小説
- ナノ -





 赤い世界が私を包む。誰もいない本丸の中庭で私は一人、ぼうっと立っていた。


『“ありがとう”をきみに』


 この本丸は私の本丸ではない。あの棄てられた本丸に私は再び立っていた。もう全部終わったはずなのに、どうしてまたここに呼ばれてしまったのか。分からないが、あの時のような恐怖心や焦りはどこにもない。むしろ不思議なほど心は凪いでいる。
 以前聞いた蝉の声も今はなく、ただ真っ赤な世界だけが広がっている。
 そのまま何をするでもなくぼうと立っていると、大広間の奥から一振りの短刀が下りてきた。その姿は遡行軍の短刀と同じではあったが、近づいてくるにつれ彼の本当の姿が見えてくる。

『前田藤四郎』だ。以前目の前で砕け散った彼と同じかは定かではないが、現れたのはまたしても『前田藤四郎』だった。彼は何も言わず目の前で立ち止まると、ゆっくりと腰を折り、一礼する。私もそれに倣って頭を下げれば、彼はスッと片手を差し出してきた。
 手を取れ、ということだろうか。考える私を急かすことなく、前田はじっと待っている。それこそ、この手を取るまでは動かないと言わんばかりに。
 この手を取ったら、私はどうなるのだろうか。死ぬのだろうか。それとも魂だけ連れて行かれるのだろうか。分からないが、どれだけ考えようとも答えは出ない。ならば試してみるしかないかと、その手に自分の手を重ねた。前田はその手をしっかり握ると、反対の手の人差し指を口元に当てる。「静かに」ということだろうか。それとも「声を出すな」ということだろうか。何にせよ口は閉ざしていた方が良いのだろう。何が起きるか分からない本丸だ。返事をする代わりに頷き、引かれるままに本丸へ向かって歩き出す。

(どこへ行くんだろう)

 問いかけたくとも声は出せない。淡々と進んでいく前田は振り返りもしない。ただ繋がれた手だけが頼りだ。
 本丸内は今も悲惨なままだ。壁に散った血痕も、切り倒された襖も。割れた花瓶も落ちた掛け軸も、何もかもがそのままの中、前田はどんどん本丸の奥へと進んでいく。そこは私の本丸であれば執務室兼私室に当たるところだ。そこへ近づくにつれ本丸内の空気が重くなり、呼吸がしづらくなる。

(やっぱり、私の本丸と同じだ)

 あの男が言っていた通り、私の本丸はこの本丸がまだ荒れていなかった頃。まだ美しい姿を保っていた時の状態を呼び出したのだろう。少し歩いただけでも構造が酷似していることが分かる。そして廊下を歩き続けること数分。辿りついたのはやはり執務室の前だった。そこでようやく前田は足を止める。
 私の本丸では常に開け放っているそこも、ここではしっかりと閉ざされている。そして何より違うのが、色褪せた襖の下半分に血痕が飛び散っていることだ。ここでも争いがあったのか、それとも刀剣男士がここで斬られたのか。分からないが、それ以外の汚れはどこにも見当たらなかった。あるのは誰かに封じられているかのようにしっかりと閉ざされた襖だけだ。前田はそこに手をかける。

(中に入るの?)

 声には出さず視線だけで問う。それに気付いたのだろう。前田は襖を開く前にこちらを見て一つ頷き、もう一度人差し指を口元に当てる。まだ声を出してはいけないらしい。頷き返す私の手を前田が強く握り直す。何があっても離さないと言わんばかりに、しっかりと。
 覚悟を決め、開けられた襖の先を見る。しかしそこには何もなかった。血の痕も、争った跡も。畳は新品同様に美しいが、まるでこちらを拒絶するかのように無機質で殺風景な部屋が広がっている。広さはあまりない。六畳ほどだろうか。その中を前田は私の手を引きながら突き進んでいく。土足であったが気にした様子はなく、進んだ先にあった襖を躊躇なく開いた。現れたのは先程と全く同じ部屋だ。間取りも何もかもが一緒。そこを再び進んでいく。あとはひたすらそれの繰り返しだった。
 襖に手をかける。新しい部屋に出る。突き進む。襖に手をかける。新しい部屋に出る。突き進む。手をかける。突き進む。……何度も何度も繰り返した。何度も何度も。飽きるほどに。そうして何度同じ部屋を見ただろう。考えることすら辞めそうになった時、ようやく少しだけ違う部屋に出た。

(ここは……)

 おそらくあの男の私室だろう。誰かが生活していた痕跡が残る部屋の奥に、不自然なほどに大きな扉がある。『扉』と言ってもそれほど重厚そうなものではない。ただ沢山の札が貼られた扉は明らかに異質だ。しかもそこからは全身の肌が粟立つほどに嫌な空気が流れている。鈍感な私でも分かるのだ。相当不味いものがあるに違いない。
 本能的に恐れる私の手を、前田が強く握りしめる。

「…………」
(……行くの?)

 前田の瞳がこちらを見つめる。そこには硬い意志が宿っており、あとは私が覚悟を決めるだけなのだと悟った。
 一回、二回。深く深呼吸する。ぞわぞわと震える背筋を、恐れる気持ちを、頭を振ることで追い払う。

(よし。行こう)

 固く閉ざされた部屋に前田の手がかかる。少しずつ開いていく扉の隙間から、氷のように冷たい空気が流れてくる。まるで冷凍庫だ。それでも手を引かれるまま中に進めば、真っ暗だった部屋に突然淡い光が灯った。今時珍しい白熱灯の豆電球だ。見れば前田が壁に備え付けられているスイッチを押したらしい。淡い暖色系の光に照らされる中、見渡す部屋は思った以上に小さく狭い。いや、部屋自体はきっと大きいのだろう。ただ所狭しと並んでいる棚のせいで小さく感じるのだ。その棚には一定の間隔で大小様々な壺や箱が置かれている。そのどれもに札が貼られ、厳重に封をされていた。

 嫌な空気が痛いほど肌を叩く。出来ることなら逃げてしまいたい。本能がそう叫ぶ。だけど握られた手を解き、来た道を迷わず進めるのかと聞かれたらそれは否だ。あれも何かの術の一種なのだろう。分からないがそんな気がする。もしくは道に迷わせる術とか。呪術に詳しくないからあくまでも憶測だけど、正しい道を知っているのはこの『前田藤四郎』だけだ。彼が戻らない限り私も戻ることは出来ない。それに再びここに呼ばれたのには何か理由があるはずだ。もしそれが今この場所にいることに繋がっているのだとしたら、私は自分の責務を果たさなければならない。それが、私が折れた刀たちのために出来る僅かな罪滅ぼしなのだから。

 前田に手を引かれるまま幾つかの棚を素通りし、一番奥の棚の前で立ち止まる。前田はそこでもう一度「静かに」というジェスチャーをすると、並べられた箱の中でも一際異質を放つ木箱を手にした。それは一つ一つのパーツが複雑に噛み合っている通常とは異なる木箱で、一見するとパズルのようだ。しかし四方には札が貼られており、うっすらとだが鎖のようなものまで見える。
 明らかにヤバめの代物だ。何せこれだけ厳重に封じているのだ。私なんかが触れたところで何も出来まい。そんな感想を抱きつつも恐る恐る鎖に触れれば、半透明ではっきりとは見えなかった鎖が完全に物体化する。浮き上がった黒い鎖の上には一枚の札が貼られており、何らかの呪文と思われる文字が印字されている。

(これ、もしかしてあの男が貼ったのかな? 封印する術式、とか?)

 前田は触れることが出来ないのだろう。ただじっとその鎖を見下ろしている。試に爪でカリカリと引っ掻いてみれば、その札は剥げそうだった。

(あ。いけるかも)

 辛抱強く引っ掻いていると、僅かにだが端が捲れ上がる。それを爪先で挟むと、一気に引きはがした。

(おらああああ!!!)

 声には出さず心の中で。気合とも雄叫びともいえない声を上げながら札を剥ぎ取ると、木箱に巻かれていた鎖が勢いよく弾け飛んだ。

(うおおおお?!?! ビックリした!!)

 粉々に砕けた鎖が空気に溶けるようにして消えて行く。すると四方に貼られていた札が勢いよく燃え上がり、真っ黒な灰となって床に落ちた。

(でえええ?! 何これめっちゃ怖い! めっちゃ怖いんだけど?!)

 ビビる私とは対照的に、前田は落ち着いた様子で木箱の蓋に手をかける。

(え?! 嘘! ちょっと待って?! コレ開けていいの?!?!)

 驚く暇もなく、前田はその箱を完全に開けてしまう。そして私は見てしまった。その中身を。

(何、これ……? 人の――ゆび?)

 木箱の中に入っていたのは、大小様々な人の指だった。認識した途端叫びそうになる。だが直前で前田との約束を思い出し、咄嗟に片手で口元を覆った。その手も呼気も、恐怖で震える。心臓が忙しなく音を立てるが、何とか声は出さずに済んだ。前田もどこかほっとした様子を見せる。しかし何と言うことか。前田は完全に固まる私の目の前で箱を傾け、中を覗かせようとしてきた。当然『何でそんなことするんだよ!!』と思いながら顔を逸らそうとしたが、一瞬箱の中で何かが光り、思わず動きを止める。

(……中に何か、入ってる……?)

 心の底から見たくはないが、それでも見なければならないのだろう。ただの嫌がらせなら本気で怒るが、どうにもそういった空気ではない。もう一度深く深呼吸をし、奥歯をぐっと噛みしめる。

(ええい、ままよ!!)

 遂に腹を決めて箱の中を覗き込む。
 そこには付け根から切り取られた指が大量に敷き詰められていたが、その中に一振りだけ。見たことのある刀が埋まっていた。

(……前田、藤四郎……)

 沈んでいたのは『前田藤四郎』だった。反射的に箱を持つ前田に視線を向ければ、彼は酷く寂しそうな顔で困ったように微笑んだ。多分、これがこの前田の本体だ。助けようと思い箱の中に手を伸ばすが、前田はそれよりも早く蓋を閉じてしまった。

(どうして?)

 助けを求めてこれを見せたのではないのか。視線で訴えたが、前田はただ首を横に振るだけだった。そして寂しげな表情のまま箱を元の位置に戻す。
 ああ、そうか。私では『コレ』を祓うことが出来ないのだ。むしろ却って呪いを受ける羽目になる。だから前田は私が触れる前に蓋を閉じ、触れさせないようにした。でも目にするだけだと呪われないのだろうか。よくは分からないが、前田は名残惜しげに箱を一撫ですると踵を返す。

――帰りましょう。

 そう言われているみたいだった。

 私たちは来た道を戻る。だけど今度は無機質な部屋を通り過ぎるのではなく、幾つもの景色を映す部屋を通った。
“行きはよいよい帰りは怖い”まさにそんな感じだ。頭上や左右に映る景色はバラバラで、桜が舞っていても次の部屋では落ち葉が満ちる。道も明るいようで足元だけは暗く、前田が進む道を同じように進まないと奈落へと落ちてしまいそうだった。
 沢山の季節がよぎった。春、夏、秋、冬。この本丸が過ごした年月を追体験しているかのように、沢山の景色を見た。
 歩き疲れるほどに歩いた。長く永い旅路を経て、ふと気が付けば本丸の大広間へと出ていた。蝉の声は未だ無く、風さえ吹かない。赤い世界に一人と一振りでぼうっと佇む。そして気が付いた時には、私の両目からは涙が溢れていた。

 彼は、一体どれほどの間あそこにいたのだろうか。あの狭く寒々しい場所で、どんな気持ちで過ごしたのだろう。パッと見ではあったが、それでも一つだけ確かなことがある。あの敷き詰められていた指は、全て刀剣男士のものだ。どうしてそう思ったのかと聞かれたら困るが、それでもこれだけは絶対に確かなのだと、自分でも不思議なほどにそう思った。
 仲間の斬られた指が一本、また一本と敷き詰められる中、前田は何を思い、どう過ごしたのか。考えるだけでも辛くて、悔しくて。またこんなことをした人間と自分が同じ人間であることが申し訳なくて、色んな感情に揺さぶられながら情けないほどに泣いた。止めようと思っても後から後から涙が溢れて止まらなかった。
 その間前田はずっと私に寄り添ってくれた。繋いだ手は離さず、ただ傍でじっと座っていた。その瞳はどこか遠くを見ているようだったが、私がうわ言のように何度も「ごめんね」と謝ると、慰めるかのようにすり寄ってきた。
 私は彼に慰められるような立場ではない。むしろ同じ人間として断罪されるべきなのに、そうしない彼があまりにも「人」という生き物に優しすぎて、私は悔しさとそれ以上の申し訳なさで胸が張り裂けそうだった。

 一人と一振り。取り残された赤い世界で二人ぼっちで過ごした。
 前田は私の肩に頭を乗せ、長いこと目を閉じていた。そして私は体中の水分が全て抜け出てしまうほどに涙を流し、前田と共に終わらない夕暮れに身を浸した。

 斬られた手足の事は、すっかり忘れていた。



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