小説
- ナノ -




 どれほどそうしていたのだろう。ようやく涙も枯れ果てた頃、私はふと意識が入れ替わるのを感じた。瞬けば赤い世界は白い世界になった。徐々に視界が定まる中、はっきりと視認したのは明々と輝く蛍光灯の光だった。

「……あれ……?」

 あの本丸は、前田はどうなったんだろう。しっかりと握られていた手には感覚がなく、意識もどこかぼんやりとしている。そんな私の顔を覗き込んだのは、驚くことに母だった。

「あんた、起きたの……? 起きたのね?!」
「え……う、うん……」

 今まで見たことがない母の動揺っぷりに驚きつつも頷けば、喉が引き攣り咳込む。前にもこんなことがあったな。確かあの時は柊さんがいたんだっけ。そんなことを思い出している間にも母はナースコールを押し、数分後には看護婦数名と医師に囲まれた。

「それでは確認しますね。この指が何本か分かりますか?」
「二本……」
「ではこれは?」
「左手が三本、右手が二本です」
「ご自分の名前を言えますか?」
「はい。私は――」

 簡単な質疑応答を終え、医師は母に「もう大丈夫ですよ」と伝えた。一体何がどうなっているのかは分からないが、涙ぐんで感謝の言葉を繰り返す母をみると私はまたも危ない目にあっていたらしい。何回死にかければいいのだろうか。そして今回もよく戻ってこられたな、と思う。いや、でも正確に言うと私は死地にいたわけではなく、あのもう一つの本丸にいただけだ。ちょっと意識が戻ってこなかったぐらいだろう。あとは何の問題も、と思いかけたところでふと違和感を抱く。

――腕が、動かない。

「……母さん、」
「ん? 何?」
「私の腕、何で動かないの?」

 ぽやっとした私の質問に、母は再び涙を滲ませる。かと思えば次の瞬間には涙声のまま捲し立ててきた。

「あんた死にかけてたのよ?! 腕も足も酷い傷で、意識は戻らないし、このままじゃ危ないって言われるし……! お母さんどうしようかと……!!」
「ま、まぁまぁ。お母様落ち着いて。彼女はまだ混乱していますから、ゆっくり状況を説明していきましょう」

 色んな意味でストレスが限界に達したのだろう。泣きながら怒る母を看護婦に任せ、医師が私に向き直った。

「私はあなたの担当医の杉下と言います。武田さんや柊さんとも面識がございますから、安心してください」

 杉下、と名乗った六十代ぐらいの医師は私や母を刺激せぬよう落ち着いた声音で話し出す。

「まずあなたの本丸が襲撃にあったことは覚えていますね?」
「はい」
「大変つらい記憶だとは思いますが、そこであなたは右腕と左ふくらはぎを斬られました。覚えていますか?」
「ああ……そういえば……」

 言われてみれば何となく思い出してくる。赤い世界、私の刀。壊される城門。現れる遡行軍。小夜に連れられて向日葵畑に身を隠して、それから以前の担当者が私を助けに来たと言って、それから…………。それから? 何が起きたっけ。何があったんだっけ。思い出せずにぼうっとする私に、医師が一つ尋ねてくる。

「……分かりました。あなたはまだ意識が戻ったばかりですから、もう少しゆっくり、時間をかけて治療していきましょう」
「あ、はい」
「手足の傷は時間がかかりますが、ちゃんと塞がりますから。それでは今の気分をお尋ねします。頭が痛いとか、吐き気がするとか、そういったことはありませんか?」
「ん……少し、頭がぼうっとします……」

 思い出そうとしても頭の中に靄がかかったようで何も思い出せない。意識もまだどこかふわふわとしており、雲の上を歩いているみたいだ。いつものようにハキハキとした受け答えも出来ず、どこか舌足らずな状態で言葉を返せば、医師は再度頷いた。

「分かりました。今日はここまでにしましょう。暫くの間入院することにはなりますが、大丈夫です。一緒に治していきましょう」
「はい……? 分かりました……?」

 よく分からないけどそう答えておけば終わるのだろう。何となくそう思い頷き返せば、医師は母を連れて出て行った。残されたのは私の腕に挿していた点滴をチェックしている看護婦一人だけだ。他には誰もいない。そのままぼんやりと天井を見上げていると、徐々に瞼が落ちてくる。今度はどこに連れて行かれるのだろうか。それともただ眠るだけなのか。分からないまま目を閉じれば、そのままコトリと意識を失った。

 結局この後も数日間に渡ってそれを繰り返した。

 幾つか問答し、私が答えに詰まれば辞める。そして私が再び寝入り、起きたら問答をする。今度は夢を見ることもなく、またどこかに連れて行かれることもなく。ただ起きて、問答して、寝て、起きて、問答して、寝る。これを繰り返した。その間に武田さんたちが来ることはなく、暫くの間は両親と医師とだけ顔を合わせた。そうして時間が経つにつれ私の意識も明確になり、今では点滴を外せるほどまでに回復した。
 少しだけ痩せた気がする片腕を見つめていると、控えめなノックが響く。「どうぞ」と返した後に現れたのは、現在遠方に住んでいるはずの兄だった。

「よう。元気か?」
「これが元気そうに見える?」

 ケロッとした態度で気さくに笑う兄に苦笑いを返す。最初に比べれば意識ははっきりしたが、それでも未だに体は怠いし、手足は片方しか動かない。食事をするのもトイレに行くのも大変だと嘆けば、兄はケラケラと笑い飛ばした。

「いやー、お前が入院したっていうからビックリしてさ。嫁からも“早く見舞いに行け!”ってどやされたから、可愛い子供を置いて見舞いに来てやったわけよ」
「言い方。もうちょっと心配しろよ、コノヤロー」
「ははっ。でも思ったより元気そうじゃん。心配して損したわ」

 損をした、なんて言いつつもそれなりに心配してくれたのだろう。兄は花や果物の代わりにゲームセンターで取ってきたという手のひらサイズのぬいぐるみを三つほど投げてよこした。

「おい、見舞いに来たんじゃねえのかよ。何ゲーセン寄ってんだコノヤロー」
「結婚してから行けてなかったからさぁ。キャッチャーとしての腕が疼いたわけよ」
「何がキャッチャーか! いやまぁ、ありがたく貰うけどさ」

 なんのキャラクターかは分からない。分からないがつぶらな瞳に罪はない。もふもふと存外手触りのいいそいつを弄んでいると、兄がようやく「それで?」と少しだけ真面目な声を出した。

「お前、何があったの?」
「んー……それがあんまし覚えてないんよねぇ……」

 今まで数度やり取りをして思い出したこともある。それでも大部分が思い出せず、今もこうして悩んでいる。特に肝心な何かを、とても大事なことを忘れている気がするのだ。だけどそれが何なのかが分からず唸っていると、兄が人形で遊びながら話しかけてくる。

「そのー……何だっけ? ハニワだっけ?」
「埴輪じゃねえよ。審神者だよ。古代の焼き物にすんな」
「さに、さにわ? 審神者な? よし、覚えた。で、その審神者ってさ、普段何してんの? 俺あんまり詳しく聞いてないから何も知らねえんだけど」

 そういえば、私も審神者に就任してからあまり家族と連絡を取っていなかった。時々は連絡が来て「元気だよー」なんて当たり障りのない話をしていたけれど、普段何をしているのかとか、どんな職務なのか、っていうのは話していなかった気がする。私が就任した頃、兄は既に結婚して遠方に引っ越していたから電話で軽く説明したぐらいだ。なので普段審神者として何をしているのか、そもそも審神者とは何なのか。刀剣男士とは、歴史修正主義者とは、といった話をする間、兄は時折相槌を打ちながら根気強く聞いてくれた。

「ふぅーん。付喪神とかそういう幽霊的な存在ってあんまり信じてなかったけど、お前がそういう仕事してるんならマジでいるんだろうなぁ」
「私も就任するまでは眉唾物だったけど、皆すごくいい神様なんだよ」
「ふぅーん? 刀に良いも悪いもあんの? 皆切ることが好きなんじゃねえの?」
「それが違うんだよなぁ。意外と戦を嫌っている刀もいて、江雪左文字って言うんだけど、」

――江雪左文字。戦嫌いで弟思いの刀の名前。しかし彼の名前を口にした瞬間、突然喉がキュッと締まった。心臓が突然ドクドクと早鐘を打ち、熱が出た時のように頭が痛みだす。
 何で、どうして。江雪の名前を出したらどうしてこんなことに? だって江雪はきっと私の本丸にいるはず。皆で、皆と、一緒に、私を待っているはず――。

「どうした? 気分悪いんか?」
「分かんない……なんか、分かんないけど、思い出さなきゃいけないことがある気がして……いや、多分思い出さなきゃいけないんだけど、思い出したくないのか、怖いのか……自分でも分かんなくて……」

 グルグル、グルグルと頭の中で何かが回る。江雪、江雪左文字。私の刀。戦嫌いで、私が出会い頭にやらかして、でもちゃんと働いてくれて、私に“和睦”を申し出てくれて、弟たちとの時間を大事にしている心優しい強くて頼りになる私の大事な刀。だけど、何か……大事な何かを私は忘れている。いや、忘れているんじゃない。思い出したくないだけだ。じゃないと私は“大事な刀との思い出”を忘れるなんてありえない。思い出せ、思い出すんだ。思い出せ、水野よ! 何のための“水野”か!! 私は審神者だ! 皆の主だ!! 私が思い出さなきゃ、“折れた皆”が報われないじゃないか……!!!

 そこまで考えてハッとする。
 そうだ。“折れた”。折れたのだ、江雪は。江雪左文字は。そして三日月宗近も、鶴丸も、鶯丸も、大典太も、皆、皆折れてしまった。私の、目の前で。

「…………思い出したんか」
「……うん……思い出した……」

 私の刀。私の大事な刀。私を守って折れた『三日月宗近』。掛けられた術のせいで粉々に砕け散ってしまった鶴丸。鶯丸。江雪。大典太。泣きながらお別れをしたあの時間を、ハッキリと思い出す。

「……兄ちゃん」
「ん?」
「私、折っちゃった……折っちゃったんだ、皆の事……大事な、皆大事な刀だったのに……私を守ってくれた、神様なのに……」

 思い出した途端に涙が溢れてくる。この数日ですっかり馬鹿になってしまった涙腺がぼたぼたと涙を作る中、兄は遊ばせていたぬいぐるみを私の顔に押し当てる。

「でもお前が故意に折ったわけじゃねえんだろ?」
「そ、だけど……でも、私が至らない主だったから……」

 私の血が、存在が、あの男にとって都合のいい存在だったから。だから狙われた。私だけならともかく、皆まで巻き込んで。死にたくないし、沢山の怪異に巻き込まれた時は怖かったし、斬られた時は痛かったけど、でも折られた刀のことを思うとそれ以上に胸が痛い。

「完璧な主なんてどこにもいねえよ。どんなに有名な戦国武将だって負け戦はあるし、優秀な軍師がいても負ける時は負ける。そんで刀は言っちゃえば“物”じゃん。皿だって落ちりゃあ割れるし、刀だって使いこみゃあ折れるだろ。お前のせいじゃねえよ」
「でも、でも、私がもっとちゃんとしてれば、もっとちゃんと……!」

 私にもっと力があれば。皆を守れるだけの力があれば。ロクに戦えない、皆の足を引っ張ってばかりの、守られてばかりの私が今まで何の役に立ったのか。ただ悪戯に皆の戦力を削いだだけだ。私を守らなきゃいけないからって、陸奥守も一度目の前で折れてしまった。あんなの、もう耐えられない。
 めそめそと泣く私に、兄が人形の手を使ってぽんぽんと頭を叩く。

「お前さ、自分が何でも出来る人間だなんて思うなよ? 今更“ああしてればよかった”とか、“もっと頑張ってればよかった”とか。そういうのって“後出しじゃんけん”って言うんだぜ」
「分かってるよ! 分かってるけど、でも、考えちゃうんだよ!」

 私が剣を握れたら。皆と一緒に戦えたら。せめて防御だけでも出来ればよかったのに。鶴丸の一撃を受け止めるのが精一杯だった。“皆がいるから”と甘えていた自分が情けなくて悔しくて歯噛みしていると、兄が一つため息を零した。

「なぁ。お前さぁ。その刀たちが折れる時に恨み言とか言ってきたの? もっと鍛えろとか、お前の力不足で俺達が折れたんだ、とか」
「はあ?! 言うわけないじゃん!! 皆本当に優しい神様たちだったんだから!!」

 そうだ。私にはもったいないぐらい皆優しい神様だった。至らない私を多岐に渡って支えてくれた。交代で近侍を務めてくれた陸奥守や小夜だけじゃない。江雪も鶴丸も鶯丸も大典太も、私の手が回らない細部のことを担ってくれた。特に鶴丸と鶯丸は顕現していない一期一振の代わりに短刀たちの面倒をよく見てくれたし、大典太は私を怪異から何度も助けてくれた。江雪だって戦嫌いなのに「仕事だから」と言って出陣してくれたし、遠征にだって嫌がらず行ってくれた。三日月だって私のために普段作らない巻き寿司だって作ってくれたし、事あるごとに話しかけ、気に掛けてくれた。
 皆いつも優しかった。采配が悪くても責めたりはせず、けれど足りないところは進言してくれた。戦も布陣も資材も分からない私に根気強く付き合ってくれた。沢山のことを教えてくれた。皆歴史に名を遺す偉人の元を渡り歩いてきた凄い刀たちなのに、それでもこんなバカな私に恨み言一つ言わずに付き合ってくれた。話しかけてくれた。笑いかけてくれた。
 そんな皆が、人間が大好きな彼らが、私に恨み言を言ったことなど一度としてない。そりゃあ宗三とかはちょっと嫌味なことを言ってはきたけど、彼の毒舌は愛ゆえだと分かっている。だから私は皆に嫌われているだなんてちっとも思っていないし、私だって皆のことを心の底から大事に思っている。だからそんなことを言わないで欲しい、と伝えれば、兄は呆れた顔で私を見た。

「ならさぁ、別にいいんじゃねえの? その刀たちもさ、お前にそんな顔して欲しくねえだろ。大事にされてたんだろ? お前」
「そりゃあ……大事には、されてたけど……」
「だったらもう泣くなよ。“主”なんだろ? 残った奴のために前向いて、ちゃんと指示飛ばすのが“主”の仕事だろ? 泣くなとは言わねえけど、もう十分泣いただろ」
「……そりゃあ……そうだけど……」

 確かに泣いた。馬鹿みたいに泣いた。アホみたいに泣いた。泣いて泣いて泣いて、体中の水分が全部抜けたんじゃないかと思うほどに泣いて、あの本丸でも前田の隣で延々と泣いた。一生分泣いたんじゃないかと思うぐらい泣いた。
 俯く私に、兄は淡々と続ける。

「泣いてもいいよ。いいけどさ、あんまり泣いてばっかだと先に進めねえだろ。お前が審神者辞める、っていうならしょうがねえけど、もし続ける気があるならもう泣くなよ。上がそんなだと下にいる奴らは心配するし、ただでさえお前大事にされてんだろ? だったら余計にそうだろ。大事な刀なんだろ? じゃあお前がすることは刀に心配させることじゃなくて、前向いて、もう大丈夫だぞ! って顔見せることだろ。そんで折れた奴らに堂々と顔見せられるぐらい強くなれよ。色んなこと覚えてさ。“至らない主ですみません”って謝るんじゃなくて、“至らない主だけど精一杯頑張ります”って言われた方が相手も気分がいいだろ。それに誰にだって至らないところはあるし。お前にも俺にも。父さんや母さん、上司や社長、それこそ首相や天皇陛下だって苦手なことや出来ないことはあるんだから。まぁ要は気持ちの問題だけど、そういうの、俺は大事だと思うよ」

 苦手なこと。私だけじゃなく皆にもあった。顕現したての頃は力加減が分からなくて物を壊す刀もいたし、相手との意思疎通がうまく取れない刀もいた。でも皆一つずつ克服したり、他の刀が補ったりした。私と同じだ。いや、私だけじゃない。普通の人たちと何も変わらないんだ。神様にだって苦手なことはある。
 和泉守はピーマンが嫌いだし、歌仙は金銭感覚がちょっとおかしい。堀川は家事全般得意だけど刀装作りはそこまで上手じゃないし、燭台切だって格好良く決められない時がある。
 それに誰かとの“別れ”には慣れていても泣かないわけじゃない。傷つかないわけじゃない。彼らは受肉したその身で私と同じように泣いた。皆同じなんだ。人と付喪神だから決定的に違うところはあるけれど、根本では何も変わらない。大切な人のために戦い、守り、命を懸ける。嬉しいことがあったら笑い、悲しいことがあったら泣く。誰よりも人と長く一緒にいたからこそ、誰よりも人と同じように生活出来る。
 彼らは根っこが優しいんじゃない。優しさを理解し、また返してくれるだけの“心”があるのだ。
 そして皆は戦場で戦うことは出来ても、自力で傷を癒すことは出来ない。それが出来るのは私だけなのだ。そういうシステムなのだとしても、私が皆にしてあげられることはある。
 山姥切が一度だけ教えてくれた。私が信じるなら、自分もその気持ちに応える、と。

 私が出来ること。今はまだ少ないかもしれない。その間にもっと沢山、色んなことが起きるかもしれない。その度に落ち込んで、悩んで、泣いて、凹むかもしれない。それでも、今よりは少しでも“新しい何か”が出来るようになっていればいい。時間はかかるかもしれない。それでも私の人生は始めから上限が決まっているゲームではないのだ。レベル99が最上限だとしても、レベル100になれるかもしれない。それは実質積んだ経験がものをいうのだ。今はまだ経験値が低いだけだ。これからもっと経験値を積んでスキルアップしていけばいい。強くなっていけばいい。一つずつ、一歩ずつ。着実に。
 だから、もう泣いている暇はない。

「……ありがとう。兄ちゃん。私、“頑張る”」
「おお。頑張れ」
「うん。頑張る」

 培った経験は裏切らない。それは皆の成長を見て一目瞭然だ。そして今までの自分を振り返っても分かる。誰もが何も出来ない赤子からのスタートなのだ。今では歩くことも出来るし走ることも出来る。言葉だって使えるし文字だって書ける。どれもが積み重ねの結果なのだ。勉強もスポーツも一緒だ。経験と反復。それが、未来の自分へと繋がっていくんだ。

「そんじゃまあ、兄ちゃんはお前が元気になったから帰るよ」
「え? もう? 今日家泊まるの?」

 遠方にいる兄だ。飛行機か新幹線かを使って来たのだろう。そのままとんぼ返りでは大変ではないのだろうかと尋ねれば、兄はここぞとばかりに鼻の下を伸ばした。

「可愛い子供が待ってっからなぁ〜。嫁さんにばっかり面倒を押し付けられないだろ? それに子供を風呂に入れるのは俺の仕事だからな! まず俺が会いたい!」

 すっかり子煩悩というか親バカになってしまった兄に頭を抱える。あーはいはい。そうですか。っと。

「あー……はいはい。成程ね。分かりました。聞いた私がバカでした」
「お? 何だその言い草は。やるか? やんのか? お?」
「だーっ! もう鬱陶しいな! 私に喧嘩売る暇あるならさっさと帰れ!!」

 先程までの真面目な兄はどこに行ったのか。昔から変わらないウザ絡みしてくる兄に向って出口を指させば、兄は途端にファイティングポーズを取ってくる。

「んだとコラァ! 折角遠路はるばる会いに来たお兄様に向かって何て態度じゃ! 人形返せ!」
「ふざけんな! 一度貰ったものは返せないんだよ! っていうかコレ私のお見舞い品だろうが! 取り返そうとする奴がいるか!!」

 二人揃って子供みたいにギャーギャー騒いでいれば、仕事が終わったのだろう。入室してきた母がぎょっとした顔をした後私たちを叱り飛ばした。

「あんたたち何やってんの! もう子供じゃないんだから、ふざけるのはやめなさい!!」

 ピシャリと揃って雷を落とされる。本当、いい歳した大人が怒られるっていうのは情けない。素直に「すみません」と頭を下げる私とは対照的に、兄は「へーへー」と適当に返しながら頭の後ろで腕を組んだ。調子のいい男である。

「そんじゃあ俺は帰るわ。そろそろ行かなきゃ時間がやばいしな」

 携帯で時間を確認した兄は荷物を持って立ち上がる。

「そっか。わざわざありがとね」
「おう。じゃあお前も頑張れよ。またな」
「うん。ありがとう。またね」

 手を振り去っていく兄に手を振り返し、今度は母と顔を合わせる。

「全く。帰ってきたなら一言言えばいいのに」
「え? 兄ちゃん何も言ってなかったの?」
「うん。来てみてビックリしたわ。まぁとんぼ返りするから言わなくてもいいだろう、って思ったんだろうけどね」
「ははっ、兄ちゃんらしいね」

 どこか風来坊気質な兄を思い出して笑えば、母もようやく穏やかな表情を見せる。

「でもよかったわ。あんたがそういう風に笑えるようになって」
「あー……その節は色々とご心配をおかけしまして……っていうか現在進行形でかけてるんだけども」
「そうね。本当に心配したわ」

 母は腕を組むと何度も頷く。相当心配をかけたのだろう。母はこういうことに関しては結構こざっぱりしているのだが、ここまで引きずっているのだ。相当な心労を掛けたことが容易に伺える。

「まぁでもね。あんたたち兄妹は昔っから物持ちがよかったから、最初“審神者になる”って聞いた時も嫌な予感はしてたのよ」
「え? と言うと?」

 意味が分からず問うてみれば、母は私の小さい頃の話を始めた。

「あんたがまだ小さい時よ。四、五歳ぐらいの時だったかなぁ。家にあった電話とね、しょっちゅう話してたのよ」
「ん? 電話と? 話す?」

 何じゃそりゃ。そもそも電話とは誰かと通話するためにあるものだ。だけど人ではなく電話本体と話をするとは何事か。と先を促せば、母はどこか懐かしむような口調で話を続ける。

「受話器を耳に当ててね? いっつも『うんうん、それでねー』とか、『今日はこんなことがあったのよー』とか、話しかけてたのよ」
「誰に?」
「だから電話本体に、よ。お母さんには“ツーツー”って音しか聞こえなかったけど、あんたには電話の声が聞こえてたみたい。邪魔するといっつも“今この子とお話ししてるの! ジャマしないで!”って何回も怒られたんだから」
「うへえ〜……覚えてねえぇえ〜……」

 覚えていないと言いつつ、実は若干覚えていたりする。確か当時家にあった電話機は玩具みたいに可愛い見た目をしていて、私はその受話器を取ってよく“向こう側にいる誰か”と話をしていた。何を話していたかは覚えていない。だがそれがすごく楽しかったことだけは覚えている。今でいう『イマジナリーフレンド』という奴だろう。幼少期にはよくある話だ。

「で、その電話機の調子がおかしくなったから買い替えたのよ。そうなると昔のは捨てるじゃない?」
「そうね」
「そしたらあんた大泣きしてさ。電話機抱えて玄関まで走って、そのまま丸くなって大声で泣くのよ。“この子を連れてっちゃヤダ!”って。もうお母さんたち大変だったんだから。何度も“バカ”とか“人殺し!”とか言われてさ。人殺しじゃないっつの! って思いながら説得するんだけど全然聞かないの。結局あんたが泣き疲れて眠るまで待ったんだから」
「玄関先で?」
「そう。玄関先で」

 小さい頃の私は電話機を抱えて玄関先でうずくまって寝たらしい。我ながらだいぶアホだ。それでも当時は必死だったのだろう。現に廃品回収の業者が来た時は泣きながらお別れをしたらしい。

「廃品回収のおじさんに渡す時もさぁ、あんたが隣でビービー泣くからおじさんも困ってさ。『こんなに泣く子は初めて見た』って言われたのよ? ぬいぐるみならともかく、電話とお別れするのにギャン泣きしたのはあんたぐらいじゃない?」
「いやいやいや! 世界中探せばきっといるって!」

 笑い飛ばす母を必死に否定する。でも、そうだ。あの時は確かあの子との別れが辛くて悲しくて、自分の持てる限りの力を持って泣き喚いた気がする。本当に昔から泣き虫だったのだなぁ。私は。

「それで軽トラに積むときにもさ、あんたおじさんに向かって“この子に乱暴しないで。大切にして”って言ってさ。トラックが去った後もずーっと日が暮れるまでトラックが走っていった方向見てたのよ。帰ろう。って言っても最初は聞かなくて。やっと口を開いたかと思うと、何て言ったと思う?」
「え。覚えてない」

 流石にそこまでは覚えていない。とにかく悲しかったことは覚えているが、それ以外の何かはあまり記憶になかった。尋ねる私に、母は懐かしそうに頬を緩める。

「“あの子は今一人ぼっちだから、私も一人ぼっちになるの。あの子が寂しくないように、私も一緒に一人ぼっちになるの。あの子一人ぼっちになっちゃったから、もうお話しできないから、私も一緒に一人になるの”ってさ。ビックリしたよ。でもそれだけ物を大事に出来る子なんだな、ってちょっと感心もした」

 そんなこと言っていたのか。幼い私は。もう殆ど覚えていないけど、夕暮れの中母に手を引かれて家の中に戻ったことを覚えている。確かそれから数日は寂しさを抱えて過ごした。

「お母さんが『新しい電話機とお話すれば?』って言っても、あんたは“この子はあの子じゃないから答えてくれないの。だからもうおしゃべりしない”って言って、それから電話に話しかけることはなくなったわ」
「まぁ、それが正しいわな」

 元々ただの『イマジナリーフレンド』だったのだ。成長と共に卒業するのが普通なのだから、別におかしなことではないだろう。しかし私はまだ『イマジナリーフレンド』がいたらしい。

「でもこの話は別ヴァージョンがあってね。冷蔵庫を買い替えた時も同じ事が起きたのよ」
「冷蔵庫?! あー!! 覚えてる! それは覚えてるわ!」

 そう。あれは電話機と話さなくなってから数年後だ。確か小学生になっていたはず。その時も私は大いに泣いたらしい。

「お別れする、って分かったらまた大泣きよ。そんで中身を出して『綺麗にしてあげましょうね』って言ったら“ヤダ!”って知らん顔してさ。でもお母さんがいなくなったら冷蔵庫拭いてあげてたのよ。泣きながら“ばいばい”って言ってさ」

 流石に少しは成長していたらしい。泣いてはいても別れを受け入れる準備は出来ていたらしく、私は最後の日まで“友人”として冷蔵庫に接していたらしい。

「回収業者が来るまでずーっと冷蔵庫の前に座ってお話してたよ。傍から見れば一方的にあんたが話しているように見えたけど、もしかしたらあんたには“神様”が見えてるのかなぁ。なんて思ってた」

 トラックに載せられ、ロープで固定され。走り出すトラックを私は少しだけ追いかけ、見えなくなるまで立っていたらしい。
 幼い頃からあんまり変わっていないんだなぁ。と、先程思い出した刀たちとの別れを脳裏に描きながらそう思った。

「だからね、あんたから“審神者になる”って聞いた時は“ああ、きっとこの子だから選ばれたんだわ”ってちょっと納得しちゃったのよ。昔から物を大事にする子だったし。シャーペン一本でも壊れたら数日凹むじゃない? あんた。『また同じのを買えばいいじゃない』って言っても“この子は他の子と違うから。同じものを買っても同じじゃないから。だから新しく買っても意味がない”って言って、すーっごいめんどくさかった」
「最後! ヒデェな、おい!!」

 でも、その考えは今も変わっていない。それは三日月との会話でそっくりそのまま同じことを言ったからだ。本当に成長していないというか、変わっていないというか……。だけど、だからこそ母は心配だったらしい。

「だからね、あんたの意識が戻らなかった時、神様に連れて行かれるんじゃないかってすごく怖かった。あんたも別れが辛くてそのまま着いて行っちゃうんじゃないか、って。そう思ったのよ」
「母さん……」

 確かに私は今でも学生時代から使っているシャーペンを愛用している。一部欠けてはいるが、筆記に問題ないから、という理由で。とはいえ、社会人になるとボールペンを使う頻度の方が圧倒的に増えた。それでも不思議と指に馴染んだペンを捨てる気にはならず、今でも時折無意味に持つ時がある。
 何もそれはペンだけに留まらない。他のどんな物に対してもそうだ。誕生日に貰った手鏡も、櫛も、タオルも。マグカップだって、割れない限りはずっと使い続ける。そう思うと私は昔から“物”に対してやたらと感情移入をしてしまうタイプなのだな、と思った。鏡は割れない限り、櫛は折れない限り使う。タオルはボロボロになるまで。貧乏性と言われたらそれまでなのだが、結局のところ思い入れが強すぎて捨てるに捨てられないだけなのだ。それでも、もしそんな“物”たちに“神様”、あるいは何某かの存在が宿っていたのだとしたら。母は私を連れて行くのではないかと気が気でなかったらしい。

「しかも相手は何百年と生きている刀で、しかも神様って言うじゃない? これは不味いな、って、お父さんと眠れない日を過ごしたんだから」
「あー……それはごめんね」

 でも心配には及ばないだろう。皆とても優しい神様だし、私のことをとても大切にしてくれている。だから私を連れて行ったりはしないはずだ。私の帰る場所を、帰る場所があることを、皆ちゃんと知っているのだから。

「だからあんたが戻って来てくれて本当によかった。おかえり」
「ん……ただいま」

 片手と片足はダメになってしまったけど、それでも命は無事だった。失ってしまった刀は多いけど、全て失ったわけじゃない。私にはまだやれることがある。そう考えるだけでも気持ちが軽くなり、私は「そうだ!」と声を上げた。

「ねえ母さん。武田さんに連絡取りたいんだけど。全部思い出したからさ」
「え? 思い出したの? ……そう。分かったわ」

 私がずっと凹んでいたから気を遣ってくれたのだろう。母は「杉下先生にお願いしてくるわね」と言って病室を出て行った。
 私にはまだ出来ることがある。そう。あの本丸のことだ。あそこにいる『前田藤四郎』を助けたい。きっと今もあの子はあそこにいるはず。ずっと一人で、私が来るのを待っている。

「……会いに行かなきゃ」

 今度こそ助けたい。あの本丸で折れてしまった刀全員を助けることはもう無理だけど、せめてあの『前田藤四郎』だけは。
 ずっと手を握ってくれた優しくも悲しい『前田藤四郎』に会うために、私は武田さんたちに思い出した全てのことを話す決意をした。



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