の手足が、どうなっているのかを。

「……どうして……あなたが私の傷を……」

 前田の腕と足には、私が受けた傷と全く同じものがあった。そしてそこからヒビが入り、崩壊が始まっている。彼の顔は半分ほど鋼色に染まり、眼窩は赤く光っている。
――崩壊と、侵食。その小さな体を蝕むものはあまりにも大きい。
 思わず涙ぐむ私に、前田は困ったような、それでいてどこか穏やかな顔で微笑んだ。まるで『これで良いのです』と言わんばかりに。
 そんなこと、決してないのに。

「水野さん、そいつぁ……」
「……はい。彼が“道”を知っています」

 皆の目にも彼の本当の姿が見えたのだろう。体の半分近くが呪術と崩壊によって変色し、ひび割れていても、前田は変わらず私の手を握ってくれる。

「……行こう。前田藤四郎。もう一度、私をあの部屋に連れて行って」

 頷く前田の手を強く握りしめる。そして前田も同じくらいの力でしかと握り返してくれた。しかし武田さんと柊さんが一歩踏み出そうとしたところで、彼らの髭切と膝丸が二人の前で自身を交差させる。所謂通せんぼという奴だ。驚く二人とは対照的に、二振りはピクリとも表情を動かさなかった。

「主たちはダメだよ」
「ああ。兄者の言う通りだ。主たちはここで待っていてくれ」
「な、何でだよ! 水野さんを一人で行かせるつもりか?!」

 担当者としての責任があるのだろう。柊さんも「説明してください」と刀たちに声を掛ける。すると髭切が唇の端を愉快そうに歪めた。

「ダメなものはダメだよ。主たちが連れて行かれてしまう」
「ああ。此処から先は“この世とあの世の狭間”……死にたくなければここから動かないことだ」

 髭切に続き膝丸もそう口にする。だがそれでは“私”はどうなんだと武田さんが食って掛かれば、それぞれの瞳がこちらに向いた。

「彼女は特別さ。一度“狭間”から生還している。何より案内人であり守り人である“彼”が彼女を容認し、守っている。だから彼女は平気さ。あの手を離さない限りはね」

 前田が私の手をグッと握る。大丈夫。私はこの手を離したりはしない。頷く私に、前田も頷く。分かっている。ここから先は一歩間違えば“地獄”だ。“生者”である私が少しでも声を出せば封じられていた蟲たちが一斉に蠢きだすだろう。私を殺すために。だからあの日前田は私に何度も『声を出すな』というジェスチャーを見せた。
 声を出してはいけないのだ。本来ならば“ただの人”や“生者”が踏み入ってはいけない場所なのだから。
 悟っている風の私に武田さんも柊さんも困惑顔を見せたが、自身の刀たちの説得によりここに残ることが決まった。それでも一振りずつ護衛を残してはいる。武田さんにはにっかり青江が。柊さんには堀川が。それぞれ残った。

「では行くとしよう」
「楽しい旅路になるといいね」

 笑う源氏の刀を無視し、私は前田に手を引かれるままに歩き出す。それでも前田は私の傷を『身代わり地蔵』よろしく請け負ったことで以前のようには歩けず、左足を引きずるようにして歩いている。それでも見ていた髭切曰く「無理矢理霊力で補強している」らしい。私とは違い遅々としてではあるが、確実に前へと進めていた。

「それにしても、本当にすごいところだね、ここは」
「ああ。我々でなければあっという間に連れて行かれただろう」
「主たちを連れてこなくて正解だったね」
「そうですね」

 皆で一列となって歩く。背後で思い思いの感想を口にする刀たちだが、私は振り返ることも声を出すこともしない。そうすべきだと知っているからだ。生きて帰りたければ振り返ってはいけない。声を出してはいけない。それは前回で学んでいた。そしてまた幾つもの部屋を通り過ぎ、例の扉の前に出た。

「ここは不味いね。もっと入念に加持祈祷すべきだったよ」
「ああ……顕現して初めてだ。このような空気に触れるのは」
「懐かしいねぇ、こんな“気”に触れるのは。一筋縄ではいかない者たちの気配だ。ゾクゾクするよ」
「皆さん、決して油断しないでください」

 それぞれが警戒心を高める中、前田が扉に手を掛ける。そして再び棚が立ち並ぶ部屋へと入室すれば、皆端正な顔を顰めた。

「これは酷い……」
「“蟲毒”……しかも相当強力なものばかりだ……普通の人間ならば触れるだけでも呪われるぞ」
「やっぱりあの男は“人”ではなく“鬼”になっていたんだね。でなければこんなもの、扱えるわけがない」

 どうやらここに保管されている大小様々な壺や箱の中に“呪術”の元が封印されているらしい。それらには皆札がされ力を封じ込められているが、そもそもが強力なのだろう。あの男も『呪い返されても更なる力で呪い返せばいい』と言っていたから、相当強力な『毒』を作ったに違いない。現に石切丸は「これを祓うのには骨が折れるね」とぼやいた。
 それでも各刀一つずつ、壺や箱を持って本丸に向かって戻る。両手に持たないのはいざという時に自身を振るうためだ。そのためもう一、二回はあそこへ行かねばならないが、皆“道”は覚えたらしい。聞けば短時間で“道”が変わる術ではないそうだ。それにはほっとした。
 そして長い距離を歩き本丸へと戻ってくれば、武田さんと柊さんが安心したように息を吐く。しかし傍に控えていたにっかり青江と堀川はすぐさま戦闘態勢に入った。各々が手にしていた物体に反応したのだろう。髭切は持っていた壺を一度床に置くと、武田さんたちに「決して触れないように」と伝えてから踵を返した。残りを取りに行ったのだろう。皆奥へと消えてしまった。

「水野さん、その手にあるのは……」
「彼……『前田藤四郎』が封じられている箱です」

 私が抱えていたのは、前田が眠るあの木箱であった。封印は既に解かれている。中に直接手を入れることは出来ないが、箱自体に触れることは大丈夫らしい。きっと前田が守ってくれているのだろう。私は彼の本当の主ではないのに。

 その後髭切たちが二度に渡って行き来し、全ての壺や箱を運び出した。勿論武田さんや柊さんが触れることは出来ず、私が本丸に残っている間に刀たちがそれを現世へと運び出していく。武田さんによると、彼らの上司に物凄い霊力の持ち主がいるらしい。何でもとある神社の神主をしているらしく、霊力以外にも様々な知識や技術があるのだとか。なのでこれらのお祓いは上司に任せるという。
 そしてそれらが運ばれる間、私は前田と共に箱を抱えたまま縁側に座り込んでいた。この間と同じように寄り添いあってはいたが、あの時と違って私は泣かず、前田はボロボロだった。崩壊は今も進んでいる。身じろぎ一つしなくても、彼の体から『パキパキ』とヒビが広がる音がする。見れば顔の半分以上が鋼色に染まり、私の傷を請け負った右手の先は完全に落ちていた。

「ごめん……ごめんね……」

 触れることは出来ない。触れたら確実に彼は壊れてしまうから。それでも私の肩に頭を乗せ、ぼうっと景色を見つめる前田に謝罪すれば、彼の虚ろな瞳が私に向いた。

「助けてもらってばかりで、何も返せなくて本当にごめんなさい……あなたの主のことも、私は助けるなんて出来ない」

 彼の本当の主は、あの男は。今は政府が管理する特別監獄にいる。呪術を使えないよう封じ込めているらしい。それに彼には私も、私の刀たちも傷つけられた。例え権力を持っていようと、私は彼を許す気にはなれない。でも、もし前田がそれを望んでいるのだとしたら、私はそれを叶えることが出来ない。
 俯く私の肩で前田は身じろぎし、自分に注意を向けさせる。

「――――」

 声が、出ないのだろう。きっと初めから。それでも唇を動かし、何事かを伝えようとする。だから前田の顔をしっかりと見つめた。
 微笑む彼の瞳はとても穏やかだ。優しくて、あたたかくて。包み込まれていると感じる。彼はその小さな体には収まりきらないほどの大きな心を宿している。本当に、私にはもったいないぐらい素敵な神様だ。

「……うん。ありがとう」

 自然と溢れ出た気持ちを伝えれば、彼は満足げに笑って目を閉じる。その後は武田さんに声を掛けられるまで一人と一振りで庭を眺めていた。
 もう、この景色を見ることはないだろう。勘でしかないが、前田が崩れると共にこの本丸も崩壊する気がする。何せこの本丸を保つすべての力が全て運び出されたのだから。

「水野さん、終わったぜ」
「……はい」

 後は私の抱える『前田藤四郎』と、彼の仲間たちの指が詰まった木箱だけだ。これは私の手で運び出したいと我儘を言い、全て運び終わるまで待っていた。
 遂に別れの時が来た。正真正銘、これが最期となるだろう。

「帰りましょう。現世へ」

 柊さんが促してくる。ゲート前には刀が皆揃っており、この本丸に満ちていた邪気は薄まりつつあった。

「……私、行くね」

 よろよろと立ち上がる前田を支えながら私も立ち上がる。一歩進むごとに彼の体から破片が落ちる。点々と、まるで血痕のように。それでも歩み続ける前田の気が済むところまで共に歩むと、彼は私の体から手を離した。

「前田、今まで本当にありがとう。沢山助けてもらったのに、何も返せなくてごめんなさい」
「…………」
「私の傷も、昨日の夢の中でも。いつも助けてくれたね。私が今ここに無事で立っていられるのは、あなたがいてくれたからだよ。本当に、心の底から感謝してる。ありがとう」

 頭を下げ、顔を上げた瞬間。前田の片足が完全に崩れる。地面に伏しそうになる彼を咄嗟に腕を伸ばして抱きしめれば、鋼の体はとても冷たくて、想像していたよりもずっと軽かった。

「ごめんね、本当にごめんね……」
「…………」
「でも、あなたに出会えて本当によかった。少しの間だけど、一緒に過ごせて幸せだった」

 前田の顔が上がる。もう何も見えていないのだろう。焦点の合わない瞳が私を探す。だから私は彼の額に自身の額を押し当て、目を閉じた。

「あなたのことを忘れない。握った手のことも、こうしてあなたを両腕で抱いたことも。全部忘れないから……。だから……もう、大丈夫だよ」

 閉じた瞼を開け、精一杯笑ってみせる。もう彼には見えていないだろうけど、彼が心配しないように。笑って送り出すのだ。それが、それしか、今の私には出来ないから。

「さようなら。あなたのこと、絶対に忘れない」

 腕の中で、前田の体が崩れていく。ボロボロ、ボロボロと。まるで涙のように。穏やかな表情のまま、彼が崩れていく。泣きそうになる気持ちを唇を噛みしめることで耐え、私は自身の腕の中で粉々になって逝く彼を最後まで見届けた。

「……さようなら」

 抱えていた箱がズシリと重くなる。彼の命が刀に戻ったのだ。そしてそれは、こんなにも――重い。

 私は振り返って歩き出す。彼が身代わりとなってくれた足で、腕で、彼と仲間の亡骸を抱えながら。武田さんと柊さんが無言で私を支えてくれる。
 沢山の神様と、沢山の人に支えられながら、私はようやくだけど、ほんの僅かだけど、一歩前に進めた気がした。




prev / next


[ back to top ]